毒婦
オーレリア・ハルケンシュタイン侯爵夫人
◆
オーレリア・ハルケンシュタイン侯爵夫人は齢四十の年増女だが、その容色に衰えはなく、むしろ磨きすらかかっている。
夜会用のドレスに押し上げられた胸元は熟れきった果実のように豊満で、白磁の肌には小じわ一つ見当たらない。細く括れた腰と豊かに張った臀部の線は若い娘の青さとは無縁の芳醇な肉の重みを湛えている。扇越しに投げかける潤んだ眼差し一つで男たちの理性を狂わせる、毒花のごとき成熟であった。
このようなまさに美魔女の伴侶となる幸運を得たのは、ルドルフ・ハルケンシュタイン侯爵である。御年七十を越える老人だ。
先妻を亡くした名門当主のもとへ後妻として輿入れしたのは十年前のことだった。
当時のルドルフは周辺貴族との熾烈な政治闘争に明け暮れており、領地経営が順調とは到底言えない状況にあった。他派閥の執拗な足の引っ張り合いで胃を削る夫に、オーレリアは夜会で拾い集めた些細な噂話をさりげなく漏らしたのだ。誰が資金繰りに困り誰が誰と反目し合っているのか。人間関係の生々しい急所を他愛ない世間話として耳に入れたのである。
その情報が決定的な引き金となり、ルドルフは敵対派閥の連携を鮮やかに分断して闘争を制した。
ちなみにオーレリアに領地経営の事などさっぱり分からない。そんな胃の痛む実務など頼まれても御免被りたい性質だ。昨今、世間ではやれ帳簿だなんだとなぜか女が領地経営にいっちょ噛みしたがる風潮にあるが、男の仕事に女がでしゃばってどうするのかなどと思っている。
そんな彼女だがこれはもう天性のものなのだろう、誰が何を欲しがり何をしたがっているのかが手に取るように分かるのだ。女の嗅覚あるいは勘──こういったモノを駆使し夫の自尊心を微塵も傷つけぬよう茶の席でさりげなく知恵を吹き込む。そんな妻の如才ない相槌に気を良くしたルドルフは自らの英断と信じ込んで采配を振るい、いい気分で領地を滞りなく回し続けた。
今やオーレリアは老侯爵から全幅の信頼を寄せられ、実質的なハルケンシュタイン領の支配者として君臨している。
はっきりいってルドルフはオーレリアの言いなりである。
七十を過ぎて枯れ果てた肉体では成熟しきった妻を夜の閨で満足させられない。その不能を痛切に自覚しているルドルフはオーレリアが外で男と睦み合うことすら公認していた。若い燕と好きに肌を重ねて遊び歩くがよいと寛大な笑みすら浮かべる。老いた夫は妻の才覚と肉体に骨の髄まで依存しており、オーレリアなしでは日々の呼吸すら覚束ないほどだった。
だが妻が自分を捨てて去るのではないかという不安など夫には微塵もなかった。十年の歳月をかけて培われた情愛と、己を家長として立て続けてくれる妻の真心を信じ切っている。どれほど外で色香を振りまこうとオーレリアの帰る場所はこの屋敷だけだと確信していた。
◆
そんな恐るべき魔女だが、王国に根深く残る男尊女卑の風潮を毛ほども問題視していない。
その方が女にとって圧倒的に生きやすいからだ。泥濘の塹壕で砲弾に手足を吹き飛ばされるのは男の役目である。議会の壇上で顔を真っ赤にして怒号を飛ばし他派閥の足の引っ張り合いで胃に穴をあけるのも男の仕事だった。大いなる権力と引き換えに苛烈なる責を背負うのもそう、男の役目だ。
そんな命を削るだけの損役にわざわざ権利とやらを掲げて首を突っ込む気など微塵もない。
「殿方のお力添えがあってこそですわ」
「まあ、頼もしい。わたくしのような非力な女では思いも寄りませんでした」
「あら、まあ!」
「まあ、まあ、まあ……♡♡」
持ち上げて、褒めちぎって、さらに天までアゲる。
それが男に対するオーレリアの態度であった。
睫毛を伏せて上目遣いに笑みをこぼすだけで男の機嫌は跳ね上がる。言葉の賛辞にとどまらず必要とあらば肉体の一部を差し出す覚悟すらある。必要とあらば喜んで抱かせてやるし、必要がなくたってドレスの胸元をわずかに寛げてみせるくらいのサービスは吝しまない。命がけで責任を背負いこむ男たちへ差し出す報酬としてはあまりに安上がりな代価だと彼女は考えている。
十分な敬意で自尊心を満たしてやりさえすれば、男たちは喜んで国のために骨を折る事を彼女は知っていた。国を守り民を守り、ひいては女を守るという大義名分のもとに命を投げ出し稼ぎ出した富の山を誇らしげに差し出してくるのだ。
これほど愛らしく便利な生き物が地上のどこにいるだろう。
ところで、男たちを言葉と身体で骨抜きにして栄華を享受する魔女、オーレリア──そんな彼女にもどうしても理解できない手合いがいた。
権利の平等を叫んで、男たちに喧嘩を売る女である。
男が支配するこの頑迷な秩序にも、いずれ黄昏が訪れるだろう。腕力と軍事力で統治を固める時代が過ぎ去れば、女が表舞台に立つ可能性も十分ある。
だが、それは遥か遠い先の話だった。
時代の潮流というものは、力任せに押し戻そうとすれば凄まじい反動を生む。急進的な理想を掲げて正面から突っ込めば、男たちの防衛本能を刺激し、苛烈な暴力の刃を招くだけだ。
変革とは、水が岩を穿つように静かでなければならない。
男の自尊心をくすぐって喉を鳴らさせ、知らぬ間に操縦桿を握り込む。誰にも悟られぬ歩調で、少しずつ既得権益の根幹を侵食していくことこそが真の知恵なのだ。
そういう意味において、愚直に平等を叫んで猛獣の檻を棒で突くような女は滑稽を通り越して目障りですらあった。
無知な正義を振りかざして男たちを強情にさせ、女たちが築き上げた柔らかな支配の糸を台無しにしかねないからだ。
◆
「男女の別なく能力ある者が等しく重責を担うべきです。殿方におもねり庇護されるだけの愛玩動物に甘んじるなど、貴族の義務を放棄しているとしか思えません」
アクアノート公爵令嬢ヒロミは夜会のテラスで澄み切った銀の瞳を凛と輝かせた。
見事な美貌だった。夜風に揺れる銀髪は月光を弾き飾り気のない濃紺のドレスが引き締まった肢体を包む。媚びのない立ち姿は清廉そのもので社交界の令嬢たちから熱烈な羨望を集めるのも頷けた。男に頼らず自立を志す清楚な公爵令嬢という触れ込みは巷の三文小説の読者層にはさぞや受けることだろう。
オーレリアは扇の陰でごく自然に優雅な笑みを深めた。
「まあ、ヒロミ様は先進的なお考えをお持ちなのですね。わたくしなど殿方の崇高な職分を侵すなどとてもとても。むしろ過酷な日々に疲れたお心とお体を存分に慰撫してさしあげたいですわ」
「オーレリア様、あなたはそうやって殿方を甘やかしているのです。対等な敬意なき関係はいずれ破綻します」
ヒロミは痛ましげに眉を寄せ心底からオーレリアを啓蒙しようと言葉を重ねた。その真面目さと無垢な正義感たるや。まあオーレリアの眼から見ればそんなもの、猛獣の檻に裸足で飛び込んで肉食の悪習を説教するような自殺行為にしか見えないのだが。
男の誇りは薄氷のように脆い。
過酷な重責に耐える男たちから矜持を奪い正論で追い詰めて何になろう。男の生態を理解せず真正面から正論の槍を突き立てる令嬢にオーレリアは心の底から合掌したくなった。
正論とは何か。
それは喧嘩を売る時に振りかざすこん棒である。オーレリアはそれを知っていた。
◆
王国王太子ヴィルヘルムは眉間に深い縦皺を刻みながら執務机の書類を睨みつけていた。
金髪の秀麗な貴公子でありながらその両肩には王国全土の期待という重圧がのしかかっている。王太子といえども安穏と即位を待つことは許されない。宰相府の管轄下で妃教育ならぬ君主教育、つまるところ過酷な実務教育を課されている身だった。
割り振られる案件は力量を見極めるために適度な難度と複雑さを備えた実務ばかりである。独力か人を使うかを問わず結果を出すことだけが求められていた。致命的な失政を犯せば貴族院から資質を問われ廃嫡すら現実味を帯びる試練なのだ。
ヴィルヘルムは優秀だ。苛烈な君主教育を順当にこなしてきた。しかし最終課題である東部直轄領の治水事業はこれまでとはわけが違った。
急峻な山岳から注ぎ込む激流を抑え込む難工事であると同時に、上流と下流で対立する諸侯の水利権を調整せねばならない。技術と政治の双方が極限の判断を要求する難事業だった。
それでも宰相府は王太子が持てる才覚を十全に発揮すれば及第点を下回ることはないと踏んでいる。ヴィルヘルム自身も胃を灼く重圧を覚えつつ、決して手も足も出ない無理難題ではないという確かな手応えを掴んでいた。ゆえに、ここ数か月は早朝からその処理にとりかかっていた。外はあいにくの大雨でヴィルヘルムの荒れた内心を表しているかのような天気だ。
「ヴィルヘルム殿下、落ち着いて考えてくださいませ」
凛とした声が耳朶を打つ。目を向ければ執務室の対面には婚約者であるアクアノート公爵令嬢ヒロミが座っていた。
「君に言われなくても私は落ち着いているとも、ヒロミ。君には何か案があるのか? ならば聞かせてくれ」
婚約者が政務の席に座るなど宮廷に前例はなく古株の重臣たちは露骨に眉をひそめている。しかし男女の別なく責務を分担すべきだという信条から彼女は自らこの席に着いていた。そして最初にそれを許したのは若き理想に燃えていたヴィルヘルム自身だ。これまではヒロミの提言が彼を助けてきたのも事実だった。彼女は因習に囚われない先進的な頭脳の持ち主である。
「殿下、東部直轄領の治水工事に関する追加予算案ですが、これは認可なさるべきではありません」
ヒロミの声は涼やかで欠片の私心もなかった。
「請負を担う土木会所は、殿下の学友であるベルクマン男爵の家系です。露骨な縁故人事を看過すれば王家の公明正大さが疑われます。ただちに請負を替え、身内を庇う姿勢を正すべきです」
「……しかしヒロミ。いま請負を替えれば引き継ぎで現場が混乱する。春の雪解け水が迫っているのだ。まずは工事を優先せねば」
「私情を優先すれば法規範が瓦解します。身内に甘い姿勢こそ、民の信頼を損なう将来の禍根となりましょう」
ヒロミの言葉は正論だった。だがヴィルヘルムの懸念もまた正しかったのだ。この案件は複雑な政治力学が絡み合い、机上の正しさが現場の破滅を呼び寄せる典型的な罠だった。
平時ならばヴィルヘルムも踏みとどまれたはずだ。しかし重圧で視野が狭窄していた彼は自らの判断が身内びいきの甘えではないかと疑い、ヒロミの正論に屈して請負業者を差し替えた。
だが──。
業者間の引き継ぎは紛糾し現場の足並みは乱れて工事は致命的な遅延を招いた。その矢先、雪解けの季節を迎えた東部直轄領を大規模な山崩れが襲う。
建設途中の堤防は無残に決壊した。奔流は街道と農地を泥土に呑み込み東部直轄領の事業は大失敗に終わる。
被害総額は三千万エキュ。責任は計画を統括する王太子ヴィルヘルムに集中した。議会では貴族院の長老たちが色めき立ち、王太子の資質を問う声が公然と上がり始める。
提言したヒロミに責はないのか。当然、責任の一端はある。しかしヴィルヘルムはすべての責を一身に引き受けた。婚約者の言いなりになって現場を混乱させたと議会で白状するなど男の矜持が許さなかったからだ。最終的な決裁を下したのは自分自身であるという想いもあった。
◆
諸々の結果、ヴィルヘルムを待っていたのは分かりやすい破滅であった。
ウィザンツ王国において王太子が廃嫡される際の手順は古式に則って厳格に定められている。玉座を継ぐ資格を永久に剥奪する証として執り行われるのは身体の欠損、すなわち鼻削ぎの儀礼であった。
王家の血統に瑕疵なき完全性を求める国法は、醜く肉を削ぎ落とされた者を君主の座から永久に排除する。
冷たい石の床に組み伏せられ、処刑人の鈍い刃が鼻柱を断ち切った瞬間、ヴィルヘルムの喉から獣じみた絶叫が迸った。顔面を満たす鉄の臭いと骨を削られる激痛は筆舌に尽くしがたい。
金髪は無残に剃り落とされ、光沢ある礼服の代わりに与えられたのは罪人に宛がわれる灰色の粗布だけだった。送り込まれたのは北方の荒涼たる岩山に聳える、世俗から隔絶された修道院だ。
外部との接触を禁じられた地下の石室。高い位置に穿たれた細い鉄格子から差し込むわずかな陽光だけが一日の巡りを告げる。
鏡のない部屋でヴィルヘルムは自らの顔の中心に空いた穴に指を触れては震えた。息を吸い込むたび湿った冷気が剥き出しの粘膜を灼く。かつて王国全土の期待を背負った王太子の面影はどこにもない。
そうして、祈りと労働に明け暮れるうち一年が過ぎた。
激痛は鈍い痺れへと変わり狂いそうな怒りも冷え切った灰の下に埋もれ、ようやく心の波風が凪ぎ始めた頃のことである。
重い鉄張りの扉が軋んだ音を立てて開いた。
入ってきた人影を瞳に映した瞬間、ヴィルヘルムは自身の目を疑った。
アクアノート公爵令嬢ヒロミだった。
彼女は以前と何一つ変わらない清廉な美しさを保っている。夜風を思わせる銀の髪、凛とした背筋、飾り気のない上等な服。だがその銀の瞳にはかつてない痛恨と罪悪感が滲んでいた。
「……ヴィルヘルム様」
震える声でそう呼ぶとヒロミは冷たい石床に膝を突いた。
「お許しを乞う資格がないことは承知しております。ですがどうしても直接お詫び申し上げたくて参りました。私の浅慮と傲慢な正義があなたをこれほどまでに追い詰めてしまった。私の間違いでした。どうか、わたくしを」
真摯な謝罪だ。
嘘偽りのない悔恨の涙が彼女の白い頬を伝っていた。心底から自らの過ちを認め、罰を請うように頭を垂れている。
だが、その美しく清らかな姿こそがヴィルヘルムの胸の底に沈んでいた澱を激しく掻き乱した。
なぜ貴様は今なおそんなにも美しく、清らかで正しいのだ。己の鼻を削がせ髪を奪い暗い穴倉で獣のように生きる惨めな怪物の前に現れ、今度は真摯に反省する聖女の役を演じるほどに私が憎いのか──
怒・怒・怒──全身と全霊に赫怒の灼血が巡り、ヴィルヘルムの精神を焼き尽くす。
「────ッ!」
喉から破裂したのは言葉にならない咆哮だった。
理性もなにもない、ケダモノの咆哮だ。
ヴィルヘルムは祈祷台の前で膝を突いたままのヒロミへ飛びかかった。驚愕に見開かれた銀の瞳。押し倒されたヒロミの細い肩を石床に縫い留め、ヴィルヘルムは右拳を振り上げた。
骨が軋む鈍い音が地下室に響く。
「殿下、お待ちくだ──」
悲鳴を遮るように狂気にとり憑かれた拳が何度も振り下ろされた。額が割れ鼻柱が潰れ端正な顔立ちが無残な肉塊へと崩れていく。血飛沫がヴィルヘルムの削がれた鼻孔に入り込む。
一体どれだけ殴り続けていたのだろうか──動かなくなった銀髪の骸を前にしてヴィルヘルムは荒い息を吐きながら立ち上がった。
床一面に広がる鮮血。取り返しのつかない現実。
もはや祈るべき神も逃れるべき明日も存在しない。
ヴィルヘルムは躊躇うことなく湿った石壁に向かって全力で頭部を叩きつけた。頭蓋が砕ける鈍い音とともにヴィルヘルムの意識は深い暗黒へと沈んでいった。
◆
激しい雨音が窓硝子を絶え間なく打ち叩いていた。
鼻先を撫でる冷気はない。剥き出しの粘膜が灼ける激痛も石壁にこびりついた血糊の生臭さも消え失せていた。
ヴィルヘルムは荒い呼吸のまま目を開けた。
目の前に広がっていたのは見慣れた王太子の執務室だった。地下の陰湿な石室は影も形もない。机の上には東部直轄領の治水工事に関する追加予算案と広げられたばかりの設計図面が整然と置かれている。
外は土砂降りの大雨だった。
「ヴィルヘルム殿下、落ち着いて考えてくださいませ」
向かいの席から、あの凛とした涼やかな声が響いた。
◆
王太子は乱れた呼吸のまま、震える指先を己の顔面へと這わせた。
ある。鼻柱の硬い骨も滑らかな皮膚の感触も間違いなくそこにあった。鼻腔を灼く冷気も血の生臭さもなく、石壁に叩きつけたはずの頭蓋にも傷一つ見当たらない。手の中で砕けたヒロミの頭蓋の感触だけが恐ろしいほどの生々しさで両掌に焼き付いていた。
悪夢か、それとも狂気か。
困惑に視界が揺らぐ中、ヴィルヘルムは激しい動悸を無理やり押し鎮めた。目の前には机上の図面があり対面には涼しい顔の婚約者が座っている。理由はどうあれ時が巻き戻ったのだとすれば、あの破滅だけは絶対に繰り返すわけにはいかない。
「請負を担う土木会所は、殿下の学友であるベルクマン男爵の家系です。露骨な縁故人事を看過すれば王家の公明正大さが疑われます。ただちに請負を替え、身内を庇う姿勢を正すべきです」
寸分違わぬヒロミの正論に、ヴィルヘルムの背筋を冷たい汗が伝った。前回の地獄ではこの言葉に従ったがために引き継ぎが紛糾し、堤防が決壊して三千万エキュの損害を出したのだ。
「ならぬ」
ヴィルヘルムは机上の予算案を押し戻し、低く冷たい声で婚約者を遮った。
「現場の引き継ぎ混乱こそが最大の破滅を招く。春の増水は待ってはくれないのだ。請負は予定通り、ベルクマンの会所に続行させる」
ヒロミは不服そうに銀の瞳を眇めたが、王太子の頑なな態度にそれ以上の追求を呑み込んだ。ヴィルヘルムは胸中で安堵を噛み締めた。これで堤防の決壊は防げるはずだ、と。
果たして、雪解けの季節を迎えても堤防は無残な決壊を免れた。長年現場を熟知していたベルクマンの手腕により、奔流は頑強な石積みに阻まれて農地は守られたのである。
だが──男の世界の泥沼は、別の暗渠からヴィルヘルムの足元を掬い上げた。
学友ベルクマンの会所は王太子の後ろ盾を笠に着て資材の調達費用を途方もなく水増ししていたのだ。下請けへの支払いを滞納した末に現場の棟梁が告発に踏み切り、巨額の使途不明金が白日の下に晒される。堤防が決壊しなかった分、世間の耳目は王太子の身内びいきという醜聞に集中した。
貴族院の政敵たちは狂喜乱舞し、公明正大さを欠いたとして連日のように議会で怒号を飛ばした。かつてヒロミが突き立てた正論のこん棒が、今度は敵対派閥の凶器となって王太子を容赦なく叩きのめす。
致命的な失政と指弾され、ヴィルヘルムはまたしても王太子の座を追われることとなった。
今回は民の血が流れなかったため、身体の欠損という苛烈な儀礼までは科されなかった。空いた王太子の座には、腹違いの弟である第二王子カストゥルが収まる。
だが肉体が完全であることは、前王太子に復権の芽が残されていることを意味していた。
それゆえにカストゥルが仕掛けた政治的大攻勢は鼻削ぎの刃よりも苛烈を極めた。ヴィルヘルムの勢力を根絶やしにすべく元側近や学友ベルクマンを国家反逆の容疑で投獄して処刑台へ送る。かつて忠誠を誓っていた貴族たちも保身のために手のひらを返し、我先にと弟王太子の足元へ平伏していった。
ごく一部の貴族家がヴィルヘルムの非を控えめに否定して庇ってくれたが、彼を救う力にはならなかった。ただ、それに関して彼に恨みはない。状況が状況、情勢が情勢だ。むしろ、可能な限り肩を持ってくれたと感謝すらしている。
ともあれ昨日までの友が冷笑を浮かべて背を向け、築き上げた人脈も権力も、一枚一枚生皮を剥ぐように奪われていく事には変わりない。
そうして権力闘争に敗れた男を待つのは、死よりも底冷えのする孤立無援だった。
カストゥルの徹底的な粛清によって一切の力を削ぎ落とされたヴィルヘルムは、静養という名のもとに北方の修道院へと幽閉される。五体満足のまま放り込まれた地下の石室で、彼は前回の記憶と何一つ変わらない冷たい闇を見つめていた。
◆
怒りは時に、炎に例えられることがある。
天を焦がし、吹き抜ける業火の例が分かりやすいだろう。しかしこの時石壁の冷気に閉ざされた暗がりでヴィルヘルムの内界を焼いていたのは、黒く重油のように粘性を帯びた炎であった。
爆ぜることも燃え広がることもなく肺腑の底に沈殿し、息を吐くたびに魂の芯をじわじわと焦がし続ける呪詛の泥熱だ。
脳髄はどこまでも澄み渡り、己を裏切った者たちの冷笑を鮮明に刻みつけている。友情を盾に私腹を肥やしたベルクマンや兄の失脚を待ちわびていたカストゥル、そして即座に掌を返した貴族院の長老たち。権力の座から転落した男を待つ世界の無慈悲が冷え切った骨の髄まで染み渡る。
婚約者──ヒロミへの怒りは無い。
判断はどこまでも自分で下し、その結果が跳ね返ってきただけだからだ。ここでヒロミを恨むような事は、ヴィルヘルムの男の矜持が許さない。
が、しかし。
婚約者の実家であるアクアノート公爵家は、窮地に陥ったヴィルヘルムに対して一切の擁護をしなかった。それどころかヒロミが掲げた公明正大という美名を盾にして、率先して王太子の責任を追及する側に回ったのだ。
法規範を乱す者は王太子であれ許されない──そう正義の仮面を被り、泥舟となった婚約者を容赦なく切り捨てて新王太子カストゥルの足元へ擦り寄っていく。ヒロミ自身も家の冷酷な立ち回りに対して一言の助命も弁明も口にしなかった。己の正論が婚約者を破滅へ追いやったにもかかわらず、ただ清廉な銀の瞳で静観していたのである。
これに対して思う所がないわけがなかった。
しかし出さない。表には、決して。
あいつが悪い、こいつが悪い──そういった念を口にしたが最後、自分が悍ましい何かへと変容してしまう気がしたからだ。
そうして耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、幽閉され続ける事数年。
ヴィルヘルムのタフな精神も徐々に何かに浸食されていく。それが何かは彼自身にも分からないし、そもそも分類できるものではないのかもしれない。
そうしてとある日の夕餉の時間──ヴィルヘルムはほとんど本能的に、その食事に毒が混ぜられていることを看破した。
なぜ分かったのかを説明できる者は誰もいないだろう。しかし分かったのだ。人里離れたこの孤独の絶界で、ヴィルヘルムの生物としての本能が自身を殺めうる何かを感知したのかもしれないし、別の理由があるのかもしれない。
だが真に驚くべき事は、食べれば死ぬそれを嬉々として食べた事である。
この時ヴィルヘルムはその毒餉を丁度良いモノとして捉えていた。
つまり、彼はもう一度やり直すつもりでいたのだ。
前回は石壁に頭を打ち付けて死んだが、今回はそうしない。その理由は考えるべき事が非常に多くあったからである。もしやりなおせたとして、今度は何をどうするのか。誰を用い、誰を信じ、誰を遠ざけるべきか。そもそもの解決策はあるのか──幸い、考える時間だけは山ほどもある。そうしてある程度の考えがまとまったときに、この毒餉であった。
無論、やりなおせなかった事も考えた。ただ無為に死ぬだけという結末を考えないはずはない。そもそも人が時を遡るという現象そのものが余りにも胡乱すぎる。むしろ、ただ死ぬ可能性の方が高いとすら思っていた。
しかし、それでもよかった。
生きるとは、ただ呼吸するだけのことを言うのではないのだ。生きるとはすなわち何かを成し遂げること。それが小さいものでも大きいものでも良い。ひたすら成し遂げ続けることを言う。何も為さず、成せず、ただ呼吸しているような状態は死んでいるのと大して変わらない──それがこの世界の常識である。
ヴィルヘルムには野心がある。それは王となることだ。この国を支配することだ。そしてあわよくば支配した自身の国を、万世に渡る栄光の国と成さしめることだ。まあこれは王太子としては極々一般的な野心であり、この程度の気概すら持てぬような王太子はただ生きている事すら罪で、即座に喉を掻っ切って死ぬべきともいえるが。
だから躊躇い一つなく、ヴィルヘルムは毒餉を完食し──死んだ。
◆
胃袋を切り裂いた劇毒の痙攣が、突如として霧散する。
まぶたの裏にこびりついていた修道院の石天井は消え去り、視界を満たしたのは磨き抜かれた木材の天板である。
窓枠を打つ重たい雨音が、耳朶を激しく揺らしていた。
三度目だ。
ヴィルヘルムは机を挟んだ正面に座っている端正な顔立ちの女──ヒロミ・アクアノートを見た。
「殿下、東部直轄領の治水工事に関する追加予算案ですが、これは認可なさるべきではありません」
寸分違わぬ声音で、同じ台詞が投げかけられた。
「請負を担う土木会所は、殿下の学友であるベルクマン男爵の家系です。露骨な縁故人事を看過すれば王家の公明正大さが疑われます。ただちに請負を替え、身内を庇う姿勢を正すべきです」
一度目は忠告に従ってベルクマンを切り捨てた。その結果として現場の指揮系統が崩壊し、決壊した堤防の泥水を呑まされた末に鼻を削がれた。
二度目は忠告を無視してベルクマンを庇い立てた。堤防こそ守られたが、悪辣な中抜きと資材の不正流用を暴かれ、汚職の泥を被って廃嫡へ追い込まれた。
切れば鼻を削がれ、残せば毒を盛られる。どちらを選んでも待つのは弟カストゥルによる王太子位の強奪と死の結末である。
ならば、答えは一つしかない。
「この場での判断はしない。保留だ」
ヴィルヘルムは羽根ペンを置き、革張りの椅子へ深く背を預けた。
「現場の資材調達記録と、下請け工匠らの稼働実態を精査する。裁可はそれからだ」
「し、しかし殿下。雨期は目前に迫っております。一刻を争う事態です」
「慌てて泥を掬えば底の砂まで濁るものだ。そう時間は掛けられぬ。これ以上口出しするな、不遜だぞ」
感情を交えぬ平坦な調子で命じると、ヒロミは不審そうに眉根を寄せた。
まるで敵を見るような目で言い放つヴィルヘルム。ヒロミはわずかに唇を引き結び、優雅な礼を執って執務室を辞した。
分厚い扉が閉ざされ、重苦しい雨音だけが部屋に戻ってくる。
ヴィルヘルムは再び羽根ペンを取り、引き出しから取り出した白紙の羊皮紙を広げた。
走るペン先から、黒々としたインクが白紙を汚していく。ベルクマンによる資材中抜きの詳細な手口と、不正な裏帳簿の保管場所。頭の中にだけ焼きついていた獄中の歳月が、いま明白な証拠となって紙の上に顕れた。二度目の幽閉生活で記憶を総動員して炙り出した学友の急所である。
これを突きつければベルクマンを完全に屈服させ、操り人形として使役することは容易い。
だが──それだけでは足りないのだ。
不正の証拠を握ってベルクマンを処罰すれば現場が混乱して工事が破綻し、庇い立てすれば再び中央の政敵に汚職の泥を被せられる。必要なのは、ベルクマンの首根っこを押さえた上で、脆弱な資材調達網を丸ごと裏から支え、中央の監査を黙らせる第三の盤石な後ろ盾だった。
とはいえ、内輪の論理だけで動く宮廷の中で足掻いても埒が明かない。ヒロミの正義感も、カストゥルの陰謀も、中央の閉じた力関係の中で循環しているからこそ毒を持つのだ。
風穴を開けるには、宮廷の外側に位置する独立した力が必要だった。
心当たりは──ある。
二度目の人生でカストゥルが血眼になってヴィルヘルム派の掃討を進めた際、大半の貴族が掌を返して追従する中、沈黙を守り拙速な糾弾への加担を拒んだ家があった。
その筆頭が、ハルケンシュタイン侯爵家である。
現当主ルドルフ・ハルケンシュタインは老骨の古狸で、中央の権力闘争から距離を置く実利主義者だ。
然るべき見返りを用意すれば、力を、知恵を貸してくれるのではないか──ヴィルヘルムはそう考えた。
◆
王都から馬車を走らせること半日。
ヴィルヘルムはハルケンシュタイン侯爵の本邸へ降り立った。
一国の王太子が供回りも最小限に他領へ出向くなど、平時であれば軽挙妄動と謗られる。だが宮廷の耳目を欺き破滅の罠を躱すためなら、そんな囀りは考慮に値しない。
通された応接室は、過剰な装飾を退けた質実な造りだった。
重厚な石壁と年代物の黒樫が、静謐な空気を湛えている。
卓を挟んだ向かい側に腰掛けているのは、現当主ルドルフ・ハルケンシュタイン侯爵である。
七十を過ぎたその顔面は深い皺に覆われ、枯れ木めいた首筋を晒していた。しかし細められた眼窩の奥には、濁りのない知性の光が宿っている。
「王太子殿下自ら、このような鄙びた館まで足を運ばれるとは恐悦至極に存じます」
老人は嗄れた声で前置きを述べ、手元の白磁の茶杯を指先で回した。
「東部直轄領の治水工事について、我が家の知恵を借りたいとのこと。ですが宮廷には優秀な技監も、腕利きの財務官も揃っているはず。なぜこの老骨のもとへ?」
探るような視線が、ヴィルヘルムの鼻先を掠めた。
唐突な相談に対する当然の疑念だ。ここで下手な言い逃れをすれば、老獪な貴族は即座に殻を閉ざすだろう。
ヴィルヘルムは背筋を正し、淀みのない口調で返した。
「治水とは水と土を相手取り、民の営みを守る事業です。侯爵家は中央の派閥遊戯に惑わされず、常に大局を見据えた統治を敷いてこられた。真に土地を鎮める知見を乞うならば、貴公をおいて他にないと考えたのです」
まあ、ヨイショと言えばヨイショだろう。
しかし実際、ハルケンシュタイン領の治水と物流は王国屈指の安定を誇っている。世辞ではあっても、実態に即した評価だった。ルドルフは細めた目をさらに眇め、皺だらけの頬をわずかに緩めた。
「殿下にそこまで買っていただけるとは、身に余る光栄というもの」
老侯爵は髭を撫で、静かに茶を一口啜った。
「……とはいえ、中央の風向きは随分と慌ただしいご様子。色々としがらみもありそうですなあ。そういった話は儂よりも、妻のほうが力になれるやもしれませぬ」
老侯爵は控えていた侍女へ目を遣り、短く顎をしゃくった。
「妻を呼べ。殿下がお見えだと伝えよ」
侍女が無言で一礼し、足音もなく退出していく。わずかな間ののち、重厚な扉が静かに開け放たれた。敷居を跨いで入ってきた人影を捉えた途端、ヴィルヘルムの内臓が微かに縮み上がった。
現れたのは、深い葡萄色のドレスに身を包んだ妖艶な女である。歩みを進めるごとに熟れた果実のような胸元が微かに揺れ、甘く重たい香油の匂いが部屋へ立ち込める。纏う肉の艶やかさは若い娘の青さとは隔絶した凄みを帯びていた。
「これはヴィルヘルム殿下、先の夜会ぶりで御座いますね」
鈴を転がすような声音で夫に微笑みかけ、女──オーレリアは優雅に膝を折った。その双眸が眇めるようにヴィルヘルムの全身を舐める。
瞬間、ヴィルヘルムは自身の五体がぬらりとした大蛇に絡みつかれるところを幻視した。湿り気を帯びた鱗が足首から這い上がり、太ももと胴を音もなく締め上げていくのだ。恐ろしいのは、そんな圧が決して不快ではない事だった。
細められた双眸の奥に宿っていたのは濁りのない敬意の色だ。卑しくない程度の節度を保ち、それでいて身を委ねるような慎ましい媚びが絶妙な匙加減で混ざり合っている。
決して下品に堕ちず、男の矜持をそっと撫で上げる毒蜜の如き視線たるや!
自分という存在を無条件で肯定し、天まで押し上げてくれるような甘美な痺れが全身を巡る。
──彼女とは、違う、な……
自然、頭の中で自身の婚約者であるヒロミと比較してしまったヴィルヘルムを誰が責められようか。
◆
ヴィルヘルムは東部直轄領における治水工事の込み入った事情を包み隠さず明かした。
現場を統括するベルクマン商会の手腕と、彼らを性急に更迭した際に生じる下請け工匠らの反発──同時に宮廷内では公正な入札を錦の御旗に掲げた勢力が、契約解除を執拗に迫っている危うい力学のすべてを包み隠さずに。
安易に動けば工事の破綻か、あるいは汚職の泥を被る二者択一に追い込まれるこの窮状を恥も外聞もなく伝え、助けを乞うた。
耳を傾けていたオーレリアは、薄紅の唇に嫋やかな笑みを浮かべる。
「まあ……殿下は大変な重責を背負っておいでですわね」
夫の肩へそっと手を添え、艶めいた声音で囁きかける。
「ねえ、旦那様。わたくしたちで少しばかりお力添えをしてさしあげたいですわね」
「ほう? お前が政治に口を挟むとは珍しい。なぜそう思うのだ」
ルドルフが細い目を向け、嗄れた声で問い返した。
国家の大事業に地方の侯爵家が軽々しく首を突っ込む理由は、表向きどこにもない。だがオーレリアは扇を揺らし、他愛ない世間話のように事もなげに言った。
「先日の夜会で東部資材を取り仕切るヴェストファーレン伯爵の奥方とお話ししましたの。あそこの娘のアリステラさんも聡明で、わたくしの子なら外へ出さずに猫かわいがりしてしまうほど愛らしい方ですわ。……そういえば、ご夫君も石工組合に顔が利くのに、宮廷の支払いが滞って頭を痛めておいでだとか」
政治の席に持ち出すにはやや稚拙な理由ではある。女同士の茶飲み話に過ぎぬ交友関係を理由というのは、これはもう女如きが政治にしゃしゃりでてくるなと殴りつけられても仕方がない。
しかしルドルフは鼻を鳴らし、深く刻まれた眉間の皺を寄せて考え込んだ。妻が他愛なく口にする噂話が幾度となく政敵の急所を射抜いてきた事実を老侯爵は誰よりも知っているからだ。まあそれよりもなによりも、可愛く、愛おしい妻が望んでいるからという理由のほうが大きいわけだが。
「……なるほど。お前がそう言うのなら、一考の余地はあるな」
ルドルフは顎髭を擦り、ヴィルヘルムに向き直った。
「殿下。我が侯爵家の名義で、そのヴェストファーレン伯爵へ資材調達の融資を付けましょう。下請けの工匠らへの賃金を我が家が直に保証し、同時にこちらの番頭を資材監査として現場へ送り込みます」
事もなげに提示された策の切れ味に、ヴィルヘルムは舌を巻いた。下請けの財布をハルケンシュタイン家が直接握れば、ベルクマンによる悪辣な中抜きは完全に封じられる。同時に工匠らの賃金が滞りなく支払われる以上、職人たちの不満によるサボタージュも防げるのだ。
ハルケンシュタイン侯爵家が監査と資金保証に入っている以上、中央のアクアノート家やカストゥル一派も、身内びいきの汚職を口実に告発することは不可能となるだろう。
ここまで踏み込んだ助力を得られるとは、ヴィルヘルムも予想していなかった。
現状の閉塞感を打破するための糸口、あるいは小さな足がかりが得られれば御の字と考えていたのだ。望外の提案に対する感謝とともに、拭い難い疑問が頭をもたげる。
侯爵家にとってもリスクはあるのだ。
ヴィルヘルムと弟カストゥルの不和は貴族の誰もが知る公然の事実だった。カストゥルもカストゥルで中央で着実に勢力を広げているわけで、そのような状況で地方の侯爵家が王太子の普請に肩入れすれば、カストゥル一派と真っ向から敵対することを意味していた。
中央の泥沼めいた政争に巻き込まれる危険を冒してまで力を貸す意味は、ヴィルヘルムが王太子位にある事を勘案してもやはり意味はやや薄いと言えた。
「しかし侯爵、貴家にとっても──」
理由を問い質そうと、ヴィルヘルムが口を開きかけた時だった。オーレリアが、ゆるりと白魚の如き人差し指を己の薄紅の唇へあてる。
言葉を封じる、無言の所作。
咲き誇る毒花を思わせる唇と白い肌が鮮烈な対比を描くその妖艶な仕草に、ヴィルヘルムは喉の奥を締めつけられ、瞬きすら忘れて見入っていた。
◆
会談を終える頃には、西の空が赤銅色に染まり始めていた。今から馬車を出しても宿場町へ届く前に夜の帳が下りるだろう。ルドルフから本邸での一泊を勧められたヴィルヘルムは、その温情を受け入れることにした。
手厚い歓待の晩餐を終え、宛がわれた客室で眠りに就こうとしたその矢先である。
分厚い扉が、控えめな音を立てて二度叩かれた。
身構えながら扉を開けると、そこには寝衣を薄く羽織ったオーレリアが佇んでいるではないか。廊下の燭台に照らされた胸元は深く寛げられ、微かに上気した肌から濃密な香の匂いが漂う。
「殿下、よろしくて?」
是とも否とも言わないうちに熟れた躰をヴィルヘルムの腕中に滑り込ませるオーレリア。
何が起きているのかは問うまでもない。
不埒な夜這いである。
拒絶すべきだと理性が激しく警鐘を鳴らす。
しかし首筋に巻き付く滑らかな腕と、耳朶を打つ囁きに触れた途端、昼間に幻視した大蛇の錯覚が現実となって五体を締め上げた。喉元まで出かかった拒絶の言葉が押し当てられた湿った唇によって呆気なく溶かされる。
そして──。
・
・
・
熱狂が過ぎ去り、静まり返った寝台に二つの肉体が横たわっている。乱れたシーツの上、生まれたままの姿で天井を仰ぎながら、ヴィルヘルムは激しい自己嫌悪に苛まれていた。
取り返しのつかない過ちを犯してしまった。
もしこの密通が露見すれば、カストゥル一派に格好の口実を与え、廃嫡どころか国中の笑い者として断頭台に送られかねない。それこそ毒を仰いで、もう一度やり直すべき破滅の道筋だった。だが──自嘲とともに自問した瞬間、ヴィルヘルムは身震いした。
もし時を遡り、再びこの夜の客室へ戻ったとして、自分はこの女の誘惑を断ち切れるのか。
隣でこちらを見ながら、豊潤な胸を押し付けてくるオーレリアをきっぱりと拒絶できると言い切れない己の浅ましさに、ヴィルヘルムは奥歯を強く噛み締めるしかなかった。
「なぜ……このような……」
なぜこんな真似をしてくれたのか、という他責めいた言葉が口元まで昇るも飲み下す。そもそもこれを受け入れたのは自分なのだ。
だが──。
問いかけたヴィルヘルムの耳元へ、甘く濡れた囁きが触れた。
「殿下が持てる力のすべてを振り絞って、国と民のために尽くしておられると分かった時……わたくしの心も躰も、じっとしていられなくなりましたの」
昼間の応接室で相見えた瞬間から、オーレリアは若き王太子の凄絶な気迫と、その奥に張りついた濃密な孤絶を嗅ぎ取っていたのだ。二度の死線を潜り抜け、誰にも明かせぬ孤独の極北で牙を研いできた男の痛ましさを。
「男の方というのは、本当にお可哀想な生き物ですわね」
オーレリアは慈母のように目を細め、豊潤な胸の谷間へヴィルヘルムの頭を引き寄せた。
「背負われたお役目を通してしか、ご自分のお命を愛してもらえませんもの。どれほど完璧に責務を果たそうと、鎧を脱いだ素顔を見つめてくれる者など宮廷にはおりませんでしょう?」
耳元で落とされる囁きが、男の魂の最深部を暴き立てる。
柔らかな肉の弾力と芳醇な香油の匂いが、逃げ場のない甘美な暗闇となって視界を塞いだ。
ただ身を委ね、傷口ごと丸ごと包み込んで蕩けさせる絶対的な受容。
ヴィルヘルムは言葉を失い、吸い付くような白い腰を無言で強く抱きしめ返した。
「ふふ……まだ、お続けになりますか?」
悪戯めいた問いに、ヴィルヘルムが言葉で返すことはなかった。溢れ出す情動のまま、再び底知れぬ情欲の深淵へ溺れていく。
そうして二度目の熱狂が静まり、夜明けの光が東の空を微かに白ませ始める頃。
事を終え、静まり返った客室の寝台でヴィルヘルムは重い口を開いた。
「……この事は、命に代えても墓場まで持っていく。貴女の誇りを汚すような真似はさせぬ」
だがオーレリアは微睡みから覚めた猫のように目を細め、婀娜っぽい笑みを浮かべて囁いた。
「あら。旦那様はこのことを最初からご存じですわよ」
寝耳に水を浴びせられたような衝撃に、ヴィルヘルムは言葉を失った。呆然と見返す若き王太子の動揺を読み取ったのだろう、オーレリアは薄紅の唇をほころばせて囁きを重ねる。
「誤解なさらないで。旦那様に言いつけられて差し出した躰ではございませんのよ」
細い腕がシーツから滑り出て、ヴィルヘルムの胸元にそっと触れる。
「先ほど申し上げた言葉は、すべてわたくしの本心です。あのままでは殿下のお心が張り詰めた糸のように切れてしまう。少しでもお心の紛れになればと、身勝手ながら願ったのです」
このまま若き王太子が潰れてしまえば、王国にとっても取り返しのつかない損失となる。なにより、それほどまでに懸命な殿方が擦り切れていく姿を見過ごすのは、女としてあまりに口惜しい。
そのようなことをつらつらと言い募るオーレリア。
「わたくし、殿下のような殿方が心底お好きなのですわ」
上目遣いに向けられた甘やかな賛辞は、男の自尊心を天まで持ち上げる芳醇な毒を帯びていた。
「殿下のように重責を背負われる方は、真に背中を預けられる者を傍らに置くことで、その才覚を何倍にも伸ばせますのに」
「背中を預けられる者とは──例えば、ルドルフ卿や貴女のような者を指すのか」
微かな警戒を滲ませて問い返すと、オーレリアは鈴を転がすように喉を鳴らし、しなだれかかるように抱きついてきた。
「まあ。それは、殿下のお考えにお任せいたしますわ」
明らかに試されている。手玉に取られていると承知しながら、その甘美な重みは心地よくすらあった。己を意のままに操ろうとする妖婦の毒気に、安らぎすら覚えている己の危うさに、ヴィルヘルムは底知れぬ戸惑いを禁じ得なかった。
胸元に顔を埋めたまま、オーレリアが戯れのように呟いた。
「殿下にはいらっしゃらないのですか。心から安心して背を預けられるような方が。例えばほら、ご婚約者のヒロミ様などは大変聡明でおいでだと伺っておりますけれど」
その名を耳にした瞬間、ヴィルヘルムの表情に苦い翳りが差した。
「……彼女の聡明さは疑いようもない。だが傍にいても少しも心が休まらぬのだ。常に正しい物差しで品定めされているような窮屈さを覚える」
二度の死を経てなお晴れぬ鬱屈が、掠れた独白となって漏れ出た。オーレリアは慈母のような眼差しでヴィルヘルムを見上げた。
「あの方はきっと、白と黒を峻別する類まれな潔癖さをお持ちなのでしょう。それは法を重んじる貴族として、尊ぶべき資質に違いありませんわ」
ただ、とオーレリアは続ける。
「泥水を呑んで現実を動かす殿方とは致命的に折り合いが悪いのでしょうね。あの方の聡明さを真に輝かせる場は他にありそうなものですが──」
胸の奥に凝り固まっていた澱が、すっと溶け落ちていくような錯覚をヴィルヘルムは覚えた。
確かにそうだ、その通りだ。
ヒロミは王太子妃、いやこの国を統べる王妃という役割からして不適合なのではあるまいか。
そんな疑念が、毒の如く音もなく脳裏を浸食していく。
彼女が信奉する法と正義は疑いようもなく美しい。だが統治とは泥濘に膝まで浸かり、ときに汚濁を呑み込みながら帳尻を合わせる果てしない妥協の連続だ。
過ちを犯した者を容赦なく断罪し、理想の定規で隣の男を監視し続ける女が王妃の座に就けば、宮廷は窮屈極まりない法廷へ成り下がる。
彼女の鋭利な知性は王宮の内郭の外、厳格な司法や綱紀を正す公的な職務においてこそ十全な輝きを放つはずだ。
そんな思考の車輪が、音を立てて回り始める。
婚約の解消──その響きが現実味を帯びて胸を突いた。
しかし──そこまで考えが及んだところで、ヴィルヘルムは苦い冷笑を漏らした。頭の中でどれほど理想的な配置図を描こうと、現実はそう容易く動かない。ヒロミとの婚約は王家と王国筆頭のアクアノート家が結んだ利害の結晶である。
公爵家が持つ強大な軍力と中央の権力基盤を取り込むための政略的な楔だ。個人の相性や向き不向きなどという甘っちょろい感傷で、一方的に反故にできる契約であるはずがなかった。下手に手を付ければ公爵家は即座にカストゥルへ鞍替えし、自らの足元は音を立てて崩落するだろう。
深刻な面持ちで押し黙るヴィルヘルムを見上げ、オーレリアが戯れのように唇を尖らせた。
「殿下、悪い事をお考えになっていますのね」
白い腕を首筋へ絡め、耳元に蕩けるような囁きを滑り込ませてくる。
「ですが、あまり女を泣かせてはなりませんわ。好き嫌いで婚約を反故にされては女としての面子も公爵家の面子も丸つぶれですもの。やはり、筋を通さねば──」
筋を通す──これはすなわち、手順と順番を正しく踏むことだ。政治における筋とは、相手が納得し、周囲にも誇らしげに説明できる外枠と利害の形を整えてやることだ。
ヴィルヘルムの脳裏でパズルのピースが乱舞し、あるべき場所へと収まっていく。
感情で破棄を突きつける無作法など論外。必要なのは、相手自らが誇りを持ってその道を選び取るための舞台装置である。ヴィルヘルムは思考を逆算し始めた。
そもそもアクアノート家は何を望んでいるのか。家の威光と中央での絶大な発言権、そして王国の安寧を守る筆頭貴族としての名誉だ。
では、あの潔癖で我の強いヒロミ自身は何を欲しているのか。
男の愛玩動物として後宮に囲われることなど、彼女は毛ほども望んでいない。自らの頭脳と正義を以て、法と秩序を遵守させる公的な権力こそが望みなのだ。
彼女の我欲を満たしたとして、生じる不利益をどう封じるか。軍や警察の実動指揮権を与えれば、いずれ王権を脅かす刃となる。
ならば答えは一つだった。
ヒロミ・アクアノートへ司法に関わる名誉ある官職──例えば『王国高等審問院特別参与』のような席を授けてやることだ。
法制の諮問や綱紀粛正を司る象徴的な高官であり、実兵力は持たぬが王族に比肩する格式と発言権を誇る。
王国史上初の女性高官という前例なき栄誉。公爵家の面子は立ち、ヒロミの自尊心は天まで満たされる。そして何より、至高の法を司る中立の立場に就く以上、王太子妃という特定の権力への私的従属は法理上許されなくなるのだ。
そこまで考えを巡らせたところで、ふと新たな疑問が頭をもたげた。ヒロミをその座から退かせたとして、では空いた王太子妃の席には誰が座るのか。無意識に隣のオーレリアへ目を向けたのは、夜の帳が残した甘美な毒のせいだろうか。
当のオーレリアは心の内を見透かしたように、艶やかに首を振った。
「お顔に出ておりますわよ、殿下。ですがさすがにそれは悪手どころの騒ぎではございませんわ。それに、わたくしももう齢四十。世継ぎを産み育てる役目からはとうに盛りを過ぎておりますもの」
自嘲混じりの微笑を浮かべる妖婦に対し、貴女ほど美しい女など他にはいないと口走りそうになる衝動を、ヴィルヘルムは辛うじて押し止めた。
無論、他家の侯爵夫人を次期王妃に据えるなど狂気の沙汰であり、荒唐無稽な夢物語であることは彼自身も理解している。
「ただ……殿下と相性の良さそうな方を、何人か存じ上げておりますわ」
オーレリアは上目遣いに見つめ、悪戯っぽく囁いた。
「先ほどもお話に出ました、ヴェストファーレン伯爵令嬢のアリステラ様などはいかがでしょう。彼女は大変聡明で気立てもよく、きっと殿下のお心を優しく解きほぐしてさしあげられますわ」
◆
周到に根回しを重ねた数ヶ月後、ヴィルヘルムは国王の裁可を取り付け、ヒロミとの婚約解消を滞りなく断行した。
とはいえ、至極円満なものだ。
王国高等審問院特別参与への就任。法と正義を司りたいというヒロミ自身の崇高な志を汲み、王家がその栄達を後押しするという体裁を整えたのである。前例なき女性高官の誕生にヒロミ自身も大いに誇りを感じて納得し、自ら進んで中立の誓詞に署名した。
王家としても、筆頭公爵家が外戚としてこれ以上肥大化することを警戒していた背景があり、この配置換えを歓迎した。アクアノート公爵家の感触も極めて良好だった。
元より格式と筋道を重んじる名門である。娘に類まれな名誉が授けられた以上、王太子の配慮を無碍にして敵対へ舵を切る愚挙に出ぬ確信がヴィルヘルムにはあった。
そうして公爵家との摩擦を鮮やかに回避したのち、新たな婚約者候補として引き合わされたのが、ヴェストファーレン伯爵令嬢アリステラだった。
対面した瞬間、ヴィルヘルムはその余りの凡庸さにいささか拍子抜けを覚えた。顔立ちこそ貴族の令嬢らしく清楚に整っているものの、ヒロミが放っていたような研ぎ澄まされた知性の輝きは微塵も見当たらない。こちらの問いかけに伏し目がちに応じ、ひたすら唯々諾々と従うだけの大人しい小動物に見えた。
だが、何度か茶の席を重ねるうちに、ヴィルヘルムは奇妙な居心地の良さを覚えるようになった。
何より一緒にいて肩の力が抜けるのだ。
端的にいえば、非常に楽であった。
愛玩動物のような素直な愛らしさがあり、自らが女であることを弁え、会話の端々でこちらの面子を立ててくれる細やかな気遣いもある。
かつてヒロミと過ごした席では、常に監視されているような窮屈さを強いられていた。対してアリステラが向けてくるのは、若き王太子という存在に対する、混じり気のない純粋な敬愛の色だった。己を無条件に信じ、頼ってくれる女の存在が、張り詰めていたヴィルヘルムの心を静かに潤していく。
午後の柔らかな木漏れ日を浴びる離宮の東屋。
アリステラが恭しく銀のポットを傾け、白磁のカップへ琥珀色の液体を注ぎ分ける。立ち上るベルガモットの香気に、わずかに柑橘の爽やかな甘さが混じる。湯気を立てるカップを両手で受け取ったヴィルヘルムが一口含むと、心地よい熱が疲弊した神経を優しく解きほぐしていった。
「お口に合いましたでしょうか、殿下。近頃は政務でお疲れと伺いましたので、少しでもお心が休まればと調合を工夫いたしましたの」
伏し目がちに伺うような眼差しは、子鹿めいた無垢な慕情に濡れていた。そこには己の正しさを誇示する気配も、男の資質を値踏みするような刺々しさもない。ただ目の前に座る若き王太子の疲労を慮り、健気に仕えることだけに喜びを見出している。
「美味い。そなたが淹れてくれた茶を飲むと、肩にのしかかる重石が軽くなるようだ」
「まあ……殿下にそう仰っていただけるなんて、これ以上の名誉はございませんわ」
アリステラは頬を薄紅に染め、心底から嬉しそうに胸の前で小さな両手を合わせた。
男の誇りを決して傷つけず、ただ無条件に敬い、その存在を全肯定するアリステラの居心地の良さは、乾ききった心を静かに潤していった。かつてヒロミの前に座るたびに感じていた息苦しい緊張感は、もはやどこにもない。
◆
ところでそのヒロミだが──『王国高等審問院特別参与』という官職を、根本から勘違いしている節があった。
しかし無理もない。この仰々しい肩書の響きは、潔癖な公爵令嬢の頭脳を心地よく狂わせるに十分な美名を帯びていたからだ。
王国史上初の女性高官。至高の法を司る中立の象徴。
王家が用意した舞台装置にすっかり酔い痴れた彼女は、自らを王国の病巣を薙ぎ払う全能の断罪官だと錯覚していた。
就任初週、ヒロミは軍服仕立ての執務服に身を包み、堂々と審問院の法務官たちを召集した。机に叩きつけられたのは、王都の食糧流通を牛耳る穀物専売特権の告発書だった。
価格統制を隠れ蓑にした公金の不正還付と、輸送路における関税の不当免除。その甘い汁にはカストゥル派をはじめとする複数の門閥侯爵家が深く関わり、宮廷の誰もが手を触れぬ暗黙の聖域となっていた。
長年の病巣を薙ぎ払うべく、ヒロミは関係各所への即時強制捜査を傲然と言い渡したのである。しかし命じられた実務官僚たちは、眉一つ動かさずに互いの顔を見合わせるだけだった。
「ヒロミ特別参与。恐れながら、当院の強制捜査には司法尚書の捺印と院長会議の決裁を要します」
実務を取り仕切る老書記官が、慇懃に腰を折った。白髪混じりの眉をわずかに下げ、平然とした声で告げる。
「特別参与の権能は、陛下および貴族院からの諮問に対する法理的な意見具申に限定されております。捜査班への直接の指揮権、ならびに令状の発付権は含まれておりません」
「不正の証拠がここにあるのです! 手続き論に逃げるなど明白な職務怠慢です! わたくしはこの国の歪みを正すためにこの席に就いたのですよ!」
凛とした声で正論を吼えるヒロミに対し、官僚たちは困ったような微笑を浮かべて受け流した。彼らにとって彼女は、筆頭公爵家から送り込まれた腫れ物にすぎない。どれほど罵声を浴びせられようと、実動部隊の指揮権という本物の刃を渡す気など毛頭なかった。
結局のところ、彼女に与えられた権限は発言の自由だけだった。審問院の円卓において、彼女はいくらでも高潔な演説を打つことが許されている。格式高い会議の場で白熱した面持ちで長大な改革案を読み上げるヒロミに、居並ぶ老獪な審問官たちは穏やかに拍手を送るのだ。
「誠に傾聴に値する卓見にございますな」
「法の理想として、正しく記録に残しておきましょう」
そうして慇懃に受け取られた分厚い羊皮紙は、上等な革表紙を施されたのち、誰の目にも触れぬ保管庫の奥底へ恭しく仕舞い込まれる。実動部隊を動かすことも、不正を働く諸侯の首級を挙げることも叶わない。豪奢な鳥籠の中で、無害な正論を囀るだけの象徴。それが特別参与という席の正体だった。
拍手を送る老官僚たちの瞳の奥、底知れぬ空虚と冷淡な嘲弄を捉えた瞬間、ヒロミの背筋を微かな悪寒が駆け抜けた。法を執行する栄誉など最初から与えられず、金箔の檻で無害な人形として飼い殺されているにすぎぬ事実。しかしその痛切な疑念すら、肥大化した自尊心と正義の熱狂が即座に塗り潰してしまう。今は届かずとも、いつか必ず──そんな頑なな確信にしがみつくように。
◆
審問院から届く報告書を眺めながら、ヴィルヘルムは冷めた笑みを浮かべた。
正しく、冷笑である。
自尊心という甘美な餌を与えられ、実権のない高みで満足げに喉を鳴らす元婚約者──ヴィルヘルムは、この男の論理が作り上げた無血の牢獄からヒロミを逃がすつもりは毛頭なかった。
無論、ヒロミが自らの才覚で審問院を改革できたのならばそれはそれで良い。しかしヴィルヘルムの見立てでは、それも中々難しそうではある。なにせヒロミ・アクアノートという才女は敵を作り過ぎる。この国の空気感を全く読めていないのだ。無能ならばまあそれでもいい。しかし、ヒロミの才覚をヴィルヘルムは高く評価していた。だからこそ危険なのだ。
──彼女は長くはないだろうな。
そんな事を思うヴィルヘルムだが、何とかしようとはしない。なにせ彼は一度、ヒロミから見捨てられた経験があるからだ。
まあ恨みがあるわけでもないが、だからといって情があるわけでもなかった。
◆
柔らかな羊毛の絨毯が敷き詰められたハルケンシュタイン侯爵邸の奥居間。
七十を過ぎたルドルフ・ハルケンシュタイン侯爵が安楽椅子に深く身を沈めている。そしてその膝の上には、薄絹の部屋着を纏ったオーレリアが惜しげもなく豊かな肉体を預けていた。
豊潤な胸元を老夫の胸板に押し当て、柔らかな白い腕を枯れ枝のような首筋へ絡めつけている。
「旦那様、今日もお疲れのようでいらっしゃいますわね」
耳朶をくすぐる吐息を吹きかけながら、オーレリアは白磁のような指先で夫の皺深いこめかみを優しく揉みほぐした。
七十を越えて肉体の盛りをとうに過ぎ、男としての機能を喪失した老侯爵である。だがこうして体を擦り寄せられ、絶対的な敬愛の言葉を注がれる瞬間、ルドルフの胸には若き日の全能感が甦るのだ。
「ふふ……お前の顔を見れば、老骨の疲れなど吹き飛ぶわ」
節くれだった手で妻の腰を引き寄せ、ルドルフは満足げに目を細めた。外で若い男と肌を重ねようと、この妖艶な毒花が最後に帰ってくる巣は己の膝の上なのだという確信。それが老いた家長にとって、何物にも代えがたい精神の妙薬となっていた。
「それで、殿下のご様子はいかがでしたの? 東部直轄領の治水も無事に片付きましたのでしょう?」
上目遣いに尋ねるオーレリアの鼻先に、ルドルフは愛おしげに口づけを落とした。
「大成功だ。治水事業を完遂させたことで、王太子殿下の中央における求心力は揺るぎないものとなった。そして我が侯爵家にも、途方もない実入りが転がり込んできたぞ」
ルドルフは喉を鳴らし、誇らしげに語り始めた。
治水の資材流通を一手に引き受けた見返りとして、東部直轄領における新たな鉱物採掘権と、関税の免除特権が王家から正式にハルケンシュタイン家へ下賜されたのだ。
「まあ! さすがは旦那様。わたくし、旦那様のその先見の明に惚れ直してしまいましたわ♡」
オーレリアは蕩けるような歓声を上げ、老夫の首筋に頬を摺り寄せた。その衒いも何もない媚びに、ルドルフはますます相好を崩す。
オーレリアも艶然と笑った。
「そうそう、アリステラ様との関係も良好そうで何よりですわね。彼女は素直で大変可愛らしい娘ですもの。殿方の喜ばせ方を少しばかり手ほどきしてさしあげたら、見事に王太子殿下の心を解きほぐしたようですわね」
「全くだ。殿下はあの小娘にすっかり骨抜きらしい。これで次期王妃の座も我が息のかかった者が握ることになる」
機嫌を良くしたルドルフが、ふと思い出したように眉を顰めた。
「そういえば、王都から妙な報せが届いたぞ」
「妙な報せ、でございますか?」
「アクアノートの娘が死んだそうだ」
淡々とした夫の言葉に、オーレリアの睫毛が微かに跳ねた。
「昨夜の審問院からの帰途に馬車が暴漢どもに襲われたらしい。護衛は皆殺しにされ、身包みを剥がされた娘は散々に嬲られた末、見るも無残な肉塊となって下水溝へ打ち捨てられていたそうだ」
凄惨極まる光景を耳にしながらも、オーレリアの表情には微塵の動揺も浮かばなかった。ただ憂いを帯びたような作り笑いを浮かべ、小首を傾げる。
「あらまあ……お気の毒に」
「あの娘はやり過ぎたのだ。穀物専売の聖域に素手で突っ込んで門閥諸侯を逆撫でした。誰の手引きかは知らんが、消されるのは時間の問題だったということだ」
ルドルフは乾いた息を吐き、視線を宙へ彷徨わせた。
「だがこれでアクアノート公爵家が黙っているはずもない。手塩にかけた愛娘を無残に殺されたのだ。血眼で犯人を捜し始めるだろうし、中央は荒れそうだな」
オーレリアは老夫の胸元へ甘えるように額を寄せ、艶やかに喉を鳴らした。
「ふふ……怖いですわね。でも──わたくしたちのような、地方の侯爵家には関係のないお話ですわ」
そう言ってオーレリアはルドルフに抱き着き、その胸の中で誰にも──ましてや夫には決して見せない嘲笑を浮かべた。
(了)
オーレリア・ハルケンシュタイン侯爵夫人は齢四十の年増女だが、その容色に衰えはなく、むしろ磨きすらかかっている。
夜会用のドレスに押し上げられた胸元は熟れきった果実のように豊満で、白磁の肌には小じわ一つ見当たらない。細く括れた腰と豊かに張った臀部の線は若い娘の青さとは無縁の芳醇な肉の重みを湛えている。扇越しに投げかける潤んだ眼差し一つで男たちの理性を狂わせる、毒花のごとき成熟であった。
このようなまさに美魔女の伴侶となる幸運を得たのは、ルドルフ・ハルケンシュタイン侯爵である。御年七十を越える老人だ。
先妻を亡くした名門当主のもとへ後妻として輿入れしたのは十年前のことだった。
当時のルドルフは周辺貴族との熾烈な政治闘争に明け暮れており、領地経営が順調とは到底言えない状況にあった。他派閥の執拗な足の引っ張り合いで胃を削る夫に、オーレリアは夜会で拾い集めた些細な噂話をさりげなく漏らしたのだ。誰が資金繰りに困り誰が誰と反目し合っているのか。人間関係の生々しい急所を他愛ない世間話として耳に入れたのである。
その情報が決定的な引き金となり、ルドルフは敵対派閥の連携を鮮やかに分断して闘争を制した。
ちなみにオーレリアに領地経営の事などさっぱり分からない。そんな胃の痛む実務など頼まれても御免被りたい性質だ。昨今、世間ではやれ帳簿だなんだとなぜか女が領地経営にいっちょ噛みしたがる風潮にあるが、男の仕事に女がでしゃばってどうするのかなどと思っている。
そんな彼女だがこれはもう天性のものなのだろう、誰が何を欲しがり何をしたがっているのかが手に取るように分かるのだ。女の嗅覚あるいは勘──こういったモノを駆使し夫の自尊心を微塵も傷つけぬよう茶の席でさりげなく知恵を吹き込む。そんな妻の如才ない相槌に気を良くしたルドルフは自らの英断と信じ込んで采配を振るい、いい気分で領地を滞りなく回し続けた。
今やオーレリアは老侯爵から全幅の信頼を寄せられ、実質的なハルケンシュタイン領の支配者として君臨している。
はっきりいってルドルフはオーレリアの言いなりである。
七十を過ぎて枯れ果てた肉体では成熟しきった妻を夜の閨で満足させられない。その不能を痛切に自覚しているルドルフはオーレリアが外で男と睦み合うことすら公認していた。若い燕と好きに肌を重ねて遊び歩くがよいと寛大な笑みすら浮かべる。老いた夫は妻の才覚と肉体に骨の髄まで依存しており、オーレリアなしでは日々の呼吸すら覚束ないほどだった。
だが妻が自分を捨てて去るのではないかという不安など夫には微塵もなかった。十年の歳月をかけて培われた情愛と、己を家長として立て続けてくれる妻の真心を信じ切っている。どれほど外で色香を振りまこうとオーレリアの帰る場所はこの屋敷だけだと確信していた。
◆
そんな恐るべき魔女だが、王国に根深く残る男尊女卑の風潮を毛ほども問題視していない。
その方が女にとって圧倒的に生きやすいからだ。泥濘の塹壕で砲弾に手足を吹き飛ばされるのは男の役目である。議会の壇上で顔を真っ赤にして怒号を飛ばし他派閥の足の引っ張り合いで胃に穴をあけるのも男の仕事だった。大いなる権力と引き換えに苛烈なる責を背負うのもそう、男の役目だ。
そんな命を削るだけの損役にわざわざ権利とやらを掲げて首を突っ込む気など微塵もない。
「殿方のお力添えがあってこそですわ」
「まあ、頼もしい。わたくしのような非力な女では思いも寄りませんでした」
「あら、まあ!」
「まあ、まあ、まあ……♡♡」
持ち上げて、褒めちぎって、さらに天までアゲる。
それが男に対するオーレリアの態度であった。
睫毛を伏せて上目遣いに笑みをこぼすだけで男の機嫌は跳ね上がる。言葉の賛辞にとどまらず必要とあらば肉体の一部を差し出す覚悟すらある。必要とあらば喜んで抱かせてやるし、必要がなくたってドレスの胸元をわずかに寛げてみせるくらいのサービスは吝しまない。命がけで責任を背負いこむ男たちへ差し出す報酬としてはあまりに安上がりな代価だと彼女は考えている。
十分な敬意で自尊心を満たしてやりさえすれば、男たちは喜んで国のために骨を折る事を彼女は知っていた。国を守り民を守り、ひいては女を守るという大義名分のもとに命を投げ出し稼ぎ出した富の山を誇らしげに差し出してくるのだ。
これほど愛らしく便利な生き物が地上のどこにいるだろう。
ところで、男たちを言葉と身体で骨抜きにして栄華を享受する魔女、オーレリア──そんな彼女にもどうしても理解できない手合いがいた。
権利の平等を叫んで、男たちに喧嘩を売る女である。
男が支配するこの頑迷な秩序にも、いずれ黄昏が訪れるだろう。腕力と軍事力で統治を固める時代が過ぎ去れば、女が表舞台に立つ可能性も十分ある。
だが、それは遥か遠い先の話だった。
時代の潮流というものは、力任せに押し戻そうとすれば凄まじい反動を生む。急進的な理想を掲げて正面から突っ込めば、男たちの防衛本能を刺激し、苛烈な暴力の刃を招くだけだ。
変革とは、水が岩を穿つように静かでなければならない。
男の自尊心をくすぐって喉を鳴らさせ、知らぬ間に操縦桿を握り込む。誰にも悟られぬ歩調で、少しずつ既得権益の根幹を侵食していくことこそが真の知恵なのだ。
そういう意味において、愚直に平等を叫んで猛獣の檻を棒で突くような女は滑稽を通り越して目障りですらあった。
無知な正義を振りかざして男たちを強情にさせ、女たちが築き上げた柔らかな支配の糸を台無しにしかねないからだ。
◆
「男女の別なく能力ある者が等しく重責を担うべきです。殿方におもねり庇護されるだけの愛玩動物に甘んじるなど、貴族の義務を放棄しているとしか思えません」
アクアノート公爵令嬢ヒロミは夜会のテラスで澄み切った銀の瞳を凛と輝かせた。
見事な美貌だった。夜風に揺れる銀髪は月光を弾き飾り気のない濃紺のドレスが引き締まった肢体を包む。媚びのない立ち姿は清廉そのもので社交界の令嬢たちから熱烈な羨望を集めるのも頷けた。男に頼らず自立を志す清楚な公爵令嬢という触れ込みは巷の三文小説の読者層にはさぞや受けることだろう。
オーレリアは扇の陰でごく自然に優雅な笑みを深めた。
「まあ、ヒロミ様は先進的なお考えをお持ちなのですね。わたくしなど殿方の崇高な職分を侵すなどとてもとても。むしろ過酷な日々に疲れたお心とお体を存分に慰撫してさしあげたいですわ」
「オーレリア様、あなたはそうやって殿方を甘やかしているのです。対等な敬意なき関係はいずれ破綻します」
ヒロミは痛ましげに眉を寄せ心底からオーレリアを啓蒙しようと言葉を重ねた。その真面目さと無垢な正義感たるや。まあオーレリアの眼から見ればそんなもの、猛獣の檻に裸足で飛び込んで肉食の悪習を説教するような自殺行為にしか見えないのだが。
男の誇りは薄氷のように脆い。
過酷な重責に耐える男たちから矜持を奪い正論で追い詰めて何になろう。男の生態を理解せず真正面から正論の槍を突き立てる令嬢にオーレリアは心の底から合掌したくなった。
正論とは何か。
それは喧嘩を売る時に振りかざすこん棒である。オーレリアはそれを知っていた。
◆
王国王太子ヴィルヘルムは眉間に深い縦皺を刻みながら執務机の書類を睨みつけていた。
金髪の秀麗な貴公子でありながらその両肩には王国全土の期待という重圧がのしかかっている。王太子といえども安穏と即位を待つことは許されない。宰相府の管轄下で妃教育ならぬ君主教育、つまるところ過酷な実務教育を課されている身だった。
割り振られる案件は力量を見極めるために適度な難度と複雑さを備えた実務ばかりである。独力か人を使うかを問わず結果を出すことだけが求められていた。致命的な失政を犯せば貴族院から資質を問われ廃嫡すら現実味を帯びる試練なのだ。
ヴィルヘルムは優秀だ。苛烈な君主教育を順当にこなしてきた。しかし最終課題である東部直轄領の治水事業はこれまでとはわけが違った。
急峻な山岳から注ぎ込む激流を抑え込む難工事であると同時に、上流と下流で対立する諸侯の水利権を調整せねばならない。技術と政治の双方が極限の判断を要求する難事業だった。
それでも宰相府は王太子が持てる才覚を十全に発揮すれば及第点を下回ることはないと踏んでいる。ヴィルヘルム自身も胃を灼く重圧を覚えつつ、決して手も足も出ない無理難題ではないという確かな手応えを掴んでいた。ゆえに、ここ数か月は早朝からその処理にとりかかっていた。外はあいにくの大雨でヴィルヘルムの荒れた内心を表しているかのような天気だ。
「ヴィルヘルム殿下、落ち着いて考えてくださいませ」
凛とした声が耳朶を打つ。目を向ければ執務室の対面には婚約者であるアクアノート公爵令嬢ヒロミが座っていた。
「君に言われなくても私は落ち着いているとも、ヒロミ。君には何か案があるのか? ならば聞かせてくれ」
婚約者が政務の席に座るなど宮廷に前例はなく古株の重臣たちは露骨に眉をひそめている。しかし男女の別なく責務を分担すべきだという信条から彼女は自らこの席に着いていた。そして最初にそれを許したのは若き理想に燃えていたヴィルヘルム自身だ。これまではヒロミの提言が彼を助けてきたのも事実だった。彼女は因習に囚われない先進的な頭脳の持ち主である。
「殿下、東部直轄領の治水工事に関する追加予算案ですが、これは認可なさるべきではありません」
ヒロミの声は涼やかで欠片の私心もなかった。
「請負を担う土木会所は、殿下の学友であるベルクマン男爵の家系です。露骨な縁故人事を看過すれば王家の公明正大さが疑われます。ただちに請負を替え、身内を庇う姿勢を正すべきです」
「……しかしヒロミ。いま請負を替えれば引き継ぎで現場が混乱する。春の雪解け水が迫っているのだ。まずは工事を優先せねば」
「私情を優先すれば法規範が瓦解します。身内に甘い姿勢こそ、民の信頼を損なう将来の禍根となりましょう」
ヒロミの言葉は正論だった。だがヴィルヘルムの懸念もまた正しかったのだ。この案件は複雑な政治力学が絡み合い、机上の正しさが現場の破滅を呼び寄せる典型的な罠だった。
平時ならばヴィルヘルムも踏みとどまれたはずだ。しかし重圧で視野が狭窄していた彼は自らの判断が身内びいきの甘えではないかと疑い、ヒロミの正論に屈して請負業者を差し替えた。
だが──。
業者間の引き継ぎは紛糾し現場の足並みは乱れて工事は致命的な遅延を招いた。その矢先、雪解けの季節を迎えた東部直轄領を大規模な山崩れが襲う。
建設途中の堤防は無残に決壊した。奔流は街道と農地を泥土に呑み込み東部直轄領の事業は大失敗に終わる。
被害総額は三千万エキュ。責任は計画を統括する王太子ヴィルヘルムに集中した。議会では貴族院の長老たちが色めき立ち、王太子の資質を問う声が公然と上がり始める。
提言したヒロミに責はないのか。当然、責任の一端はある。しかしヴィルヘルムはすべての責を一身に引き受けた。婚約者の言いなりになって現場を混乱させたと議会で白状するなど男の矜持が許さなかったからだ。最終的な決裁を下したのは自分自身であるという想いもあった。
◆
諸々の結果、ヴィルヘルムを待っていたのは分かりやすい破滅であった。
ウィザンツ王国において王太子が廃嫡される際の手順は古式に則って厳格に定められている。玉座を継ぐ資格を永久に剥奪する証として執り行われるのは身体の欠損、すなわち鼻削ぎの儀礼であった。
王家の血統に瑕疵なき完全性を求める国法は、醜く肉を削ぎ落とされた者を君主の座から永久に排除する。
冷たい石の床に組み伏せられ、処刑人の鈍い刃が鼻柱を断ち切った瞬間、ヴィルヘルムの喉から獣じみた絶叫が迸った。顔面を満たす鉄の臭いと骨を削られる激痛は筆舌に尽くしがたい。
金髪は無残に剃り落とされ、光沢ある礼服の代わりに与えられたのは罪人に宛がわれる灰色の粗布だけだった。送り込まれたのは北方の荒涼たる岩山に聳える、世俗から隔絶された修道院だ。
外部との接触を禁じられた地下の石室。高い位置に穿たれた細い鉄格子から差し込むわずかな陽光だけが一日の巡りを告げる。
鏡のない部屋でヴィルヘルムは自らの顔の中心に空いた穴に指を触れては震えた。息を吸い込むたび湿った冷気が剥き出しの粘膜を灼く。かつて王国全土の期待を背負った王太子の面影はどこにもない。
そうして、祈りと労働に明け暮れるうち一年が過ぎた。
激痛は鈍い痺れへと変わり狂いそうな怒りも冷え切った灰の下に埋もれ、ようやく心の波風が凪ぎ始めた頃のことである。
重い鉄張りの扉が軋んだ音を立てて開いた。
入ってきた人影を瞳に映した瞬間、ヴィルヘルムは自身の目を疑った。
アクアノート公爵令嬢ヒロミだった。
彼女は以前と何一つ変わらない清廉な美しさを保っている。夜風を思わせる銀の髪、凛とした背筋、飾り気のない上等な服。だがその銀の瞳にはかつてない痛恨と罪悪感が滲んでいた。
「……ヴィルヘルム様」
震える声でそう呼ぶとヒロミは冷たい石床に膝を突いた。
「お許しを乞う資格がないことは承知しております。ですがどうしても直接お詫び申し上げたくて参りました。私の浅慮と傲慢な正義があなたをこれほどまでに追い詰めてしまった。私の間違いでした。どうか、わたくしを」
真摯な謝罪だ。
嘘偽りのない悔恨の涙が彼女の白い頬を伝っていた。心底から自らの過ちを認め、罰を請うように頭を垂れている。
だが、その美しく清らかな姿こそがヴィルヘルムの胸の底に沈んでいた澱を激しく掻き乱した。
なぜ貴様は今なおそんなにも美しく、清らかで正しいのだ。己の鼻を削がせ髪を奪い暗い穴倉で獣のように生きる惨めな怪物の前に現れ、今度は真摯に反省する聖女の役を演じるほどに私が憎いのか──
怒・怒・怒──全身と全霊に赫怒の灼血が巡り、ヴィルヘルムの精神を焼き尽くす。
「────ッ!」
喉から破裂したのは言葉にならない咆哮だった。
理性もなにもない、ケダモノの咆哮だ。
ヴィルヘルムは祈祷台の前で膝を突いたままのヒロミへ飛びかかった。驚愕に見開かれた銀の瞳。押し倒されたヒロミの細い肩を石床に縫い留め、ヴィルヘルムは右拳を振り上げた。
骨が軋む鈍い音が地下室に響く。
「殿下、お待ちくだ──」
悲鳴を遮るように狂気にとり憑かれた拳が何度も振り下ろされた。額が割れ鼻柱が潰れ端正な顔立ちが無残な肉塊へと崩れていく。血飛沫がヴィルヘルムの削がれた鼻孔に入り込む。
一体どれだけ殴り続けていたのだろうか──動かなくなった銀髪の骸を前にしてヴィルヘルムは荒い息を吐きながら立ち上がった。
床一面に広がる鮮血。取り返しのつかない現実。
もはや祈るべき神も逃れるべき明日も存在しない。
ヴィルヘルムは躊躇うことなく湿った石壁に向かって全力で頭部を叩きつけた。頭蓋が砕ける鈍い音とともにヴィルヘルムの意識は深い暗黒へと沈んでいった。
◆
激しい雨音が窓硝子を絶え間なく打ち叩いていた。
鼻先を撫でる冷気はない。剥き出しの粘膜が灼ける激痛も石壁にこびりついた血糊の生臭さも消え失せていた。
ヴィルヘルムは荒い呼吸のまま目を開けた。
目の前に広がっていたのは見慣れた王太子の執務室だった。地下の陰湿な石室は影も形もない。机の上には東部直轄領の治水工事に関する追加予算案と広げられたばかりの設計図面が整然と置かれている。
外は土砂降りの大雨だった。
「ヴィルヘルム殿下、落ち着いて考えてくださいませ」
向かいの席から、あの凛とした涼やかな声が響いた。
◆
王太子は乱れた呼吸のまま、震える指先を己の顔面へと這わせた。
ある。鼻柱の硬い骨も滑らかな皮膚の感触も間違いなくそこにあった。鼻腔を灼く冷気も血の生臭さもなく、石壁に叩きつけたはずの頭蓋にも傷一つ見当たらない。手の中で砕けたヒロミの頭蓋の感触だけが恐ろしいほどの生々しさで両掌に焼き付いていた。
悪夢か、それとも狂気か。
困惑に視界が揺らぐ中、ヴィルヘルムは激しい動悸を無理やり押し鎮めた。目の前には机上の図面があり対面には涼しい顔の婚約者が座っている。理由はどうあれ時が巻き戻ったのだとすれば、あの破滅だけは絶対に繰り返すわけにはいかない。
「請負を担う土木会所は、殿下の学友であるベルクマン男爵の家系です。露骨な縁故人事を看過すれば王家の公明正大さが疑われます。ただちに請負を替え、身内を庇う姿勢を正すべきです」
寸分違わぬヒロミの正論に、ヴィルヘルムの背筋を冷たい汗が伝った。前回の地獄ではこの言葉に従ったがために引き継ぎが紛糾し、堤防が決壊して三千万エキュの損害を出したのだ。
「ならぬ」
ヴィルヘルムは机上の予算案を押し戻し、低く冷たい声で婚約者を遮った。
「現場の引き継ぎ混乱こそが最大の破滅を招く。春の増水は待ってはくれないのだ。請負は予定通り、ベルクマンの会所に続行させる」
ヒロミは不服そうに銀の瞳を眇めたが、王太子の頑なな態度にそれ以上の追求を呑み込んだ。ヴィルヘルムは胸中で安堵を噛み締めた。これで堤防の決壊は防げるはずだ、と。
果たして、雪解けの季節を迎えても堤防は無残な決壊を免れた。長年現場を熟知していたベルクマンの手腕により、奔流は頑強な石積みに阻まれて農地は守られたのである。
だが──男の世界の泥沼は、別の暗渠からヴィルヘルムの足元を掬い上げた。
学友ベルクマンの会所は王太子の後ろ盾を笠に着て資材の調達費用を途方もなく水増ししていたのだ。下請けへの支払いを滞納した末に現場の棟梁が告発に踏み切り、巨額の使途不明金が白日の下に晒される。堤防が決壊しなかった分、世間の耳目は王太子の身内びいきという醜聞に集中した。
貴族院の政敵たちは狂喜乱舞し、公明正大さを欠いたとして連日のように議会で怒号を飛ばした。かつてヒロミが突き立てた正論のこん棒が、今度は敵対派閥の凶器となって王太子を容赦なく叩きのめす。
致命的な失政と指弾され、ヴィルヘルムはまたしても王太子の座を追われることとなった。
今回は民の血が流れなかったため、身体の欠損という苛烈な儀礼までは科されなかった。空いた王太子の座には、腹違いの弟である第二王子カストゥルが収まる。
だが肉体が完全であることは、前王太子に復権の芽が残されていることを意味していた。
それゆえにカストゥルが仕掛けた政治的大攻勢は鼻削ぎの刃よりも苛烈を極めた。ヴィルヘルムの勢力を根絶やしにすべく元側近や学友ベルクマンを国家反逆の容疑で投獄して処刑台へ送る。かつて忠誠を誓っていた貴族たちも保身のために手のひらを返し、我先にと弟王太子の足元へ平伏していった。
ごく一部の貴族家がヴィルヘルムの非を控えめに否定して庇ってくれたが、彼を救う力にはならなかった。ただ、それに関して彼に恨みはない。状況が状況、情勢が情勢だ。むしろ、可能な限り肩を持ってくれたと感謝すらしている。
ともあれ昨日までの友が冷笑を浮かべて背を向け、築き上げた人脈も権力も、一枚一枚生皮を剥ぐように奪われていく事には変わりない。
そうして権力闘争に敗れた男を待つのは、死よりも底冷えのする孤立無援だった。
カストゥルの徹底的な粛清によって一切の力を削ぎ落とされたヴィルヘルムは、静養という名のもとに北方の修道院へと幽閉される。五体満足のまま放り込まれた地下の石室で、彼は前回の記憶と何一つ変わらない冷たい闇を見つめていた。
◆
怒りは時に、炎に例えられることがある。
天を焦がし、吹き抜ける業火の例が分かりやすいだろう。しかしこの時石壁の冷気に閉ざされた暗がりでヴィルヘルムの内界を焼いていたのは、黒く重油のように粘性を帯びた炎であった。
爆ぜることも燃え広がることもなく肺腑の底に沈殿し、息を吐くたびに魂の芯をじわじわと焦がし続ける呪詛の泥熱だ。
脳髄はどこまでも澄み渡り、己を裏切った者たちの冷笑を鮮明に刻みつけている。友情を盾に私腹を肥やしたベルクマンや兄の失脚を待ちわびていたカストゥル、そして即座に掌を返した貴族院の長老たち。権力の座から転落した男を待つ世界の無慈悲が冷え切った骨の髄まで染み渡る。
婚約者──ヒロミへの怒りは無い。
判断はどこまでも自分で下し、その結果が跳ね返ってきただけだからだ。ここでヒロミを恨むような事は、ヴィルヘルムの男の矜持が許さない。
が、しかし。
婚約者の実家であるアクアノート公爵家は、窮地に陥ったヴィルヘルムに対して一切の擁護をしなかった。それどころかヒロミが掲げた公明正大という美名を盾にして、率先して王太子の責任を追及する側に回ったのだ。
法規範を乱す者は王太子であれ許されない──そう正義の仮面を被り、泥舟となった婚約者を容赦なく切り捨てて新王太子カストゥルの足元へ擦り寄っていく。ヒロミ自身も家の冷酷な立ち回りに対して一言の助命も弁明も口にしなかった。己の正論が婚約者を破滅へ追いやったにもかかわらず、ただ清廉な銀の瞳で静観していたのである。
これに対して思う所がないわけがなかった。
しかし出さない。表には、決して。
あいつが悪い、こいつが悪い──そういった念を口にしたが最後、自分が悍ましい何かへと変容してしまう気がしたからだ。
そうして耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、幽閉され続ける事数年。
ヴィルヘルムのタフな精神も徐々に何かに浸食されていく。それが何かは彼自身にも分からないし、そもそも分類できるものではないのかもしれない。
そうしてとある日の夕餉の時間──ヴィルヘルムはほとんど本能的に、その食事に毒が混ぜられていることを看破した。
なぜ分かったのかを説明できる者は誰もいないだろう。しかし分かったのだ。人里離れたこの孤独の絶界で、ヴィルヘルムの生物としての本能が自身を殺めうる何かを感知したのかもしれないし、別の理由があるのかもしれない。
だが真に驚くべき事は、食べれば死ぬそれを嬉々として食べた事である。
この時ヴィルヘルムはその毒餉を丁度良いモノとして捉えていた。
つまり、彼はもう一度やり直すつもりでいたのだ。
前回は石壁に頭を打ち付けて死んだが、今回はそうしない。その理由は考えるべき事が非常に多くあったからである。もしやりなおせたとして、今度は何をどうするのか。誰を用い、誰を信じ、誰を遠ざけるべきか。そもそもの解決策はあるのか──幸い、考える時間だけは山ほどもある。そうしてある程度の考えがまとまったときに、この毒餉であった。
無論、やりなおせなかった事も考えた。ただ無為に死ぬだけという結末を考えないはずはない。そもそも人が時を遡るという現象そのものが余りにも胡乱すぎる。むしろ、ただ死ぬ可能性の方が高いとすら思っていた。
しかし、それでもよかった。
生きるとは、ただ呼吸するだけのことを言うのではないのだ。生きるとはすなわち何かを成し遂げること。それが小さいものでも大きいものでも良い。ひたすら成し遂げ続けることを言う。何も為さず、成せず、ただ呼吸しているような状態は死んでいるのと大して変わらない──それがこの世界の常識である。
ヴィルヘルムには野心がある。それは王となることだ。この国を支配することだ。そしてあわよくば支配した自身の国を、万世に渡る栄光の国と成さしめることだ。まあこれは王太子としては極々一般的な野心であり、この程度の気概すら持てぬような王太子はただ生きている事すら罪で、即座に喉を掻っ切って死ぬべきともいえるが。
だから躊躇い一つなく、ヴィルヘルムは毒餉を完食し──死んだ。
◆
胃袋を切り裂いた劇毒の痙攣が、突如として霧散する。
まぶたの裏にこびりついていた修道院の石天井は消え去り、視界を満たしたのは磨き抜かれた木材の天板である。
窓枠を打つ重たい雨音が、耳朶を激しく揺らしていた。
三度目だ。
ヴィルヘルムは机を挟んだ正面に座っている端正な顔立ちの女──ヒロミ・アクアノートを見た。
「殿下、東部直轄領の治水工事に関する追加予算案ですが、これは認可なさるべきではありません」
寸分違わぬ声音で、同じ台詞が投げかけられた。
「請負を担う土木会所は、殿下の学友であるベルクマン男爵の家系です。露骨な縁故人事を看過すれば王家の公明正大さが疑われます。ただちに請負を替え、身内を庇う姿勢を正すべきです」
一度目は忠告に従ってベルクマンを切り捨てた。その結果として現場の指揮系統が崩壊し、決壊した堤防の泥水を呑まされた末に鼻を削がれた。
二度目は忠告を無視してベルクマンを庇い立てた。堤防こそ守られたが、悪辣な中抜きと資材の不正流用を暴かれ、汚職の泥を被って廃嫡へ追い込まれた。
切れば鼻を削がれ、残せば毒を盛られる。どちらを選んでも待つのは弟カストゥルによる王太子位の強奪と死の結末である。
ならば、答えは一つしかない。
「この場での判断はしない。保留だ」
ヴィルヘルムは羽根ペンを置き、革張りの椅子へ深く背を預けた。
「現場の資材調達記録と、下請け工匠らの稼働実態を精査する。裁可はそれからだ」
「し、しかし殿下。雨期は目前に迫っております。一刻を争う事態です」
「慌てて泥を掬えば底の砂まで濁るものだ。そう時間は掛けられぬ。これ以上口出しするな、不遜だぞ」
感情を交えぬ平坦な調子で命じると、ヒロミは不審そうに眉根を寄せた。
まるで敵を見るような目で言い放つヴィルヘルム。ヒロミはわずかに唇を引き結び、優雅な礼を執って執務室を辞した。
分厚い扉が閉ざされ、重苦しい雨音だけが部屋に戻ってくる。
ヴィルヘルムは再び羽根ペンを取り、引き出しから取り出した白紙の羊皮紙を広げた。
走るペン先から、黒々としたインクが白紙を汚していく。ベルクマンによる資材中抜きの詳細な手口と、不正な裏帳簿の保管場所。頭の中にだけ焼きついていた獄中の歳月が、いま明白な証拠となって紙の上に顕れた。二度目の幽閉生活で記憶を総動員して炙り出した学友の急所である。
これを突きつければベルクマンを完全に屈服させ、操り人形として使役することは容易い。
だが──それだけでは足りないのだ。
不正の証拠を握ってベルクマンを処罰すれば現場が混乱して工事が破綻し、庇い立てすれば再び中央の政敵に汚職の泥を被せられる。必要なのは、ベルクマンの首根っこを押さえた上で、脆弱な資材調達網を丸ごと裏から支え、中央の監査を黙らせる第三の盤石な後ろ盾だった。
とはいえ、内輪の論理だけで動く宮廷の中で足掻いても埒が明かない。ヒロミの正義感も、カストゥルの陰謀も、中央の閉じた力関係の中で循環しているからこそ毒を持つのだ。
風穴を開けるには、宮廷の外側に位置する独立した力が必要だった。
心当たりは──ある。
二度目の人生でカストゥルが血眼になってヴィルヘルム派の掃討を進めた際、大半の貴族が掌を返して追従する中、沈黙を守り拙速な糾弾への加担を拒んだ家があった。
その筆頭が、ハルケンシュタイン侯爵家である。
現当主ルドルフ・ハルケンシュタインは老骨の古狸で、中央の権力闘争から距離を置く実利主義者だ。
然るべき見返りを用意すれば、力を、知恵を貸してくれるのではないか──ヴィルヘルムはそう考えた。
◆
王都から馬車を走らせること半日。
ヴィルヘルムはハルケンシュタイン侯爵の本邸へ降り立った。
一国の王太子が供回りも最小限に他領へ出向くなど、平時であれば軽挙妄動と謗られる。だが宮廷の耳目を欺き破滅の罠を躱すためなら、そんな囀りは考慮に値しない。
通された応接室は、過剰な装飾を退けた質実な造りだった。
重厚な石壁と年代物の黒樫が、静謐な空気を湛えている。
卓を挟んだ向かい側に腰掛けているのは、現当主ルドルフ・ハルケンシュタイン侯爵である。
七十を過ぎたその顔面は深い皺に覆われ、枯れ木めいた首筋を晒していた。しかし細められた眼窩の奥には、濁りのない知性の光が宿っている。
「王太子殿下自ら、このような鄙びた館まで足を運ばれるとは恐悦至極に存じます」
老人は嗄れた声で前置きを述べ、手元の白磁の茶杯を指先で回した。
「東部直轄領の治水工事について、我が家の知恵を借りたいとのこと。ですが宮廷には優秀な技監も、腕利きの財務官も揃っているはず。なぜこの老骨のもとへ?」
探るような視線が、ヴィルヘルムの鼻先を掠めた。
唐突な相談に対する当然の疑念だ。ここで下手な言い逃れをすれば、老獪な貴族は即座に殻を閉ざすだろう。
ヴィルヘルムは背筋を正し、淀みのない口調で返した。
「治水とは水と土を相手取り、民の営みを守る事業です。侯爵家は中央の派閥遊戯に惑わされず、常に大局を見据えた統治を敷いてこられた。真に土地を鎮める知見を乞うならば、貴公をおいて他にないと考えたのです」
まあ、ヨイショと言えばヨイショだろう。
しかし実際、ハルケンシュタイン領の治水と物流は王国屈指の安定を誇っている。世辞ではあっても、実態に即した評価だった。ルドルフは細めた目をさらに眇め、皺だらけの頬をわずかに緩めた。
「殿下にそこまで買っていただけるとは、身に余る光栄というもの」
老侯爵は髭を撫で、静かに茶を一口啜った。
「……とはいえ、中央の風向きは随分と慌ただしいご様子。色々としがらみもありそうですなあ。そういった話は儂よりも、妻のほうが力になれるやもしれませぬ」
老侯爵は控えていた侍女へ目を遣り、短く顎をしゃくった。
「妻を呼べ。殿下がお見えだと伝えよ」
侍女が無言で一礼し、足音もなく退出していく。わずかな間ののち、重厚な扉が静かに開け放たれた。敷居を跨いで入ってきた人影を捉えた途端、ヴィルヘルムの内臓が微かに縮み上がった。
現れたのは、深い葡萄色のドレスに身を包んだ妖艶な女である。歩みを進めるごとに熟れた果実のような胸元が微かに揺れ、甘く重たい香油の匂いが部屋へ立ち込める。纏う肉の艶やかさは若い娘の青さとは隔絶した凄みを帯びていた。
「これはヴィルヘルム殿下、先の夜会ぶりで御座いますね」
鈴を転がすような声音で夫に微笑みかけ、女──オーレリアは優雅に膝を折った。その双眸が眇めるようにヴィルヘルムの全身を舐める。
瞬間、ヴィルヘルムは自身の五体がぬらりとした大蛇に絡みつかれるところを幻視した。湿り気を帯びた鱗が足首から這い上がり、太ももと胴を音もなく締め上げていくのだ。恐ろしいのは、そんな圧が決して不快ではない事だった。
細められた双眸の奥に宿っていたのは濁りのない敬意の色だ。卑しくない程度の節度を保ち、それでいて身を委ねるような慎ましい媚びが絶妙な匙加減で混ざり合っている。
決して下品に堕ちず、男の矜持をそっと撫で上げる毒蜜の如き視線たるや!
自分という存在を無条件で肯定し、天まで押し上げてくれるような甘美な痺れが全身を巡る。
──彼女とは、違う、な……
自然、頭の中で自身の婚約者であるヒロミと比較してしまったヴィルヘルムを誰が責められようか。
◆
ヴィルヘルムは東部直轄領における治水工事の込み入った事情を包み隠さず明かした。
現場を統括するベルクマン商会の手腕と、彼らを性急に更迭した際に生じる下請け工匠らの反発──同時に宮廷内では公正な入札を錦の御旗に掲げた勢力が、契約解除を執拗に迫っている危うい力学のすべてを包み隠さずに。
安易に動けば工事の破綻か、あるいは汚職の泥を被る二者択一に追い込まれるこの窮状を恥も外聞もなく伝え、助けを乞うた。
耳を傾けていたオーレリアは、薄紅の唇に嫋やかな笑みを浮かべる。
「まあ……殿下は大変な重責を背負っておいでですわね」
夫の肩へそっと手を添え、艶めいた声音で囁きかける。
「ねえ、旦那様。わたくしたちで少しばかりお力添えをしてさしあげたいですわね」
「ほう? お前が政治に口を挟むとは珍しい。なぜそう思うのだ」
ルドルフが細い目を向け、嗄れた声で問い返した。
国家の大事業に地方の侯爵家が軽々しく首を突っ込む理由は、表向きどこにもない。だがオーレリアは扇を揺らし、他愛ない世間話のように事もなげに言った。
「先日の夜会で東部資材を取り仕切るヴェストファーレン伯爵の奥方とお話ししましたの。あそこの娘のアリステラさんも聡明で、わたくしの子なら外へ出さずに猫かわいがりしてしまうほど愛らしい方ですわ。……そういえば、ご夫君も石工組合に顔が利くのに、宮廷の支払いが滞って頭を痛めておいでだとか」
政治の席に持ち出すにはやや稚拙な理由ではある。女同士の茶飲み話に過ぎぬ交友関係を理由というのは、これはもう女如きが政治にしゃしゃりでてくるなと殴りつけられても仕方がない。
しかしルドルフは鼻を鳴らし、深く刻まれた眉間の皺を寄せて考え込んだ。妻が他愛なく口にする噂話が幾度となく政敵の急所を射抜いてきた事実を老侯爵は誰よりも知っているからだ。まあそれよりもなによりも、可愛く、愛おしい妻が望んでいるからという理由のほうが大きいわけだが。
「……なるほど。お前がそう言うのなら、一考の余地はあるな」
ルドルフは顎髭を擦り、ヴィルヘルムに向き直った。
「殿下。我が侯爵家の名義で、そのヴェストファーレン伯爵へ資材調達の融資を付けましょう。下請けの工匠らへの賃金を我が家が直に保証し、同時にこちらの番頭を資材監査として現場へ送り込みます」
事もなげに提示された策の切れ味に、ヴィルヘルムは舌を巻いた。下請けの財布をハルケンシュタイン家が直接握れば、ベルクマンによる悪辣な中抜きは完全に封じられる。同時に工匠らの賃金が滞りなく支払われる以上、職人たちの不満によるサボタージュも防げるのだ。
ハルケンシュタイン侯爵家が監査と資金保証に入っている以上、中央のアクアノート家やカストゥル一派も、身内びいきの汚職を口実に告発することは不可能となるだろう。
ここまで踏み込んだ助力を得られるとは、ヴィルヘルムも予想していなかった。
現状の閉塞感を打破するための糸口、あるいは小さな足がかりが得られれば御の字と考えていたのだ。望外の提案に対する感謝とともに、拭い難い疑問が頭をもたげる。
侯爵家にとってもリスクはあるのだ。
ヴィルヘルムと弟カストゥルの不和は貴族の誰もが知る公然の事実だった。カストゥルもカストゥルで中央で着実に勢力を広げているわけで、そのような状況で地方の侯爵家が王太子の普請に肩入れすれば、カストゥル一派と真っ向から敵対することを意味していた。
中央の泥沼めいた政争に巻き込まれる危険を冒してまで力を貸す意味は、ヴィルヘルムが王太子位にある事を勘案してもやはり意味はやや薄いと言えた。
「しかし侯爵、貴家にとっても──」
理由を問い質そうと、ヴィルヘルムが口を開きかけた時だった。オーレリアが、ゆるりと白魚の如き人差し指を己の薄紅の唇へあてる。
言葉を封じる、無言の所作。
咲き誇る毒花を思わせる唇と白い肌が鮮烈な対比を描くその妖艶な仕草に、ヴィルヘルムは喉の奥を締めつけられ、瞬きすら忘れて見入っていた。
◆
会談を終える頃には、西の空が赤銅色に染まり始めていた。今から馬車を出しても宿場町へ届く前に夜の帳が下りるだろう。ルドルフから本邸での一泊を勧められたヴィルヘルムは、その温情を受け入れることにした。
手厚い歓待の晩餐を終え、宛がわれた客室で眠りに就こうとしたその矢先である。
分厚い扉が、控えめな音を立てて二度叩かれた。
身構えながら扉を開けると、そこには寝衣を薄く羽織ったオーレリアが佇んでいるではないか。廊下の燭台に照らされた胸元は深く寛げられ、微かに上気した肌から濃密な香の匂いが漂う。
「殿下、よろしくて?」
是とも否とも言わないうちに熟れた躰をヴィルヘルムの腕中に滑り込ませるオーレリア。
何が起きているのかは問うまでもない。
不埒な夜這いである。
拒絶すべきだと理性が激しく警鐘を鳴らす。
しかし首筋に巻き付く滑らかな腕と、耳朶を打つ囁きに触れた途端、昼間に幻視した大蛇の錯覚が現実となって五体を締め上げた。喉元まで出かかった拒絶の言葉が押し当てられた湿った唇によって呆気なく溶かされる。
そして──。
・
・
・
熱狂が過ぎ去り、静まり返った寝台に二つの肉体が横たわっている。乱れたシーツの上、生まれたままの姿で天井を仰ぎながら、ヴィルヘルムは激しい自己嫌悪に苛まれていた。
取り返しのつかない過ちを犯してしまった。
もしこの密通が露見すれば、カストゥル一派に格好の口実を与え、廃嫡どころか国中の笑い者として断頭台に送られかねない。それこそ毒を仰いで、もう一度やり直すべき破滅の道筋だった。だが──自嘲とともに自問した瞬間、ヴィルヘルムは身震いした。
もし時を遡り、再びこの夜の客室へ戻ったとして、自分はこの女の誘惑を断ち切れるのか。
隣でこちらを見ながら、豊潤な胸を押し付けてくるオーレリアをきっぱりと拒絶できると言い切れない己の浅ましさに、ヴィルヘルムは奥歯を強く噛み締めるしかなかった。
「なぜ……このような……」
なぜこんな真似をしてくれたのか、という他責めいた言葉が口元まで昇るも飲み下す。そもそもこれを受け入れたのは自分なのだ。
だが──。
問いかけたヴィルヘルムの耳元へ、甘く濡れた囁きが触れた。
「殿下が持てる力のすべてを振り絞って、国と民のために尽くしておられると分かった時……わたくしの心も躰も、じっとしていられなくなりましたの」
昼間の応接室で相見えた瞬間から、オーレリアは若き王太子の凄絶な気迫と、その奥に張りついた濃密な孤絶を嗅ぎ取っていたのだ。二度の死線を潜り抜け、誰にも明かせぬ孤独の極北で牙を研いできた男の痛ましさを。
「男の方というのは、本当にお可哀想な生き物ですわね」
オーレリアは慈母のように目を細め、豊潤な胸の谷間へヴィルヘルムの頭を引き寄せた。
「背負われたお役目を通してしか、ご自分のお命を愛してもらえませんもの。どれほど完璧に責務を果たそうと、鎧を脱いだ素顔を見つめてくれる者など宮廷にはおりませんでしょう?」
耳元で落とされる囁きが、男の魂の最深部を暴き立てる。
柔らかな肉の弾力と芳醇な香油の匂いが、逃げ場のない甘美な暗闇となって視界を塞いだ。
ただ身を委ね、傷口ごと丸ごと包み込んで蕩けさせる絶対的な受容。
ヴィルヘルムは言葉を失い、吸い付くような白い腰を無言で強く抱きしめ返した。
「ふふ……まだ、お続けになりますか?」
悪戯めいた問いに、ヴィルヘルムが言葉で返すことはなかった。溢れ出す情動のまま、再び底知れぬ情欲の深淵へ溺れていく。
そうして二度目の熱狂が静まり、夜明けの光が東の空を微かに白ませ始める頃。
事を終え、静まり返った客室の寝台でヴィルヘルムは重い口を開いた。
「……この事は、命に代えても墓場まで持っていく。貴女の誇りを汚すような真似はさせぬ」
だがオーレリアは微睡みから覚めた猫のように目を細め、婀娜っぽい笑みを浮かべて囁いた。
「あら。旦那様はこのことを最初からご存じですわよ」
寝耳に水を浴びせられたような衝撃に、ヴィルヘルムは言葉を失った。呆然と見返す若き王太子の動揺を読み取ったのだろう、オーレリアは薄紅の唇をほころばせて囁きを重ねる。
「誤解なさらないで。旦那様に言いつけられて差し出した躰ではございませんのよ」
細い腕がシーツから滑り出て、ヴィルヘルムの胸元にそっと触れる。
「先ほど申し上げた言葉は、すべてわたくしの本心です。あのままでは殿下のお心が張り詰めた糸のように切れてしまう。少しでもお心の紛れになればと、身勝手ながら願ったのです」
このまま若き王太子が潰れてしまえば、王国にとっても取り返しのつかない損失となる。なにより、それほどまでに懸命な殿方が擦り切れていく姿を見過ごすのは、女としてあまりに口惜しい。
そのようなことをつらつらと言い募るオーレリア。
「わたくし、殿下のような殿方が心底お好きなのですわ」
上目遣いに向けられた甘やかな賛辞は、男の自尊心を天まで持ち上げる芳醇な毒を帯びていた。
「殿下のように重責を背負われる方は、真に背中を預けられる者を傍らに置くことで、その才覚を何倍にも伸ばせますのに」
「背中を預けられる者とは──例えば、ルドルフ卿や貴女のような者を指すのか」
微かな警戒を滲ませて問い返すと、オーレリアは鈴を転がすように喉を鳴らし、しなだれかかるように抱きついてきた。
「まあ。それは、殿下のお考えにお任せいたしますわ」
明らかに試されている。手玉に取られていると承知しながら、その甘美な重みは心地よくすらあった。己を意のままに操ろうとする妖婦の毒気に、安らぎすら覚えている己の危うさに、ヴィルヘルムは底知れぬ戸惑いを禁じ得なかった。
胸元に顔を埋めたまま、オーレリアが戯れのように呟いた。
「殿下にはいらっしゃらないのですか。心から安心して背を預けられるような方が。例えばほら、ご婚約者のヒロミ様などは大変聡明でおいでだと伺っておりますけれど」
その名を耳にした瞬間、ヴィルヘルムの表情に苦い翳りが差した。
「……彼女の聡明さは疑いようもない。だが傍にいても少しも心が休まらぬのだ。常に正しい物差しで品定めされているような窮屈さを覚える」
二度の死を経てなお晴れぬ鬱屈が、掠れた独白となって漏れ出た。オーレリアは慈母のような眼差しでヴィルヘルムを見上げた。
「あの方はきっと、白と黒を峻別する類まれな潔癖さをお持ちなのでしょう。それは法を重んじる貴族として、尊ぶべき資質に違いありませんわ」
ただ、とオーレリアは続ける。
「泥水を呑んで現実を動かす殿方とは致命的に折り合いが悪いのでしょうね。あの方の聡明さを真に輝かせる場は他にありそうなものですが──」
胸の奥に凝り固まっていた澱が、すっと溶け落ちていくような錯覚をヴィルヘルムは覚えた。
確かにそうだ、その通りだ。
ヒロミは王太子妃、いやこの国を統べる王妃という役割からして不適合なのではあるまいか。
そんな疑念が、毒の如く音もなく脳裏を浸食していく。
彼女が信奉する法と正義は疑いようもなく美しい。だが統治とは泥濘に膝まで浸かり、ときに汚濁を呑み込みながら帳尻を合わせる果てしない妥協の連続だ。
過ちを犯した者を容赦なく断罪し、理想の定規で隣の男を監視し続ける女が王妃の座に就けば、宮廷は窮屈極まりない法廷へ成り下がる。
彼女の鋭利な知性は王宮の内郭の外、厳格な司法や綱紀を正す公的な職務においてこそ十全な輝きを放つはずだ。
そんな思考の車輪が、音を立てて回り始める。
婚約の解消──その響きが現実味を帯びて胸を突いた。
しかし──そこまで考えが及んだところで、ヴィルヘルムは苦い冷笑を漏らした。頭の中でどれほど理想的な配置図を描こうと、現実はそう容易く動かない。ヒロミとの婚約は王家と王国筆頭のアクアノート家が結んだ利害の結晶である。
公爵家が持つ強大な軍力と中央の権力基盤を取り込むための政略的な楔だ。個人の相性や向き不向きなどという甘っちょろい感傷で、一方的に反故にできる契約であるはずがなかった。下手に手を付ければ公爵家は即座にカストゥルへ鞍替えし、自らの足元は音を立てて崩落するだろう。
深刻な面持ちで押し黙るヴィルヘルムを見上げ、オーレリアが戯れのように唇を尖らせた。
「殿下、悪い事をお考えになっていますのね」
白い腕を首筋へ絡め、耳元に蕩けるような囁きを滑り込ませてくる。
「ですが、あまり女を泣かせてはなりませんわ。好き嫌いで婚約を反故にされては女としての面子も公爵家の面子も丸つぶれですもの。やはり、筋を通さねば──」
筋を通す──これはすなわち、手順と順番を正しく踏むことだ。政治における筋とは、相手が納得し、周囲にも誇らしげに説明できる外枠と利害の形を整えてやることだ。
ヴィルヘルムの脳裏でパズルのピースが乱舞し、あるべき場所へと収まっていく。
感情で破棄を突きつける無作法など論外。必要なのは、相手自らが誇りを持ってその道を選び取るための舞台装置である。ヴィルヘルムは思考を逆算し始めた。
そもそもアクアノート家は何を望んでいるのか。家の威光と中央での絶大な発言権、そして王国の安寧を守る筆頭貴族としての名誉だ。
では、あの潔癖で我の強いヒロミ自身は何を欲しているのか。
男の愛玩動物として後宮に囲われることなど、彼女は毛ほども望んでいない。自らの頭脳と正義を以て、法と秩序を遵守させる公的な権力こそが望みなのだ。
彼女の我欲を満たしたとして、生じる不利益をどう封じるか。軍や警察の実動指揮権を与えれば、いずれ王権を脅かす刃となる。
ならば答えは一つだった。
ヒロミ・アクアノートへ司法に関わる名誉ある官職──例えば『王国高等審問院特別参与』のような席を授けてやることだ。
法制の諮問や綱紀粛正を司る象徴的な高官であり、実兵力は持たぬが王族に比肩する格式と発言権を誇る。
王国史上初の女性高官という前例なき栄誉。公爵家の面子は立ち、ヒロミの自尊心は天まで満たされる。そして何より、至高の法を司る中立の立場に就く以上、王太子妃という特定の権力への私的従属は法理上許されなくなるのだ。
そこまで考えを巡らせたところで、ふと新たな疑問が頭をもたげた。ヒロミをその座から退かせたとして、では空いた王太子妃の席には誰が座るのか。無意識に隣のオーレリアへ目を向けたのは、夜の帳が残した甘美な毒のせいだろうか。
当のオーレリアは心の内を見透かしたように、艶やかに首を振った。
「お顔に出ておりますわよ、殿下。ですがさすがにそれは悪手どころの騒ぎではございませんわ。それに、わたくしももう齢四十。世継ぎを産み育てる役目からはとうに盛りを過ぎておりますもの」
自嘲混じりの微笑を浮かべる妖婦に対し、貴女ほど美しい女など他にはいないと口走りそうになる衝動を、ヴィルヘルムは辛うじて押し止めた。
無論、他家の侯爵夫人を次期王妃に据えるなど狂気の沙汰であり、荒唐無稽な夢物語であることは彼自身も理解している。
「ただ……殿下と相性の良さそうな方を、何人か存じ上げておりますわ」
オーレリアは上目遣いに見つめ、悪戯っぽく囁いた。
「先ほどもお話に出ました、ヴェストファーレン伯爵令嬢のアリステラ様などはいかがでしょう。彼女は大変聡明で気立てもよく、きっと殿下のお心を優しく解きほぐしてさしあげられますわ」
◆
周到に根回しを重ねた数ヶ月後、ヴィルヘルムは国王の裁可を取り付け、ヒロミとの婚約解消を滞りなく断行した。
とはいえ、至極円満なものだ。
王国高等審問院特別参与への就任。法と正義を司りたいというヒロミ自身の崇高な志を汲み、王家がその栄達を後押しするという体裁を整えたのである。前例なき女性高官の誕生にヒロミ自身も大いに誇りを感じて納得し、自ら進んで中立の誓詞に署名した。
王家としても、筆頭公爵家が外戚としてこれ以上肥大化することを警戒していた背景があり、この配置換えを歓迎した。アクアノート公爵家の感触も極めて良好だった。
元より格式と筋道を重んじる名門である。娘に類まれな名誉が授けられた以上、王太子の配慮を無碍にして敵対へ舵を切る愚挙に出ぬ確信がヴィルヘルムにはあった。
そうして公爵家との摩擦を鮮やかに回避したのち、新たな婚約者候補として引き合わされたのが、ヴェストファーレン伯爵令嬢アリステラだった。
対面した瞬間、ヴィルヘルムはその余りの凡庸さにいささか拍子抜けを覚えた。顔立ちこそ貴族の令嬢らしく清楚に整っているものの、ヒロミが放っていたような研ぎ澄まされた知性の輝きは微塵も見当たらない。こちらの問いかけに伏し目がちに応じ、ひたすら唯々諾々と従うだけの大人しい小動物に見えた。
だが、何度か茶の席を重ねるうちに、ヴィルヘルムは奇妙な居心地の良さを覚えるようになった。
何より一緒にいて肩の力が抜けるのだ。
端的にいえば、非常に楽であった。
愛玩動物のような素直な愛らしさがあり、自らが女であることを弁え、会話の端々でこちらの面子を立ててくれる細やかな気遣いもある。
かつてヒロミと過ごした席では、常に監視されているような窮屈さを強いられていた。対してアリステラが向けてくるのは、若き王太子という存在に対する、混じり気のない純粋な敬愛の色だった。己を無条件に信じ、頼ってくれる女の存在が、張り詰めていたヴィルヘルムの心を静かに潤していく。
午後の柔らかな木漏れ日を浴びる離宮の東屋。
アリステラが恭しく銀のポットを傾け、白磁のカップへ琥珀色の液体を注ぎ分ける。立ち上るベルガモットの香気に、わずかに柑橘の爽やかな甘さが混じる。湯気を立てるカップを両手で受け取ったヴィルヘルムが一口含むと、心地よい熱が疲弊した神経を優しく解きほぐしていった。
「お口に合いましたでしょうか、殿下。近頃は政務でお疲れと伺いましたので、少しでもお心が休まればと調合を工夫いたしましたの」
伏し目がちに伺うような眼差しは、子鹿めいた無垢な慕情に濡れていた。そこには己の正しさを誇示する気配も、男の資質を値踏みするような刺々しさもない。ただ目の前に座る若き王太子の疲労を慮り、健気に仕えることだけに喜びを見出している。
「美味い。そなたが淹れてくれた茶を飲むと、肩にのしかかる重石が軽くなるようだ」
「まあ……殿下にそう仰っていただけるなんて、これ以上の名誉はございませんわ」
アリステラは頬を薄紅に染め、心底から嬉しそうに胸の前で小さな両手を合わせた。
男の誇りを決して傷つけず、ただ無条件に敬い、その存在を全肯定するアリステラの居心地の良さは、乾ききった心を静かに潤していった。かつてヒロミの前に座るたびに感じていた息苦しい緊張感は、もはやどこにもない。
◆
ところでそのヒロミだが──『王国高等審問院特別参与』という官職を、根本から勘違いしている節があった。
しかし無理もない。この仰々しい肩書の響きは、潔癖な公爵令嬢の頭脳を心地よく狂わせるに十分な美名を帯びていたからだ。
王国史上初の女性高官。至高の法を司る中立の象徴。
王家が用意した舞台装置にすっかり酔い痴れた彼女は、自らを王国の病巣を薙ぎ払う全能の断罪官だと錯覚していた。
就任初週、ヒロミは軍服仕立ての執務服に身を包み、堂々と審問院の法務官たちを召集した。机に叩きつけられたのは、王都の食糧流通を牛耳る穀物専売特権の告発書だった。
価格統制を隠れ蓑にした公金の不正還付と、輸送路における関税の不当免除。その甘い汁にはカストゥル派をはじめとする複数の門閥侯爵家が深く関わり、宮廷の誰もが手を触れぬ暗黙の聖域となっていた。
長年の病巣を薙ぎ払うべく、ヒロミは関係各所への即時強制捜査を傲然と言い渡したのである。しかし命じられた実務官僚たちは、眉一つ動かさずに互いの顔を見合わせるだけだった。
「ヒロミ特別参与。恐れながら、当院の強制捜査には司法尚書の捺印と院長会議の決裁を要します」
実務を取り仕切る老書記官が、慇懃に腰を折った。白髪混じりの眉をわずかに下げ、平然とした声で告げる。
「特別参与の権能は、陛下および貴族院からの諮問に対する法理的な意見具申に限定されております。捜査班への直接の指揮権、ならびに令状の発付権は含まれておりません」
「不正の証拠がここにあるのです! 手続き論に逃げるなど明白な職務怠慢です! わたくしはこの国の歪みを正すためにこの席に就いたのですよ!」
凛とした声で正論を吼えるヒロミに対し、官僚たちは困ったような微笑を浮かべて受け流した。彼らにとって彼女は、筆頭公爵家から送り込まれた腫れ物にすぎない。どれほど罵声を浴びせられようと、実動部隊の指揮権という本物の刃を渡す気など毛頭なかった。
結局のところ、彼女に与えられた権限は発言の自由だけだった。審問院の円卓において、彼女はいくらでも高潔な演説を打つことが許されている。格式高い会議の場で白熱した面持ちで長大な改革案を読み上げるヒロミに、居並ぶ老獪な審問官たちは穏やかに拍手を送るのだ。
「誠に傾聴に値する卓見にございますな」
「法の理想として、正しく記録に残しておきましょう」
そうして慇懃に受け取られた分厚い羊皮紙は、上等な革表紙を施されたのち、誰の目にも触れぬ保管庫の奥底へ恭しく仕舞い込まれる。実動部隊を動かすことも、不正を働く諸侯の首級を挙げることも叶わない。豪奢な鳥籠の中で、無害な正論を囀るだけの象徴。それが特別参与という席の正体だった。
拍手を送る老官僚たちの瞳の奥、底知れぬ空虚と冷淡な嘲弄を捉えた瞬間、ヒロミの背筋を微かな悪寒が駆け抜けた。法を執行する栄誉など最初から与えられず、金箔の檻で無害な人形として飼い殺されているにすぎぬ事実。しかしその痛切な疑念すら、肥大化した自尊心と正義の熱狂が即座に塗り潰してしまう。今は届かずとも、いつか必ず──そんな頑なな確信にしがみつくように。
◆
審問院から届く報告書を眺めながら、ヴィルヘルムは冷めた笑みを浮かべた。
正しく、冷笑である。
自尊心という甘美な餌を与えられ、実権のない高みで満足げに喉を鳴らす元婚約者──ヴィルヘルムは、この男の論理が作り上げた無血の牢獄からヒロミを逃がすつもりは毛頭なかった。
無論、ヒロミが自らの才覚で審問院を改革できたのならばそれはそれで良い。しかしヴィルヘルムの見立てでは、それも中々難しそうではある。なにせヒロミ・アクアノートという才女は敵を作り過ぎる。この国の空気感を全く読めていないのだ。無能ならばまあそれでもいい。しかし、ヒロミの才覚をヴィルヘルムは高く評価していた。だからこそ危険なのだ。
──彼女は長くはないだろうな。
そんな事を思うヴィルヘルムだが、何とかしようとはしない。なにせ彼は一度、ヒロミから見捨てられた経験があるからだ。
まあ恨みがあるわけでもないが、だからといって情があるわけでもなかった。
◆
柔らかな羊毛の絨毯が敷き詰められたハルケンシュタイン侯爵邸の奥居間。
七十を過ぎたルドルフ・ハルケンシュタイン侯爵が安楽椅子に深く身を沈めている。そしてその膝の上には、薄絹の部屋着を纏ったオーレリアが惜しげもなく豊かな肉体を預けていた。
豊潤な胸元を老夫の胸板に押し当て、柔らかな白い腕を枯れ枝のような首筋へ絡めつけている。
「旦那様、今日もお疲れのようでいらっしゃいますわね」
耳朶をくすぐる吐息を吹きかけながら、オーレリアは白磁のような指先で夫の皺深いこめかみを優しく揉みほぐした。
七十を越えて肉体の盛りをとうに過ぎ、男としての機能を喪失した老侯爵である。だがこうして体を擦り寄せられ、絶対的な敬愛の言葉を注がれる瞬間、ルドルフの胸には若き日の全能感が甦るのだ。
「ふふ……お前の顔を見れば、老骨の疲れなど吹き飛ぶわ」
節くれだった手で妻の腰を引き寄せ、ルドルフは満足げに目を細めた。外で若い男と肌を重ねようと、この妖艶な毒花が最後に帰ってくる巣は己の膝の上なのだという確信。それが老いた家長にとって、何物にも代えがたい精神の妙薬となっていた。
「それで、殿下のご様子はいかがでしたの? 東部直轄領の治水も無事に片付きましたのでしょう?」
上目遣いに尋ねるオーレリアの鼻先に、ルドルフは愛おしげに口づけを落とした。
「大成功だ。治水事業を完遂させたことで、王太子殿下の中央における求心力は揺るぎないものとなった。そして我が侯爵家にも、途方もない実入りが転がり込んできたぞ」
ルドルフは喉を鳴らし、誇らしげに語り始めた。
治水の資材流通を一手に引き受けた見返りとして、東部直轄領における新たな鉱物採掘権と、関税の免除特権が王家から正式にハルケンシュタイン家へ下賜されたのだ。
「まあ! さすがは旦那様。わたくし、旦那様のその先見の明に惚れ直してしまいましたわ♡」
オーレリアは蕩けるような歓声を上げ、老夫の首筋に頬を摺り寄せた。その衒いも何もない媚びに、ルドルフはますます相好を崩す。
オーレリアも艶然と笑った。
「そうそう、アリステラ様との関係も良好そうで何よりですわね。彼女は素直で大変可愛らしい娘ですもの。殿方の喜ばせ方を少しばかり手ほどきしてさしあげたら、見事に王太子殿下の心を解きほぐしたようですわね」
「全くだ。殿下はあの小娘にすっかり骨抜きらしい。これで次期王妃の座も我が息のかかった者が握ることになる」
機嫌を良くしたルドルフが、ふと思い出したように眉を顰めた。
「そういえば、王都から妙な報せが届いたぞ」
「妙な報せ、でございますか?」
「アクアノートの娘が死んだそうだ」
淡々とした夫の言葉に、オーレリアの睫毛が微かに跳ねた。
「昨夜の審問院からの帰途に馬車が暴漢どもに襲われたらしい。護衛は皆殺しにされ、身包みを剥がされた娘は散々に嬲られた末、見るも無残な肉塊となって下水溝へ打ち捨てられていたそうだ」
凄惨極まる光景を耳にしながらも、オーレリアの表情には微塵の動揺も浮かばなかった。ただ憂いを帯びたような作り笑いを浮かべ、小首を傾げる。
「あらまあ……お気の毒に」
「あの娘はやり過ぎたのだ。穀物専売の聖域に素手で突っ込んで門閥諸侯を逆撫でした。誰の手引きかは知らんが、消されるのは時間の問題だったということだ」
ルドルフは乾いた息を吐き、視線を宙へ彷徨わせた。
「だがこれでアクアノート公爵家が黙っているはずもない。手塩にかけた愛娘を無残に殺されたのだ。血眼で犯人を捜し始めるだろうし、中央は荒れそうだな」
オーレリアは老夫の胸元へ甘えるように額を寄せ、艶やかに喉を鳴らした。
「ふふ……怖いですわね。でも──わたくしたちのような、地方の侯爵家には関係のないお話ですわ」
そう言ってオーレリアはルドルフに抱き着き、その胸の中で誰にも──ましてや夫には決して見せない嘲笑を浮かべた。
(了)

