私の夫はサイコパス
「食器、洗っておいて。大翔の予防接種行ってくるから」
私は大翔の手を引き、玄関に向かいながら声をかけた。
「おう」
京平はソファに身体を沈めたまま、スマホから目を離さない。
窓から差し込む午後の光が、床の上に細長く伸びている。
私は大翔を連れて、慌ただしく家を出た。
予防接種を済ませ、家に戻ると、玄関には脱ぎ捨てられた京平の靴があった。
リビングへ入る。
予想通り。シンクの中には、朝から使った食器がいくつか残っていた。水につけてあるものもあれば、乾いたままのものもある。
コンロには鍋とフライパンが置き去りにされていた。
「ねえ、洗っておいてって言ったよね?鍋も残ってるんだけど」
「あとで洗うから、置いといて」
京平はソファに寝転がり、スマホの画面を指で滑らせながら言った。悪びれる様子はない。
私はしばらく、その背中を見ていた。
それから何も言わず、シンクの前に立った。
蛇口をひねる。
勢いよく流れ落ちる水の音が、静かなキッチンに響いた。
スポンジに洗剤をつけ、鍋をこする。
小さくため息を吐いて、黙々と手を動かした。
月末になると、共同で使用する銀行口座に、生活費を入れるのが我が家のルールだ。
「今月、二十万入れてね」
「えー、先月より増えてるじゃん」
「育休の給付金減ったし、出費多いから」
「ったく、ちゃんと節約してよ」
京平は眉をひそめた。
自分の趣味のキャンプ道具を買うときには、財布の紐が緩むくせに。
心の中でそう嫌味を呟いた。
新しいテント。
焚き火台。
高価なアウトドアチェア。
宅配便が届くたび、京平は子どものように嬉しそうな顔をした。
自分のためなら、迷わず金を使う。
なのに、家族の生活に必要な金には、ほんの少しでも出し渋る。
そのたびに、胸の奥に冷たいものが溜まっていった。
ある日の夜だった。
風呂に入っていると、浴室の向こうから大翔の泣き声が聞こえてきた。
最初はいつものぐずりだと思った。
けれど、泣き声は次第に大きくなった。
「うわぁぁぁん!」
浴室の白い壁に、その声が反響する。
私は身体を拭くのもそこそこに服を着た。
嫌な予感がした。
濡れた髪から水滴が首筋を伝う。
急いでリビングへ駆け込む。
大翔は床に座り込み、顔を真っ赤にして泣いていた。
そのすぐそばに、京平が立っている。
「何したの?」
私が聞くと、京平は大翔を見下ろしたまま答えた。
「こいつが俺のこと叩いてきたから」
声には怒りよりも苛立ちが混じっていた。
子どもがぐずると、京平はすぐに切れる。
以前、大翔が京平の身体を叩くと、京平は倍返しにして大翔を叩いたことがあった。
子ども相手に、本気になる。
大翔はしゃくり上げながら、私のほうへ手を伸ばした。慌てて抱き上げる。
小さな身体が、私の胸の中で震えていた。
「相手は子どもだよ?」
私が京平を睨むと、京平は少しも動じなかった。
「先に叩いてきたのは、そっちだろ」
相手は子どもなのに。
私は言葉を失った。
腕の中で泣き続ける大翔の背中を、何度も撫でる。
その小さな背中に触れながら思った。
この人には、何かが欠けている。
夫と出会ったのは、大学一年生の春だった。
桜が散り始めた頃。
新歓で賑わう大学のキャンパスには、真新しいサークルの看板がいくつも並んでいた。
テニスサークルの勧誘をしていた彼を、私はそこで初めて見た。髪の毛は明るめの茶髪で、少し派手な雰囲気だった。
髪型も、服装も、当時の私からすると少しだけ近寄りがたい。
けれど、話してみると意外だった。
よく笑う。
くだらないことを言って、人を笑わせる。
「この人、ちょっと面白いな」
それが、彼に対する最初の印象だった。
その後、彼から告白され、私たちは付き合い始めた。
二人とも学生だったから、デート代は基本的に割り勘だった。
ファミレスで食事をして、会計のときに財布を出す。
映画を観れば、それぞれ自分の分を払う。
特に不満はなかった。
私も彼も同じ学生だったし、それが当たり前だと思っていた。
大学を卒業すると、二人とも地元の企業に就職した。
春の朝、真新しいスーツに袖を通して、同じように社会人になった。
あの頃の私は、まだ知らなかった。
目の前で笑っているこの人が、いつか私にとって、こんなにも遠い存在になることを。
私は大翔の手を引き、玄関に向かいながら声をかけた。
「おう」
京平はソファに身体を沈めたまま、スマホから目を離さない。
窓から差し込む午後の光が、床の上に細長く伸びている。
私は大翔を連れて、慌ただしく家を出た。
予防接種を済ませ、家に戻ると、玄関には脱ぎ捨てられた京平の靴があった。
リビングへ入る。
予想通り。シンクの中には、朝から使った食器がいくつか残っていた。水につけてあるものもあれば、乾いたままのものもある。
コンロには鍋とフライパンが置き去りにされていた。
「ねえ、洗っておいてって言ったよね?鍋も残ってるんだけど」
「あとで洗うから、置いといて」
京平はソファに寝転がり、スマホの画面を指で滑らせながら言った。悪びれる様子はない。
私はしばらく、その背中を見ていた。
それから何も言わず、シンクの前に立った。
蛇口をひねる。
勢いよく流れ落ちる水の音が、静かなキッチンに響いた。
スポンジに洗剤をつけ、鍋をこする。
小さくため息を吐いて、黙々と手を動かした。
月末になると、共同で使用する銀行口座に、生活費を入れるのが我が家のルールだ。
「今月、二十万入れてね」
「えー、先月より増えてるじゃん」
「育休の給付金減ったし、出費多いから」
「ったく、ちゃんと節約してよ」
京平は眉をひそめた。
自分の趣味のキャンプ道具を買うときには、財布の紐が緩むくせに。
心の中でそう嫌味を呟いた。
新しいテント。
焚き火台。
高価なアウトドアチェア。
宅配便が届くたび、京平は子どものように嬉しそうな顔をした。
自分のためなら、迷わず金を使う。
なのに、家族の生活に必要な金には、ほんの少しでも出し渋る。
そのたびに、胸の奥に冷たいものが溜まっていった。
ある日の夜だった。
風呂に入っていると、浴室の向こうから大翔の泣き声が聞こえてきた。
最初はいつものぐずりだと思った。
けれど、泣き声は次第に大きくなった。
「うわぁぁぁん!」
浴室の白い壁に、その声が反響する。
私は身体を拭くのもそこそこに服を着た。
嫌な予感がした。
濡れた髪から水滴が首筋を伝う。
急いでリビングへ駆け込む。
大翔は床に座り込み、顔を真っ赤にして泣いていた。
そのすぐそばに、京平が立っている。
「何したの?」
私が聞くと、京平は大翔を見下ろしたまま答えた。
「こいつが俺のこと叩いてきたから」
声には怒りよりも苛立ちが混じっていた。
子どもがぐずると、京平はすぐに切れる。
以前、大翔が京平の身体を叩くと、京平は倍返しにして大翔を叩いたことがあった。
子ども相手に、本気になる。
大翔はしゃくり上げながら、私のほうへ手を伸ばした。慌てて抱き上げる。
小さな身体が、私の胸の中で震えていた。
「相手は子どもだよ?」
私が京平を睨むと、京平は少しも動じなかった。
「先に叩いてきたのは、そっちだろ」
相手は子どもなのに。
私は言葉を失った。
腕の中で泣き続ける大翔の背中を、何度も撫でる。
その小さな背中に触れながら思った。
この人には、何かが欠けている。
夫と出会ったのは、大学一年生の春だった。
桜が散り始めた頃。
新歓で賑わう大学のキャンパスには、真新しいサークルの看板がいくつも並んでいた。
テニスサークルの勧誘をしていた彼を、私はそこで初めて見た。髪の毛は明るめの茶髪で、少し派手な雰囲気だった。
髪型も、服装も、当時の私からすると少しだけ近寄りがたい。
けれど、話してみると意外だった。
よく笑う。
くだらないことを言って、人を笑わせる。
「この人、ちょっと面白いな」
それが、彼に対する最初の印象だった。
その後、彼から告白され、私たちは付き合い始めた。
二人とも学生だったから、デート代は基本的に割り勘だった。
ファミレスで食事をして、会計のときに財布を出す。
映画を観れば、それぞれ自分の分を払う。
特に不満はなかった。
私も彼も同じ学生だったし、それが当たり前だと思っていた。
大学を卒業すると、二人とも地元の企業に就職した。
春の朝、真新しいスーツに袖を通して、同じように社会人になった。
あの頃の私は、まだ知らなかった。
目の前で笑っているこの人が、いつか私にとって、こんなにも遠い存在になることを。

