さよならを繰り返す100回目の放課後
第六章:未来へ紡ぐ僕らの時計
グラウンドで最後の「時間の残滓」を消滅させてから、ふたつの季節が過ぎ去っていった。
十月の爽やかな秋風は、いつしか身を切るような冬の木枯らしへと変わり、そして今、校庭の桜の蕾がほんのりと桃色に膨らみ始める三月下旬の陽光へと移り変わっていた。
キーンコーンカーンコーン……。
二年生の修了式を告げるチャイムが、あたたかな春の風に乗って校舎内に響き渡る。
「はい、それじゃあ二年生の通知表を渡すぞー。春休み中も羽目を外しすぎずに、新学期からは受験生としての自覚を持つように!」
担任の威勢の良い声とともに、ホームルームが終わった。
教室のあちこちで、「春休みどうする?」「部活の合宿あるんだよねー」といった会話が弾む。
誰もが当たり前のように、二年生の終わりを迎え、当たり前のように三年生という「次の春」へ向かって歩みを進めている。
かつてわたし達にとって「明日」とは、命がけで泥を這いずり回らなければ手に入らない奇跡だった。
けれど今、時間は止まることなく、巻き戻ることもなく、滑らかに、そして平等に未来へと流れ続けている。
「紬、準備できたか?」
横から声をかけられ、わたしは振り返った。
少し伸びた黒髪を春風に揺らしながら、律がスクールバッグを肩にひっかけて立っていた。
背も少し伸びた気がする。詰襟の制服を着こなすその佇まいには、一年前のどこか棘のあった雰囲気は消え、穏やかで芯のある強さが宿っていた。
「うん! お待たせ、律」
わたしはカバンを持ち、律の隣に並んだ。
ふたりで並んで歩く廊下。
下駄箱で靴を履き替え、校門をくぐり、陽だまりの通学路へと踏み出す。
「……なぁ、紬」
歩道の縁石を跨ぎながら、律がふと思い出したように口を開いた。
「なに?」
「一年前の今頃ってさ……俺たち、お互いの名前すら知らなかったんだよな」
「そうだね。わたしがこの街に転校してきたばかりで……律はいつも窓の外を気難しそうな顔で見つめてて、誰も寄せ付けない雰囲気出してたもんね」
「気難しそうって言うな。あれはただの寝不足だ」
「ふふっ、嘘だぁ。話しかけたら『何か用かよ』ってすっごく冷たい声で返されたの、わたし今でも覚えてるんだから」
「……うぐっ」
律はバツが悪そうに咳払いをし、照れくさそうに耳を赤くした。
102回のタイムリープ。
そして、その後に訪れた「記憶の消滅」と「残滓の回収」。
わたし達は、普通の人なら一生かけても経験しないような絶望と奇跡をくぐり抜けてきた。
いま、頭の中にはすべての記憶が鮮明に残っている。
暴走トラックの激突音も、炎に包まれた図書室の熱さも、頭上で崩れ落ちた鉄塔の重圧も。そして何より、互いを救うために命を燃やした、あの狂おしいほどの愛おしさも。
「ねえ、律。春休み、どこか行きたいところある?」
わたしが尋ねると、律はポケットに手を突っ込みながら、少し考えてから答えた。
「そうだな……。ずっと行けてなかった場所、行ってみるか」
「行けてなかった場所?」
「ああ。……風車公園」
その言葉に、わたしは思わず足を止めた。
風車公園。
102回のやり直しの中で、崩落事故が起き、わたし達が何度も傷つき、そして「時間の残滓」を回収した場所のひとつ。
事故が解決し、残滓が消滅してからは、一度も足を踏み入れていない場所だった。
律はわたしを見つめ、優しく微笑んだ。
「トラウマを避けて生きるんじゃなくてさ。今の俺たちで、もう一度上書きしに行こうぜ。あそこは本当は、すごく綺麗な公園なんだから」
「……うん! 行こう、律!」
わたしは力強く頷き、律の手をギュッと握りしめた。
◇
駅からバスに乗り十五分。
丘の上に広がる「風車公園」は、春の光に満ちあふれていた。
青空を背景に、ゆっくりと翼を回す巨大な白い風車。
かつて資材置き場だった場所は綺麗に整備され、色とりどりのチューリップやパンジーが咲き誇る美しい花壇へと生まれ変わっていた。
芝生の上では、家族連れがシートを広げてお弁当を食べ、小さな子どもたちが歓声を上げて駆け回っている。
血の匂いも、崩落する鉄骨の音も、ここには何ひとつ残っていなかった。
「すごい……綺麗……!」
わたしは思わず声を上げた。
丘の頂上からは、わたし達の通う学校や、駅前の街並み、そして遠くの海までが一望できた。
「言っただろ? いい場所なんだよ」
律が隣に立ち、眩しそうに目を細めて街を見下ろす。
ふたりでベンチに腰を下ろし、買ってきた缶チューブの紅茶とコーヒーを飲んだ。
風が吹くたびに、風車の回るファサッ、ファサッという静かな音が響く。
「……ねえ、律」
わたしは缶を両手で包み込みながら、ぽつりと呟いた。
「わたしね……時々、怖くなることがあるの」
「怖くなる?」
「うん。……こんなに平和で、幸せでいいのかなって。あんなに世界のルールを壊して、時計を叩き割ってまで手に入れた『今日』なのに……わたし達だけがこんなに幸せでいいのかなって」
わたしが俯くと、律は静かにコーヒー缶をベンチに置き、わたしの右手を両手でそっと包み込んでくれた。
大きな、温かい手。
指先にある小さな傷痕も、わたしを守るために重ねてきた試練の証だった。
「紬。クオンが言ってたこと、覚えてるか?」
「クオンが……?」
「あいつは言っただろ。『あなたたちの紡ぐ明日が、輝かしいものでありますように』って。……俺たちが幸せになることを、誰も責めたりしないよ」
律の茶色い瞳が、どこまでもまっすぐにわたしを見つめていた。
「命を懸けて運命を変えたんだ。だったら俺たちは、誰よりも幸せにならなきゃいけないんだよ。過去の痛みを背負ったまま、前を向いて、笑って生きることが……消えていった102回の時間への、一番の恩返しなんだから」
「律……」
胸の奥が熱くなり、視界がじんわりと滲んだ。
そうだ。わたし達は過去に囚われて生きるために助かったんじゃない。
『明日』という未来を、二人でどこまでも歩んでいくために生き残ったのだ。
「……うん! そうだね。わたし、律と一緒に、世界で一番幸せになる!」
「ハハッ、言うようになったじゃねえか」
律が嬉しそうに笑い、わたしの頭をぽんぽんと優しく撫でてくれた。
その時だった。
「……あれ?」
律がポケットからスクールバッグを漁り、小さな「紙袋」を取り出した。
「どうしたの、律?」
「あー……いや。これ、紬に渡そうと思って、今日持ってきたんだ」
律は少し照れくさそうに首筋を掻きながら、その紙袋をわたしに差し出してきた。
小ぶりのシックな紙袋。中を覗くと、小さな紺色の箱が入っていた。
「これ……なに?」
「開けてみろよ」
わたしは緊張しながら箱のリボンを解き、フタを開けた。
中に収められていたのは——二つの、シンプルで美しいペアの腕時計だった。
革のベルトに、銀色のケース。
文字盤はシンプルな白で、余計な装飾は何ひとつない。けれど、どこかクラシカルで、温かみのあるデザインだった。
「腕時計……?」
わたしが驚いて顔を上げると、律は耳まで真っ赤にしながら、そっぽを向いて呟いた。
「……あの真鍮の懐中時計、壊れちゃったろ? だからさ……これからは、魔法の力なんか入ってない、ただの普通の時計を二人で持とうと思って」
律は箱の中から男性用の時計を取り出し、自分の左 wrist に装着した。
チクタク、チクタク。
耳をすませると、小さな、けれど力強い針の音が聞こえてきた。
時間を戻す力もない。
未来を予知する力もない。
ただ、一秒一秒を、確実に前方へと刻んでいく「普通の時計」。
「これなら……巻き戻ったりしない」と律が静かに言った。
「俺たちが歩いた分だけ、ちゃんと未来へ進んでいく。……紬、つけてやるよ」
律は女性用の時計を取り出すと、わたしの細い手首にそっと巻き、ベルトのバックルを留めてくれた。
冷たい金属と柔らかな革の感触。
そして、手首を通して伝わってくる、規則正しい「ときの音」。
「律……ありがとう……! わたし、すごく嬉しい……!!」
わたしは溢れる涙を堪えきれず、腕を伸ばして律の首に抱きついた。
「うおっ……! 紬、誰か見てるから……!」
律は慌てながらも、愛おしそうにわたしの背中に手を回し、優しく抱き返してくれた。
手首の時計が、ふたりの脈拍とともに静かに刻まれる。
過去へ戻るための時計は、もうどこにもない。
けれどわたし達の手首には今、未来へ向かって永遠に刻み続ける「僕らの新しい時計」が、確かに時を刻み始めていた。
十月の爽やかな秋風は、いつしか身を切るような冬の木枯らしへと変わり、そして今、校庭の桜の蕾がほんのりと桃色に膨らみ始める三月下旬の陽光へと移り変わっていた。
キーンコーンカーンコーン……。
二年生の修了式を告げるチャイムが、あたたかな春の風に乗って校舎内に響き渡る。
「はい、それじゃあ二年生の通知表を渡すぞー。春休み中も羽目を外しすぎずに、新学期からは受験生としての自覚を持つように!」
担任の威勢の良い声とともに、ホームルームが終わった。
教室のあちこちで、「春休みどうする?」「部活の合宿あるんだよねー」といった会話が弾む。
誰もが当たり前のように、二年生の終わりを迎え、当たり前のように三年生という「次の春」へ向かって歩みを進めている。
かつてわたし達にとって「明日」とは、命がけで泥を這いずり回らなければ手に入らない奇跡だった。
けれど今、時間は止まることなく、巻き戻ることもなく、滑らかに、そして平等に未来へと流れ続けている。
「紬、準備できたか?」
横から声をかけられ、わたしは振り返った。
少し伸びた黒髪を春風に揺らしながら、律がスクールバッグを肩にひっかけて立っていた。
背も少し伸びた気がする。詰襟の制服を着こなすその佇まいには、一年前のどこか棘のあった雰囲気は消え、穏やかで芯のある強さが宿っていた。
「うん! お待たせ、律」
わたしはカバンを持ち、律の隣に並んだ。
ふたりで並んで歩く廊下。
下駄箱で靴を履き替え、校門をくぐり、陽だまりの通学路へと踏み出す。
「……なぁ、紬」
歩道の縁石を跨ぎながら、律がふと思い出したように口を開いた。
「なに?」
「一年前の今頃ってさ……俺たち、お互いの名前すら知らなかったんだよな」
「そうだね。わたしがこの街に転校してきたばかりで……律はいつも窓の外を気難しそうな顔で見つめてて、誰も寄せ付けない雰囲気出してたもんね」
「気難しそうって言うな。あれはただの寝不足だ」
「ふふっ、嘘だぁ。話しかけたら『何か用かよ』ってすっごく冷たい声で返されたの、わたし今でも覚えてるんだから」
「……うぐっ」
律はバツが悪そうに咳払いをし、照れくさそうに耳を赤くした。
102回のタイムリープ。
そして、その後に訪れた「記憶の消滅」と「残滓の回収」。
わたし達は、普通の人なら一生かけても経験しないような絶望と奇跡をくぐり抜けてきた。
いま、頭の中にはすべての記憶が鮮明に残っている。
暴走トラックの激突音も、炎に包まれた図書室の熱さも、頭上で崩れ落ちた鉄塔の重圧も。そして何より、互いを救うために命を燃やした、あの狂おしいほどの愛おしさも。
「ねえ、律。春休み、どこか行きたいところある?」
わたしが尋ねると、律はポケットに手を突っ込みながら、少し考えてから答えた。
「そうだな……。ずっと行けてなかった場所、行ってみるか」
「行けてなかった場所?」
「ああ。……風車公園」
その言葉に、わたしは思わず足を止めた。
風車公園。
102回のやり直しの中で、崩落事故が起き、わたし達が何度も傷つき、そして「時間の残滓」を回収した場所のひとつ。
事故が解決し、残滓が消滅してからは、一度も足を踏み入れていない場所だった。
律はわたしを見つめ、優しく微笑んだ。
「トラウマを避けて生きるんじゃなくてさ。今の俺たちで、もう一度上書きしに行こうぜ。あそこは本当は、すごく綺麗な公園なんだから」
「……うん! 行こう、律!」
わたしは力強く頷き、律の手をギュッと握りしめた。
◇
駅からバスに乗り十五分。
丘の上に広がる「風車公園」は、春の光に満ちあふれていた。
青空を背景に、ゆっくりと翼を回す巨大な白い風車。
かつて資材置き場だった場所は綺麗に整備され、色とりどりのチューリップやパンジーが咲き誇る美しい花壇へと生まれ変わっていた。
芝生の上では、家族連れがシートを広げてお弁当を食べ、小さな子どもたちが歓声を上げて駆け回っている。
血の匂いも、崩落する鉄骨の音も、ここには何ひとつ残っていなかった。
「すごい……綺麗……!」
わたしは思わず声を上げた。
丘の頂上からは、わたし達の通う学校や、駅前の街並み、そして遠くの海までが一望できた。
「言っただろ? いい場所なんだよ」
律が隣に立ち、眩しそうに目を細めて街を見下ろす。
ふたりでベンチに腰を下ろし、買ってきた缶チューブの紅茶とコーヒーを飲んだ。
風が吹くたびに、風車の回るファサッ、ファサッという静かな音が響く。
「……ねえ、律」
わたしは缶を両手で包み込みながら、ぽつりと呟いた。
「わたしね……時々、怖くなることがあるの」
「怖くなる?」
「うん。……こんなに平和で、幸せでいいのかなって。あんなに世界のルールを壊して、時計を叩き割ってまで手に入れた『今日』なのに……わたし達だけがこんなに幸せでいいのかなって」
わたしが俯くと、律は静かにコーヒー缶をベンチに置き、わたしの右手を両手でそっと包み込んでくれた。
大きな、温かい手。
指先にある小さな傷痕も、わたしを守るために重ねてきた試練の証だった。
「紬。クオンが言ってたこと、覚えてるか?」
「クオンが……?」
「あいつは言っただろ。『あなたたちの紡ぐ明日が、輝かしいものでありますように』って。……俺たちが幸せになることを、誰も責めたりしないよ」
律の茶色い瞳が、どこまでもまっすぐにわたしを見つめていた。
「命を懸けて運命を変えたんだ。だったら俺たちは、誰よりも幸せにならなきゃいけないんだよ。過去の痛みを背負ったまま、前を向いて、笑って生きることが……消えていった102回の時間への、一番の恩返しなんだから」
「律……」
胸の奥が熱くなり、視界がじんわりと滲んだ。
そうだ。わたし達は過去に囚われて生きるために助かったんじゃない。
『明日』という未来を、二人でどこまでも歩んでいくために生き残ったのだ。
「……うん! そうだね。わたし、律と一緒に、世界で一番幸せになる!」
「ハハッ、言うようになったじゃねえか」
律が嬉しそうに笑い、わたしの頭をぽんぽんと優しく撫でてくれた。
その時だった。
「……あれ?」
律がポケットからスクールバッグを漁り、小さな「紙袋」を取り出した。
「どうしたの、律?」
「あー……いや。これ、紬に渡そうと思って、今日持ってきたんだ」
律は少し照れくさそうに首筋を掻きながら、その紙袋をわたしに差し出してきた。
小ぶりのシックな紙袋。中を覗くと、小さな紺色の箱が入っていた。
「これ……なに?」
「開けてみろよ」
わたしは緊張しながら箱のリボンを解き、フタを開けた。
中に収められていたのは——二つの、シンプルで美しいペアの腕時計だった。
革のベルトに、銀色のケース。
文字盤はシンプルな白で、余計な装飾は何ひとつない。けれど、どこかクラシカルで、温かみのあるデザインだった。
「腕時計……?」
わたしが驚いて顔を上げると、律は耳まで真っ赤にしながら、そっぽを向いて呟いた。
「……あの真鍮の懐中時計、壊れちゃったろ? だからさ……これからは、魔法の力なんか入ってない、ただの普通の時計を二人で持とうと思って」
律は箱の中から男性用の時計を取り出し、自分の左 wrist に装着した。
チクタク、チクタク。
耳をすませると、小さな、けれど力強い針の音が聞こえてきた。
時間を戻す力もない。
未来を予知する力もない。
ただ、一秒一秒を、確実に前方へと刻んでいく「普通の時計」。
「これなら……巻き戻ったりしない」と律が静かに言った。
「俺たちが歩いた分だけ、ちゃんと未来へ進んでいく。……紬、つけてやるよ」
律は女性用の時計を取り出すと、わたしの細い手首にそっと巻き、ベルトのバックルを留めてくれた。
冷たい金属と柔らかな革の感触。
そして、手首を通して伝わってくる、規則正しい「ときの音」。
「律……ありがとう……! わたし、すごく嬉しい……!!」
わたしは溢れる涙を堪えきれず、腕を伸ばして律の首に抱きついた。
「うおっ……! 紬、誰か見てるから……!」
律は慌てながらも、愛おしそうにわたしの背中に手を回し、優しく抱き返してくれた。
手首の時計が、ふたりの脈拍とともに静かに刻まれる。
過去へ戻るための時計は、もうどこにもない。
けれどわたし達の手首には今、未来へ向かって永遠に刻み続ける「僕らの新しい時計」が、確かに時を刻み始めていた。