モテ男とデキ女の奥手な恋

『大丈夫っすか?』
 ジョーから電話がかかってきたのは、引っ越しーーとはいえ、宅配便と手荷物でどうにかなるレベルにしたので、引っ越し業者を使うようなものではないがーーを来週に控えた週末だった。
「何のことだ?」
 俺が問うと、ジョーは言いにくそうに話す。
『例の、取引先のお孫さん。未成年を家に連れ込んで、その……そういう関係になったとか何とか、噂広まってますよ』
 俺はその話に唖然として、開いた口が塞がらなくなった。噂話には疎い自覚があるが、そうした情報を掴むのが早い阿久津からも何も聞いていない。
「……すげぇ噂だな」
 辛うじて口をついて出たコメントは、何とも間が抜けていた。ジョーが電話口で苦笑したのが分かる。
『すげぇ噂ですよね』
 俺はじわじわと沸いて来る苦い思いを噛み殺すのに苦労しながら、自分を落ち着かせようと数度呼吸した。
『あ、大丈夫ですよ。俺はもちろん信じてませんから』
「ったりめぇだろが。むしろ信じる奴どんなんだよ」
『マーシーを直接知らない人ですね。山崎部長も笑ってました』
 笑ってねぇで止めろよ。そんなくだらない噂。
『よっぽど誰かの恨み買いはったんやねぇ、て、ヨーコさんも笑ってましたけど』
 相変わらず名取さんの話が出ると語調にハートマークが飛ぶのを感じる。うまくいったのかどうか分からないが、当たって砕けると言っていたことを考えると、まだ砕けてはいないらしい。俺は嘆息した。
「恨みねぇ」
『ま、そんなことする根暗な奴、気にするだけ無駄ですよ。とりあえず、俺たちはお帰りを待ってますから』
「ああ、どうも」
『でも、エースには一声かけといた方がいいかも。ヨーコさん曰く、その噂のあおりがそっち行っちゃってるみたいだから』
 俺は眉を寄せた。2、3日に一度は電話をしている橘だが、そんな様子を見せたことはない。
 ジョーにお礼を言って電話を切ると、橘にかけた。

『ああ、その噂。聞いたんだ?』
 珍しく早起きしていたらしい橘は、歯磨き中なのともごもごしながら聞いていたが、どこ吹く風というような明るさで笑った。
『ウケるよね。どんな男のひがみだろうって。ーーま、当然信じてないから、大丈夫よ。安心して』
「いや、そうじゃなくて」
 俺は橘の思い込みを訂正する。
「こっちでそんな噂ないから俺はいいんだけどさ。そっちでお前が大変みたいだってジョーから聞いたから」
『ええ?そうかなぁ』
 橘は思い当たる節がないのか、うーんと考えている。
『あれかなぁ。そんなに仲良くない人から、いきなりかわいそうって言われたり、廊下ですれ違ったらヒソヒソされたりすることかなぁ』
 結構だな、それ。
『男性社員から、そんな男やめた方がいいとか、辛くなったらいつでも連絡ちょうだいとか、そういうのもあるけど、それもかな。キモいよね』
 当人はからりと笑っている。どうも空元気ではなさそうだ、とその声音から推察して、内心舌を巻いた。
 以前橘から聞いた話を思い出す。2年間、お局のイビリに堪えつづけた海外勤務。
 ーーもしかしてこいつ、逆境に燃えるタイプ?
 その精神的なタフさは断然俺より上だと思える。
『大丈夫だよ』
 橘は穏やかに、だが確信を持った声音で言った。
 ときどき、橘からは不思議な包容力を感じる。
『安心して帰っておいで』
 俺は苦笑した。
「ありがと」
『どういたしまして』
 橘の楽しげな笑い声に、俺はほっと息を吐き出した。
 大丈夫だ。ーーこいつがいれば、大丈夫。
 そう思えることが、一番の安心材料だった。
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