完璧な家庭
◆
吉祥寺の東急百貨店の裏手にあるイタリアンで、志保は夫の智也とランチのパスタを食べていた。月に一度土曜日の昼に夫婦二人だけで外食をするのが、結婚十年目を迎えても変わらない我が家のルールだった。
「来週の連休、悠香と菜々を連れて山梨のワイナリーに行こうか。ぶどう狩りもできるらしいよ」
智也がフォークにスパゲティを巻き取りながら穏やかに笑う。大手食品メーカーの営業課長を務める夫は、身だしなみに無駄がなく、声を荒らげることさえ滅多にない。
「いいわね。子どもたちも喜ぶと思う」
志保は微笑みを返しながら、ナプキンで口元を押さえた。
完璧な家庭だった。日当たりのいい武蔵野市内の分譲マンション、私立中学を目指す二人の娘、そして妻を尊重してくれる申し分のない夫。この平穏を壊す気など最初から爪の先ほどもなかった。
一ヶ月前、関根孝則から完全に切られたときも、志保の心にあったのは悲劇のヒロインめいた感傷だけだった。
不動産仲介業の孝則とは娘のピアノ教室の発表会で知り合い、一年半にわたって逢瀬を重ねた。彼は志保の肌にすがりつきながら「家庭を捨てて一緒になりたい」と何度も囁いた。志保もその熱情に酔いしれ、夫との形骸化した関係を嘆いてみせた。
だが先月、孝則が本当に離婚届を突きつけてきたとき、志保は凍りついた。
「これで俺は自由になった。次は志保の番だ」
安アパートの狭いベッドの上でそう告げられた瞬間、志保の脳裏を満たしたのは嫌悪と恐怖だった。手取り三十万そこそこの男と再婚して、なぜ自分が築き上げたこの優雅な生活を手放さなければならないのか。
「私、家族を捨てられない。智也さんとも円満だし、子どもたちから父親を奪うなんてできないわ」
泣き真似を交えてそう告げると、孝則の瞳から色が消えた。翌日には連絡先がすべて消去され、志保は彼の世界から締め出された。
捨てられたのだと志保は思った。あんなに愛していると言ったくせに、こちらの事情も考えずに自分だけ勝手に離婚して、思い通りにならないと分かった途端に放り出すなんて。男の身勝手さには呆れるしかなかった。
スマートフォンを取り出し、画面の輝度を一番下まで落とす。
鍵をかけた匿名の日記投稿アプリを開いた。フォロワーは数人、誰にも言えない秘密を吐き出すためだけの孤独な場所だった。
『彼が私をブロックした理由、痛いほど分かる』
指が迷いなく液晶を叩く。
『うちは家族四人で本当に円満。旦那とは月一でデートもする。それを知っているから、彼は自分だけ離婚したことが許せなかったんだと思う』
『私は家庭を捨てられなかった。でも、彼のことも本当に愛していたの。嘘なんて一つもない。ただ、つらい』
画面を伏せて息を吐き出す。
自分は何も悪くない。ただ少し道を踏み外しかけたけれど最後には母として家族を守る道を選んだ。被害者はむしろ彼の強引な熱情に振り回されたこちらのほうなのだ。孝則が一人で荒んだ部屋にいる姿を想像すると少し胸が痛むが、それも彼の自業自得だった。できることなら元の奥さんとやり直してほしい。そうすれば自分の罪悪感も綺麗に消えてなくなるはずだった。
火曜日の午後、パート先の調剤薬局を出たところで、志保は見知らぬ女に声をかけられた。
「松永志保さんですね」
手入れの行き届いたボブカットに、紺色のトレンチコートを着た小柄な女性だった。年齢は三十代後半だろう。化粧は薄いが、整った鼻梁と引き締まった唇が冷ややかな威圧感を漂わせている。
「どちら様でしょうか」
「関根美也子と申します。先月まで孝則の妻だった者です」
志保の足元から血の気が引いた。駐輪場の鉄パイプに指をかけ、かろうじて姿勢を保つ。
「……何のご用でしょう。私、関根さんとはもう何もありません」
「ここでは目立ちますから。駅前の喫茶店へ行きましょう。逃げても無駄ですよ。ご主人の会社も、娘さんたちの学校も把握していますから」
美也子の声には怒りの高鳴りさえなかった。役所の窓口で書類の不備を指摘するような、事務的で硬質な響きだった。
線路沿いの古びた喫茶店の奥の席で、美也子はバッグから一冊のクリアファイルを卓上に置いた。
「手短に済ませます。慰謝料五百万円の請求予告通知書です。あなたと孝則の不貞行為に対する損害賠償です」
「五百万……? そんなの払えません! それに、もう終わったことなんです」
「終わったかどうかは関係ありません。あなた方が一年半にわたって犯した不法行為の事実は消えませんから」
志保は喉が渇き、冷水の一杯を一気に飲み干した。
「でも、関根さんが勝手に離婚したんです。私は止めたんです。私には家庭があるからって、ちゃんとお断りしたんです」
美也子の唇の端が、歪んだ弧を描いた。
「あなた、本当に何も知らないのね」
「え……」
「孝則があなたのために離婚したとでも思っているの」
美也子はファイルをめくり、数枚の写真を卓上に滑らせた。
写っていたのは孝則と二十代前半とおぼしき茶髪の若い女性だった。二人は親密そうに腕を組み、新宿の高級ホテルに入っていくところだった。日付は三ヶ月前で、志保が孝則と週に一度ホテルで密会していた時期と完全に重なっていた。
「孝則が離婚したのは、この子と再婚するためよ。社内の派遣の子よ。妊娠させたの」
志保の頭の中が真っ白になった。
「嘘……そんなはずない。関根さんは私と一緒になりたいって言ってたもの」
「あなたはお金と時間を都合してくれる、ただの便利な下半身だったのよ。都合のいいときだけ呼び出して、適当に甘い言葉を囁いておけば機嫌よく抱かせてくれる主婦。それ以上の価値なんて最初からなかったの」
美也子の冷酷な言葉が、志保のプライドを無残に切り裂いていく。
「離婚の条件を詰めるとき孝則はあっさりあなたのことを売ったわ。慰謝料を減額するためにあなたとの不倫の証拠を全部差し出してきたの。ホテルの領収書からあなたの裸の写真やLINEのやり取りまで全部ね」
「写真……?」
志保の手が激しく震えた。ベッドの中で冗談交じりに撮らせた写真が、この女の手に渡っている。
「孝則があなたに『離婚したからお前も家を出ろ』と迫ったのは、あなたが絶対に逃げ出すと分かっていたからよ。あなたが逃げれば、自分の浮気の責任を『お前のせいで家庭が壊れた』とあなたに擦り付けることができる。手切れ金を脅し取る口実にするつもりだったのよ」
美也子はファイルからさらに数枚のプリントアウトを取り出した。それは志保が深夜に書き込んでいた、あの日記アプリの画面のキャプチャだった。
『うちは家族四人で本当に円満。旦那とは月一でデートもする』
『彼は自分だけ離婚したことが許せなかったんだと思う』
『何も嘘ない。つらい』
志保の吐き出した言葉が、冷たい紙の上で醜悪に晒されていた。
「これを見つけたときは失笑したわ。相手の家庭をぶち壊しておいて、自分だけは円満家庭の被害者面。元妻と子どもとやり直してほしいですって? どの口が言うのかしら。吐き気がするほど身勝手ね」
美也子は立ち上がり、トレンチコートの襟を正した。
「この資料一式は昨日の夕方に速達で送ったわ。あなたの愛するご主人の会社の総務部宛てにね。個人名で親展にしておいたからもう本人の手元に届いているはずよ」
「……智也さんに?」
「ええ。今夜も仲良くご夫婦でデートでもなさったらどうかしら。それからネットのほうにも同じものを流しておいたわ。あなたの裏アカウントのIDと本名、パート先の住所を添えてね」
美也子は一瞥もくれず、店を出ていった。
志保は一人、席に取り残された。心臓の鼓動が耳の奥で激しく乱れ、息がうまく吸えない。
荷物をひったくるように抱え、店を飛び出した。自転車をめちゃくちゃに漕ぎ、息を切らして自宅のマンションへ駆け戻る。
エレベーターを降り、玄関の鍵を開けた。
「智也さん……?」
廊下の奥、薄暗いリビングのソファに夫の智也が座っていた。背広の上着を脱ぎ捨ててワイシャツの腕をまくり上げている。テーブルの上には開封された分厚い封筒と写真の束が散らばっていた。
「あなた、違うの、あれは……!」
志保が駆け寄ろうとした瞬間、智也が顔を上げた。その目は完全に濁り、生気を失っていた。
「悠香と菜々は、僕の実家に連れていったよ。母さんたちには、君が病気でしばらく入院すると伝えてある」
智也の声には怒りも悲しみもなく、まるで割れた皿の破片を片付けるときのような乾いた響きしかなかった。
「私、騙されていたの! あの男が脅してきて、私は家庭を守ろうと必死だったの!」
「家庭を守る?」
智也は乾いた笑いを漏らした。テーブルの上のプリント用紙を指先で弾く。
「月一のデートも、家族の円満も、全部お前の言い訳だったんだな。自分が安全地帯にいるための免罪符だったんだ」
智也は内ポケットから万年筆を取り出し、テーブルの上の緑色の用紙に迷いなく署名した。離婚届だった。
「慰謝料の件は弁護士を通す。この部屋はお前の名義じゃない。今すぐ着替えだけ持って出ていってくれ」
「嫌、お願い、智也さん! 私にはここしかないの!」
志保が床に膝をつき、夫の足に縋り付こうと手を伸ばした。智也は冷たく足を引き、立ち上がった。
「触るな。汚らわしい」
夫は寝室へ入り、内側から鍵をかけた。ガチャリと重い金属音が響く。
志保は冷たい廊下の床に崩れ落ちた。ポケットの中でスマートフォンが狂ったように震え続けている。
画面を開くと、見知らぬアカウントからの通知が何百件も滝のように流れ落ちていた。
『特定班仕事早すぎwww』
『武蔵野市の〇〇薬局のパート主婦かよ』
『旦那とラブラブアピールしながら裏で托卵しようとしてたの草』
『下半身おばさん乙』
自宅のマンションの住所、パート先の電話番号、娘たちの通う学校名までが掲示板に晒し上げられていた。
志保は画面を消そうとしたが、震える指が滑って落としてしまう。フローリングの上に転がった液晶が、暗闇の中で嘲笑うように青白く明滅していた。
誰も許してくれない。誰も助けてくれない。
志保が必死にしがみついていた「円満な家庭」という名の美しい檻は、最初から自分自身の浅ましさによって内側から腐り果てていたのだ。
膝を抱えた志保の耳に、遠く中央線の踏切のどこか甘い、誘う様な警報音が響いていた。
(了)
吉祥寺の東急百貨店の裏手にあるイタリアンで、志保は夫の智也とランチのパスタを食べていた。月に一度土曜日の昼に夫婦二人だけで外食をするのが、結婚十年目を迎えても変わらない我が家のルールだった。
「来週の連休、悠香と菜々を連れて山梨のワイナリーに行こうか。ぶどう狩りもできるらしいよ」
智也がフォークにスパゲティを巻き取りながら穏やかに笑う。大手食品メーカーの営業課長を務める夫は、身だしなみに無駄がなく、声を荒らげることさえ滅多にない。
「いいわね。子どもたちも喜ぶと思う」
志保は微笑みを返しながら、ナプキンで口元を押さえた。
完璧な家庭だった。日当たりのいい武蔵野市内の分譲マンション、私立中学を目指す二人の娘、そして妻を尊重してくれる申し分のない夫。この平穏を壊す気など最初から爪の先ほどもなかった。
一ヶ月前、関根孝則から完全に切られたときも、志保の心にあったのは悲劇のヒロインめいた感傷だけだった。
不動産仲介業の孝則とは娘のピアノ教室の発表会で知り合い、一年半にわたって逢瀬を重ねた。彼は志保の肌にすがりつきながら「家庭を捨てて一緒になりたい」と何度も囁いた。志保もその熱情に酔いしれ、夫との形骸化した関係を嘆いてみせた。
だが先月、孝則が本当に離婚届を突きつけてきたとき、志保は凍りついた。
「これで俺は自由になった。次は志保の番だ」
安アパートの狭いベッドの上でそう告げられた瞬間、志保の脳裏を満たしたのは嫌悪と恐怖だった。手取り三十万そこそこの男と再婚して、なぜ自分が築き上げたこの優雅な生活を手放さなければならないのか。
「私、家族を捨てられない。智也さんとも円満だし、子どもたちから父親を奪うなんてできないわ」
泣き真似を交えてそう告げると、孝則の瞳から色が消えた。翌日には連絡先がすべて消去され、志保は彼の世界から締め出された。
捨てられたのだと志保は思った。あんなに愛していると言ったくせに、こちらの事情も考えずに自分だけ勝手に離婚して、思い通りにならないと分かった途端に放り出すなんて。男の身勝手さには呆れるしかなかった。
スマートフォンを取り出し、画面の輝度を一番下まで落とす。
鍵をかけた匿名の日記投稿アプリを開いた。フォロワーは数人、誰にも言えない秘密を吐き出すためだけの孤独な場所だった。
『彼が私をブロックした理由、痛いほど分かる』
指が迷いなく液晶を叩く。
『うちは家族四人で本当に円満。旦那とは月一でデートもする。それを知っているから、彼は自分だけ離婚したことが許せなかったんだと思う』
『私は家庭を捨てられなかった。でも、彼のことも本当に愛していたの。嘘なんて一つもない。ただ、つらい』
画面を伏せて息を吐き出す。
自分は何も悪くない。ただ少し道を踏み外しかけたけれど最後には母として家族を守る道を選んだ。被害者はむしろ彼の強引な熱情に振り回されたこちらのほうなのだ。孝則が一人で荒んだ部屋にいる姿を想像すると少し胸が痛むが、それも彼の自業自得だった。できることなら元の奥さんとやり直してほしい。そうすれば自分の罪悪感も綺麗に消えてなくなるはずだった。
火曜日の午後、パート先の調剤薬局を出たところで、志保は見知らぬ女に声をかけられた。
「松永志保さんですね」
手入れの行き届いたボブカットに、紺色のトレンチコートを着た小柄な女性だった。年齢は三十代後半だろう。化粧は薄いが、整った鼻梁と引き締まった唇が冷ややかな威圧感を漂わせている。
「どちら様でしょうか」
「関根美也子と申します。先月まで孝則の妻だった者です」
志保の足元から血の気が引いた。駐輪場の鉄パイプに指をかけ、かろうじて姿勢を保つ。
「……何のご用でしょう。私、関根さんとはもう何もありません」
「ここでは目立ちますから。駅前の喫茶店へ行きましょう。逃げても無駄ですよ。ご主人の会社も、娘さんたちの学校も把握していますから」
美也子の声には怒りの高鳴りさえなかった。役所の窓口で書類の不備を指摘するような、事務的で硬質な響きだった。
線路沿いの古びた喫茶店の奥の席で、美也子はバッグから一冊のクリアファイルを卓上に置いた。
「手短に済ませます。慰謝料五百万円の請求予告通知書です。あなたと孝則の不貞行為に対する損害賠償です」
「五百万……? そんなの払えません! それに、もう終わったことなんです」
「終わったかどうかは関係ありません。あなた方が一年半にわたって犯した不法行為の事実は消えませんから」
志保は喉が渇き、冷水の一杯を一気に飲み干した。
「でも、関根さんが勝手に離婚したんです。私は止めたんです。私には家庭があるからって、ちゃんとお断りしたんです」
美也子の唇の端が、歪んだ弧を描いた。
「あなた、本当に何も知らないのね」
「え……」
「孝則があなたのために離婚したとでも思っているの」
美也子はファイルをめくり、数枚の写真を卓上に滑らせた。
写っていたのは孝則と二十代前半とおぼしき茶髪の若い女性だった。二人は親密そうに腕を組み、新宿の高級ホテルに入っていくところだった。日付は三ヶ月前で、志保が孝則と週に一度ホテルで密会していた時期と完全に重なっていた。
「孝則が離婚したのは、この子と再婚するためよ。社内の派遣の子よ。妊娠させたの」
志保の頭の中が真っ白になった。
「嘘……そんなはずない。関根さんは私と一緒になりたいって言ってたもの」
「あなたはお金と時間を都合してくれる、ただの便利な下半身だったのよ。都合のいいときだけ呼び出して、適当に甘い言葉を囁いておけば機嫌よく抱かせてくれる主婦。それ以上の価値なんて最初からなかったの」
美也子の冷酷な言葉が、志保のプライドを無残に切り裂いていく。
「離婚の条件を詰めるとき孝則はあっさりあなたのことを売ったわ。慰謝料を減額するためにあなたとの不倫の証拠を全部差し出してきたの。ホテルの領収書からあなたの裸の写真やLINEのやり取りまで全部ね」
「写真……?」
志保の手が激しく震えた。ベッドの中で冗談交じりに撮らせた写真が、この女の手に渡っている。
「孝則があなたに『離婚したからお前も家を出ろ』と迫ったのは、あなたが絶対に逃げ出すと分かっていたからよ。あなたが逃げれば、自分の浮気の責任を『お前のせいで家庭が壊れた』とあなたに擦り付けることができる。手切れ金を脅し取る口実にするつもりだったのよ」
美也子はファイルからさらに数枚のプリントアウトを取り出した。それは志保が深夜に書き込んでいた、あの日記アプリの画面のキャプチャだった。
『うちは家族四人で本当に円満。旦那とは月一でデートもする』
『彼は自分だけ離婚したことが許せなかったんだと思う』
『何も嘘ない。つらい』
志保の吐き出した言葉が、冷たい紙の上で醜悪に晒されていた。
「これを見つけたときは失笑したわ。相手の家庭をぶち壊しておいて、自分だけは円満家庭の被害者面。元妻と子どもとやり直してほしいですって? どの口が言うのかしら。吐き気がするほど身勝手ね」
美也子は立ち上がり、トレンチコートの襟を正した。
「この資料一式は昨日の夕方に速達で送ったわ。あなたの愛するご主人の会社の総務部宛てにね。個人名で親展にしておいたからもう本人の手元に届いているはずよ」
「……智也さんに?」
「ええ。今夜も仲良くご夫婦でデートでもなさったらどうかしら。それからネットのほうにも同じものを流しておいたわ。あなたの裏アカウントのIDと本名、パート先の住所を添えてね」
美也子は一瞥もくれず、店を出ていった。
志保は一人、席に取り残された。心臓の鼓動が耳の奥で激しく乱れ、息がうまく吸えない。
荷物をひったくるように抱え、店を飛び出した。自転車をめちゃくちゃに漕ぎ、息を切らして自宅のマンションへ駆け戻る。
エレベーターを降り、玄関の鍵を開けた。
「智也さん……?」
廊下の奥、薄暗いリビングのソファに夫の智也が座っていた。背広の上着を脱ぎ捨ててワイシャツの腕をまくり上げている。テーブルの上には開封された分厚い封筒と写真の束が散らばっていた。
「あなた、違うの、あれは……!」
志保が駆け寄ろうとした瞬間、智也が顔を上げた。その目は完全に濁り、生気を失っていた。
「悠香と菜々は、僕の実家に連れていったよ。母さんたちには、君が病気でしばらく入院すると伝えてある」
智也の声には怒りも悲しみもなく、まるで割れた皿の破片を片付けるときのような乾いた響きしかなかった。
「私、騙されていたの! あの男が脅してきて、私は家庭を守ろうと必死だったの!」
「家庭を守る?」
智也は乾いた笑いを漏らした。テーブルの上のプリント用紙を指先で弾く。
「月一のデートも、家族の円満も、全部お前の言い訳だったんだな。自分が安全地帯にいるための免罪符だったんだ」
智也は内ポケットから万年筆を取り出し、テーブルの上の緑色の用紙に迷いなく署名した。離婚届だった。
「慰謝料の件は弁護士を通す。この部屋はお前の名義じゃない。今すぐ着替えだけ持って出ていってくれ」
「嫌、お願い、智也さん! 私にはここしかないの!」
志保が床に膝をつき、夫の足に縋り付こうと手を伸ばした。智也は冷たく足を引き、立ち上がった。
「触るな。汚らわしい」
夫は寝室へ入り、内側から鍵をかけた。ガチャリと重い金属音が響く。
志保は冷たい廊下の床に崩れ落ちた。ポケットの中でスマートフォンが狂ったように震え続けている。
画面を開くと、見知らぬアカウントからの通知が何百件も滝のように流れ落ちていた。
『特定班仕事早すぎwww』
『武蔵野市の〇〇薬局のパート主婦かよ』
『旦那とラブラブアピールしながら裏で托卵しようとしてたの草』
『下半身おばさん乙』
自宅のマンションの住所、パート先の電話番号、娘たちの通う学校名までが掲示板に晒し上げられていた。
志保は画面を消そうとしたが、震える指が滑って落としてしまう。フローリングの上に転がった液晶が、暗闇の中で嘲笑うように青白く明滅していた。
誰も許してくれない。誰も助けてくれない。
志保が必死にしがみついていた「円満な家庭」という名の美しい檻は、最初から自分自身の浅ましさによって内側から腐り果てていたのだ。
膝を抱えた志保の耳に、遠く中央線の踏切のどこか甘い、誘う様な警報音が響いていた。
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