『勿応草は僕を忘れない』

第7話 雨の夜、君と

連絡先を交換してから、三日が過ぎた。
トーク画面の最下部には、あの日体育館の脇で交わした『追加されました』の無機質な文字が、ぽつんと残されたままだ。
僕は何度もスマートフォンを手に取り、画面を点滅させては、何も打たずに画面を伏せた。
「何してるの?」なんて軽々しいメッセージを送れる間柄ではない。かといって、「こないだはありがとう」と改まるのも、なんだか白々しい気がした。
昔は、言葉なんて選ばなくても伝わっていた。
「花音」と叫べば振り返り、笑い合えばそれで足りていた。
けれど今の僕たちは、離れていた年月の分だけ互いの輪郭が見えなくなっていて、言葉ひとつ選ぶのにも慎重すぎるほど躊躇してしまう。
結局、僕からは何も送れなかった。
転機が訪れたのは、雨の降る木曜日の夜だった。
ベッドの上で文庫本を開いていたとき、枕元でスマートフォンが一度だけ低く震えた。
画面を見ると、そこには『小川花音』の通知。
メッセージではなく、一枚の写真だった。
慌てて画面を開く。
送られてきたのは、雨に濡れた夜の駅前広場の写真だった。水たまりに街灯のオレンジ色が滲んでいて、文章は一切添えられていない。
意図が読み取れず、僕はしばし画面を見つめた。
ただの誤送信だろうか。それとも、何か意味があるのだろうか。
爪先が冷たくなっていくのを感じながら、僕は意を決して返信を打った。
『雨、すごいね』
たったそれだけの、素っ気ない一言。
送信ボタンを押した瞬間、後悔が押し寄せた。もっとマシな返事があったのではないか。
けれど、既読はすぐに付いた。
『うん。部活終わり。バス待ち』
間を置かずに届いた返信。
文字の短さが、かえって彼女の息づかいをリアルに伝えてくる。
『お疲れ様。今日も遅くまで大変だね』
そう打つと、今度は少し間が空いた。
入力中の吹き出しが点滅しては消え、また点滅する。彼女もまた、画面の向こうで言葉を選んでいるのが分かった。
『……ちょっと疲れたかも』
ポツリと届いたその一言に、胸の奥が小さく跳ねた。
コートの上で見せていた完璧な笑顔や、昼間の気丈な態度。その裏側に隠された、誰にも見せない本音が、画面の隙間からこぼれ落ちてきた気がした。
体育館で聞いた「中学のとき、いろいろあって」という言葉が頭をよぎる。
彼女は今も、一人で何かと戦っているのだ。
『温かいものでも飲んで、気をつけて帰ってね』
僕はそう送った。
気の利いたアドバイスなんてできない。彼女の抱える重荷を代わりに背負ってあげることもできない。ただ、無力な自分に歯痒さを感じながら、毛布を強く引き寄せた。
しばらくして、スタンプが一つ届いた。
猫が小さく頷いている、シンプルなスタンプ。
『ありがとう。悠ちゃんも、おやすみ』
『おやすみ』
画面が暗転し、部屋に再び静寂が戻る。
ドラマチックな展開なんて何ひとつない。愛を囁いたわけでも、特別な約束をしたわけでもない。
けれど、雨の音だけが響く暗い部屋で、僕は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
彼女は、僕に「疲れた」と零してくれた。
ほんの少しだけ、彼女の孤独の端っこに触れられた気がした。
画面を閉じたあと、僕は机に向かい、置きっぱなしになっていたノートを開いた。
あの日から止まっていた僕の時間が、彼女からのたった一行のメッセージで、ゆっくりと、けれど確かに動き出そうとしていた。
まだ、何も始まってはいない。
けれど、この雨の夜の小さなやり取りが、僕たちの新しい関係の、最初の静かな一歩だった。

雨の夜から、僕たちの距離は劇的ではないものの、確実に変わり始めていた。
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