モテ男とデキ女の奥手な恋
「なんだかひどい目に遭ってるね。僕が転勤を勧めたばっかりに……」
 申し訳なさそうに苦笑するのは上司のマイクだ。大柄な身体を精一杯小さくしている。俺は手を振って、
「ちょっと運が悪かっただけだから。気にしないでください」
 今回のことがなくても、きっといずれ同じようなことはあったに違いない。
 この転勤で、色んな人を鏡にして、それに写る自分というものをまざまざと意識させられた。巻き込まれやすい体質だと思ってはいたが、どうもそれで済む話ではないらしい。自分で蒔いた種とはいえ、自発的に蒔いたつもりもないことばかりなので気持ちとしては複雑だが、これも個性と思えば仕方ないのかもしれない。ーーが、とりあえず、流されないスキルを身につける必要はありそうだ。自分と似た顔立ちに生まれた弟に参考になる話を聞こうと決意はしている。
「ろくな奴じゃないわよね、あんな話作って」
 クリスも我がことのように怒っている。
「まあ、一緒に怒ったり笑ったりできる人がいるから救われるよ」
 俺が言うと、クリスは笑った。
「そんなことで救われるなら、いくらでも怒ったり笑ったりしてあげる。いつでも言って」
「ありがとう、そうするよ」
 俺は言いながら人事課に電話をかけた。早く片をつけたいとマイクに言うと、マイクもそうだろうと同意してくれたので、向こうの都合に合わせる旨を告げる。人事課からは明日の午前中を指定された。
「早く疑いが晴れるよう祈ってるわ」
 クリスは言って、俺の背を叩いた。
 俺は応えて片手を挙げた。

 戻ってきたとなるとやはりそれなりに挨拶や身の回りの整理、パソコンの設定などであっという間に一日が過ぎる。セットアップの終わったパソコンには、早々に橘から社内チャットのメッセージが入った。
【人事課は?】
【明日の午前】
 短い問いに短く返すと、了解、と返って来た。
【ヨーコちゃんが、必要なら自分も行くから言ってって】
 忘年会でのセクハラ疑惑の件か。
【了解。そのときにはお願いする】
 苦笑しながら返し、しばらくしてふと思い立つ。
【今日の残業は?】
【2時間くらいかな】
【連絡しろよ。送るから】
 橘からの応答はない。戸惑っているのだろうと思いつつ、
【拒否権なし。いいな】
 続けて打つと、
【OK】
 簡単な返事だけが来た。

「……ほんとに送るだけなんだ」
 家の前で別れようとすると、橘はやや見上げるように言った。
「明日も仕事だからな」
「そうだけど」
 もぞもぞと鞄の持ち手をいじりながら、俯く。
「せめて、夕飯食べるとか」
 俺は苦笑して、橘の頭に手をやる。
「上がったら、なかなか帰れなくなるだろ」
「いいじゃん、帰れなくなっても」
 唇を尖らせる橘の表情があまりに幼くて笑う。
「よくねぇよ。明日、人事課に今日の服のまま行ったら、それこそ相手に突っ込むネタを与えるだろ」
「分かるもん?」
「分かるだろ。ワイシャツのシワとか見れば」
 橘は残念そうに嘆息して、分かった、と言った。
「今度、ワイシャツとスーツも買っとこう。あと下着」
「おいこら。またそのパターン繰り返すつもりか」
 俺が突っ込むと橘も笑う。
「冗談よ。半分は」
「半分は本気だろ」
「うん」
 橘は意外と素直に頷く。
「だって、もっと側にいたいもん」
 その目はわずかに伏せられていた。
 俺は何と言ったものかと言葉を探したが、見つからない。黙ったまま嘆息し、橘の頭をぽんと叩いた。その手をスラックスのポケットに突っ込む。
「とりあえず、人事課の件が落ち着くまでは、変に巻き込みたくない。ーーもう、手遅れかもしれないけどな」
 じゃあな、と背を返したとき、橘が勢いよく抱き着いて来た。
「危ねっ」
 たたらを踏んで振り返るが、小柄な橘の頭しか見えない。
「ちょっとだけ」
 橘の声は小さかった。
「ちょっとだけ、充電」
 俺は苦笑して、腹の前に回った橘の腕に手を添える。
「だったら、俺にも充電させろ。これじゃ一方的過ぎる」
 言うと橘はくすくす笑って腕を緩めた。俺は向き直って腕の中に橘を包み込む。
「神崎にとっても、充電になるの?」
「まあ、少しは」
「少しだけ?」
「そりゃ、裸ならもっと効果的だけど」
 耳元で囁くと、橘が真っ赤にした顔で俺を睨みつけた。
「えっち」
「男だから仕方ないだろ。求めてもらえないって悩んでたんじゃなかった?」
「それはそれ、これはこれなの」
 橘が唇を尖らせて俺の胸をとんと叩く。その手を受け止めてから頬に手を添え、微笑んだ。
「おやすみ」
 額に唇を落とし、手を離す。橘は赤い顔のまま、何故か涙の滲んだ迫力のない目で俺を睨みつけた。
「……馬鹿」
「何が」
「何でもない」
 橘は言って俺の胸に額をつけ、一息ついてから離れた。
「おやすみ。また明日」
「ああ。また明日」
 橘を部屋に入らせてから、俺は自宅へと帰った。
< 103 / 119 >

この作品をシェア

pagetop