さよならを繰り返す100回目の放課後
地下室を満たす、何百もの時計が刻むチクタクという規則正しい音。
それが今や、わたし達の胸の動悸と重なり合って、激しく鼓膜を叩いていた。
(102回の記憶が……蘇る……?)
生唾を呑み込んだ。
頭の中の記憶(記録)としては綺麗に消し去られたはずの、あの地獄のような絶望。
愛する人が目の前で物言わぬ肉塊に変えられていく恐怖。鮮血の匂い。暗闇の冷たさ。迫り来る鉄塊の重圧。
せっかく打ち破り、穏やかな「10月16日」に辿り着いたというのに——またあのトラウマと正面から向き合わなければならないというのか。
「……断る」
低く、絞り出すような声が地下室に響いた。
律がわたしをすっぽりと隠すように背中に庇い、銀色の髪の少女——クオンを強い眼差しで睨みつけた。
「俺たちがどれだけの思いでここに来たか、お前に分かってたまるか! 紬がどれだけ傷ついて、どれだけ泣いたか……! なのに、またあんな地獄を思い出させろだって? ふざけるな! 誰がそんな提案受けるかよ!!」
律の握りしめた拳が、激しく震えていた。
彼自身、102回の死を一人で背負い続けてきたのだ。記憶を失った今でさえ、胸の奥底に刻まれた傷痕が痛むのを誰よりも恐れているのは、律自身だった。
「律……」
わたしの手が、ゆっくりと律の制服の裾を掴んだ。
「……気持ちは分かるわ、藤代律」
クオンは怒りを露わにする律に対しても表情一つ変えず、静かに、けれど逃げ場のない事実を突きつけた。
「けれど、選択肢を拒絶することは、すなわち『この街の崩壊』を承認することと同義よ。あなたの隣にいる桐生紬が、これから先、生きていくはずだった『日常』もろともね」
「くっ……!」
「時間の残滓は、すでにこの瞬間も侵食を強めている。このまま放置すれば、明日には街の三分の一が同じ時間を繰り返し始め……明後日には人々から『未来』という概念そのものが失われる。それが、あなたたちが残した『歪み』の責任よ」
クオンの言葉は、氷のように冷たく、そして正論だった。
わたし達はただ、二人で一緒に生きたかっただけだ。
誰かを傷つけたいなんて、街を壊したいなんて、一度だって思ったことはない。
でも、運命を無理やり捻じ曲げたという事実は変わらない。わたし達が手に入れた「奇跡」の裏側で、世界には確かに大きな歪みが生まれてしまっていたのだ。
(わたし達二人だけの問題じゃない……)
登校途中に見かける小さな男の子。
カフェで楽しそうにパフェを食べていたクラスメイトたち。
毎日「いってらっしゃい」と笑顔で見送ってくれるお母さん。
あの平和な日常を、わたし達の都合で奪ってしまうことなんて、できるわけがなかった。
「……やるよ」
わたしは律の背中から一歩前へ踏み出し、クオンの前に立った。
「紬!?」
律が驚いて振り返る。
「ダメだ紬! お前が何のために記憶を失ってまで助かったと思ってるんだ! もう二度と、お前に苦しい思いなんてさせないって……俺は心に誓ったんだぞ!?」
「律」
わたしは律の手を両手でしっかりと包み込んだ。
彼の茶色い瞳が、恐怖と悲しみで大きく揺れている。わたしを守りたいという強い執着と、過去の恐怖に対するおののきが、彼を苦しめていた。
「大丈夫だよ、律」
わたしは微笑んだ。
「102回のときはね……わたし達、一人で戦ってたでしょ? 律はわたしに隠して、わたしは律に隠して……一人で絶望を抱え込んでたから、あんなに苦しかったの」
「でも……」
「今は違うよ。今のわたしには、律がいる。律のとなりには、わたしがいる。どんなに恐ろしい過去の記憶が戻ってきたって……二人で手をつないでいれば、絶対に乗り越えられるよ」
わたしはクオンの手に握られた、銀色の小さな羅針盤を見つめた。
「二人で勝ち取った『明日』だもん。最後まで、二人で責任を持とう? 街の人たちの未来も、わたし達の新しい今日も……全部、自分たちの手で守り抜こうよ」
律は言葉を失い、じっとわたしを見つめた。
やがて、彼は深く息を吐き出すと、ぽんぽんと乱暴に自分の黒髪をかきむしった。
「……ハァ。ほんとお前には勝てねえな」
律の口元に、いつもの不敵で、どこか頼もしい苦笑いが戻っていた。
「分かったよ。やればいいんだろ、残滓の回収ってやつを! ただし……紬に何かあったら、俺はお前を絶対に許さねえからな、クオン!」
「ええ。交渉成立ね」
クオンは微かに口元を緩めると、二つの銀色の羅針盤をわたし達の手の中に差し出した。
冷たい金属の感触。
手のひらに乗せた瞬間、羅針盤の銀の針がクルクルと激しく回転し始め、やがて南西の方向——駅前の交差点の角をぴたりと指し示して静止した。
「最初の残滓は……そこね」
クオンが地下室の奥を指差す。
「残滓は、あなたたちが強い強い感情(未練や恐怖)を置き去りにした場所に固着している。……覚悟はいいかしら? 最初の現場は、あなたたちの『最初の惨劇』が起きた場所よ」
◇
夜の八時。
わたし達は、駅前の大きな交差点を見下ろす歩道橋の上に立っていた。
街灯の光と、絶え間なく行き交う車のヘッドライトが、アスファルトを白く照らしている。
一見すると、何の変哲もない普段の夜の風景だ。
けれど——手に握りしめた銀色の羅針盤が、バチバチと激しい火花を散らすような音を立てて振動していた。
「……見えてきたな」
律の低い声。
羅針盤を通して交差点を見下ろすと、そこには肉眼では見えないはずの「異変」が存在していた。
交差点の真ん中に、ゆらゆらと立ち上る黒い霧のような旋風(つむじかぜ)。
その旋風の中心には、まるで時間の水たまりのように、過去の光景が半透明の残像となって固着していた。
赤い信号。
雨に濡れたアスファルト。
そして——猛スピードで交差点へと突っ込んでくる、暴走トラックの光景。
「っ……!」
息が詰まった。
まさに、わたし達の102回の悪夢の始まり——本当の1回目にして、最大の悲劇の瞬間が、残滓としてそこに留まり続けていたのだ。
よく見ると、交差点の横断歩道を渡ろうとしている一般の人々の動きが、その黒い霧に触れた瞬間、スローモーションのように鈍くなっていた。
このまま残滓が肥大化すれば、この交差点を通る人々全員が「事故の瞬間の時間」に捕らわれ、永遠に脱出できなくなってしまう。
「行くぞ、紬」
「うん!」
わたし達は歩道橋の階段を駆け下り、交差点の歩道へと向かった。
歩道に足を踏み入れた瞬間——世界から音が消え去った。
横断歩道の信号が赤で静止し、行き交う車のエンジン音が途絶える。
周囲の背景がぐにゃりと歪み、夜の交差点が、あの日の「夕暮れ時の雨の景色」へと塗り替えられていった。
(これは……残滓が作り出した領域……!?)
足元から這い上がってくる、圧倒的な冷気と恐怖。
ゴォォォォォォ……ッ!!
前方から、激しい重低音が響き渡る。
幻影の暴走トラックが、ヘッドライトの光を激しく眩しく輝かせながら、まっすぐにわたし達目掛けて突き進んできた。
「紬、羅針盤を構えろ!」
律が叫び、自分の羅針盤をトラックの幻影に向けて突き出した。わたしも慌てて、律のとなりに並んで羅針盤を掲げる。
その瞬間だった。
バチィィィィィンッ!!
残滓から放たれた黒い光が、わたし達の身体を貫いた。
「あぐっ……!?」
「うああああああっ!!」
激しい頭痛が、脳味噌を直接焼き尽くすかのような衝撃となって襲いかかってきた。
頭の中で、封印されていた記憶の扉が、凄まじい勢いで叩き割られる。
——ドカァンッ!!
——「紬ーーーーーっ!!」
脳裏に激しくフラッシュバックする、本当の1回目の光景。
雨の匂い。血の匂い。
冷たいアスファルトの上で、動かなくなったわたしを抱きしめ、声を限りに泣き叫ぶ律の顔。
「お願いだ……息をしてくれ……紬……っ! 俺の命なんてどうなってもいいから……紬を返してくれええええっ!!」
律の血の滲むような叫び声が、わたしの記憶の中に直接流れ込んでくる。
(律……! 律は、こんな苦しい思いをして……わたしのために時間を戻してくれたんだ……!)
あまりの激痛と恐怖に、膝がガクガクと震え、意識が遠のきそうになる。
倒れそうになるわたしの身体を、横から強い腕がしっかりと支えてくれた。
「負けるな……っ! 紬……ッ!!」
律だった。
律もまた、脳裏に刻まれた凄まじいトラウマの再来に歯を食いしばり、顔を歪めながら、必死でわたしを抱きかかえていた。
「思い出せ……! 俺たちが……何を乗り越えてここに来たかを……!!」
律が叫ぶ。その茶色い瞳から、涙が溢れ出していた。
「100回死んだって……記憶を失ったって……俺はお前を見つけ出したんだ!! たかが過去のトラウマなんかに……俺たちの今を奪わせてたまるかあぁぁぁぁっ!!」
律の叫びに共鳴するように、わたしの中の恐怖が、温かい情熱へと変わっていくのが分かった。
そうだ。
わたし達は、ただ運命に翻弄されてきたわけじゃない。
お互いを想う強い力で、102回の絶望を泥臭く泥泥になりながら打ち破ってきたのだ!
「そうだよ……! わたし達は……もう絶対に負けない!!」
わたしは震える足でしっかりとアスファルトを踏みしめ、律の手をギュッと握り返した。
「消えて……わたし達の悲しい過去の記憶(残滓)!! わたし達は、もう『明日』を生きてるんだからーーーーーっ!!」
ふたりの手が握りしめたふたつの銀色の羅針盤から、眩い白銀の光が爆発した。
ズドォォォォォォンッ!!
白銀の光が、迫り来る暴走トラックの幻影を押し返し、交差点を包んでいた黒い旋風を切り裂いていく。
「アアアアアアッ……!!」
残滓が断末魔のような音を立てて砕け散り、光の粒子となって夜空へと吸い込まれていった。
ふっ、と周囲の空間が元に戻る。
車のエンジン音。歩行者信号のメロディ。人々の話し声。
元の静かで平和な、10月16日以降の「現代の夜」が帰ってきた。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
わたしと律は、交差点の歩道の上で膝をつき、激しく息を乱した。
手の中の銀色の羅針盤を見ると、指し示していた針が静かに中央で停止し、澄んだ光を放っていた。
回収に……成功したのだ。
「やった……やったよ、律……!」
わたしが涙を拭いながら律を見ると、律は自分の手元を呆然と見つめていた。
その目には、確かに「かつての真実」——102回の死闘を潜り抜けてきた男としての、深く力強い意思の光が戻っていた。
「……思い出した」
律が静かに呟いた。
「俺……思い出したよ、紬。お前が俺を庇って死んだあの日のことも……二人で図書室で炎に包まれたことも……グラウンドで鉄塔を越えたあの瞬間のことも……全部、思い出せた」
律は立ち上がり、わたしを引き上げるように抱き寄せてくれた。
「怖かった……死ぬほど怖かった。……でも、もう二度とお前を一人にはしない。俺たちの過去も、未来も、俺が全部抱えて走ってやる」
「律……!」
わたしは律の胸に飛び込み、彼の温かい鼓動を確かめるように強く抱きしめた。
記憶は戻った。恐怖の記録も蘇った。
けれど、今のわたし達には、それを分かち合い、支え合える絆があった。
その時、闇の中からクオンが静かに姿を現した。
「見事だったわ、二人とも」
クオンは満足そうに微笑み、夜空を見上げた。
「最初の残滓の浄化によって、駅前周辺の時間の歪みは完全に消滅したわ。……けれど、油断は禁物よ」
クオンの表情が引き締まる。
「残る残滓は、あと四つ。……そして、一番巨大で邪悪な最後の残滓は——あなたたちが102回目の最後に『時間のルール』を完全に破壊した場所……あの学校のグラウンドに眠っているわ」
「学校の……グラウンド……」
律が静かに拳を握りしめる。
運命の決着の場所。
倒れてきた四本の照明塔の下で、二人で手を繋いで未来を勝ち取った、あの絶望と希望の交差点。
そこに、最大の試練が待ち受けているのだ。
「行こう、律」
わたしは律の目を見つめ、晴れやかな笑顔を向けた。
「うん。二人で……全部終わらせて、本当の未来へ行こう!」
ふたりの航海は、まだ始まったばかりだった。
けれど、わたし達の目にはもう、迷いも恐怖も存在しなかった。
それが今や、わたし達の胸の動悸と重なり合って、激しく鼓膜を叩いていた。
(102回の記憶が……蘇る……?)
生唾を呑み込んだ。
頭の中の記憶(記録)としては綺麗に消し去られたはずの、あの地獄のような絶望。
愛する人が目の前で物言わぬ肉塊に変えられていく恐怖。鮮血の匂い。暗闇の冷たさ。迫り来る鉄塊の重圧。
せっかく打ち破り、穏やかな「10月16日」に辿り着いたというのに——またあのトラウマと正面から向き合わなければならないというのか。
「……断る」
低く、絞り出すような声が地下室に響いた。
律がわたしをすっぽりと隠すように背中に庇い、銀色の髪の少女——クオンを強い眼差しで睨みつけた。
「俺たちがどれだけの思いでここに来たか、お前に分かってたまるか! 紬がどれだけ傷ついて、どれだけ泣いたか……! なのに、またあんな地獄を思い出させろだって? ふざけるな! 誰がそんな提案受けるかよ!!」
律の握りしめた拳が、激しく震えていた。
彼自身、102回の死を一人で背負い続けてきたのだ。記憶を失った今でさえ、胸の奥底に刻まれた傷痕が痛むのを誰よりも恐れているのは、律自身だった。
「律……」
わたしの手が、ゆっくりと律の制服の裾を掴んだ。
「……気持ちは分かるわ、藤代律」
クオンは怒りを露わにする律に対しても表情一つ変えず、静かに、けれど逃げ場のない事実を突きつけた。
「けれど、選択肢を拒絶することは、すなわち『この街の崩壊』を承認することと同義よ。あなたの隣にいる桐生紬が、これから先、生きていくはずだった『日常』もろともね」
「くっ……!」
「時間の残滓は、すでにこの瞬間も侵食を強めている。このまま放置すれば、明日には街の三分の一が同じ時間を繰り返し始め……明後日には人々から『未来』という概念そのものが失われる。それが、あなたたちが残した『歪み』の責任よ」
クオンの言葉は、氷のように冷たく、そして正論だった。
わたし達はただ、二人で一緒に生きたかっただけだ。
誰かを傷つけたいなんて、街を壊したいなんて、一度だって思ったことはない。
でも、運命を無理やり捻じ曲げたという事実は変わらない。わたし達が手に入れた「奇跡」の裏側で、世界には確かに大きな歪みが生まれてしまっていたのだ。
(わたし達二人だけの問題じゃない……)
登校途中に見かける小さな男の子。
カフェで楽しそうにパフェを食べていたクラスメイトたち。
毎日「いってらっしゃい」と笑顔で見送ってくれるお母さん。
あの平和な日常を、わたし達の都合で奪ってしまうことなんて、できるわけがなかった。
「……やるよ」
わたしは律の背中から一歩前へ踏み出し、クオンの前に立った。
「紬!?」
律が驚いて振り返る。
「ダメだ紬! お前が何のために記憶を失ってまで助かったと思ってるんだ! もう二度と、お前に苦しい思いなんてさせないって……俺は心に誓ったんだぞ!?」
「律」
わたしは律の手を両手でしっかりと包み込んだ。
彼の茶色い瞳が、恐怖と悲しみで大きく揺れている。わたしを守りたいという強い執着と、過去の恐怖に対するおののきが、彼を苦しめていた。
「大丈夫だよ、律」
わたしは微笑んだ。
「102回のときはね……わたし達、一人で戦ってたでしょ? 律はわたしに隠して、わたしは律に隠して……一人で絶望を抱え込んでたから、あんなに苦しかったの」
「でも……」
「今は違うよ。今のわたしには、律がいる。律のとなりには、わたしがいる。どんなに恐ろしい過去の記憶が戻ってきたって……二人で手をつないでいれば、絶対に乗り越えられるよ」
わたしはクオンの手に握られた、銀色の小さな羅針盤を見つめた。
「二人で勝ち取った『明日』だもん。最後まで、二人で責任を持とう? 街の人たちの未来も、わたし達の新しい今日も……全部、自分たちの手で守り抜こうよ」
律は言葉を失い、じっとわたしを見つめた。
やがて、彼は深く息を吐き出すと、ぽんぽんと乱暴に自分の黒髪をかきむしった。
「……ハァ。ほんとお前には勝てねえな」
律の口元に、いつもの不敵で、どこか頼もしい苦笑いが戻っていた。
「分かったよ。やればいいんだろ、残滓の回収ってやつを! ただし……紬に何かあったら、俺はお前を絶対に許さねえからな、クオン!」
「ええ。交渉成立ね」
クオンは微かに口元を緩めると、二つの銀色の羅針盤をわたし達の手の中に差し出した。
冷たい金属の感触。
手のひらに乗せた瞬間、羅針盤の銀の針がクルクルと激しく回転し始め、やがて南西の方向——駅前の交差点の角をぴたりと指し示して静止した。
「最初の残滓は……そこね」
クオンが地下室の奥を指差す。
「残滓は、あなたたちが強い強い感情(未練や恐怖)を置き去りにした場所に固着している。……覚悟はいいかしら? 最初の現場は、あなたたちの『最初の惨劇』が起きた場所よ」
◇
夜の八時。
わたし達は、駅前の大きな交差点を見下ろす歩道橋の上に立っていた。
街灯の光と、絶え間なく行き交う車のヘッドライトが、アスファルトを白く照らしている。
一見すると、何の変哲もない普段の夜の風景だ。
けれど——手に握りしめた銀色の羅針盤が、バチバチと激しい火花を散らすような音を立てて振動していた。
「……見えてきたな」
律の低い声。
羅針盤を通して交差点を見下ろすと、そこには肉眼では見えないはずの「異変」が存在していた。
交差点の真ん中に、ゆらゆらと立ち上る黒い霧のような旋風(つむじかぜ)。
その旋風の中心には、まるで時間の水たまりのように、過去の光景が半透明の残像となって固着していた。
赤い信号。
雨に濡れたアスファルト。
そして——猛スピードで交差点へと突っ込んでくる、暴走トラックの光景。
「っ……!」
息が詰まった。
まさに、わたし達の102回の悪夢の始まり——本当の1回目にして、最大の悲劇の瞬間が、残滓としてそこに留まり続けていたのだ。
よく見ると、交差点の横断歩道を渡ろうとしている一般の人々の動きが、その黒い霧に触れた瞬間、スローモーションのように鈍くなっていた。
このまま残滓が肥大化すれば、この交差点を通る人々全員が「事故の瞬間の時間」に捕らわれ、永遠に脱出できなくなってしまう。
「行くぞ、紬」
「うん!」
わたし達は歩道橋の階段を駆け下り、交差点の歩道へと向かった。
歩道に足を踏み入れた瞬間——世界から音が消え去った。
横断歩道の信号が赤で静止し、行き交う車のエンジン音が途絶える。
周囲の背景がぐにゃりと歪み、夜の交差点が、あの日の「夕暮れ時の雨の景色」へと塗り替えられていった。
(これは……残滓が作り出した領域……!?)
足元から這い上がってくる、圧倒的な冷気と恐怖。
ゴォォォォォォ……ッ!!
前方から、激しい重低音が響き渡る。
幻影の暴走トラックが、ヘッドライトの光を激しく眩しく輝かせながら、まっすぐにわたし達目掛けて突き進んできた。
「紬、羅針盤を構えろ!」
律が叫び、自分の羅針盤をトラックの幻影に向けて突き出した。わたしも慌てて、律のとなりに並んで羅針盤を掲げる。
その瞬間だった。
バチィィィィィンッ!!
残滓から放たれた黒い光が、わたし達の身体を貫いた。
「あぐっ……!?」
「うああああああっ!!」
激しい頭痛が、脳味噌を直接焼き尽くすかのような衝撃となって襲いかかってきた。
頭の中で、封印されていた記憶の扉が、凄まじい勢いで叩き割られる。
——ドカァンッ!!
——「紬ーーーーーっ!!」
脳裏に激しくフラッシュバックする、本当の1回目の光景。
雨の匂い。血の匂い。
冷たいアスファルトの上で、動かなくなったわたしを抱きしめ、声を限りに泣き叫ぶ律の顔。
「お願いだ……息をしてくれ……紬……っ! 俺の命なんてどうなってもいいから……紬を返してくれええええっ!!」
律の血の滲むような叫び声が、わたしの記憶の中に直接流れ込んでくる。
(律……! 律は、こんな苦しい思いをして……わたしのために時間を戻してくれたんだ……!)
あまりの激痛と恐怖に、膝がガクガクと震え、意識が遠のきそうになる。
倒れそうになるわたしの身体を、横から強い腕がしっかりと支えてくれた。
「負けるな……っ! 紬……ッ!!」
律だった。
律もまた、脳裏に刻まれた凄まじいトラウマの再来に歯を食いしばり、顔を歪めながら、必死でわたしを抱きかかえていた。
「思い出せ……! 俺たちが……何を乗り越えてここに来たかを……!!」
律が叫ぶ。その茶色い瞳から、涙が溢れ出していた。
「100回死んだって……記憶を失ったって……俺はお前を見つけ出したんだ!! たかが過去のトラウマなんかに……俺たちの今を奪わせてたまるかあぁぁぁぁっ!!」
律の叫びに共鳴するように、わたしの中の恐怖が、温かい情熱へと変わっていくのが分かった。
そうだ。
わたし達は、ただ運命に翻弄されてきたわけじゃない。
お互いを想う強い力で、102回の絶望を泥臭く泥泥になりながら打ち破ってきたのだ!
「そうだよ……! わたし達は……もう絶対に負けない!!」
わたしは震える足でしっかりとアスファルトを踏みしめ、律の手をギュッと握り返した。
「消えて……わたし達の悲しい過去の記憶(残滓)!! わたし達は、もう『明日』を生きてるんだからーーーーーっ!!」
ふたりの手が握りしめたふたつの銀色の羅針盤から、眩い白銀の光が爆発した。
ズドォォォォォォンッ!!
白銀の光が、迫り来る暴走トラックの幻影を押し返し、交差点を包んでいた黒い旋風を切り裂いていく。
「アアアアアアッ……!!」
残滓が断末魔のような音を立てて砕け散り、光の粒子となって夜空へと吸い込まれていった。
ふっ、と周囲の空間が元に戻る。
車のエンジン音。歩行者信号のメロディ。人々の話し声。
元の静かで平和な、10月16日以降の「現代の夜」が帰ってきた。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
わたしと律は、交差点の歩道の上で膝をつき、激しく息を乱した。
手の中の銀色の羅針盤を見ると、指し示していた針が静かに中央で停止し、澄んだ光を放っていた。
回収に……成功したのだ。
「やった……やったよ、律……!」
わたしが涙を拭いながら律を見ると、律は自分の手元を呆然と見つめていた。
その目には、確かに「かつての真実」——102回の死闘を潜り抜けてきた男としての、深く力強い意思の光が戻っていた。
「……思い出した」
律が静かに呟いた。
「俺……思い出したよ、紬。お前が俺を庇って死んだあの日のことも……二人で図書室で炎に包まれたことも……グラウンドで鉄塔を越えたあの瞬間のことも……全部、思い出せた」
律は立ち上がり、わたしを引き上げるように抱き寄せてくれた。
「怖かった……死ぬほど怖かった。……でも、もう二度とお前を一人にはしない。俺たちの過去も、未来も、俺が全部抱えて走ってやる」
「律……!」
わたしは律の胸に飛び込み、彼の温かい鼓動を確かめるように強く抱きしめた。
記憶は戻った。恐怖の記録も蘇った。
けれど、今のわたし達には、それを分かち合い、支え合える絆があった。
その時、闇の中からクオンが静かに姿を現した。
「見事だったわ、二人とも」
クオンは満足そうに微笑み、夜空を見上げた。
「最初の残滓の浄化によって、駅前周辺の時間の歪みは完全に消滅したわ。……けれど、油断は禁物よ」
クオンの表情が引き締まる。
「残る残滓は、あと四つ。……そして、一番巨大で邪悪な最後の残滓は——あなたたちが102回目の最後に『時間のルール』を完全に破壊した場所……あの学校のグラウンドに眠っているわ」
「学校の……グラウンド……」
律が静かに拳を握りしめる。
運命の決着の場所。
倒れてきた四本の照明塔の下で、二人で手を繋いで未来を勝ち取った、あの絶望と希望の交差点。
そこに、最大の試練が待ち受けているのだ。
「行こう、律」
わたしは律の目を見つめ、晴れやかな笑顔を向けた。
「うん。二人で……全部終わらせて、本当の未来へ行こう!」
ふたりの航海は、まだ始まったばかりだった。
けれど、わたし達の目にはもう、迷いも恐怖も存在しなかった。