彼が結婚してくれなくて
第三話
私は中学時代の友人、朱音と半年ぶりに会う約束をした。
土曜の昼過ぎ。駅近くのカフェは、買い物帰りらしい人たちで賑わっていた。コーヒーの香ばしい匂いが漂い、窓から差し込む陽射しがテーブルの上に淡い影を落としている。
「沙織、久しぶり!」
「元気にしてた?」
久しぶりに顔を合わせた私たちは、近況を報告し合った。朱音の笑い声を聞いているうちに、少しずつ昔の感覚が戻ってくる。
「朱音は最近どう?」
「まだ婚活してる。全然うまくいかなくて焦ってるよ。彼氏できる気がしない」
彼女は困ったように笑い、カップに手を伸ばした。
「沙織は?マチアプの彼氏とはどう?」
「一応、順調かな。今、三か月目」
私はそう答えながら、カップに口をつけた。温かいコーヒーが喉を通る。
少し間を置いてから、何気ないふうを装って口を開いた。
「そういえば、半年くらい前に航希くんと優斗くんと飲み会した」
彼の名前を出した瞬間、自分の中でわずかに緊張が走った。
「どうだった?」
「楽しかった。優斗くん、相変わらず面白くて」
私は笑ってみせた。
「優斗くんって、モテそうなのにずっと彼女いないの?」
朱音はすぐには答えなかった。
テーブルの上で、スプーンがカップの縁に触れる。小さな音が妙に耳に残った。
朱音はカップに視線を落としたまま、少し間を置いて口を開いた。
「どうなんだろうね」
どこか歯切れの悪い返事だった。
「まあ、私は彼氏できたし、今後飲み会で会うこともないんだけどさ」
そう言って、話を終わらせるように笑ってみせた。朱音は黙ったままだった。やがて、少し声を落として言った。
「あいつさ……」
一度、店内を見回してから続けた。
「彼女、五人いるらしい」
「え?」
思わず声が漏れた。
「この前、高校の同期たちと飲み会があって、その時聞いた。ずっと婚活してるんだけど、本気で好きになれる人に出会えてないみたい」
その話を聞いても、すぐには意味を飲み込めなかった。
「同じく婚活やってる身としては、全く気持ちが分からないっていうわけではないけど。付き合っても結婚できるとは限らないとか、もっといい人いるんじゃないかとか。それでもちょっとやりすぎだよね」
朱音はさらに声を落とした。
「麻美って知ってるよね?中学の時の」
「…うん」
それほど親しくはないが、麻美は中学時代の同級生だった。
「ここだけの話、私が開いた飲み会で優斗と麻美が出会ったんだけど、セフレになってるって」
カフェのざわめきは、何も変わらなかった。隣の席から笑い声が聞こえ、窓の外では人々が行き交っている。
それなのに、周りの景色だけが遠くなったように感じた。何も言えず、ただ目の前のコーヒーを見つめていた。
しばらくして、ようやく口を開く。
「優斗くんって、昔からそういう人なの?」
朱音は少し考えるように黙った。
「いや、大学のときに付き合ってた彼女には、本気だったみたい。いつかは結婚したいとか言ってたし」
「その人って、どんな人?」
「派手で、結構強めの人。あいつ、昔からギャル好きだから」
*
土曜の夜だった。
部屋で一人でテレビを観ていた時、スマホを確認すると、沙織からLINEが届いていた。
『急にごめんね。今、電話できる?』
すぐに電話をかけた。窓の外は薄暗く、部屋には夕方の静けさが満ちていた。
「もしもし、晴菜?今日、中学の友達と会ってきたよ」
「どうだった?」
少しの沈黙のあと、沙織がためらうように言った。
「ショックを受けると思うけど……大丈夫?」
その言葉を聞いた瞬間、背筋がすっと冷えた。
「…大丈夫」
「いろいろ聞いたんだけど」
言葉を切った。電話の向こうから、かすかな息遣いだけが聞こえる。
「何を聞いたの?」
スマホを握る手に、じわりと力が入った。
「優斗くん、彼女が五人いるんだって」
その瞬間、頭が真っ白になった。
「……うん。それで?他に何か言ってた?」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。まるで他人事のように相槌を打った。
「あと、セフレもいるって。しかも、その人、中学の同級生で……私も知ってた」
「そっか」
平静を装って答えた。頭の中では何かがゆっくりと、音を立てて崩れていく。
「優斗くん、学生時代は浮気とかもしないで、一途だったみたい」
「へえ、そうなんだ」
動揺を悟られないよう、再び大袈裟に相槌を打った。
「ギャル好きなんだって。大学のときに本気で付き合ってた人も強めのギャルだったって」
「ギャル……」
優斗が学生時代に付き合っていた本命の彼女はギャルだった。
私とはまるでタイプが違う。
私はギャルではないし、どちらかといえばナチュラル系だ。それに、強めではなく、おとなしく見られることのほうが多い。
彼は私のどこを好きになったのだろう。
いや、そもそも好きではないのかもしれない。
あれこれ考えを巡らせたが、答えは出なかった。
「晴菜、大丈夫?」
「うん。大丈夫。沙織、本当にありがとうね」
そう答えたが、声が少し震えた。
ゆっくり息を吐いた。
「なんか、そんな気はしてたんだ」
自分に言い聞かせるように続けた。
「優斗、全然会ってくれないし。インスタを更新してるのを見たときも、変だなって思ってた」
口に出してみると、これまでしまっていた違和感が少しずつ形になっていくようだった。
「でも、まさかそんなことになってるなんてね……」
窓の外を車が通り過ぎ、白い光がカーテンの隙間をかすめた。
私はスマホを握り直し、気持ちを落ち着かせるように深く息を吸った。
沙織の話を聞いてからは、優斗に連絡するのが億劫になった。
スマホを手に取るたび、聞いてしまいたいことがいくつも浮かぶ。けれど、どれも言葉にする勇気はない。
ある日、LINEが届いた。
『土曜の夜、会える?』
画面をしばらく眺めた。
会いたいのか、会いたくないのか。自分でもよくわからなかった。会えば、何かを聞いてしまいそうで怖い。
『会えるよ』
そう返信すると、すぐに続けてメッセージが届いた。
『21時に晴菜の家行くわ』
画面に映る「21時」が、ひどく残酷な数字に見えた。
約束の日、私は家で優斗を待っていた。
時計の針が9時半を回ったころ、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると優斗が立っていた。
「おつかれー」
いつもと変わらない声だった。近づいた途端、酒の匂いが鼻をかすめた。
「めっちゃ酔ってるね」
「まあね」
優斗は軽く笑うと、返事をする間もなく私に顔を寄せ、突然キスをした。
不意を突かれ一瞬、身を固くした。
顔を離した優斗が私を見つめる。
「可愛い」
そう言うと、優斗は再び顔を寄せてきた。今度は先程よりも強引なキスだった。
酒と電子タバコの苦い味が口に広がる。
突然のことに身を引こうとした。けれど、大きな身体に覆いかぶさられ、力の差にうまく抵抗できない。
「酔いすぎだって」
ようやく口にすると、優斗は少し顔を離した。
「知ってる」
そう答えながら、彼は私の身体を引いてベッドへ押し倒した。背中がマットレスに沈む。近すぎる距離に息が詰まった。
「ちょっと……」
呼びかけても、彼は聞いているのかいないのか、私を見下ろしたままだった。そのまま、ガチャガチャとベルトを外す音が部屋に響いた。
「待って」
咄嗟に声が出た。
今は触れてほしくなかった。沙織から聞いた話が頭の中に残っている。彼が何を考えているのか、私のことをどう思っているのか、何ひとつわからない。
「酔ってるでしょ」
「うん」
「今日はやめようよ」
そう言いながらも、私は彼の顔を見つめていた。
好きだった。
会えない日が続いても、連絡が少なくても。優斗は少しだけ顔を離した。
「……嫌?」
嫌だと言えば、離れていくのだろうか。
今夜も帰ってしまうのだろうか。
「嫌じゃないけど……」
優斗の手が頬に触れた。酒の匂いが近づく。私は目を伏せたまま、彼の服をそっとつかんだ。
「晴菜」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
迷った末に彼の首に腕を回した。
奥底にある不安は消えてはいない。
それでも拒みきれなかった。
好きだからなのか、
失いたくないからなのか、
自分でもわからないまま、
そっと目を閉じた。
土曜の昼過ぎ。駅近くのカフェは、買い物帰りらしい人たちで賑わっていた。コーヒーの香ばしい匂いが漂い、窓から差し込む陽射しがテーブルの上に淡い影を落としている。
「沙織、久しぶり!」
「元気にしてた?」
久しぶりに顔を合わせた私たちは、近況を報告し合った。朱音の笑い声を聞いているうちに、少しずつ昔の感覚が戻ってくる。
「朱音は最近どう?」
「まだ婚活してる。全然うまくいかなくて焦ってるよ。彼氏できる気がしない」
彼女は困ったように笑い、カップに手を伸ばした。
「沙織は?マチアプの彼氏とはどう?」
「一応、順調かな。今、三か月目」
私はそう答えながら、カップに口をつけた。温かいコーヒーが喉を通る。
少し間を置いてから、何気ないふうを装って口を開いた。
「そういえば、半年くらい前に航希くんと優斗くんと飲み会した」
彼の名前を出した瞬間、自分の中でわずかに緊張が走った。
「どうだった?」
「楽しかった。優斗くん、相変わらず面白くて」
私は笑ってみせた。
「優斗くんって、モテそうなのにずっと彼女いないの?」
朱音はすぐには答えなかった。
テーブルの上で、スプーンがカップの縁に触れる。小さな音が妙に耳に残った。
朱音はカップに視線を落としたまま、少し間を置いて口を開いた。
「どうなんだろうね」
どこか歯切れの悪い返事だった。
「まあ、私は彼氏できたし、今後飲み会で会うこともないんだけどさ」
そう言って、話を終わらせるように笑ってみせた。朱音は黙ったままだった。やがて、少し声を落として言った。
「あいつさ……」
一度、店内を見回してから続けた。
「彼女、五人いるらしい」
「え?」
思わず声が漏れた。
「この前、高校の同期たちと飲み会があって、その時聞いた。ずっと婚活してるんだけど、本気で好きになれる人に出会えてないみたい」
その話を聞いても、すぐには意味を飲み込めなかった。
「同じく婚活やってる身としては、全く気持ちが分からないっていうわけではないけど。付き合っても結婚できるとは限らないとか、もっといい人いるんじゃないかとか。それでもちょっとやりすぎだよね」
朱音はさらに声を落とした。
「麻美って知ってるよね?中学の時の」
「…うん」
それほど親しくはないが、麻美は中学時代の同級生だった。
「ここだけの話、私が開いた飲み会で優斗と麻美が出会ったんだけど、セフレになってるって」
カフェのざわめきは、何も変わらなかった。隣の席から笑い声が聞こえ、窓の外では人々が行き交っている。
それなのに、周りの景色だけが遠くなったように感じた。何も言えず、ただ目の前のコーヒーを見つめていた。
しばらくして、ようやく口を開く。
「優斗くんって、昔からそういう人なの?」
朱音は少し考えるように黙った。
「いや、大学のときに付き合ってた彼女には、本気だったみたい。いつかは結婚したいとか言ってたし」
「その人って、どんな人?」
「派手で、結構強めの人。あいつ、昔からギャル好きだから」
*
土曜の夜だった。
部屋で一人でテレビを観ていた時、スマホを確認すると、沙織からLINEが届いていた。
『急にごめんね。今、電話できる?』
すぐに電話をかけた。窓の外は薄暗く、部屋には夕方の静けさが満ちていた。
「もしもし、晴菜?今日、中学の友達と会ってきたよ」
「どうだった?」
少しの沈黙のあと、沙織がためらうように言った。
「ショックを受けると思うけど……大丈夫?」
その言葉を聞いた瞬間、背筋がすっと冷えた。
「…大丈夫」
「いろいろ聞いたんだけど」
言葉を切った。電話の向こうから、かすかな息遣いだけが聞こえる。
「何を聞いたの?」
スマホを握る手に、じわりと力が入った。
「優斗くん、彼女が五人いるんだって」
その瞬間、頭が真っ白になった。
「……うん。それで?他に何か言ってた?」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。まるで他人事のように相槌を打った。
「あと、セフレもいるって。しかも、その人、中学の同級生で……私も知ってた」
「そっか」
平静を装って答えた。頭の中では何かがゆっくりと、音を立てて崩れていく。
「優斗くん、学生時代は浮気とかもしないで、一途だったみたい」
「へえ、そうなんだ」
動揺を悟られないよう、再び大袈裟に相槌を打った。
「ギャル好きなんだって。大学のときに本気で付き合ってた人も強めのギャルだったって」
「ギャル……」
優斗が学生時代に付き合っていた本命の彼女はギャルだった。
私とはまるでタイプが違う。
私はギャルではないし、どちらかといえばナチュラル系だ。それに、強めではなく、おとなしく見られることのほうが多い。
彼は私のどこを好きになったのだろう。
いや、そもそも好きではないのかもしれない。
あれこれ考えを巡らせたが、答えは出なかった。
「晴菜、大丈夫?」
「うん。大丈夫。沙織、本当にありがとうね」
そう答えたが、声が少し震えた。
ゆっくり息を吐いた。
「なんか、そんな気はしてたんだ」
自分に言い聞かせるように続けた。
「優斗、全然会ってくれないし。インスタを更新してるのを見たときも、変だなって思ってた」
口に出してみると、これまでしまっていた違和感が少しずつ形になっていくようだった。
「でも、まさかそんなことになってるなんてね……」
窓の外を車が通り過ぎ、白い光がカーテンの隙間をかすめた。
私はスマホを握り直し、気持ちを落ち着かせるように深く息を吸った。
沙織の話を聞いてからは、優斗に連絡するのが億劫になった。
スマホを手に取るたび、聞いてしまいたいことがいくつも浮かぶ。けれど、どれも言葉にする勇気はない。
ある日、LINEが届いた。
『土曜の夜、会える?』
画面をしばらく眺めた。
会いたいのか、会いたくないのか。自分でもよくわからなかった。会えば、何かを聞いてしまいそうで怖い。
『会えるよ』
そう返信すると、すぐに続けてメッセージが届いた。
『21時に晴菜の家行くわ』
画面に映る「21時」が、ひどく残酷な数字に見えた。
約束の日、私は家で優斗を待っていた。
時計の針が9時半を回ったころ、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると優斗が立っていた。
「おつかれー」
いつもと変わらない声だった。近づいた途端、酒の匂いが鼻をかすめた。
「めっちゃ酔ってるね」
「まあね」
優斗は軽く笑うと、返事をする間もなく私に顔を寄せ、突然キスをした。
不意を突かれ一瞬、身を固くした。
顔を離した優斗が私を見つめる。
「可愛い」
そう言うと、優斗は再び顔を寄せてきた。今度は先程よりも強引なキスだった。
酒と電子タバコの苦い味が口に広がる。
突然のことに身を引こうとした。けれど、大きな身体に覆いかぶさられ、力の差にうまく抵抗できない。
「酔いすぎだって」
ようやく口にすると、優斗は少し顔を離した。
「知ってる」
そう答えながら、彼は私の身体を引いてベッドへ押し倒した。背中がマットレスに沈む。近すぎる距離に息が詰まった。
「ちょっと……」
呼びかけても、彼は聞いているのかいないのか、私を見下ろしたままだった。そのまま、ガチャガチャとベルトを外す音が部屋に響いた。
「待って」
咄嗟に声が出た。
今は触れてほしくなかった。沙織から聞いた話が頭の中に残っている。彼が何を考えているのか、私のことをどう思っているのか、何ひとつわからない。
「酔ってるでしょ」
「うん」
「今日はやめようよ」
そう言いながらも、私は彼の顔を見つめていた。
好きだった。
会えない日が続いても、連絡が少なくても。優斗は少しだけ顔を離した。
「……嫌?」
嫌だと言えば、離れていくのだろうか。
今夜も帰ってしまうのだろうか。
「嫌じゃないけど……」
優斗の手が頬に触れた。酒の匂いが近づく。私は目を伏せたまま、彼の服をそっとつかんだ。
「晴菜」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
迷った末に彼の首に腕を回した。
奥底にある不安は消えてはいない。
それでも拒みきれなかった。
好きだからなのか、
失いたくないからなのか、
自分でもわからないまま、
そっと目を閉じた。