冷たい華道家は、私だけに花を乱す
第14話 秘密の地下室と、二十二歳の覚悟
久遠朔が初めて父親に逆らったのは、十歳の春だった。
久遠流の本部で開かれた稽古会。
まだ小さかった彼は、与えられた枝を一本、切らずに残した。
曲がった梅の枝だった。
父は言った。
「その枝は使えない」
朔は答えた。
「でも、綺麗です」
宗一郎は眉をひそめた。
「形が悪い」
「……」
「久遠流の花には、ふさわしくない」
朔は枝を見つめた。
そして、静かに言った。
「僕は、好きです」
その瞬間、父の表情が変わった。
「朔」
低い声だった。
「好き嫌いで花を生けるな」
幼い朔は黙った。
父は続けた。
「花は、流派の美を表現するためにある」
朔は枝を置いた。
そして、言われたとおりに生け直した。
誰もが褒めた。
十歳とは思えない完成度。
天才。
神童。
久遠流の未来。
けれど、朔は嬉しくなかった。
あの曲がった枝のほうが、美しかったと思っていたからだ。
それから十二年。
二十二歳になった朔は、ようやく父の家を出た。
そして今、もう一度、同じ問いに向き合おうとしていた。
花は、誰のために咲くのか。
華道家は、誰のために花を生けるのか。
その答えを探すために。
京都華道展まで、あと六十日。
私は朝から花乃井で、定期装花の準備をしていた。
最近、店には少しずつ新しい注文が増えていた。
小さな飲食店。
美容室。
個人経営のクリニック。
どれも大きな契約ではない。
けれど、毎月続く仕事だった。
店長は嬉しそうに言った。
「小春ちゃん、今月は少し持ち直しそうよ」
私は笑った。
「よかったです」
「まだ安心はできないけどね」
「はい」
私たちは顔を見合わせた。
九条グループとの賃貸借契約の交渉も、続いていた。
先方からは賃料の大幅な引き上げ案が提示されていたが、弁護士を通じて根拠資料を求めていた。
建物の所有者が変わったからといって、何でも自由に決められるわけではない。
それでも、相手は大きな企業グループだった。
こちらには資金も人手も限られている。
店長は言った。
「小春ちゃん」
「はい」
「京都のこと、気にしすぎないでね」
私は少し驚いた。
「……どうしてですか」
「最近、ずっと考え込んでるでしょう」
私は黙った。
確かに、そうだった。
京都の準備。
朔の右手。
久遠流の内部対立。
父が残した資料。
そして、榊原からの不気味な電話。
考えることが多すぎた。
店長は微笑んだ。
「一つずつ、やればいいのよ」
私は頷いた。
「……はい」
そのとき。
店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
顔を上げる。
久遠美月だった。
朔の母親。
淡い藤色の着物を着ていた。
相変わらず上品で、穏やかな人だった。
けれど、今日は少し疲れて見えた。
「三崎さん」
私は頭を下げた。
「こんにちは」
美月は静かに微笑んだ。
「少し、お時間をいただけますか」
私は店長を見た。
店長は頷いた。
「奥でどうぞ」
私たちは店の小さな休憩室へ移った。
美月は椅子に座ると、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……朔のこと、ありがとうございます」
私は驚いた。
「……いえ」
「家を出てから、あの子は変わりました」
美月は微笑んだ。
「以前より、ずっと人間らしくなった」
私は少し笑った。
「……そうですか」
「ええ」
美月は頷いた。
「笑うようになりました」
私は胸が温かくなった。
「……よかったです」
美月は少し目を伏せた。
「でも」
その声が、低くなった。
「今、久遠家で大変なことが起きています」
私は息を止めた。
「……何があったんですか」
美月はしばらく迷った。
そして、静かに答えた。
「宗一郎と征臣さんが、対立しています」
私は黙った。
朔の父と叔父。
京都華道展で、作品を競う二人。
けれど、それだけではないらしい。
美月は続けた。
「昨夜、旧温室で口論になったそうです」
私は息を止めた。
「……旧温室?」
「ええ」
美月は頷いた。
「宗一郎が、征臣さんを問い詰めたと聞いています」
私は父のノートを思い出した。
地下保管室。
文化財修復事業。
特別会計。
私は慎重に尋ねた。
「……何についてですか」
美月は首を横に振った。
「詳しくは、わかりません」
そして、静かに言った。
「でも、六年前のことが関係しているようです」
私は息を止めた。
六年前。
父が亡くなった年。
旧温室の改修工事が延期されたころ。
私は美月を見つめた。
「……私の父も、久遠家の仕事をしていました」
美月の表情が変わった。
「……三崎さんの、お父様が?」
私は頷いた。
「はい」
そして、母から聞いたことを説明した。
旧温室の設計。
安全上の問題。
改修工事の延期。
久遠征臣の名前。
美月は黙って聞いていた。
話し終えると、静かに息を吐いた。
「……そうだったのですね」
私は頷いた。
「はい」
美月は目を伏せた。
そして、しばらくしてから言った。
「三崎さん」
「はい」
「実は、私も一つ、謝らなければならないことがあります」
私は顔を上げた。
美月は続けた。
「以前、朔があなたを守ろうとして怪我をしたと、お話ししましたね」
私は頷いた。
「……はい」
「でも、あれは正確ではありませんでした」
私は黙った。
美月は目を伏せた。
「私は、事故の現場を見ていなかったのです」
私は息を止めた。
「……」
「宗一郎から、そう説明されていました」
美月は静かに言った。
「朔があなたを守ろうとして、怪我をしたと」
私は思い出した。
雨の公園。
旧温室。
玲奈。
割れた花器。
五年前の事故は、いくつもの出来事が重なっていた。
美月は続けた。
「私も、あの子を守りたかった」
「……」
「でも、結果として、間違ったことを伝えてしまいました」
私は首を横に振った。
「……今、話してくださってありがとうございます」
美月は私を見つめた。
そして、少し微笑んだ。
「……あなたは、優しい方ですね」
私は首を横に振った。
「そんなことないです」
美月は静かに言った。
「だからこそ、お願いがあります」
私は顔を上げた。
「……何でしょう」
「朔を、久遠家の争いに巻き込まないでください」
私は黙った。
美月は続けた。
「宗一郎と征臣さんの問題は、あの子の責任ではありません」
私はゆっくり頷いた。
「……そうですね」
「京都の準備に集中させてあげてほしいのです」
私は少し考えた。
そして、静かに答えた。
「お気持ちは、わかります」
美月は私を見た。
「……」
「でも、朔に関係することなら、隠したくありません」
美月の表情が変わった。
私は続けた。
「私たちは、隠し事をしないと約束したんです」
長い沈黙。
そして。
美月は静かに頷いた。
「……そうですね」
その目に、少し涙が浮かんだ。
「私たち大人が、ずっとできなかったことです」
私は胸が苦しくなった。
美月は立ち上がった。
「……失礼しました」
私は頭を下げた。
「ありがとうございました」
彼女は店を出ていった。
私はしばらく、その背中を見つめていた。
夕方。
私は朔に電話をかけた。
「朔」
『小春』
「今日、お母様が来たよ」
電話の向こうが静かになった。
『……母が?』
「うん」
私は美月から聞いたことを話した。
旧温室での口論。
父と叔父の対立。
六年前の問題。
朔は黙って聞いていた。
そして、静かに言った。
『……そうですか』
私は少し迷った。
「……大丈夫?」
朔は答えなかった。
長い沈黙。
そして。
『小春』
「何?」
『今夜、父に会ってきます』
私は息を止めた。
「……今から?」
『はい』
「でも」
私は言いかけた。
けれど、止めた。
朔が自分で決めたことだ。
私は彼の意思を尊重したかった。
「……わかった」
朔は少し驚いたようだった。
『止めないんですか』
私は笑った。
「止めてほしい?」
彼は黙った。
私は続けた。
「自分で決めたんでしょう」
『……はい』
「だったら、行っておいで」
長い沈黙。
そして。
『……ありがとう』
朔の声が柔らかくなった。
私は続けた。
「でも、無理はしないでね」
『はい』
「それから」
『何ですか』
「帰ってきたら、連絡して」
朔は微笑んだようだった。
『約束します』
電話を切った。
私はスマートフォンを置いた。
胸の奥が、少しだけ不安だった。
けれど。
今度は、信じようと思った。
朔が自分の意思で動くことを。
その夜。
久遠朔は、久しぶりに久遠家の門をくぐった。
大きな門。
白い石畳。
整えられた庭。
幼いころから見慣れた景色だった。
けれど、今は少し違って見えた。
ここは、もう自分の家ではない。
そう思うと、不思議なほど心が静かだった。
使用人が驚いた顔で迎えた。
「朔様」
朔は頭を下げた。
「父に会いたいのですが」
「……少々、お待ちください」
しばらくして、書斎へ案内された。
宗一郎は机に向かっていた。
濃い灰色の着物。
厳しい表情。
朔が入っても、顔を上げなかった。
「……何の用だ」
低い声だった。
朔は静かに答えた。
「話があります」
宗一郎は筆を置いた。
「……座れ」
朔は椅子に座った。
長い沈黙。
そして。
「叔父さんと、何があったんですか」
宗一郎の表情が変わった。
「……誰から聞いた」
「母からです」
宗一郎は小さく息を吐いた。
「余計なことを」
朔は黙った。
そして、静かに続けた。
「旧温室のことですか」
宗一郎の目が細くなった。
「……」
「六年前の改修工事」
朔は父を見つめた。
「三崎小春の父親が、関わっていたと聞きました」
宗一郎は何も言わなかった。
朔は続けた。
「本当ですか」
長い沈黙。
そして。
「……ああ」
宗一郎は静かに答えた。
「三崎君は、優秀な設計者だった」
朔は息を止めた。
宗一郎は続けた。
「花をよく理解していた」
「……」
「空間の使い方も、光の入り方も」
彼は少し目を伏せた。
「私は、彼の仕事を高く評価していた」
朔は黙った。
宗一郎は続けた。
「だが、旧温室の改修で意見が対立した」
「……叔父さんと?」
「ああ」
宗一郎は頷いた。
「征臣は、予算を理由に工事を延期した」
朔は静かに尋ねた。
「本当に、予算が理由だったんですか」
宗一郎の表情が変わった。
長い沈黙。
そして。
「……違う」
朔は息を止めた。
宗一郎は続けた。
「当時、久遠流では文化財修復事業を進めていた」
「……」
「古い花器や展示施設を修復するため、外部から資金を集めていた」
朔は頷いた。
「聞いたことがあります」
宗一郎は続けた。
「だが、その一部が、別の用途に使われていた」
朔の目が細くなった。
「……別の用途?」
宗一郎は机の引き出しから、一冊の帳簿を取り出した。
古い帳簿だった。
『文化財修復事業 特別会計』
朔は息を止めた。
宗一郎は続けた。
「征臣が管理していた」
「……」
「資金の一部が、久遠流の別の事業に流れていた」
朔は帳簿を見つめた。
「……不正ですか」
宗一郎は首を横に振った。
「まだ、断定できない」
そして、静かに言った。
「ただ、説明できない支出がある」
朔は黙った。
宗一郎は続けた。
「三崎君は、それに気づいた」
「……」
「旧温室の改修費が足りない理由を調べていたのだ」
朔は息を止めた。
宗一郎は目を伏せた。
「私は、彼から相談を受けた」
「……」
「だが、十分に対応しなかった」
その声には、後悔が混じっていた。
朔は静かに尋ねた。
「……なぜですか」
宗一郎はしばらく黙っていた。
そして、低い声で答えた。
「久遠流の評判を守りたかった」
朔は何も言えなかった。
宗一郎は続けた。
「当時、流派は大きな事業を抱えていた」
「……」
「不正の疑いが表に出れば、多くの人に影響が出る」
朔は静かに言った。
「でも、その結果、改修が延期された」
宗一郎は頷いた。
「……ああ」
「そして、五年前に事故が起きた」
長い沈黙。
宗一郎は目を閉じた。
「……そうだ」
朔は帳簿を見つめた。
右手が、少し痛んだ。
あの日。
割れた花器。
玲奈。
相馬。
階段。
すべてが、偶然のように重なった。
けれど、その場所には、以前から危険があった。
朔は静かに尋ねた。
「父さん」
宗一郎が顔を上げた。
「……何だ」
「なぜ、今まで隠していたんですか」
宗一郎は答えなかった。
朔は続けた。
「小春のお父さんは、亡くなる前に問題を指摘していた」
「……」
「そのことを、なぜ誰にも説明しなかったんですか」
宗一郎は目を伏せた。
長い沈黙。
そして。
「……怖かった」
朔は息を止めた。
宗一郎は静かに言った。
「私が守ってきたものが、崩れるのが」
朔は父を見つめた。
初めて聞く言葉だった。
怖かった。
あの厳格な父が、恐怖を口にした。
宗一郎は続けた。
「久遠流は、三百年続いてきた」
「……」
「私の代で、傷をつけるわけにはいかなかった」
朔は静かに答えた。
「でも、傷を隠しても、なくなりません」
宗一郎は顔を上げた。
朔は続けた。
「花も、同じです」
「……」
「傷んだ部分を隠しても、そこから腐っていく」
長い沈黙。
宗一郎は朔を見つめた。
そして、静かに言った。
「……おまえは、変わったな」
朔は少し笑った。
「そうかもしれません」
宗一郎は目を伏せた。
「三崎小春の影響か」
朔は頷いた。
「はい」
そして、静かに続けた。
「でも、僕自身が選んだことです」
宗一郎は何も言わなかった。
朔は立ち上がった。
「父さん」
「……何だ」
「この帳簿、専門家に調べてもらってください」
宗一郎は顔を上げた。
朔は続けた。
「もし不正があったなら、明らかにするべきです」
「……」
「誰かを守るために、また隠すことはしないでください」
長い沈黙。
そして。
宗一郎は静かに頷いた。
「……考えておく」
朔は首を横に振った。
「考えるだけでは、駄目です」
宗一郎の眉が動いた。
朔は続けた。
「今度こそ、行動してください」
その言葉に、宗一郎は何も言えなかった。
朔は深く頭を下げた。
「失礼します」
そして、書斎を出た。
廊下を歩く。
昔は、父に逆らうだけで身体が震えた。
けれど、今は違った。
怖くないわけではない。
ただ、怖くても言うべきことがあると知った。
朔は門を出た。
夜風が頬を撫でた。
そして、スマートフォンを取り出した。
小春に電話をかける。
すぐにつながった。
『朔?』
その声を聞いた瞬間。
胸の奥が、温かくなった。
「小春」
『どうだった?』
朔は静かに答えた。
「話せました」
『……よかった』
彼は少し笑った。
「はい」
『今、どこ?』
「久遠家の前です」
『……』
「帰ります」
小春は少し迷った。
そして、言った。
『うちに来る?』
朔は息を止めた。
「……いいんですか」
『うん』
少し沈黙。
そして。
『今日は、話を聞きたいから』
朔は微笑んだ。
「……ありがとう」
電話を切った。
その夜。
朔は初めて、私の部屋で長い時間を過ごした。
小さなワンルーム。
本棚。
テーブル。
窓際の花。
彼は部屋を見回した。
「……素敵ですね」
私は笑った。
「普通の部屋だよ」
朔は首を横に振った。
「あなたらしいです」
私は少し照れた。
「……そう?」
「はい」
彼は窓際の花を見た。
小さなガラスの花器。
以前、一緒に買ったものだった。
そこには、白い花が一輪生けてあった。
朔は微笑んだ。
「……使ってくれているんですね」
私は頷いた。
「うん」
彼は少し嬉しそうだった。
私はお茶を入れた。
そして、向かい側に座った。
朔は父との会話を、すべて話してくれた。
文化財修復事業。
特別会計。
改修工事の延期。
征臣。
そして、宗一郎の後悔。
私は黙って聞いていた。
話し終えると、長い沈黙があった。
私は静かに言った。
「……お父さん、知ってたんだね」
朔は頷いた。
「はい」
「私のお父さんが、危険を指摘していたことも」
「……はい」
私は目を伏せた。
胸が苦しかった。
父は、亡くなる前まで何を考えていたのだろう。
危険な建物。
隠された会計。
久遠家との関係。
私は何も知らなかった。
朔は静かに言った。
「小春」
私は顔を上げた。
「……何?」
「お父様のこと、申し訳ありません」
私は首を横に振った。
「朔が謝ることじゃないよ」
「でも」
「違う」
私は彼を見つめた。
「あなたは、何も悪くない」
朔は黙った。
私は続けた。
「五年前の事故も、六年前の問題も」
「……」
「あなたが背負うことじゃない」
長い沈黙。
そして。
朔はゆっくり頷いた。
「……はい」
私は少し笑った。
「それより」
「何ですか」
「京都の準備、どうする?」
朔は少し驚いた。
「……今、その話を?」
私は頷いた。
「うん」
彼はしばらく私を見つめた。
そして、静かに笑った。
「……あなたらしいですね」
私は笑った。
「だって、時間がないでしょう」
朔は頷いた。
「そうですね」
私はノートを取り出した。
「作品の構成、もう一度考えたいの」
朔は少し身を乗り出した。
「聞かせてください」
私はページを開いた。
中央に一本の曲がった枝。
その周囲に、小さな花。
そして、足元には苔と石。
私は指をさした。
「これ」
朔は見つめた。
「……」
「お父さんのノートに、似た構想があったの」
私はスケッチを見せた。
朔は息を止めた。
「……これは」
「旧温室の設計図の一部みたい」
彼はじっと見つめた。
そして、静かに言った。
「……美しい」
私は胸が温かくなった。
「そう?」
「はい」
朔は続けた。
「花と空間が、一つになっている」
私は頷いた。
「うん」
彼はしばらく考えた。
そして、静かに言った。
「小春」
「何?」
「この考え方を、京都の作品に取り入れませんか」
私は驚いた。
「……いいの?」
朔は微笑んだ。
「もちろん」
そして、静かに続けた。
「あなたのお父様が大切にしていたものを、僕たちの作品にも生かしたい」
私は胸が熱くなった。
「……ありがとう」
朔は首を横に振った。
「僕も、学びたいんです」
私たちは図面を広げた。
枝の角度。
花の配置。
光の入り方。
水の流れ。
一つずつ考えていく。
気づけば、夜遅くになっていた。
私は時計を見た。
「……もう、こんな時間」
朔も顔を上げた。
「本当ですね」
私は笑った。
「今日は、ここまで」
朔は頷いた。
「はい」
彼は立ち上がろうとした。
そのとき。
右手をかばうように、少し顔をしかめた。
私はすぐに気づいた。
「……痛い?」
彼は少し迷った。
そして、頷いた。
「……少し」
私はため息をついた。
「だから、無理しないでって言ったでしょう」
「すみません」
私は彼の手を取った。
「今日は、もう何もしない」
朔は頷いた。
「はい」
私は少し考えた。
そして、言った。
「……泊まっていく?」
その瞬間。
朔が固まった。
「……え?」
私は顔が熱くなった。
「遅いし」
「……」
「手も痛いでしょう」
朔は私を見つめた。
「……いいんですか」
私は頷いた。
「うん」
彼はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……小春」
「何?」
「僕は、今、とても嬉しいです」
私は思わず笑った。
「大げさ」
彼は首を横に振った。
「本当です」
私は少し照れた。
「……ただし」
「はい」
「今日は、ちゃんと寝ること」
朔は真剣に頷いた。
「わかっています」
私は笑った。
「それから、ベッドは一つしかないから」
彼は少し考えた。
「僕は床で寝ます」
私は驚いた。
「……え?」
「あなたのベッドを使うわけにはいきません」
私は吹き出した。
「真面目すぎる」
朔は少し困った顔をした。
「……駄目ですか」
私は笑った。
「布団を出すから、少し待って」
彼は頷いた。
「はい」
私は押し入れから予備の布団を出した。
朔は手伝おうとしたが、右手を休ませるように言うと、素直に座った。
その姿が、少し可愛かった。
寝る準備を終えたあと。
私たちは部屋の明かりを落とした。
私はベッド。
朔は床の布団。
窓の外では、雨が降り始めていた。
しばらく、静かな時間が流れた。
そして。
「……小春」
暗闇の中で、朔の声がした。
「何?」
「眠れません」
私は少し笑った。
「どうして?」
長い沈黙。
そして。
「……幸せすぎて」
私は顔が熱くなった。
「……もう」
朔は小さく笑った。
「すみません」
私は天井を見つめた。
そして、静かに言った。
「……朔」
「はい」
「私も、幸せ」
暗闇の中で、彼が息を呑む気配がした。
しばらく沈黙。
そして。
「……小春」
「何?」
「手をつないでもいいですか」
私は少し笑った。
「届く?」
朔は布団から手を伸ばした。
私はベッドの端から手を下ろした。
指先が触れる。
そして、そっと握り合った。
温かい手。
少しだけ硬い指。
私は目を閉じた。
「……おやすみ」
朔は静かに答えた。
「おやすみなさい」
雨の音が、部屋を包んでいた。
その夜。
私は久しぶりに、深く眠った。
翌朝。
朔は私より早く起きていた。
キッチンから、小さな音がする。
私は目を開けた。
「……朔?」
彼が振り返った。
「おはようございます」
私は驚いた。
「何してるの?」
「朝食を作っています」
私は慌てて起き上がった。
「手は?」
「左手でできることだけです」
私はキッチンを覗いた。
トースト。
ヨーグルト。
果物。
そして、温かい紅茶。
私は少し笑った。
「……すごい」
朔は微笑んだ。
「簡単なものですが」
私は椅子に座った。
「ありがとう」
彼も向かい側に座った。
私たちは朝食を食べた。
普通の朝。
普通の部屋。
普通の食事。
けれど、私には特別だった。
朔は紅茶を飲みながら、静かに言った。
「小春」
「何?」
「僕は、こういう生活がしたかったのかもしれません」
私は顔を上げた。
「……こういう?」
「はい」
彼は微笑んだ。
「誰かと朝食を食べて」
「……」
「今日の予定を話して」
「……」
「一緒に、普通の時間を過ごす」
私は胸が温かくなった。
「……そうだね」
朔は私を見つめた。
「いつか」
「うん」
「毎日、こうして過ごせたら嬉しいです」
私は顔が熱くなった。
「……それって」
朔は少し考えた。
そして、真剣に言った。
「将来の希望です」
私は何も言えなかった。
彼は微笑んだ。
「今すぐ答えなくていいです」
私は少し笑った。
「……ありがとう」
朔は頷いた。
「はい」
そのとき。
スマートフォンが鳴った。
朔のものだった。
彼は画面を見た。
表情が変わった。
「……父からです」
私は息を止めた。
「出たほうがいいよ」
朔は頷いた。
そして、電話に出た。
「もしもし」
短い沈黙。
そして。
「……え?」
彼の表情が変わった。
私は不安になった。
朔は静かに尋ねた。
「……いつですか」
電話の向こうから、低い声が響いていた。
朔はしばらく黙っていた。
そして。
「……わかりました」
電話を切った。
私は顔を上げた。
「……何があったの?」
朔は私を見つめた。
そして、静かに言った。
「叔父が、久遠流の幹部会を招集しました」
私は息を止めた。
「……幹部会?」
「はい」
朔は続けた。
「父の家元としての責任を問うそうです」
私は何も言えなかった。
「文化財修復事業の会計について」
「……」
「父が問題を放置していたことを、理由に」
私は胸が冷たくなった。
征臣自身が、資金管理を担当していたはずだ。
それなのに。
朔は静かに言った。
「叔父は、父を家元の座から退かせようとしています」
私は息を止めた。
「……そんな」
朔は目を伏せた。
「そして」
彼は少し言葉を切った。
「次の家元に、自分が就くつもりのようです」
私は何も言えなかった。
久遠流。
三百年続く名門。
その内部で、権力争いが始まっていた。
朔は静かに息を吐いた。
そして、私を見た。
「小春」
「……何?」
「京都の準備を、続けましょう」
私は驚いた。
「……いいの?」
彼は頷いた。
「はい」
そして、静かに言った。
「僕が今できることは、花を生けることです」
私は胸が熱くなった。
「……うん」
朔は微笑んだ。
「それに」
「何?」
「あなたと一緒に作る作品を、完成させたい」
私は頷いた。
「……私も」
私たちは顔を見合わせた。
そして、静かに笑った。
そのころ。
久遠流本部では、征臣が幹部たちに資料を配っていた。
文化財修復事業の会計。
改修工事の延期。
事故の経緯。
そして、宗一郎の責任。
征臣は静かに言った。
「兄は、問題を知りながら放置しました」
幹部たちは黙っていた。
「久遠流の信頼を守るためには、責任を明確にする必要があります」
一人が尋ねた。
「副家元は、どうお考えですか」
征臣は静かに答えた。
「私が、流派を立て直します」
会議室がざわめいた。
征臣は続けた。
「京都華道展では、私が久遠流を代表します」
そして、静かに微笑んだ。
「新しい久遠流を、お見せしましょう」
幹部たちは顔を見合わせた。
そのとき。
会議室の扉が開いた。
宗一郎が入ってきた。
「……征臣」
低い声だった。
征臣は振り返った。
「兄さん」
宗一郎は静かに言った。
「勝手なことをするな」
征臣は笑った。
「勝手?」
そして、資料を持ち上げた。
「兄さんが放置した問題を、整理しているだけですよ」
宗一郎は黙った。
征臣は続けた。
「久遠流を守るためです」
その言葉に、宗一郎の表情が変わった。
かつて、自分が何度も口にした言葉だった。
久遠流を守るため。
家を守るため。
息子を守るため。
その言葉で、どれほど多くのものを傷つけてきたのか。
宗一郎は静かに言った。
「……征臣」
「何ですか」
「帳簿の原本は、私が保管している」
征臣の笑顔が消えた。
宗一郎は続けた。
「外部の専門家に、調査を依頼した」
会議室が静まり返った。
征臣は目を細くした。
「……兄さん」
宗一郎はまっすぐ弟を見た。
「今度こそ、すべてを明らかにする」
長い沈黙。
そして。
征臣は静かに笑った。
「……そうですか」
その目には、冷たい光が宿っていた。
「では、こちらも準備を進めます」
彼は机の上に、一枚の写真を置いた。
そこには、五年前の雨の公園が写っていた。
少年の朔。
少女の小春。
そして、傘を差した母親。
征臣は静かに言った。
「兄さん」
「……何だ」
「あなたが守ろうとした秘密は、これだけではないでしょう」
宗一郎の表情が変わった。
征臣は微笑んだ。
「朔が知ったら、どう思うでしょうね」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
そして。
京都華道展まで、あと五十九日。
久遠流の争いは、ついに表面化しようとしていた。