雪の国の生贄花嫁
第18話
「森が気になるのであろう? 少しだけその目で見てみると良い」
桜来はハクに支えられて立ち上がり、ムクとともに外へと向かった。
外には、黒い霜の消えた雪花の森が広がっていた。
御神木を覆っていた黒い筋は消え、枝には白い花が戻っている。
すべての木が元の姿を取り戻したわけではない。それでも、雪の下には小さな緑の芽が現れていた。
少し離れた場所では、本来の白い姿へと戻った守護獣が身体を起こしていた。
「雪代の娘……いや、桜来殿」
長老は桜来との距離を保ったまま、わずかに頭を下げた。
呼び直された自分の名に、桜来は目を瞬かせた。
「長老様、ご無事で……」
「守護獣と森を救ってくれたこと、礼を言う」
感謝されることを想定しておらず、桜来は言葉を濁した。
「いいえ、私はなにも……」
「そなたが自ら危険を引き受けなければ、守護獣も御神木も失われていたであろう。森を代表して感謝する」
周囲のあやかしたちも言葉を止め、桜来と長老を見守っていた。
「……長老様……」
「だが、そなたの行いと雪代家の罪は別だ。我らは雪代家への警戒を解いたわけではない」
「知らなかったとはいえ、私は雪代家の者です。森が受けた苦しみに気づかず生きてきたことをお詫びいたします」
「謝罪を受けても、失われた命も時間も戻らぬ。だがそなたを雪代家の名だけで見ることは、もうすまい。これからの行いを見るとしよう」
「はい、ありがとうございます」
戻った神力がハクの周囲へ淡く漂い、銀白色の髪を揺らしている。
ハクの首筋まで広がっていた呪紋は、一部が薄くなっていた。
そのとき、ハクが森の奥に顔を向けた。
ハクの眉間に深い皺が刻まれ、淡い青の瞳が遠方を見据える。
「ハク様、どうしたの?」
ハクの視線は、雪花の森よりさらに遠い場所へと向けられているようだった。
「鏡氷の湖から血の匂いがする。人間とあやかしのものだ」
「鏡氷の湖にも、傷ついている者がいるのですか?」
「ああ、そのようだ。だが、なにが起きているかまでは分からん」
「そうですか」
「すでに争いが起きている可能性がある」
桜来は懐に挟んでいる薬入れの中を素早く確認した。
失われた薬を補う必要はあるが、鏡氷の湖へ持っていける種類の薬草は残っている。
「ハク様は鏡氷の湖に行くんだよね? 僕も一緒に行くよ」
「負傷者が出ているなら見過ごすことはできません。お供いたします」
「そなた、また自分を犠牲にするつもりではないだろうな?」
ハクの淡い青の瞳には、桜来の意思よりもその身体の状態を測るような厳しさがあった。
「いいえ、先ほどお約束したとおり、ひとりでは決めません。必要なことは、必ずハク様にお伝えします。それに……」
「なんだ?」
「私が同行すれば、薬草の知識がお役に立てると思います」
「桜来だけじゃなくて、僕だって役に立つよ」
「ムク、お前は森に残れ」
「どうして? ムクは行けないの?」
「次も安全だとは限らん」
「やだ。僕も行く」
ムクは怯まず、ハクを見上げた。
「我らは遊びに行くのではない」
「鏡氷の湖までの道は、ムクも知っておる。案内役として連れていってやってくれ」
長老の加勢を受けてムクの耳が勢いよく立ち上がった。
「仕方がない」
ムクの耳とは対照的に、ハクの口からは重苦しい息が漏れた。
ムクとハクを交互に見つめた長老は苦笑いを浮かべていた。
ハクと桜来。そしてムク。三人はそれぞれ、鏡氷の湖に向かうための準備を始めた。
***
雪代家の奥に設けられた祭祀の間には、重い静けさが満ちていた。
第一の楔と繋がっていた札は中央から割れ、黒く焼け焦げている。
砕けた札の欠片が祭壇の上に散らばっていた。
報告を受けて現れた政臣は、砕けた札を見下ろした。
「なにか起きたのだ?」
「第一の楔が破壊されました」
背後で組んでいた政臣の手に力が入った。
玄斎の顔には、動揺も驚きも表れていない。ただ政臣の反応を待っている。
「なに? ……ということは……」
「第一の楔は砕け、その内に留めていた神力が白狼神へ戻ったものと思われます」
「封印が解ければ、雪代家の統治は揺らぐ。お主はそれを理解したうえで楔を管理していたはずだ」
政臣の顔に浮かんだのは、森の被害を案じる色ではない。
その声音には、玄斎を責める響きが明確に混じっていた。
「そのとおりでございます。ですが、今回破壊されたのは第一の楔のみ。封印に大きな影響はございません。どうぞ、ご安心ください」
「……そうか。それで、誰が楔を壊した?」
「それはまだ分かりません」
「そうか。……もしや桜来が関わっているということはないのか?」
政臣の問いに、玄斎の指が札の欠片の上でぴたりと止まった。
砕けた札だけでは、誰がどのように楔を壊したのかまでは読み取れない。
桜来が関わった可能性を否定する材料はないが、断定する根拠もなかった。
「桜来殿の血が関わった可能性はございます。ですが、以前試した際には、楔は桜来殿の血になんの反応も示しませんでした」
「それなら桜来の血が第一の楔の破壊に関係している可能性は低いということか」
「はい。それに桜来殿はすでに贄として白狼神に捧げられておりますゆえ」
「確かにそのとおりだ。案ずる必要はないな」
生贄として差し出した娘が生きている可能性を、政臣はそれ以上問い直さなかった。
「ええ、その必要はございません」
玄斎は政臣に向かって穏やかに頭を下げた。
政臣が部屋を出ると、玄斎は控えていた配下を呼び寄せた。
玄斎は札の欠片を指先で拾い上げ、配下へ向き直った。
室内の灯が揺れ、砕けた札の影を壁に映した。
「桜来様の生死と、現在の居場所を確かめなさい」
「はっ、承知しました」
配下は一礼し、足音を立てずに部屋を出ていった。
玄斎は残る楔につながる札へと順番に視線を移した。
第一の楔の破壊によって、雪花の森だけでなく、雪代家の内側でも事態が動き始めていた。
桜来はハクに支えられて立ち上がり、ムクとともに外へと向かった。
外には、黒い霜の消えた雪花の森が広がっていた。
御神木を覆っていた黒い筋は消え、枝には白い花が戻っている。
すべての木が元の姿を取り戻したわけではない。それでも、雪の下には小さな緑の芽が現れていた。
少し離れた場所では、本来の白い姿へと戻った守護獣が身体を起こしていた。
「雪代の娘……いや、桜来殿」
長老は桜来との距離を保ったまま、わずかに頭を下げた。
呼び直された自分の名に、桜来は目を瞬かせた。
「長老様、ご無事で……」
「守護獣と森を救ってくれたこと、礼を言う」
感謝されることを想定しておらず、桜来は言葉を濁した。
「いいえ、私はなにも……」
「そなたが自ら危険を引き受けなければ、守護獣も御神木も失われていたであろう。森を代表して感謝する」
周囲のあやかしたちも言葉を止め、桜来と長老を見守っていた。
「……長老様……」
「だが、そなたの行いと雪代家の罪は別だ。我らは雪代家への警戒を解いたわけではない」
「知らなかったとはいえ、私は雪代家の者です。森が受けた苦しみに気づかず生きてきたことをお詫びいたします」
「謝罪を受けても、失われた命も時間も戻らぬ。だがそなたを雪代家の名だけで見ることは、もうすまい。これからの行いを見るとしよう」
「はい、ありがとうございます」
戻った神力がハクの周囲へ淡く漂い、銀白色の髪を揺らしている。
ハクの首筋まで広がっていた呪紋は、一部が薄くなっていた。
そのとき、ハクが森の奥に顔を向けた。
ハクの眉間に深い皺が刻まれ、淡い青の瞳が遠方を見据える。
「ハク様、どうしたの?」
ハクの視線は、雪花の森よりさらに遠い場所へと向けられているようだった。
「鏡氷の湖から血の匂いがする。人間とあやかしのものだ」
「鏡氷の湖にも、傷ついている者がいるのですか?」
「ああ、そのようだ。だが、なにが起きているかまでは分からん」
「そうですか」
「すでに争いが起きている可能性がある」
桜来は懐に挟んでいる薬入れの中を素早く確認した。
失われた薬を補う必要はあるが、鏡氷の湖へ持っていける種類の薬草は残っている。
「ハク様は鏡氷の湖に行くんだよね? 僕も一緒に行くよ」
「負傷者が出ているなら見過ごすことはできません。お供いたします」
「そなた、また自分を犠牲にするつもりではないだろうな?」
ハクの淡い青の瞳には、桜来の意思よりもその身体の状態を測るような厳しさがあった。
「いいえ、先ほどお約束したとおり、ひとりでは決めません。必要なことは、必ずハク様にお伝えします。それに……」
「なんだ?」
「私が同行すれば、薬草の知識がお役に立てると思います」
「桜来だけじゃなくて、僕だって役に立つよ」
「ムク、お前は森に残れ」
「どうして? ムクは行けないの?」
「次も安全だとは限らん」
「やだ。僕も行く」
ムクは怯まず、ハクを見上げた。
「我らは遊びに行くのではない」
「鏡氷の湖までの道は、ムクも知っておる。案内役として連れていってやってくれ」
長老の加勢を受けてムクの耳が勢いよく立ち上がった。
「仕方がない」
ムクの耳とは対照的に、ハクの口からは重苦しい息が漏れた。
ムクとハクを交互に見つめた長老は苦笑いを浮かべていた。
ハクと桜来。そしてムク。三人はそれぞれ、鏡氷の湖に向かうための準備を始めた。
***
雪代家の奥に設けられた祭祀の間には、重い静けさが満ちていた。
第一の楔と繋がっていた札は中央から割れ、黒く焼け焦げている。
砕けた札の欠片が祭壇の上に散らばっていた。
報告を受けて現れた政臣は、砕けた札を見下ろした。
「なにか起きたのだ?」
「第一の楔が破壊されました」
背後で組んでいた政臣の手に力が入った。
玄斎の顔には、動揺も驚きも表れていない。ただ政臣の反応を待っている。
「なに? ……ということは……」
「第一の楔は砕け、その内に留めていた神力が白狼神へ戻ったものと思われます」
「封印が解ければ、雪代家の統治は揺らぐ。お主はそれを理解したうえで楔を管理していたはずだ」
政臣の顔に浮かんだのは、森の被害を案じる色ではない。
その声音には、玄斎を責める響きが明確に混じっていた。
「そのとおりでございます。ですが、今回破壊されたのは第一の楔のみ。封印に大きな影響はございません。どうぞ、ご安心ください」
「……そうか。それで、誰が楔を壊した?」
「それはまだ分かりません」
「そうか。……もしや桜来が関わっているということはないのか?」
政臣の問いに、玄斎の指が札の欠片の上でぴたりと止まった。
砕けた札だけでは、誰がどのように楔を壊したのかまでは読み取れない。
桜来が関わった可能性を否定する材料はないが、断定する根拠もなかった。
「桜来殿の血が関わった可能性はございます。ですが、以前試した際には、楔は桜来殿の血になんの反応も示しませんでした」
「それなら桜来の血が第一の楔の破壊に関係している可能性は低いということか」
「はい。それに桜来殿はすでに贄として白狼神に捧げられておりますゆえ」
「確かにそのとおりだ。案ずる必要はないな」
生贄として差し出した娘が生きている可能性を、政臣はそれ以上問い直さなかった。
「ええ、その必要はございません」
玄斎は政臣に向かって穏やかに頭を下げた。
政臣が部屋を出ると、玄斎は控えていた配下を呼び寄せた。
玄斎は札の欠片を指先で拾い上げ、配下へ向き直った。
室内の灯が揺れ、砕けた札の影を壁に映した。
「桜来様の生死と、現在の居場所を確かめなさい」
「はっ、承知しました」
配下は一礼し、足音を立てずに部屋を出ていった。
玄斎は残る楔につながる札へと順番に視線を移した。
第一の楔の破壊によって、雪花の森だけでなく、雪代家の内側でも事態が動き始めていた。