雪の国の生贄花嫁

第3話

 政臣は桜来の返事を得ると、玄斎に儀式の準備を命じた。

 自分の命についての話が、自分を置き去りにしたまま進んでいく。

 だが桜来は、自分に与えられた役割を受け入れた以上、なにも知らないまま神殿へ向かうつもりはなかった。

 政臣はすでに桜来の意思に関心を失い、日程の確認をしている。

「玄斎、聞きたいことがございます」

 生贄の準備に話が移ろうとしたところで、桜来が玄斎を呼び止めた。

「なんでございましょうか? 桜来様」

 桜来の問いを予想していたように、玄斎は穏やかに振り返った。

「なにも知らないまま命を差し出すつもりはありません。白狼神について、知っていることをお話しください」

 術師たちは生贄となる桜来を、儀式の一部を見るような目で見ていた。

「それを知ったところで、ご当主の決断は覆りません」

「それは承知しております。決定に従うことと、理由を知らずに従うことは別です」

「よろしいでしょう。神殿へ向かわれる前に、知っておかれるべきことです。これよりお話しするのは、雪代家と祭司一族にのみ伝わる歴史の伝承にございます」

 広間の外では風が強まり、雪が戸板を細かく叩いていた。

 卓上の黒ずんだ護符から、焦げた紙に似た匂いが漂っていた。

 桜来は背筋を伸ばし、玄斎の声に耳を傾ける。

「白狼神ハクは、かつて雪の国を守る守護神でございました。人界と妖界の境界を守り、雪と風を鎮める神として、人々の信仰を集めていたのです」

「守護神だったものが、なぜ突然、人間を襲ったのですか?」

「邪神の心を人間の理屈で理解することはできません。ある日突然、白狼神は人間から受けた信仰を裏切りました」

「それは理由もなくということでしょうか?」

「なにかしらの理由があったかもしれないし、理由はなにもないのかもしれない。伝承の記録にそれは残っていないのです」

「そうですか……」

 疑う根拠はない。それでも、説明されていないなにかがあるように思えた。

「白狼神の怒りに触れた村は、一夜にして雪に埋もれたと伝えられております。神殿へ近づいた者は、二度と戻りません。人の言葉も祈りも、もはやあの神には届かないのです」

 玄斎は慈悲深い表情を崩さず、白狼神の残虐さを語る。

「白狼が守護神であった頃の記録も残っているのでしょうか?」

「雪の国に残されているのは、白狼神が人々を襲ったという事実だけでございます。桜来様、同情はお捨てください。白狼神は、あなたを生贄として待つ邪神なのです」

「ええ、確かにその通りですね」

 桜来の答えに玄斎は神妙な面持ちで頷き、説明を続ける。

「雪代家の祖先と祭司たちは、白狼神を封じるために五本の楔を用いました。神殿の封印は、五つの神域に打たれた楔によって保たれているのです」

 玄斎は地図上で五つの印を線で結び、中央にある白狼の神殿へと指を移す。地図の一部は黒く変色し、神域の穢れが記されていた。

「五つの神域すべてに、楔があるのですね。その楔が弱っているから、結界にも影響が出ているのでしょうか?」

 白狼神を縛る楔の話を聞きながら、桜来は自分の行き先もすでに固定されているように感じていた。

「封印と結界は、深く結びついております。白狼神の祟りが強まれば、神域や結界も穢れていくのです」

「そうですか。ではなぜ、白狼神を封じたあとも、生贄を捧げてきたのですか?」

「封じられた白狼神は、今も自らを封じた雪代家を憎んでおります。その怒りを鎮めるには、雪代家の血を捧げなければなりません」

 「血」という言葉に合わせるように、玄斎の視線が桜来の袖口へと落ちた。桜来は無意識に袖を引き、手首を覆った。

「では、私が神殿へ行けば、白狼神の怒りは鎮まるのですね?」

 玄斎の目が一瞬だけ細められた。

「尊き血が捧げられることで、白狼神の怒りは一時的に鎮まります」

「それで、捧げられた娘たちの安否は?」

「いずれの娘も、生きて戻ることはありませんでしたから、神殿に送られた娘が、その後どうなったかを確認する術はございません。結果として結界が保たれた以上、儀式は成功したと判断されております」

 生きて戻った者はいないと聞き、胸の奥へ冷たいものが沈む。白狼神の牙を想像すると、喉がわずかに狭くなり息苦しさを覚えた。

「戻った者がいない以上、なにが起きたのかを知る者もいないのですね」

 桜来は呼吸の速さを悟られないよう、ゆっくり息を吐いた。

「その通りにございます。結界を保つために必要なのは、間違いなく雪代家の血でございます。桜来様にも雪代の血が流れております」

「私の血ですか?」

「たとえ霊力を持たずとも、その血筋まで失われたわけではございません。白狼神の前で、あなたの血は必ず意味を持つでしょう」

 政臣が桜来の立場を量る一方で、玄斎はその血の価値を量っていた。

「霊力ではなく、血そのものが必要なのですね。それで儀式とは具体的にどのようなものなのですか?」

「桜来様は神殿へ入り、白狼神の前へ進めばよいのです。儀式に必要な準備はすべてこちらで整えます。ご心配には及びません」

「そうですか。では、最後にもうひとつだけ尋ねてもいいですか?」

「なんなりと……」

「儀式が執り行われるのは、いつですか?」

「出立は明朝です。夜が明ける前に、白狼の神殿へ向かっていただきます」

「……明朝ですか?」

「はい。なにかご不都合でも?」

「三日ほどいただければ、薬草庫の整理と治療記録の引き継ぎを済ませられます。どうか猶予を……」

 桜来は袖の中で指を折り、残している仕事を数えていた。

 北の集落では、今も薬を待っている者がいる。自分がいなくなったあとも、病人の熱が止まるわけではない。

 最後まで薬を作れれば、役目を果たしたまま神殿へ向かえるように思えた。

「その必要はない」

 答えたのは政臣だった。

「……お父様」

「薬草庫のことは使用人に任せればよい。お前は生贄として身を清めることだけを考えよ」

 心臓が一度強く脈打ち、その振動が手首まで伝わった。息を吸っても、胸の深くまで空気が届かない。

「分かりました。限られた時間で、必要なことを済ませます」

 桜来は残された時間を自分のためではなく、作れる薬の数で測ろうとしていた。

「身を清める儀式に遅れぬようお願いいたします。夜半には迎えの者を差し向けます」

「分かりました」

 戸を叩く風の音が、夜明けまでの時間を削るように続いていた。

 政臣は日程を了承し、玲華は沈黙し、結奈は目を伏せた。

 誰も、最後の夜を共に過ごそうとは言わなかった。

 桜来に残された一晩は、家族の沈黙とともに始まった。
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