独房室の窓から差し込む一筋の光が僕に社会に出る勇気を与えてくれた。
第一章 出逢い
第一章 出逢い
平成六年十二月。精神病院というものは、総合病院の敷地のいちばん奥に、ひっそりと建っていることが多い。玄関を目指して歩いていると、五十メートル進むたびに、気温が一度ずつ下がっていくような気がした。もちろん、本当に気温が下がっているわけではない。それでも康二には、そう感じられた。足を進めるほど、身体だけではなく、心まで冷えていく。その冷たさの先に、自分を待っている場所がある。病院の正面玄関には、まだ自動ドアではなく、重たいガラス戸が残っていた。押して開けるたび、蝶番が低く軋んだ。受付の脇には公衆電話が置かれ、壁には黄色く変色した面会時間の紙が貼られている。待合室の隅では、古い石油ストーブが赤い火を抱えていたが、灯油の匂いがするばかりで、足元まで暖まってはいなかった。荒瀬康二、三十四歳。昨晩、転職したばかりの会社で、康二は奇妙な感覚に襲われた。初出勤の日だった。周囲の人間たちの目が、妙に気になった。誰かが自分を見ている。目が合う。また見られている。そんな感覚が、次から次へと押し寄せてきた。目というものは不思議だった。ただ目だけを取り上げても、人によって形も大きさも違い、そこにはそれぞれの表情がある。だが、その日の康二には、そのすべてが自分に向けられたもののように思えた。会社の事務所には、まだパソコンが一人一台あるわけではなかった。机の上には分厚い電話帳と伝票の束が積まれ、壁際のファクシミリが、誰も触れていないのに突然、紙を吐き出した。コピー機の作動音や、受話器を置く音までが、康二には自分への合図のように聞こえた。また始まった。康二には、それが何を意味するのか分かっていた。これまで三度、精神病院への入院を経験している。そして今度も、同じ道をたどっている。被害妄想は、ゆっくり始まったわけではなかった。半日もしないうちに、現実と妄想との境目が崩れていった。そして翌日、康二は精神病院の門をくぐった。四度目だった。病棟に入ると、ほどなくして隔離室へ入れられた。三畳ほどの部屋だった。板張りの床。むき出しの便器。窓は小さく、外の様子を知ることもできない。
窓には鉄格子があり、ガラスの内側には冬の結露が白く張りついていた。暖房は入っているはずなのに、部屋の隅には冷気が溜まっている。壁際には、使い古された毛布が一枚、畳まれて置かれていた。扉は鉄製で、外側からしか開けられなかった。扉の上には小さな覗き窓があり、廊下を通る看護師の白衣が、時折そこを横切った。ナースステーションからは、壁掛け時計の秒針の音と、内線電話のベルがかすかに聞こえてくる。壁には、これまでここで過ごした患者たちが残した傷跡があった。赤黒い染みも残っている。康二は、それを見つめた。ここは地獄だ。そう思った。
だが、もっと恐ろしいのは、病気の世界にいるときには、この場所をそれほど恐ろしく感じないことだった。正気を取り戻した瞬間にだけ、現実の恐ろしさが押し寄せてくる。どれくらい時間が経ったのか、分からなかった。一日なのか、二日なのか。食事をした記憶もない。意識が朦朧としていた。やがて、鉄の扉の下にある小さな開口部から、食事の膳が差し入れられた。康二は膳を見つめた。眼鏡を外されているせいなのか、白いご飯まで腐っているように見えた。腹は減っている。それでも、箸をつけることができなかった。膳の上には、アルミの小鉢と、縁の欠けた茶碗が並んでいた。味噌汁の湯気はすぐに消え、冷えた病棟の空気に吸い込まれていった。遠くの食堂からは、食器を回収するワゴンの車輪が、床の継ぎ目を越えるたびにがたがたと鳴っていた。
「フランスパンをくれ!」
康二は叫んだ。何度も叫んだ。しかし、外から返事はなかった。声が届いていないのか。それとも、誰も相手にしていないのか。分からない。康二は天井を見上げた。ここで、自分の人生が終わるのだろうか。昼なのか。朝なのか。夜なのか。時間さえ分からなくなっていた。ただ、天井近くの小さな窓から朝日が差し込むと、朝なのだと分かった。その光を見て、康二は少しずつ記憶を取り戻していった。四度目の精神病院。
そして、今回も隔離室。自分はいったい、何度ここへ戻ってくるのだろう。三日ほど経ったころだった。突然、扉が開いた。
「タバコ、吸うか?」
康二は顔を上げた。久しぶりのタバコだった。病棟では喫煙の時間と場所が決められていた。看護師に付き添われ、廊下の端にある小さな喫煙スペースへ連れていかれる。壁には「火の始末に注意」と赤い文字で書かれた紙が貼られ、灰皿には前の患者が残した吸い殻がいくつも重なっていた。マッチで火をつけてもらい、一口吸う。煙が肺に入った瞬間、頭がくらくらした。それでも、その煙が妙に懐かしかった。一本を吸い終えると、また部屋に戻された。康二の中では、二人の自分が交互に現れていた。妄想に支配されている自分。そして、それをどこかで冷静に見ている自分。
妄想の中にいるときは、何も怖くない。しかし、正気に戻ると、鉄の扉も、狭い部屋も、自分が置かれている状況も、すべてが恐ろしくなった。康二は冷えた床に座り込んだ。天井を見つめる。そして、考えた。俺は、どうしてここにいるんだ。そのとき、廊下から足音が聞こえた。コツ、コツ、と近づいてくる。康二は耳を澄ませた。鉄の扉が開いた。そこに立っていたのは、見慣れた看護師だった。看護師は紙とペンを差し出した。
「何か書きたいことがあれば、ここに書いてみろ」
康二は黙って紙を受け取った。紙は病院の備品らしく、右上に小さな印刷文字が入っていた。ペンは青いボールペンで、インクの出が少し悪かった。
「書くことが、外へ出るきっかけになるかもしれない」
その言葉に、康二はわずかな希望を感じた。書くことで、何かが変わるのかもしれない。震える手でペンを握った。そして、紙の上に最初の一文字を書いた。脱出。それが、そのときの康二にできる精一杯だった。
それから何日が過ぎたのか分からない。ある朝、隔離室の扉が開いた。
「タバコ吸うか?」
康二は頷いた。外へ出て、一服する。煙が目の前を白く曇らせる。その一瞬だけ、現実が遠ざかっていくようだった。そして、その煙の向こうから声がした。
「おはよう」
康二は顔を上げた。そこに、若い女性が立っていた。
車瑠美、二十六歳。白い制服を着ていた。彼女の胸元には、名札が安全ピンで留められていた。髪は肩のあたりで切りそろえられ、白衣のポケットには小さなメモ帳とボールペンが差し込まれている。病院の窓から差し込む冬の光が、彼女の制服を淡く照らしている。
康二は、彼女の目を見た。これまで見てきた人間の目とは、何かが違った。そこには、疑うような色も、冷たい拒絶もなかった。ただ、穏やかな光があった。
「……誰だ?」
康二が尋ねる。
「瑠美です。今日からあなたの担当になります。よろしくね」
瑠美は微笑んだ。康二は一瞬、自分がまた何かを見ているのではないかと思った。しかし、彼女の声は現実だった。
「担当……?」
「そう」
「俺は、ここに長くいるのか?」
瑠美は少し考えてから答えた。
「それは、まだ分からないわ。でも、少しずつ良くなれば、また外に出られる日が来ると思う」
康二は黙って彼女を見た。
「今日は、少し話をしましょう」
その声を聞いていると、不思議だった。閉ざされていた心の奥に、ほんの少しだけ風が通るような気がした。その日から、瑠美との時間が始まった。やがて康二は隔離室を出され、広い大部屋へ移された。五十人ほどが横になれる部屋だった。隔離室に比べれば、そこは天国のように思えた。けれど、患者たちは皆、布団の上で黙っていた。誰もが自分の世界に閉じこもっている。病棟の壁には、色あせた献立表と、面会時間を知らせる紙が貼られていた。テレビは部屋の隅に一台だけあり、昼のワイドショーが小さな音で流れていた。リモコンを持つ者は決まっておらず、番組が変わることはほとんどなかった。窓の外には灰色の空が広がり、時折、雪がちらついていた。そんな病棟で、瑠美が康二のところへ来ることが、いつしか日常になっていった。最初は、病気の状態や食事のことなど、看護師と患者としての会話だった。それが少しずつ変わっていった。
「どう? 少しは慣れてきた?」
瑠美が尋ねる。康二は小さく笑った。
「ああ。独房に比べれば、天国みたいなもんだよ」
「そうね」
瑠美も笑った。
「でも、ここに移れたってことは、それだけ良くなってきたってことだから」
康二は窓の外を見た。雪が降っている。
「外はもう雪だな」
「うん」
「ここへ来る前は、雪なんて気にもしてなかった」
康二は少し黙った。
「でも今は、妙に気になる」
「どうして?」
「分からない。ただ……」
康二は窓の外を見つめた。
「雪みたいに、俺の心も少しずつ冷えていったのかなって」
瑠美はしばらく黙っていた。そして、静かに言った。
「冷えたものだって、温めれば少しずつ溶けていくよ」
康二は彼女を見た。
「焦らなくていいんじゃないかな。少しずつでいいと思う」
その言葉が、康二の胸に残った。ある寒い昼下がりだった。二人は向かい合って食事をしていた。食器の触れ合う音だけが、静かな部屋に響いていた。康二はふと尋ねた。
「瑠美は、どうして看護師になったんだ?」
瑠美の手が止まった。しばらく考えてから、彼女は言った。
「私の両親ね。私が小さいころに亡くなったの」
「……亡くなった?」
「交通事故で」
康二は何も言えなかった。いつも穏やかに笑っている瑠美の背後に、そんな過去があるとは思わなかった。
「それからは、親戚に面倒を見てもらった時期もあったけど……」
瑠美はゆっくりと言葉を続けた。
「結局、自分の力で生きていかなきゃいけないって思うようになったの」
康二は黙って聞いていた。
「だから、人を助ける仕事がしたかったのかもしれない」
その言葉を聞きながら、康二は自分の過去を思った。
病気になり、仕事を失い、何度も病院へ戻ってきた。
自分も孤独だった。そして、この目の前にいる女性もまた、孤独を抱えて生きてきた。
「瑠美……大変だったな」
康二は、それだけ言った。
瑠美は少し照れたように笑った。
「うん。でもね」
彼女は康二を見た。
「今は、こうやって康二さんと話しながら食事するのが、ちょっと楽しみなの」
康二の胸に、温かいものが広がった。それは、病気になって以来、久しく感じたことのない感情だった。
やがて康二は、瑠美に惹かれていった。それが恋なのか、それとも孤独の中で差し込んできた光への感謝なのか、そのときの康二には分からなかった。ある日、二人は病院の屋上へ続く階段を歩いていた。人の気配がない。窓から差し込む冬の光が、階段の壁を白く照らしていた。階段の踊り場には、消火器と、赤い文字で書かれた避難経路図が掲げられていた。屋上へ続く鉄の扉には、外から風が吹きつけるたび、金具がかすかに震えていた。康二は、前を歩く瑠美の背中を見つめた。彼女と話すことが、いつの間にか生きる理由の一つになっていた。階段の途中で、康二は足を止めた。瑠美が振り返る。
「どうしたの?」
康二は答えなかった。ただ、彼女を見つめた。瑠美も康二を見つめ返した。しばらく、二人の間に言葉はなかった。康二は一歩、彼女に近づいた。そして、そっと唇を重ねた。ほんの一瞬だった。離れたあと、康二は瑠美の顔を見た。瑠美は驚いたような表情を浮かべていた。けれど、怒ってはいなかった。
「もう……こんなところで」
そう言って、少し笑った。
「でも……嫌じゃなかった」
その言葉を聞いて、康二の胸が熱くなった。二人はそれ以上何も言わず、再び階段を上っていった。やがて、康二の退院の日が決まった。隔離室に閉じ込められていたあの日から、いくつもの時間が流れた。あの日の自分には、病院の外へ出られる日など想像できなかった。けれど今、康二は再び外の世界へ戻ろうとしている。病院の外には、まだ冬の冷たい空気が残っていた。それでも康二の心には、かすかな春の気配があった。
「瑠美」
康二は言った。
「俺、もう一度シャバでやり直してみるよ」
瑠美は黙って康二を見る。
「仕事を見つけて、一人前になりたい」
瑠美は静かに頷いた。その瞳には、喜びと寂しさが入り混じっていた。
「うん。康二さんが元気になって、一人前になったら……また会おうね」
「必ず会いに来る」
康二は言った。
「それまで、俺のこと忘れないでくれよ」
瑠美は微笑んだ。
「忘れるわけないじゃない」
少しだけ間を置いて、彼女は続けた。
「私、待ってるから」
康二は頷いた。そして、病院の玄関を出た。振り返ると、瑠美がそこに立っていた。冬の冷たい風が吹いていた。それでも康二には、あの日の独房より、ずっと暖かく感じられた。あの暗い部屋で、最初に書いた言葉は――
「脱出」だった。けれど康二が本当に救われたのは、鉄の扉が開いたときではなかった。
「おはよう」
あの一言を、瑠美から聞いた瞬間だった.
平成六年十二月。精神病院というものは、総合病院の敷地のいちばん奥に、ひっそりと建っていることが多い。玄関を目指して歩いていると、五十メートル進むたびに、気温が一度ずつ下がっていくような気がした。もちろん、本当に気温が下がっているわけではない。それでも康二には、そう感じられた。足を進めるほど、身体だけではなく、心まで冷えていく。その冷たさの先に、自分を待っている場所がある。病院の正面玄関には、まだ自動ドアではなく、重たいガラス戸が残っていた。押して開けるたび、蝶番が低く軋んだ。受付の脇には公衆電話が置かれ、壁には黄色く変色した面会時間の紙が貼られている。待合室の隅では、古い石油ストーブが赤い火を抱えていたが、灯油の匂いがするばかりで、足元まで暖まってはいなかった。荒瀬康二、三十四歳。昨晩、転職したばかりの会社で、康二は奇妙な感覚に襲われた。初出勤の日だった。周囲の人間たちの目が、妙に気になった。誰かが自分を見ている。目が合う。また見られている。そんな感覚が、次から次へと押し寄せてきた。目というものは不思議だった。ただ目だけを取り上げても、人によって形も大きさも違い、そこにはそれぞれの表情がある。だが、その日の康二には、そのすべてが自分に向けられたもののように思えた。会社の事務所には、まだパソコンが一人一台あるわけではなかった。机の上には分厚い電話帳と伝票の束が積まれ、壁際のファクシミリが、誰も触れていないのに突然、紙を吐き出した。コピー機の作動音や、受話器を置く音までが、康二には自分への合図のように聞こえた。また始まった。康二には、それが何を意味するのか分かっていた。これまで三度、精神病院への入院を経験している。そして今度も、同じ道をたどっている。被害妄想は、ゆっくり始まったわけではなかった。半日もしないうちに、現実と妄想との境目が崩れていった。そして翌日、康二は精神病院の門をくぐった。四度目だった。病棟に入ると、ほどなくして隔離室へ入れられた。三畳ほどの部屋だった。板張りの床。むき出しの便器。窓は小さく、外の様子を知ることもできない。
窓には鉄格子があり、ガラスの内側には冬の結露が白く張りついていた。暖房は入っているはずなのに、部屋の隅には冷気が溜まっている。壁際には、使い古された毛布が一枚、畳まれて置かれていた。扉は鉄製で、外側からしか開けられなかった。扉の上には小さな覗き窓があり、廊下を通る看護師の白衣が、時折そこを横切った。ナースステーションからは、壁掛け時計の秒針の音と、内線電話のベルがかすかに聞こえてくる。壁には、これまでここで過ごした患者たちが残した傷跡があった。赤黒い染みも残っている。康二は、それを見つめた。ここは地獄だ。そう思った。
だが、もっと恐ろしいのは、病気の世界にいるときには、この場所をそれほど恐ろしく感じないことだった。正気を取り戻した瞬間にだけ、現実の恐ろしさが押し寄せてくる。どれくらい時間が経ったのか、分からなかった。一日なのか、二日なのか。食事をした記憶もない。意識が朦朧としていた。やがて、鉄の扉の下にある小さな開口部から、食事の膳が差し入れられた。康二は膳を見つめた。眼鏡を外されているせいなのか、白いご飯まで腐っているように見えた。腹は減っている。それでも、箸をつけることができなかった。膳の上には、アルミの小鉢と、縁の欠けた茶碗が並んでいた。味噌汁の湯気はすぐに消え、冷えた病棟の空気に吸い込まれていった。遠くの食堂からは、食器を回収するワゴンの車輪が、床の継ぎ目を越えるたびにがたがたと鳴っていた。
「フランスパンをくれ!」
康二は叫んだ。何度も叫んだ。しかし、外から返事はなかった。声が届いていないのか。それとも、誰も相手にしていないのか。分からない。康二は天井を見上げた。ここで、自分の人生が終わるのだろうか。昼なのか。朝なのか。夜なのか。時間さえ分からなくなっていた。ただ、天井近くの小さな窓から朝日が差し込むと、朝なのだと分かった。その光を見て、康二は少しずつ記憶を取り戻していった。四度目の精神病院。
そして、今回も隔離室。自分はいったい、何度ここへ戻ってくるのだろう。三日ほど経ったころだった。突然、扉が開いた。
「タバコ、吸うか?」
康二は顔を上げた。久しぶりのタバコだった。病棟では喫煙の時間と場所が決められていた。看護師に付き添われ、廊下の端にある小さな喫煙スペースへ連れていかれる。壁には「火の始末に注意」と赤い文字で書かれた紙が貼られ、灰皿には前の患者が残した吸い殻がいくつも重なっていた。マッチで火をつけてもらい、一口吸う。煙が肺に入った瞬間、頭がくらくらした。それでも、その煙が妙に懐かしかった。一本を吸い終えると、また部屋に戻された。康二の中では、二人の自分が交互に現れていた。妄想に支配されている自分。そして、それをどこかで冷静に見ている自分。
妄想の中にいるときは、何も怖くない。しかし、正気に戻ると、鉄の扉も、狭い部屋も、自分が置かれている状況も、すべてが恐ろしくなった。康二は冷えた床に座り込んだ。天井を見つめる。そして、考えた。俺は、どうしてここにいるんだ。そのとき、廊下から足音が聞こえた。コツ、コツ、と近づいてくる。康二は耳を澄ませた。鉄の扉が開いた。そこに立っていたのは、見慣れた看護師だった。看護師は紙とペンを差し出した。
「何か書きたいことがあれば、ここに書いてみろ」
康二は黙って紙を受け取った。紙は病院の備品らしく、右上に小さな印刷文字が入っていた。ペンは青いボールペンで、インクの出が少し悪かった。
「書くことが、外へ出るきっかけになるかもしれない」
その言葉に、康二はわずかな希望を感じた。書くことで、何かが変わるのかもしれない。震える手でペンを握った。そして、紙の上に最初の一文字を書いた。脱出。それが、そのときの康二にできる精一杯だった。
それから何日が過ぎたのか分からない。ある朝、隔離室の扉が開いた。
「タバコ吸うか?」
康二は頷いた。外へ出て、一服する。煙が目の前を白く曇らせる。その一瞬だけ、現実が遠ざかっていくようだった。そして、その煙の向こうから声がした。
「おはよう」
康二は顔を上げた。そこに、若い女性が立っていた。
車瑠美、二十六歳。白い制服を着ていた。彼女の胸元には、名札が安全ピンで留められていた。髪は肩のあたりで切りそろえられ、白衣のポケットには小さなメモ帳とボールペンが差し込まれている。病院の窓から差し込む冬の光が、彼女の制服を淡く照らしている。
康二は、彼女の目を見た。これまで見てきた人間の目とは、何かが違った。そこには、疑うような色も、冷たい拒絶もなかった。ただ、穏やかな光があった。
「……誰だ?」
康二が尋ねる。
「瑠美です。今日からあなたの担当になります。よろしくね」
瑠美は微笑んだ。康二は一瞬、自分がまた何かを見ているのではないかと思った。しかし、彼女の声は現実だった。
「担当……?」
「そう」
「俺は、ここに長くいるのか?」
瑠美は少し考えてから答えた。
「それは、まだ分からないわ。でも、少しずつ良くなれば、また外に出られる日が来ると思う」
康二は黙って彼女を見た。
「今日は、少し話をしましょう」
その声を聞いていると、不思議だった。閉ざされていた心の奥に、ほんの少しだけ風が通るような気がした。その日から、瑠美との時間が始まった。やがて康二は隔離室を出され、広い大部屋へ移された。五十人ほどが横になれる部屋だった。隔離室に比べれば、そこは天国のように思えた。けれど、患者たちは皆、布団の上で黙っていた。誰もが自分の世界に閉じこもっている。病棟の壁には、色あせた献立表と、面会時間を知らせる紙が貼られていた。テレビは部屋の隅に一台だけあり、昼のワイドショーが小さな音で流れていた。リモコンを持つ者は決まっておらず、番組が変わることはほとんどなかった。窓の外には灰色の空が広がり、時折、雪がちらついていた。そんな病棟で、瑠美が康二のところへ来ることが、いつしか日常になっていった。最初は、病気の状態や食事のことなど、看護師と患者としての会話だった。それが少しずつ変わっていった。
「どう? 少しは慣れてきた?」
瑠美が尋ねる。康二は小さく笑った。
「ああ。独房に比べれば、天国みたいなもんだよ」
「そうね」
瑠美も笑った。
「でも、ここに移れたってことは、それだけ良くなってきたってことだから」
康二は窓の外を見た。雪が降っている。
「外はもう雪だな」
「うん」
「ここへ来る前は、雪なんて気にもしてなかった」
康二は少し黙った。
「でも今は、妙に気になる」
「どうして?」
「分からない。ただ……」
康二は窓の外を見つめた。
「雪みたいに、俺の心も少しずつ冷えていったのかなって」
瑠美はしばらく黙っていた。そして、静かに言った。
「冷えたものだって、温めれば少しずつ溶けていくよ」
康二は彼女を見た。
「焦らなくていいんじゃないかな。少しずつでいいと思う」
その言葉が、康二の胸に残った。ある寒い昼下がりだった。二人は向かい合って食事をしていた。食器の触れ合う音だけが、静かな部屋に響いていた。康二はふと尋ねた。
「瑠美は、どうして看護師になったんだ?」
瑠美の手が止まった。しばらく考えてから、彼女は言った。
「私の両親ね。私が小さいころに亡くなったの」
「……亡くなった?」
「交通事故で」
康二は何も言えなかった。いつも穏やかに笑っている瑠美の背後に、そんな過去があるとは思わなかった。
「それからは、親戚に面倒を見てもらった時期もあったけど……」
瑠美はゆっくりと言葉を続けた。
「結局、自分の力で生きていかなきゃいけないって思うようになったの」
康二は黙って聞いていた。
「だから、人を助ける仕事がしたかったのかもしれない」
その言葉を聞きながら、康二は自分の過去を思った。
病気になり、仕事を失い、何度も病院へ戻ってきた。
自分も孤独だった。そして、この目の前にいる女性もまた、孤独を抱えて生きてきた。
「瑠美……大変だったな」
康二は、それだけ言った。
瑠美は少し照れたように笑った。
「うん。でもね」
彼女は康二を見た。
「今は、こうやって康二さんと話しながら食事するのが、ちょっと楽しみなの」
康二の胸に、温かいものが広がった。それは、病気になって以来、久しく感じたことのない感情だった。
やがて康二は、瑠美に惹かれていった。それが恋なのか、それとも孤独の中で差し込んできた光への感謝なのか、そのときの康二には分からなかった。ある日、二人は病院の屋上へ続く階段を歩いていた。人の気配がない。窓から差し込む冬の光が、階段の壁を白く照らしていた。階段の踊り場には、消火器と、赤い文字で書かれた避難経路図が掲げられていた。屋上へ続く鉄の扉には、外から風が吹きつけるたび、金具がかすかに震えていた。康二は、前を歩く瑠美の背中を見つめた。彼女と話すことが、いつの間にか生きる理由の一つになっていた。階段の途中で、康二は足を止めた。瑠美が振り返る。
「どうしたの?」
康二は答えなかった。ただ、彼女を見つめた。瑠美も康二を見つめ返した。しばらく、二人の間に言葉はなかった。康二は一歩、彼女に近づいた。そして、そっと唇を重ねた。ほんの一瞬だった。離れたあと、康二は瑠美の顔を見た。瑠美は驚いたような表情を浮かべていた。けれど、怒ってはいなかった。
「もう……こんなところで」
そう言って、少し笑った。
「でも……嫌じゃなかった」
その言葉を聞いて、康二の胸が熱くなった。二人はそれ以上何も言わず、再び階段を上っていった。やがて、康二の退院の日が決まった。隔離室に閉じ込められていたあの日から、いくつもの時間が流れた。あの日の自分には、病院の外へ出られる日など想像できなかった。けれど今、康二は再び外の世界へ戻ろうとしている。病院の外には、まだ冬の冷たい空気が残っていた。それでも康二の心には、かすかな春の気配があった。
「瑠美」
康二は言った。
「俺、もう一度シャバでやり直してみるよ」
瑠美は黙って康二を見る。
「仕事を見つけて、一人前になりたい」
瑠美は静かに頷いた。その瞳には、喜びと寂しさが入り混じっていた。
「うん。康二さんが元気になって、一人前になったら……また会おうね」
「必ず会いに来る」
康二は言った。
「それまで、俺のこと忘れないでくれよ」
瑠美は微笑んだ。
「忘れるわけないじゃない」
少しだけ間を置いて、彼女は続けた。
「私、待ってるから」
康二は頷いた。そして、病院の玄関を出た。振り返ると、瑠美がそこに立っていた。冬の冷たい風が吹いていた。それでも康二には、あの日の独房より、ずっと暖かく感じられた。あの暗い部屋で、最初に書いた言葉は――
「脱出」だった。けれど康二が本当に救われたのは、鉄の扉が開いたときではなかった。
「おはよう」
あの一言を、瑠美から聞いた瞬間だった.


