玩具の玩具
「——名無しちゃん、コドモにたくさん、愛してもらうのよ。」
「どんな素敵な名前が、あなたに与えられるのかしら。」
「きっと、楽しい遊びをしたり、いろいろな場所へ一緒にお出掛けするのよ。―――」
マザーの優しい声が、私の冷えてしまった詰め物の内側で、こだましていた。
いまの私が置かれた状況は、マザーが夢見るように話してくれたものとは、まるでかけ離れてしまっていたの。
ひとりぼっちで、窓際のチェストの上に座っているだけ。
…オンナノコに…気に入って、もらえなかったから。
ほんの少し。
私の頭の上に、埃が乗ったような気がする。
ほんの少し。
あのとき座らされた姿勢から、崩れてしまったような気がする。
でも、なんだか、埃を掃ったり、姿勢を直す、そういう気持ちになれなくて。
動けないまま、私はただそうしていた。
ああ、オンナノコが、部屋に入ってきた。
お気に入りの玩具たちは、集められて、オンナノコの遊びに付き合うことができる。
一番のお気に入りは、夢のような美人のお人形で、彼女はオンナノコの膝に乗っている。
絵本に出てくるお姫様よりも、もっとお姫様らしいお人形。
つやつやの長い髪に、お星さまが描かれた目。
きれいなハイヒールの似合う、すらりとしたお人形。
今日はみんなで、お茶会ごっこをするみたい。
私は少し高い位置に座っているから、そうして遊ぶ様子はよく見えてしまうの。
オンナノコは楽しそうにポットを傾けて、みんなにお茶を振舞っていた。
玩具たちがいろいろなお話をすると、オンナノコは自然に返してくれる。
コドモは玩具とのお話が得意なんだって、マザーが言っていた。
オトナに近づくと、だんだんと聞こえなくなっていくらしいけれど。
私が羨ましく思っていると、オンナノコは夕食に呼ばれて、部屋から出ていってしまった。
ドアが閉まって一呼吸置き、お茶会が解散になった玩具たちが自由に動き出した。
オンナノコが来たら、また元の位置へ急いで戻らないといけないけれど。
ぼんやりとその様子を眺めていると。
窓から見える夕焼けのなかの、一番暗い部分のような声が、私に向けられた。
「…こんにちは。…もう、こんばんは、かな?」
思わず見上げると、背の高い…男の人の玩具だった。
玩具、なんて呼び方でいいのか、迷ってしまうような。
そのときの私はまだ、ほかの呼び方を知らなかったの。
玩具のみんなが、いつも頼りにしているひと。
向かいの壁の、高い棚の上に、ゆったりと座っている。
玩具だけの時間には、棚を伝って降りてきて、あちらこちらへ。
ニンゲンの前では特別なときにだけ、オジイサンが動かして、
それはすごいものが、見られるって…。
「……ダニエルさん、こんばんは。」
私がそう返すと、
彼の整った口元が少しだけ緩んで、
ガラス玉の眼が光った。
「私の名前を知ってくれていたんだね。…嬉しいよ。」
「…ところで、君の名前は?」
私は思わず、黙って俯いてしまった。
そう、私にはまだ、名前が無いのだから。
「もしかして…まだ名前が無い?」
私は詰め物を、きゅうっとつねられたような気持ちになった。
思わずまた見上げると、彼は心配したような、
でも、どこか、どうしようもなく幸福そうな様子にも見えた。
「…はい…そうです…。」
私がそう答えると、ダニエルさんはかがんで、ぐっと近づいた。
ふわっと、煙のような薬のような、苦くて甘い香りがした。
「…もし良ければ。私が名付けてあげようか。」
私には、予想もしていなかったこと。
まさか、ダニエルさんが、私に名前をくれるなんて。
ええと…でも…
ニンゲンじゃない人から…
名前をもらっても…いいのかしら…。
「…クラリス、はどうだろう?」
私がそうして戸惑っているあいだに…。
彼はなんとも素敵な名前を、私のために用意してしまった。
その響きは、私の冷え切った詰め物を、たちまち暖めてくれたのだった。
「ああ…とても…素敵です…。
ありがとうございます…。」
「…気に入ってくれて良かった。きっと似合うと思っていたから。」
そしてダニエルさんは、私の手をそっと握った。
その美しすぎる、器用な五本の指で。私のミトンみたいな手を。
「クラリス、では…私との秘密を、守ってくれるかい?」
「秘密…?」
艶のある木の感触が、少しだけ。布と詰め物を握った。
…触れられて、いいのかしら。そんな気持ちになってしまった。
「君に名前をつけたのが、私だということは、ふたりきりの秘密にする。」
ダニエルさんは、落ち着いているはずなのに、どこか祈るような気持ちで言っている。
私はそんな気がした。
「はい…。守ります。私たちだけの、秘密。」
私が言い終わると、彼は私をしっかりと抱きしめた。
どうしたんだろう。彼のなかで、なにがあったんだろう。
私の頭のあたりに、ダニエルさんの詰まったような息が当たった。
背中にまわった五本指が、少し震えているような気がした。
「クラリス、良い子だね。これから大切にしてあげるよ。」
END
「どんな素敵な名前が、あなたに与えられるのかしら。」
「きっと、楽しい遊びをしたり、いろいろな場所へ一緒にお出掛けするのよ。―――」
マザーの優しい声が、私の冷えてしまった詰め物の内側で、こだましていた。
いまの私が置かれた状況は、マザーが夢見るように話してくれたものとは、まるでかけ離れてしまっていたの。
ひとりぼっちで、窓際のチェストの上に座っているだけ。
…オンナノコに…気に入って、もらえなかったから。
ほんの少し。
私の頭の上に、埃が乗ったような気がする。
ほんの少し。
あのとき座らされた姿勢から、崩れてしまったような気がする。
でも、なんだか、埃を掃ったり、姿勢を直す、そういう気持ちになれなくて。
動けないまま、私はただそうしていた。
ああ、オンナノコが、部屋に入ってきた。
お気に入りの玩具たちは、集められて、オンナノコの遊びに付き合うことができる。
一番のお気に入りは、夢のような美人のお人形で、彼女はオンナノコの膝に乗っている。
絵本に出てくるお姫様よりも、もっとお姫様らしいお人形。
つやつやの長い髪に、お星さまが描かれた目。
きれいなハイヒールの似合う、すらりとしたお人形。
今日はみんなで、お茶会ごっこをするみたい。
私は少し高い位置に座っているから、そうして遊ぶ様子はよく見えてしまうの。
オンナノコは楽しそうにポットを傾けて、みんなにお茶を振舞っていた。
玩具たちがいろいろなお話をすると、オンナノコは自然に返してくれる。
コドモは玩具とのお話が得意なんだって、マザーが言っていた。
オトナに近づくと、だんだんと聞こえなくなっていくらしいけれど。
私が羨ましく思っていると、オンナノコは夕食に呼ばれて、部屋から出ていってしまった。
ドアが閉まって一呼吸置き、お茶会が解散になった玩具たちが自由に動き出した。
オンナノコが来たら、また元の位置へ急いで戻らないといけないけれど。
ぼんやりとその様子を眺めていると。
窓から見える夕焼けのなかの、一番暗い部分のような声が、私に向けられた。
「…こんにちは。…もう、こんばんは、かな?」
思わず見上げると、背の高い…男の人の玩具だった。
玩具、なんて呼び方でいいのか、迷ってしまうような。
そのときの私はまだ、ほかの呼び方を知らなかったの。
玩具のみんなが、いつも頼りにしているひと。
向かいの壁の、高い棚の上に、ゆったりと座っている。
玩具だけの時間には、棚を伝って降りてきて、あちらこちらへ。
ニンゲンの前では特別なときにだけ、オジイサンが動かして、
それはすごいものが、見られるって…。
「……ダニエルさん、こんばんは。」
私がそう返すと、
彼の整った口元が少しだけ緩んで、
ガラス玉の眼が光った。
「私の名前を知ってくれていたんだね。…嬉しいよ。」
「…ところで、君の名前は?」
私は思わず、黙って俯いてしまった。
そう、私にはまだ、名前が無いのだから。
「もしかして…まだ名前が無い?」
私は詰め物を、きゅうっとつねられたような気持ちになった。
思わずまた見上げると、彼は心配したような、
でも、どこか、どうしようもなく幸福そうな様子にも見えた。
「…はい…そうです…。」
私がそう答えると、ダニエルさんはかがんで、ぐっと近づいた。
ふわっと、煙のような薬のような、苦くて甘い香りがした。
「…もし良ければ。私が名付けてあげようか。」
私には、予想もしていなかったこと。
まさか、ダニエルさんが、私に名前をくれるなんて。
ええと…でも…
ニンゲンじゃない人から…
名前をもらっても…いいのかしら…。
「…クラリス、はどうだろう?」
私がそうして戸惑っているあいだに…。
彼はなんとも素敵な名前を、私のために用意してしまった。
その響きは、私の冷え切った詰め物を、たちまち暖めてくれたのだった。
「ああ…とても…素敵です…。
ありがとうございます…。」
「…気に入ってくれて良かった。きっと似合うと思っていたから。」
そしてダニエルさんは、私の手をそっと握った。
その美しすぎる、器用な五本の指で。私のミトンみたいな手を。
「クラリス、では…私との秘密を、守ってくれるかい?」
「秘密…?」
艶のある木の感触が、少しだけ。布と詰め物を握った。
…触れられて、いいのかしら。そんな気持ちになってしまった。
「君に名前をつけたのが、私だということは、ふたりきりの秘密にする。」
ダニエルさんは、落ち着いているはずなのに、どこか祈るような気持ちで言っている。
私はそんな気がした。
「はい…。守ります。私たちだけの、秘密。」
私が言い終わると、彼は私をしっかりと抱きしめた。
どうしたんだろう。彼のなかで、なにがあったんだろう。
私の頭のあたりに、ダニエルさんの詰まったような息が当たった。
背中にまわった五本指が、少し震えているような気がした。
「クラリス、良い子だね。これから大切にしてあげるよ。」
END