赤いツインテールで戻った私は、死んだ同級生のことを聞いて回っている(復讐ではない)
入学初日
春は、色が多い。駅前の花壇には黄色い菜の花が咲き、風がその匂いを運んでいた。歩道脇の桜は風が吹くたびに白にも桃色にも見えた。その中を、一人の少女が歩いている。
肩まで届く赤いツインテールが、歩幅に合わせて静かに揺れる。背が高いので、折り曲げたスカートの丈が、よけいに短く見える。高校の制服は今日が初めてだ。
まだ体には馴染んでいない。
菜の花と、桜と、赤。向かいから歩いてきた女子高生が目を丸くする。すれ違いざまに何かを言いかけて、結局そのまま友人の耳元へ顔を寄せた。
二人はもう一度だけ振り返る。
今度は何も言わない。夕子も振り返らない。視線だけが、ガラス張りの店先を一度なぞった。二人の背中がそこに映って、離れていく。
今日、三人目だった。
駅前の信号が青に変わる。
人の流れに合わせて歩き出すと、今度は小さな男の子が立ち止まった。
「あのお姉ちゃん髪赤い」
母親は少し慌てて、その子の手を引く。
「ほら、行くよ」
男の子は素直についていく。ただ、最後まで夕子から目を離さなかった。夕子はその子に小さく手を振った。
男の子がぱっと笑って、振り返す。
母親の手がそれを引いていく。──夕子が見ていたのは、笑った男の子ではなかった。手を引いた側の顔を、渡り終えるまで見ていた。信号を渡り終える頃には、同じ制服を着た生徒が少しずつ増えていた。
誰もが新しい鞄を肩に掛け、少しだけ緊張した顔で歩いている。楽しそうに笑うグループ。
一人でイヤホンをつけて歩く男子。
家族と並んで歩く子もいれば、もう一人になっている子もいる。それぞれが、それぞれの朝を歩いていた。夕子はポケットからスマートフォンを取り出し、時間を確認する。
まだ余裕がある。
画面を消してポケットへ戻すと、ふと風が吹いた。赤いツインテールが大きく揺れ、桜の花びらが一枚その髪に引っ掛かる。夕子は指でそれをつまんで少し見てから、そっと離した。
花びらは風に乗っていった。坂は、下見に来たときより長く感じた。あの日は制服ではなかった。坂を上り切ると、高校の正門が見えた。校門の前には『入学式』と書かれた看板。
その向こうへ、新入生たちがゆっくりと吸い込まれていく。夕子は一度だけ校門を見上げる。そして何事もないように、人の流れへ加わった。
*
人の流れは、校門を抜けると少し広がった。夕子の横を、七人が通り過ぎる。六人が見た。見なかった一人は、スマートフォンを見ていた。昇降口は詰まっていた。
靴箱を探す声、名前を呼ぶ声、床でスニーカーが鳴る音。新入生も上級生も、同じ入口を使うらしい。夕子は自分の番号を、上から三段目に見つけた。
屈んで靴を履き替える。
立ち上がると、靴箱の列が切れたところに、掲示板があった。紙が一枚、画鋲で留めてある。四隅が丸くなって日に焼けて、端が少し波打っていた。印刷されている文字は一行だけだ。
『高校生らしい身なりを保つこと。』
その下には、何も書かれていない。夕子は端を持ち上げてみた。裏は、白かった。その白いところを見て、夕子は少しだけ面白そうな顔をした。
「おい」
振り返ると、スーツの男が立っていた。五十代くらいで、腕を組んでいる。ネクタイは緩み、シャツの襟元が開いていた。
男は夕子を上から下まで見た。
頭で一度止まり、耳で一度止まり、それから膝のあたりで止まる。三回とも、同じくらいの長さだった。
「新入生か」
「はい」
「……その頭と、スカートな」
「はい」
男は続きを言わなかった。
組んでいた腕が少しだけほどける。
「わかったのか」
「はい。わかりました」
夕子は頭を下げた。リボンの位置がずれたので、直した。男はしばらく黙っていた。何か言おうとして口が開きかけて、閉じる。
「……行っていい」
「失礼します」
三歩ほど歩いたところで、後ろから声がした。
「おはようございまーす」
夕子は足を止めて、振り返った。
女子が二人、男の前を通っていく。二人とも笑いながら、片手を上げて通った。片方のスカートは、夕子のものとほとんど同じ長さだった。膝の位置が同じだから、たぶん同じくらいだ。男は「おはよう」と言った。
腕は組んだままだった。夕子はその「おはよう」を聞いていた。怒ってはいなかった。ただ、そういうものかという顔だった。男の隣に、もう一人立っていた。若い教師で、たぶん二十代の前半だ。
名札のケースがまだ新品で、角が透明のまま光っている。
さっき、夕子が通るとき、その人は口を開けた。それから、隣を見た。スーツの男は、女子二人のほうを向いていた。若い教師は口を閉じて、夕子を通した。
通したあとで、もう一度隣を見ていた。
夕子は、その二度目のほうを見ていた。
*
クラス表は二階の廊下に貼り出されていた。人だかりの後ろで順番を待っていると、前のほうから声が上がる。歓声とも悲鳴ともつかない声で、たぶん知っている名前を見つけた人の声だ。
同じ声が何度も上がるので、そういうものらしかった。三分ほど待って、前が空いた。
四組の、上から三十番目にあった。
「──夕子?」
右のほうから声がした。振り返ると、女子が一人立っている。手には学校案内の冊子。それを胸のあたりで両手で抱えていた。小峰だ。中学のとき、一年と二年で同じクラスだった。
夕子の顔が、ぱっと明るくなった。
「小峰さん。久しぶり」
よく通る声だった。喋るのも速い。
「──え」
小峰は冊子を抱えたまま、一歩下がった。
「うそ。え、うそ」
彼女の目が、夕子の頭のあたりで止まる。それから耳に移って、また頭に戻った。
「夕子だよね。星野夕子だよね」
「うん」
夕子は笑った。
「え、全然違う」
周りの二、三人がこちらを見た。小峰は自分の声の大きさに気づいて、少し声を落とす。
「ごめん、そういう意味じゃなくて。……いや、そういう意味なんだけど」
「いいよ。びっくりするよね」
「や、その似合ってる。似合ってるんだけど」
「ありがと」
夕子があんまり普通に受けたので、小峰は少し笑った。片手を離して、自分の髪の毛先を触る。彼女の髪は中学のときと同じ長さだった。少し丸くなったのと、目のまわりが濃くなったのが違う。
「ていうか、いつ帰ってきたの?」
「先月」
「先月」
小峰は繰り返した。
「──そっか。先月か」
彼女はうなずいた。それから、もう何度かうなずいた。
「なんか、すごいね」
「そうかな」
「すごいよ」
「小峰さんは変わんないね。すぐ分かった」
「えー、それいいことなの? 悪いことなの?」
「いいことだよ」
小峰はまた笑った。
「──ていうか、夕子も四組?」
「うん。一緒だ」
「うそ、あたし四組! え待って、うれしい」
小峰は冊子を持ち直して、クラス表のほうを向いた。
「あ、ほんとだあった。あたし十四番。夕子三十番だから席近くない? どうだろ、あいうえお順かな。こ、とほだから……あれ、遠いか」
「遠いね。でも、休み時間あるし」
「それもそっか」
「四組の担任って誰か知ってる? あたし、さっき聞いたんだけど名前忘れちゃって。なんか、山がついてた気がする」
「わからない。山か、川かみたいな感じ?」
「そうそう、そういう感じ。……いや、ちょっと違うかも」
小峰は少し笑った。それから、ふいに真顔になって、時計を見る。
「あ、やば。何時までに教室だっけ」
「二十分って書いてあったよ」
「あ、そう? よかった。──ていうか夕子電車どっちから来てる?」
「北のほう」
「あー、じゃあ逆だ。残念」
小峰は冊子を持ち直した。
「じゃ、教室で。ほんと、びっくりした」
「うん。またね」
彼女は手を振って、人だかりのほうへ歩いていった。途中で誰かに名前を呼ばれて、そちらを向いて笑う。
彼女は最後まで、なぜ、とは言わなかった。
*
四組の教室は、廊下のいちばん奥だった。中から声が聞こえている。何人かの、もう出来上がっている笑い声だった。夕子は、ドアの前で一度止まった。さっき小峰と話していたときの明るさが少しだけ、引いた。
ドアのガラスに、薄く赤いものが映っている。三年前も、同じように何かが映っていたはずだ。
覚えていない。
夕子はドアを開けた。
肩まで届く赤いツインテールが、歩幅に合わせて静かに揺れる。背が高いので、折り曲げたスカートの丈が、よけいに短く見える。高校の制服は今日が初めてだ。
まだ体には馴染んでいない。
菜の花と、桜と、赤。向かいから歩いてきた女子高生が目を丸くする。すれ違いざまに何かを言いかけて、結局そのまま友人の耳元へ顔を寄せた。
二人はもう一度だけ振り返る。
今度は何も言わない。夕子も振り返らない。視線だけが、ガラス張りの店先を一度なぞった。二人の背中がそこに映って、離れていく。
今日、三人目だった。
駅前の信号が青に変わる。
人の流れに合わせて歩き出すと、今度は小さな男の子が立ち止まった。
「あのお姉ちゃん髪赤い」
母親は少し慌てて、その子の手を引く。
「ほら、行くよ」
男の子は素直についていく。ただ、最後まで夕子から目を離さなかった。夕子はその子に小さく手を振った。
男の子がぱっと笑って、振り返す。
母親の手がそれを引いていく。──夕子が見ていたのは、笑った男の子ではなかった。手を引いた側の顔を、渡り終えるまで見ていた。信号を渡り終える頃には、同じ制服を着た生徒が少しずつ増えていた。
誰もが新しい鞄を肩に掛け、少しだけ緊張した顔で歩いている。楽しそうに笑うグループ。
一人でイヤホンをつけて歩く男子。
家族と並んで歩く子もいれば、もう一人になっている子もいる。それぞれが、それぞれの朝を歩いていた。夕子はポケットからスマートフォンを取り出し、時間を確認する。
まだ余裕がある。
画面を消してポケットへ戻すと、ふと風が吹いた。赤いツインテールが大きく揺れ、桜の花びらが一枚その髪に引っ掛かる。夕子は指でそれをつまんで少し見てから、そっと離した。
花びらは風に乗っていった。坂は、下見に来たときより長く感じた。あの日は制服ではなかった。坂を上り切ると、高校の正門が見えた。校門の前には『入学式』と書かれた看板。
その向こうへ、新入生たちがゆっくりと吸い込まれていく。夕子は一度だけ校門を見上げる。そして何事もないように、人の流れへ加わった。
*
人の流れは、校門を抜けると少し広がった。夕子の横を、七人が通り過ぎる。六人が見た。見なかった一人は、スマートフォンを見ていた。昇降口は詰まっていた。
靴箱を探す声、名前を呼ぶ声、床でスニーカーが鳴る音。新入生も上級生も、同じ入口を使うらしい。夕子は自分の番号を、上から三段目に見つけた。
屈んで靴を履き替える。
立ち上がると、靴箱の列が切れたところに、掲示板があった。紙が一枚、画鋲で留めてある。四隅が丸くなって日に焼けて、端が少し波打っていた。印刷されている文字は一行だけだ。
『高校生らしい身なりを保つこと。』
その下には、何も書かれていない。夕子は端を持ち上げてみた。裏は、白かった。その白いところを見て、夕子は少しだけ面白そうな顔をした。
「おい」
振り返ると、スーツの男が立っていた。五十代くらいで、腕を組んでいる。ネクタイは緩み、シャツの襟元が開いていた。
男は夕子を上から下まで見た。
頭で一度止まり、耳で一度止まり、それから膝のあたりで止まる。三回とも、同じくらいの長さだった。
「新入生か」
「はい」
「……その頭と、スカートな」
「はい」
男は続きを言わなかった。
組んでいた腕が少しだけほどける。
「わかったのか」
「はい。わかりました」
夕子は頭を下げた。リボンの位置がずれたので、直した。男はしばらく黙っていた。何か言おうとして口が開きかけて、閉じる。
「……行っていい」
「失礼します」
三歩ほど歩いたところで、後ろから声がした。
「おはようございまーす」
夕子は足を止めて、振り返った。
女子が二人、男の前を通っていく。二人とも笑いながら、片手を上げて通った。片方のスカートは、夕子のものとほとんど同じ長さだった。膝の位置が同じだから、たぶん同じくらいだ。男は「おはよう」と言った。
腕は組んだままだった。夕子はその「おはよう」を聞いていた。怒ってはいなかった。ただ、そういうものかという顔だった。男の隣に、もう一人立っていた。若い教師で、たぶん二十代の前半だ。
名札のケースがまだ新品で、角が透明のまま光っている。
さっき、夕子が通るとき、その人は口を開けた。それから、隣を見た。スーツの男は、女子二人のほうを向いていた。若い教師は口を閉じて、夕子を通した。
通したあとで、もう一度隣を見ていた。
夕子は、その二度目のほうを見ていた。
*
クラス表は二階の廊下に貼り出されていた。人だかりの後ろで順番を待っていると、前のほうから声が上がる。歓声とも悲鳴ともつかない声で、たぶん知っている名前を見つけた人の声だ。
同じ声が何度も上がるので、そういうものらしかった。三分ほど待って、前が空いた。
四組の、上から三十番目にあった。
「──夕子?」
右のほうから声がした。振り返ると、女子が一人立っている。手には学校案内の冊子。それを胸のあたりで両手で抱えていた。小峰だ。中学のとき、一年と二年で同じクラスだった。
夕子の顔が、ぱっと明るくなった。
「小峰さん。久しぶり」
よく通る声だった。喋るのも速い。
「──え」
小峰は冊子を抱えたまま、一歩下がった。
「うそ。え、うそ」
彼女の目が、夕子の頭のあたりで止まる。それから耳に移って、また頭に戻った。
「夕子だよね。星野夕子だよね」
「うん」
夕子は笑った。
「え、全然違う」
周りの二、三人がこちらを見た。小峰は自分の声の大きさに気づいて、少し声を落とす。
「ごめん、そういう意味じゃなくて。……いや、そういう意味なんだけど」
「いいよ。びっくりするよね」
「や、その似合ってる。似合ってるんだけど」
「ありがと」
夕子があんまり普通に受けたので、小峰は少し笑った。片手を離して、自分の髪の毛先を触る。彼女の髪は中学のときと同じ長さだった。少し丸くなったのと、目のまわりが濃くなったのが違う。
「ていうか、いつ帰ってきたの?」
「先月」
「先月」
小峰は繰り返した。
「──そっか。先月か」
彼女はうなずいた。それから、もう何度かうなずいた。
「なんか、すごいね」
「そうかな」
「すごいよ」
「小峰さんは変わんないね。すぐ分かった」
「えー、それいいことなの? 悪いことなの?」
「いいことだよ」
小峰はまた笑った。
「──ていうか、夕子も四組?」
「うん。一緒だ」
「うそ、あたし四組! え待って、うれしい」
小峰は冊子を持ち直して、クラス表のほうを向いた。
「あ、ほんとだあった。あたし十四番。夕子三十番だから席近くない? どうだろ、あいうえお順かな。こ、とほだから……あれ、遠いか」
「遠いね。でも、休み時間あるし」
「それもそっか」
「四組の担任って誰か知ってる? あたし、さっき聞いたんだけど名前忘れちゃって。なんか、山がついてた気がする」
「わからない。山か、川かみたいな感じ?」
「そうそう、そういう感じ。……いや、ちょっと違うかも」
小峰は少し笑った。それから、ふいに真顔になって、時計を見る。
「あ、やば。何時までに教室だっけ」
「二十分って書いてあったよ」
「あ、そう? よかった。──ていうか夕子電車どっちから来てる?」
「北のほう」
「あー、じゃあ逆だ。残念」
小峰は冊子を持ち直した。
「じゃ、教室で。ほんと、びっくりした」
「うん。またね」
彼女は手を振って、人だかりのほうへ歩いていった。途中で誰かに名前を呼ばれて、そちらを向いて笑う。
彼女は最後まで、なぜ、とは言わなかった。
*
四組の教室は、廊下のいちばん奥だった。中から声が聞こえている。何人かの、もう出来上がっている笑い声だった。夕子は、ドアの前で一度止まった。さっき小峰と話していたときの明るさが少しだけ、引いた。
ドアのガラスに、薄く赤いものが映っている。三年前も、同じように何かが映っていたはずだ。
覚えていない。
夕子はドアを開けた。