冷たい華道家は、私だけに花を乱す
第11話 恋人は天才華道家、私はただの花屋です
京都華道展まで、あと六十八日。
私の名前が正式に出展者一覧へ掲載されたのは、六月最初の月曜日だった。
『久遠朔・三崎小春 共同制作』
パソコンの画面に並んだ二つの名前を、私は何度も読み返した。
久遠朔。
二十二歳。
久遠流の元後継者。
国内外で高い評価を受ける天才華道家。
三崎小春。
二十四歳。
花乃井勤務四年目。
華道の資格なし。
実績と呼べるものは、先日の展覧会で壊れた作品を生け直したことくらい。
並んだ名前を見れば見るほど、場違いな気がした。
「……どうしよう」
思わず呟くと、背後から声がした。
「何が?」
振り返る。
店長がコーヒーを持って立っていた。
「京都のこと?」
私は頷いた。
「はい」
店長は画面を覗き込んだ。
「いいじゃない」
「でも、私だけ資格も何もなくて」
「花屋で四年働いてるでしょう」
「それはそうですけど」
店長は笑った。
「資格がないからって、花を知らないわけじゃないわ」
私は黙った。
「それに、あなたは誰かの代わりじゃないでしょう」
「……」
「朔さんが一緒に作りたいと言ったのは、小春ちゃん自身なんだから」
私は少し笑った。
「ありがとうございます」
店長は頷いた。
「ただし」
「はい」
「仕事はきっちりやってね」
私は思わず笑った。
「もちろんです」
その日の午後、私は店の奥で、新しい定期装花の試作品を作っていた。
白いトルコギキョウ。
淡い緑色のアンスリウム。
細い枝物。
小さなオフィスの受付に置くための作品だった。
派手すぎず、けれど印象に残るように。
私は花の高さを調整した。
一本、少し短く切る。
空間が広がる。
そこへ細い枝を添える。
ようやく形が整ったところで、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
顔を上げる。
朔だった。
今日は黒い着物ではなく、白いシャツに細身の黒いパンツ。
肩には大きな鞄をかけていた。
私は少し驚いた。
「朔?」
彼は微笑んだ。
「こんにちは」
「今日は病院じゃなかった?」
「午前中に行ってきました」
私は彼の右手を見た。
薄いサポーターが巻かれている。
「どうだった?」
「作業時間を制限すれば、しばらく保存的な治療を続けられるそうです」
私は安心した。
「よかった」
「ただし」
朔は少し困った顔をした。
「重い花器を持つことと、長時間の剪定は禁止されました」
「当然です」
私は頷いた。
「ちゃんと守ってね」
「はい」
彼は真剣だった。
「小春に叱られたくないので」
「医師の指示だからでしょう」
「それもあります」
私はため息をついた。
店長が奥から顔を出した。
「あら、朔さん」
朔は丁寧に頭を下げた。
「いつも小春がお世話になっています」
私は固まった。
「……朔」
店長が笑った。
「こちらこそ」
私は慌てた。
「何で保護者みたいな挨拶するの」
朔は不思議そうな顔をした。
「恋人なので」
店長が声を出して笑った。
私は顔が熱くなった。
「そういうこと、店で言わなくていいから」
朔は少し考えた。
「では、外で言います」
「そういう意味じゃない!」
店長は楽しそうに笑いながら、奥へ戻っていった。
私は朔を睨んだ。
「……わざと?」
彼は微笑んだ。
「少しだけ」
私は呆れた。
本当に、最近の彼は遠慮がなくなってきた。
ただ、その変化が嫌ではなかった。
「それで、今日はどうしたの?」
私が尋ねると、朔は鞄を開いた。
中から、小さなファイルを取り出す。
「京都の作品について、相談があります」
私は頷いた。
「何?」
彼は一枚の図面を広げた。
以前の構想とは、少し違っていた。
中央の枝が低くなっている。
花の数も減っていた。
代わりに、余白が大きく取られている。
「……変えたんだ」
「はい」
朔は頷いた。
「手の負担を減らすため、構造を簡単にしました」
私は図面を見つめた。
「いいと思う」
「本当ですか」
「うん」
私は指をさした。
「でも、ここ」
「はい」
「この枝、少し不自然じゃない?」
朔は図面を見た。
「……そうですね」
「もっと自然に伸びている枝を探したほうがいいかも」
彼は頷いた。
「では、週末に山へ行きましょう」
私は驚いた。
「山?」
「はい」
「何をしに?」
「枝を見に」
私は笑った。
「仕入れ先で探せばいいんじゃない?」
朔は少し考えた。
「それも必要ですが」
そして、静かに言った。
「実際に木が育っている場所を見たいんです」
私は彼を見た。
朔は続けた。
「これまで、僕は切られた枝しか見ていませんでした」
「……」
「でも、あなたと出会ってから、枝がどんな場所で育ったのか考えるようになりました」
私は胸が温かくなった。
「……いいね」
朔は微笑んだ。
「一緒に行ってくれますか」
私は少し考えた。
「日曜日なら」
彼の顔が明るくなった。
「ありがとうございます」
私は笑った。
「ただし、勝手に枝を切ったら駄目だよ」
朔は真剣に頷いた。
「もちろんです」
「見るだけ」
「はい」
「必要なら、ちゃんと許可を取る」
「わかっています」
私は笑った。
「じゃあ、行こう」
その瞬間、朔は少しだけ身を乗り出した。
「……小春」
「何?」
「デートですね」
私は固まった。
「……仕事の下見でしょう」
「両方です」
「都合がいいなあ」
朔は微笑んだ。
「あなたと一緒なら、どちらでも幸せなので」
私は顔が熱くなった。
「……もう」
彼は小さく笑った。
「照れていますか」
「照れてません」
「耳が赤いです」
「見ないで」
朔は楽しそうに笑った。
その笑顔を見るたびに、私は思う。
こんな人が、どうして五年間も私を好きでいてくれたのだろう。
私には、特別な才能なんてない。
華道界の名門に生まれたわけでもない。
ただ、花が好きなだけなのに。
けれど、その答えを聞くのは、まだ少し怖かった。
日曜日。
私たちは東京郊外の自然公園へ出かけた。
駅からバスに乗り、さらに歩く。
緑の濃い季節だった。
木々の葉が風に揺れ、湿った土の匂いが漂っている。
朔は白いシャツに薄い上着を羽織っていた。
手には小さなスケッチブック。
右手にはサポーター。
「……大丈夫?」
私は尋ねた。
「何がですか」
「歩くの、慣れてる?」
彼は少し考えた。
「庭園なら」
私は笑った。
「山道は違うよ」
「勉強になります」
彼は真剣だった。
私たちはゆっくり歩いた。
道沿いには、さまざまな植物が生えていた。
細い枝を伸ばす木。
岩の隙間から育つ草。
倒れた幹から新しい芽を出している若木。
朔は何度も足を止めた。
そして、スケッチブックに線を描いた。
「……小春」
「何?」
「これを見てください」
彼が指さしたのは、曲がった一本の木だった。
根元から大きく傾き、途中で折れたように曲がっている。
けれど、その先は再び空へ向かって伸びていた。
私は近づいた。
「……すごいね」
朔は頷いた。
「はい」
「途中で何かあったのかな」
「雪か、風かもしれません」
彼は木を見つめた。
「それでも、上へ伸びている」
私は頷いた。
「強いね」
朔は静かに微笑んだ。
「……美しい」
その横顔を見て、私は息を止めた。
彼は本当に、花や木を見るときだけ別人になる。
冷たい華道家でも、甘い恋人でもない。
ただ、美しいものを前にして心を奪われた青年だった。
私はその横顔が好きだった。
「……朔」
「はい」
「写真、撮ってもいい?」
彼は少し驚いた。
「木のですか」
「違う」
私は笑った。
「朔の」
彼は固まった。
「……僕?」
「うん」
私はスマートフォンを構えた。
「そのままでいて」
朔は少し困った顔をした。
「どうすれば」
「普通にしてて」
彼は木を見た。
そして、静かに微笑んだ。
私はシャッターを押した。
画面には、緑の中に立つ彼の姿が映っていた。
白いシャツ。
黒い髪。
細い指。
そして、穏やかな横顔。
「……綺麗」
思わず呟く。
朔が振り返った。
「何がですか」
私は慌てた。
「写真」
彼は近づいてきた。
「見せてください」
私は画面を見せた。
朔はしばらく見つめた。
そして、静かに言った。
「……あなたが撮ると、違いますね」
「そう?」
「はい」
彼は微笑んだ。
「僕が、幸せそうに見える」
私は胸が温かくなった。
「実際、幸せなんでしょう?」
朔は私を見つめた。
そして、まっすぐ答えた。
「はい」
その言葉に、胸が高鳴った。
彼は少し顔を近づけた。
「小春」
「何?」
「僕も、写真を撮っていいですか」
私は驚いた。
「私の?」
「はい」
「いいけど」
朔はスマートフォンを取り出した。
私は少し姿勢を正した。
「……どうすればいい?」
彼は微笑んだ。
「普通にしていてください」
私は笑った。
「さっきと同じこと言ってる」
朔も笑った。
そして、私を撮った。
「……見せて」
私は画面を覗き込んだ。
そこには、木漏れ日の中で笑っている私が映っていた。
少し髪が乱れている。
服も普通。
特別な写真ではない。
けれど、朔はそれを大切そうに見つめていた。
「……かわいい」
私は顔が熱くなった。
「普通だよ」
彼は首を横に振った。
「世界で一番です」
私はため息をついた。
「……本当に、恥ずかしい」
朔は微笑んだ。
「僕は、恥ずかしくありません」
「でしょうね」
彼は少し考えた。
そして、静かに言った。
「好きな人を綺麗だと思うことは、恥ずかしいことではないので」
私は何も言えなかった。
本当に、この人には敵わない。
昼過ぎ。
私たちは公園の奥にある小さな休憩所へ入った。
ベンチに座り、持ってきたおにぎりを食べる。
朔は私の作った卵焼きを一口食べた。
そして、目を細めた。
「……おいしい」
私は笑った。
「普通の卵焼きだよ」
「小春の作るものは、何でもおいしいです」
「それは言いすぎ」
彼は真剣だった。
「本当です」
私は少し照れた。
「……ありがとう」
朔は微笑んだ。
そして、もう一口食べた。
そのとき。
彼のスマートフォンが鳴った。
朔は画面を見た。
表情が変わった。
「……叔父からです」
私は息を止めた。
「征臣さん?」
「はい」
彼は少し迷った。
そして、電話に出た。
「もしもし」
私は横で黙っていた。
『朔か』
低い男性の声が、わずかに聞こえた。
「はい」
『京都の件で話がある』
朔の表情が変わった。
「何でしょう」
『出展資格が認められたそうだな』
「はい」
『おめでとう』
「ありがとうございます」
短い沈黙。
そして、征臣が続けた。
『ただし、忠告しておく』
朔は黙った。
『京都では、誰もおまえを特別扱いしない』
「承知しています」
『久遠流の名前も使えない』
「はい」
『右手の状態も万全ではない』
「わかっています」
征臣は小さく笑った。
『それでも、出るのか』
朔は静かに答えた。
「出ます」
長い沈黙。
そして。
『……そうか』
征臣の声が低くなった。
『ならば、私も本気でいく』
朔は目を細めた。
「……叔父さんも出展するんですね」
『ああ』
「楽しみにしています」
その言葉に、征臣が少し黙った。
『……余裕だな』
朔は静かに答えた。
「余裕はありません」
「……」
「でも、楽しみです」
征臣は何も言わなかった。
そして、電話を切った。
朔はスマートフォンをしまった。
私は彼を見た。
「……大丈夫?」
彼は頷いた。
「はい」
「何か言われた?」
「京都では、本気で勝負すると」
私は少し考えた。
「……いいじゃない」
朔が顔を上げた。
「え?」
「同じ舞台で、花を生けるんでしょう?」
私は笑った。
「だったら、作品で勝負すればいい」
朔はしばらく私を見つめた。
そして、静かに笑った。
「……そうですね」
私は頷いた。
「うん」
朔は私の手を取った。
「小春」
「何?」
「あなたと一緒に作る作品を、誰にも負けないものにしたい」
私は笑った。
「勝つことだけ考えないでね」
彼は少し驚いた。
「……どうしてですか」
「私たちが本当に作りたいものを作ろう」
朔は黙った。
私は続けた。
「その結果、評価されたら嬉しい。でも、評価されなくても、意味のある作品にしたい」
長い沈黙。
そして。
朔はゆっくり頷いた。
「……はい」
彼は私を見つめた。
「あなたとなら、できる気がします」
私は笑った。
「私も」
午後。
私たちは公園を出た。
帰り道、朔が突然立ち止まった。
「小春」
「何?」
彼は少し迷った。
そして、静かに言った。
「一つ、聞いてもいいですか」
「うん」
「あなたは、将来どうしたいですか」
私は驚いた。
「……将来?」
「はい」
彼は真剣だった。
「花乃井で働き続けたいですか」
私は少し考えた。
「今は、そう思ってる」
「……」
「でも、いつかは自分で仕事を任されるようになりたい」
朔は頷いた。
「素敵ですね」
私は笑った。
「そんな大きな夢じゃないよ」
彼は首を横に振った。
「大切な夢です」
そして、静かに続けた。
「僕は、あなたの夢も応援したい」
私は胸が温かくなった。
「……ありがとう」
朔は微笑んだ。
「だから」
「うん」
「京都の準備で、あなたの仕事を犠牲にしないでください」
私は驚いた。
「……朔」
「あなたが無理をするのは、嫌です」
彼は静かに言った。
「僕のために、自分の時間を全部使わないでほしい」
私は彼を見つめた。
そして、少し笑った。
「……成長したね」
朔は首を傾げた。
「そうですか」
「うん」
私は彼の手を握った。
「前だったら、毎日会いたいって言ってたでしょう」
彼は少し考えた。
「今も言いたいです」
私は吹き出した。
「……やっぱり」
朔は微笑んだ。
「でも、我慢します」
私は笑った。
「我慢しすぎなくていいよ」
彼は私を見つめた。
「……では、週に三回」
「多い」
「二回」
「交渉してる?」
「はい」
私は笑った。
「予定を見て決めよう」
朔は少し残念そうに頷いた。
「……わかりました」
私は彼の腕にそっと触れた。
「でも、今日は楽しかった」
その瞬間、彼の顔が明るくなった。
「本当ですか」
「うん」
朔は微笑んだ。
「僕もです」
駅に着く。
改札の前で、私たちは立ち止まった。
朔は私を見つめた。
「小春」
「何?」
「今日は、ありがとうございました」
私は笑った。
「こちらこそ」
彼は少し顔を近づけた。
「……キスしてもいいですか」
私は周囲を見た。
人が多かった。
「……ここでは駄目」
朔は頷いた。
「わかりました」
あまりにも素直だったので、私は少し笑った。
「残念?」
彼は真剣に答えた。
「非常に」
私は吹き出した。
「……正直すぎる」
朔は微笑んだ。
「あなたには、嘘をつきたくないので」
私は胸が温かくなった。
そして、彼の手を握った。
「また今度ね」
朔は少し笑った。
「約束です」
「はいはい」
私は改札を通った。
振り返ると、朔はまだそこに立っていた。
私は手を振った。
彼も手を振った。
その姿を見て、私は思った。
この人と一緒にいると、普通の日常が特別になる。
ただ歩くだけ。
おにぎりを食べるだけ。
話をするだけ。
それなのに、胸が温かくなる。
私は、そんな時間を大切にしたかった。
翌週。
京都華道展の共同制作者として、私の名前が正式に公開された。
その翌日から、花乃井に奇妙な電話がかかってくるようになった。
最初は、ただの問い合わせだった。
「三崎小春さんは、どちらの流派の方ですか」
私は答えた。
「特定の流派には所属していません」
相手は少し黙った。
そして、電話を切った。
次の電話では、こう言われた。
「華道の資格もないのに、京都に出るんですか」
私は戸惑った。
「共同制作者として登録されています」
相手は小さく笑った。
「ずいぶん、いいご身分ですね」
そして、電話を切った。
三本目の電話は、もっと露骨だった。
「久遠朔さんの恋人だから、選ばれたんでしょう」
私は何も言えなかった。
「実力もないのに、恥ずかしくないんですか」
電話が切れた。
私は受話器を見つめた。
胸が苦しかった。
店長が近づいてきた。
「小春ちゃん」
私は顔を上げた。
「……はい」
「また?」
私は頷いた。
店長はため息をついた。
「もう、そういう電話は私が受けるわ」
私は首を横に振った。
「大丈夫です」
「でも」
「私、逃げたくないです」
店長は私を見つめた。
私は続けた。
「確かに、資格はありません」
「……」
「でも、だからこそ、ちゃんと勉強して、作品を作りたい」
店長はしばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「……そうね」
私は笑った。
「はい」
けれど。
その日の夜。
私は自宅で、インターネットの記事を見つけた。
『天才華道家・久遠朔、無資格の恋人を共同制作者に抜擢』
大きな見出しだった。
記事には、私の名前と花乃井の店名が書かれていた。
さらに、こう続いていた。
『関係者の間では、選考の公平性を疑問視する声もある。』
私は画面を見つめた。
胸が冷たくなった。
コメント欄には、さまざまな言葉が並んでいた。
『恋人を仕事に連れてくるのはどうなのか。』
『実力があるなら問題ないのでは。』
『華道界も変わったものだ。』
『花屋の店員が、いきなり大舞台?』
私はスマートフォンを置いた。
そして、深く息を吐いた。
悔しかった。
資格がないことは事実だ。
経験が足りないことも、わかっている。
けれど。
私は、何も考えずに朔の隣に立とうとしているわけではない。
花を学びたい。
作品を作りたい。
その気持ちは、本物だった。
私はノートを開いた。
京都の作品について、これまで考えてきたことを書き出す。
枝の形。
花の種類。
水揚げ方法。
展示期間中の管理。
そして、作品の意味。
一つずつ。
自分の言葉で。
書き続けた。
気づけば、深夜になっていた。
そのとき。
スマートフォンが鳴った。
朔からだった。
私は少し迷ってから電話に出た。
「……もしもし」
『小春』
彼の声は、いつもより低かった。
『記事を見ました』
私は黙った。
『申し訳ありません』
「……朔のせいじゃないよ」
『でも、僕があなたを共同制作者に選んだことで』
「違う」
私は思わず強く言った。
電話の向こうが静かになった。
私は深呼吸した。
「……ごめん」
『いいえ』
「私、自分で決めたんだよ」
『……』
「京都に出ることも、あなたと一緒に作品を作ることも」
朔は黙っていた。
私は続けた。
「だから、私のことを勝手にかわいそうだと思わないで」
長い沈黙。
そして。
『……わかりました』
朔の声が柔らかくなった。
『あなたを、信じます』
私は目を閉じた。
「……うん」
『ただ』
「何?」
『根拠のない中傷や、店への嫌がらせは放置しません』
私は頷いた。
「それは、私も同じ」
朔は少し笑った。
『一緒に対処しましょう』
「うん」
私たちは、記事や電話の記録を残し、必要なら専門家に相談することにした。
そして、作品については予定どおり準備を進める。
逃げない。
けれど、無理もしない。
その約束をした。
電話を切る前。
朔が静かに言った。
『小春』
「何?」
『僕は、あなたを恋人だから選んだわけではありません』
私は黙った。
『花を生ける人として、必要だと思ったからです』
胸が熱くなった。
『そのことだけは、忘れないでください』
私はゆっくり頷いた。
「……ありがとう」
朔は微笑んだようだった。
『それから』
「うん」
『恋人としては、今すぐ会って抱きしめたいです』
私は思わず笑った。
「……もう」
『駄目ですか』
「今日は遅いから」
『そうですね』
少し沈黙があった。
そして、彼が言った。
『では、明日』
私は笑った。
「明日は仕事」
『終わってから』
「……少しだけなら」
電話の向こうで、彼が嬉しそうに笑った。
『ありがとうございます』
私は目を閉じた。
「おやすみ、朔」
『おやすみなさい、小春』
電話を切った。
胸の奥が、少しだけ軽くなっていた。
翌朝。
花乃井に一通の封筒が届いた。
差出人は、京都華道展の運営事務局だった。
私は店長と一緒に開封した。
中には、正式な通知書が入っていた。
『共同制作者の資格に関する追加確認について』
私は息を止めた。
読み進める。
そこには、私の参加資格について、第三者から異議が申し立てられたと書かれていた。
そして。
『三崎小春様には、制作実績および共同制作における役割について、追加資料の提出をお願いいたします。』
私は書類を見つめた。
また、審査。
また、疑問。
また、説明。
けれど、今回は少し違った。
私は静かに書類を閉じた。
店長が心配そうに尋ねた。
「……大丈夫?」
私は頷いた。
「はい」
そして、笑った。
「ちょうどよかったです」
店長は驚いた。
「……え?」
私はノートを取り出した。
昨夜まで書いていた、京都の作品に関する記録だった。
「ちゃんと、説明します」
私は静かに言った。
「私が何を考えて、どんな仕事をしてきたのか」
店長はしばらく私を見つめた。
そして、微笑んだ。
「……そうね」
私は頷いた。
「はい」
そのころ。
久遠流本部では、征臣が一人の男性と話していた。
「記事は、予想以上に広まりましたね」
男性が言った。
征臣は静かに頷いた。
「そうだな」
「三崎小春の資格についても、再審査が始まりました」
「……」
「このままなら、共同制作は認められないかもしれません」
征臣は窓の外を見た。
「そうか」
男性が尋ねた。
「次は、どうしますか」
征臣はしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「何もしなくていい」
男性は驚いた。
「……よろしいのですか」
征臣は微笑んだ。
「人は、疑い始めれば勝手に騒ぐ」
そして、机の上にある写真を見た。
そこには、朔と私が並んで写っていた。
先日の展覧会。
『それでも咲く』の前で、手をつないでいる写真だった。
征臣は静かに呟いた。
「……朔」
その目には、冷たい光が宿っていた。
「おまえの才能が、どこまで恋人を守れるか」
彼は写真を裏返した。
「見せてもらおう」
そして。
その日の夕方。
私は、京都華道展の事務局から一本の電話を受けた。
『三崎小春様でしょうか』
「はい」
『共同制作に関する追加資料について、ご連絡しました』
私は背筋を伸ばした。
「はい」
担当者は丁寧に説明した。
提出期限。
必要な資料。
制作過程の記録。
そして、最後にこう言った。
『なお、今回の審査では、共同制作者としての独立した役割が確認できることが重要になります』
私は頷いた。
「わかりました」
電話を切る。
私はノートを開いた。
そして、静かに考えた。
独立した役割。
私にしかできないこと。
朔にはないもの。
それは何だろう。
花の扱い方。
水揚げ。
仕入れ。
長持ちさせる技術。
けれど、それだけではない気がした。
私は店先へ出た。
白い百合が咲いていた。
少し傾いた花。
朔と初めて出会った日のことを思い出す。
『この花は、死んでいる』
あのとき、私は腹を立てた。
けれど、今ならわかる。
彼は、花が美しく見える場所を探していた。
私は、花が生きられる場所を守ろうとしていた。
その二つが出会ったとき。
新しい作品が生まれた。
私はゆっくり微笑んだ。
「……そうか」
答えが見えた気がした。
私は店の奥へ戻った。
そして、白い紙を一枚取り出した。
中央に、大きく題名を書く。
『花の居場所』
その下に、もう一行。
『久遠朔の造形と、三崎小春の生命管理による共同制作』
私はその文字を見つめた。
そして、静かに頷いた。
これが、私たちの作品だ。
どちらか一人では、完成しない。
二人で作るから、意味がある。
私はスマートフォンを取り出した。
朔にメッセージを送る。
『作品の説明、考えたよ。』
すぐに返信が来た。
『聞かせてください。』
私は笑った。
『今日、会ったときに。』
少しして、返事が来た。
『楽しみにしています。』
そして、もう一通。
『小春。』
『何?』
『あなたと出会えて、本当によかった。』
私は画面を見つめた。
胸が温かくなった。
そして、返信した。
『私も。』
窓の外では、夕日が街を染めていた。
京都まで、あと六十七日。
私たちは、ようやく同じ場所に立とうとしていた。
けれど。
その夜。
朔のもとに、一通の匿名メールが届いた。
件名は、『三崎小春の過去について』。
彼は眉をひそめた。
本文には、短い文章が書かれていた。
『あなたは、彼女のことを何も知らない。』
そして、添付ファイルが一つ。
五年前の写真だった。
雨の公園。
白いシャツの少年。
花壇の前に立つ少女。
けれど、以前の写真とは違っていた。
そこには、もう一人の人物が写っていた。
少女の少し後ろ。
傘を差した女性。
その顔を見た瞬間。
朔の表情が変わった。
「……まさか」
彼は画面を拡大した。
女性は、私の母親だった。
そして。
その女性の手には、久遠流の家紋が入った封筒が握られていた。
朔は息を止めた。
五年前。
私と彼が出会った日。
そこには、まだ知られていない事情があった。
彼はスマートフォンを握りしめた。
そして、静かに呟いた。
「……小春」
その声は、震えていた。
「あなたは、何を知らされているんですか」
窓の外では、雨が降り始めていた。
五年前と同じ、静かな雨だった。