私にだけ甘すぎる
私にだけ甘すぎる
彼は完璧な人だ。
私の希望はいつだって何でも聞いてくれた。
そしてなんでも叶えてくれた。
時間もお金も惜しまず私に使って、私のために尽くしてくれた。
「行きたいところある?」
「何が食べたい?」
「どうしたい?」
「欲しいものある?」
「任せるよ」
最初はそれが嬉しかった。
彼の王子様のような容姿も相まって、まるでお姫様になったみたい、と浮かれていた。
でも半年付き合っても私は1度も彼の「こうしたい」を聞いたことがなかった。
それでもそれが彼の優しさなのだと思っていた。
けれどいつからだろう。
彼のことを大好きで大切な彼氏というより、だんだん無条件に娘を甘やかす父親のように感じるようになってしまった。
そしてそう思ってしまった瞬間から、私はもう彼と恋人として向き合えなくなっていた。

彼、神崎裕一郎(かんざきゆうちいろう)は私竹下夏実(たけしたなつみ)の5つ上の32歳。
国内最大級のIT企業を20代で創業し、現在は世界各国に拠点を持つ会社のCEO。
年収なんて私には想像もつかない。
テレビや経済誌で取り上げられることも多い。
社員からの信頼も厚い。
容姿はモデルみたいに整っている。
身長は185センチ。
スウェットの上下だったとしても、どこにいても目立つ。
そんな彼との出会いは1年ほど前。
私が勤めている会社と、彼の会社が共同で新しいサービスを立ち上げることになった。
私はそのプロジェクトの企画担当だった。
初めて会議室に入ってきた彼を見た時、テレビで見るよりずっと綺麗な顔をしていたのに驚いた。
が、あまりにも整っていてなんだか近寄り難い。
こんな人とこれからやっていけるのだろうか。
そんな不安もあったが一先ず
「本日はよろしくお願いします」
私はまずは挨拶からだろうと頭を下げた。
「こちらこそ。よろしくお願いします」
彼はにこやかに頭を下げた。
この人、こんな穏やかな顔で笑うんだ。
なんだか胸がいっぱいになった。

プロジェクトが進むにつれて、私は彼と一緒に仕事をする時間が増えた。
彼は誰よりも激務で休みなく働いているのに、人前では絶対に感情を乱さない。
それどころかいつだって身なりも洗練されていて、毅然としていた。
私は何度もこの人本当に人間なのかなと不思議に思ったし、少し不気味だった。
ある日の深夜。
残業を終え帰ろうとすると、会議室から光が漏れていた。
つけっぱなしの電気を消そうと思って会議室に入ると、彼が1人残っていた。
「お疲れ様です。まだ帰らないんですか?」
「竹下さんこそ」
「私はこれから帰るところです」
「遅くまでお疲れ様。気をつけて」
「ありがとうございます。そうだ」
私は彼がいつもより顔色が悪くて、疲れていそうだったので缶コーヒーを置いた。
「どうぞ」
彼はそれを見て、
「ありがとう……無糖?」
「はい。いつも飲んでいるから、好きなのかなって」
「ああ。あれはタイムセールでまとめ買いしただけだから」
「タイムセール?!まとめ買い?!」
まさか彼からそんな単語が出るなんて思ってもいなかった。
「え?そんなにびっくりするところ?」
「いや、だってCEOがそんな……」
「眠気が覚めるのならなんだっていい。買いに行くのも手間だし」
とても合理的で、そこは彼らしいなと微笑ましかった。
「そうですよね。いつもお忙しいですもんね。私、そんなにクマが出来ているところ初めて見ましたもん」
「嘘」
そうすると彼は咄嗟にコンパクトを取り出した。
「え、それって……」
化粧崩れしにくいとバズっていたコンシーラーとファンデのセットだった。
私も別のカラーのものを使っていた。
「あ、人前でやることじゃなかったな。見なかったことにしてくれ」
「メイクしていたんですか?」
「ああ。って言ってもクマと血色が悪いのを隠していただけだ。こんな顔色のCEOと一緒に仕事なんてしたくないだろ」
「そんな……」
思わず笑ってしまった。
「何?」
「いえ。なんだか安心しました」
「安心?」
「ちゃんと人間なんだなって」
彼は一瞬だけ目を丸くした。
そして、ふっと笑った。
「失礼だな」
その笑顔を見た瞬間、胸が大きく鳴った。
それが恋の始まりだった。

その日から彼との距離が少しずつ近くなった。
仕事の話をするだけだったのが、昼休みに雑談をするようになった。
彼は意外とくだらない話も好きだった。
コンビニの新商品について話したり、私が使っている化粧品について聞いてきたり。
そんな会話が楽しかった。
そして私は、彼のことを少しずつ知っていった。
仕事では合理的で無駄がない。
でもコンビニでは必ず割引シールのついた商品を選ぶ。
高級レストランにも行くのに、自分1人の昼食は1000円程度で済ませることもある。
服も高級品ばかりかと思えば、気に入ったものを何年も着続けていた。
「もっといいもの買えばいいのに」
そう言うと、
「服なんて着られればいいだろ」
と答える。
なのに私が「これいいな」
と呟いたものは、次の日には私の家に届いた。
最初は驚いた。
「これ、どうしたんですか?」
「昨日欲しいって言ってたから」
「いや、そうですけど……」
「いらなかった?」
「すごく欲しかったです」
「じゃあ問題ないね」
そんな人だった。
自分には驚くほどお金を使わないのに、私には惜しみなく使う。

付き合い始めたのは、それから2ヶ月後だった。
告白したのは彼からだった。
仕事帰り、車の中で突然
「竹下さんに話したいことがある」
と言われた
私は緊張して、
「はい」
と答えた。
「俺は竹下さんが好きだ」
あまりにも真っ直ぐだった。
「仕事仲間としてじゃない。女性として好きだ」
顔を見られなくなった。
「……私も、好きです」
そう答えると、彼は少しだけ目を細めた。
「よかった」

それから私たちは付き合い始めた。
デートをするときも彼はいつも私に選ばせた。
「どこ行きたい?」
「何食べたい?」
「何時に帰りたい?」
「全部、夏実の好きなようにしていいよ」
私は幸せだった。
こんなに大切にされることがあるんだと思った。
欲しいものを買ってもらえるからではない。
自分の気持ちを何より優先してくれることが嬉しかった。
「裕一郎さんは?」
「俺?」
「行きたいところとか」
「特にないよ」
「食べたいものは?」
「夏実が食べたいものでいい」
「したいことは?」
「夏実と一緒にいられれば、それでいい」
その頃の私はそれを愛だと思っていた。

半年が経った。
ある休日、私は彼の家にいた。
ソファで映画を観ながら、私は何気なく聞いた。
「ねえ、裕一郎さん」
「ん?」
「裕一郎さんって、本当にしたいことないの?」
「どういう意味?」
「だって、いつも私に合わせてくれるから」
「合わせてるつもりはないよ」
「でも、私が行きたいって言ったらどこでも連れて行ってくれるし、食べたいって言ったら何でも食べさせてくれるし」
「夏実が喜ぶなら、それでいい」
「……それって、楽しい?」
「楽しいよ」
即答だった。
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ、裕一郎さんが1人で行きたいところは?」
「わざわざ1人で出かけたくないかな」
「食べたいものは?」
「夏実と一緒なら何でも」
「欲しいものは?」
「今のところない」
いつもこうだ。
胸の奥に妙な違和感が生まれていた。
こんなの対等な関係と言えるだろうか?
まるで我儘な娘の言いなりになっている父親のよう。
その日から少しずつ彼を見る目が変わっていった。
彼が私のために何かを買ってくれるたびに、
「ありがとう」
と言いながらも、心のどこかで思ってしまう。
――まるで子供みたいに甘やかされている。
そう思った瞬間から、もう以前のようには戻れなかった。
私は彼を避けるようになった。
連絡も会う頻度も減らした。
彼は何も言わなかった。
私が距離を取れば、彼も距離を取った。
追いかけてこない。
責めない。
怒らない。
それがまた反抗期の娘と父親のようで苦しかった。

ある日私はとうとう言った。
「裕一郎さんは私に何を求めているの?」
彼は黙った。
「私は裕一郎さんに何も返せてない気がする」
「そんなことない」
「でも……」
「俺が勝手にしていることだから」
「それが嫌なの」
初めて彼の表情が変わった。
「何が?」
「裕一郎さんは私に何も求めないでしょう?」
「……」
「何をしたいのかも言わない。私が嫌だって言えば全部やめる。私が欲しいって言えば何でも買う」
「それが嫌?」
「嫌っていうか……」
言葉が出てこなかった。
「私、裕一郎さんの恋人なのに」
涙がこぼれた。
「なんだか娘みたい…」
彼の顔から笑みが消えた。
「……そう?」
「ごめんなさい」
「謝らなくていい」
「でも」
「ほら、一旦落ち着いて」
そういうとハンカチを渡してきた。
「今日はもう帰ろう」
その声はいつもと変わらず穏やかだった。
だから余計に苦しかった。
私は何を望んでいたんだろう?
「そんなことない」
と強く否定して欲しかった?
「なに馬鹿なこと言っているんだ」
と彼が怒ってくれればよかった?

1週間後。
プロジェクトの最終プレゼンの日が来た。
彼はいつも通り完璧だった。
スーツに皺ひとつなく、髪も整っている。
声も表情も落ち着いている。
誰が見ても完璧なCEOだった。
プレゼンは成功した。
会場から拍手が起きた。
私はその光景を眺めながらなぜか泣きそうになった。
これで仕事上の繋がりも終わる。
もう彼に会う理由はなくなる。
そう思った瞬間だった。
「少し時間ある?」
振り返ると彼が立っていた。
「うん」
2人で誰もいない会議室に入った。

「プロジェクト、お疲れ様」
「裕一郎さんも」
「これで仕事として君に会うことはほとんどなくなると思う」
「……そうだね」
「だから、今から話すことはCEOとしてじゃなく、俺個人として聞いてほしい」
心臓が跳ねた。
彼は少しだけ息を吐いた。
「俺は夏実に嫌われたくない」
「……」
「それが、俺の1番大きな望みだった」
私は顔を上げた。
「じゃあ、どうして何も言わなかったの?」
「怖かったから」
初めて聞く言葉だった。
「俺が何かを望んだら、夏実がそれを負担に感じるんじゃないかと思っていた」
「そんな……」
「俺は自分の人生では、欲しいものを手に入れるために、ずっと人に要求してきた」
彼は静かに笑った。
「会社もそう。事業もそう。必要なものは自分で決めて、自分で取りに行く。社員にも結果を求める」
「……うん」
「でも、夏実にはそれをしたくなかった」
「どうして?」
「好きだから、大切だから」
胸が痛んだ。
「夏実には、夏実の好きなことを好きなようにして欲しかった」
彼は私を見る。
「だから何でも聞いた」
「……」
「行きたいところがあるなら連れて行く。食べたいものがあるなら一緒に食べる。欲しいものがあるなら買う」
「それは……」
「夏実が笑ってくれるから」
その言葉で、涙が落ちた。
「俺は夏実を甘やかしたかったわけじゃない」
彼は少し困ったように笑った。
「ただ、好きな人を喜ばせたかった」
私は何も言えなかった。
「それが夏実を苦しめていたなら、俺のやり方が間違っていた」
「違うよ、裕一郎さんが悪いんじゃない」
「でも確かに父親と娘みたいだったよな」
彼は苦笑いをする。
「寧ろそれ以上だったよ。私お父さんからこんなに色々されてこなかったから」
思い返せば寂しい幼少期だった。
そんな幼少期が少し癒された気もするが、私がしたかったことはそうではない。
「と言うか裕一郎さんは何がしたいの?」
ここまで来たら流石に言ってくれるだろう。
いい加減に私の事ばかりではなく、彼自身のことを聞きたかった。
「なら頭を撫でてくれないか?」
「え…」
思ってもなかった答えに唖然としてしまった。
「プロジェクトお疲れ様って」
「そんなことでいいの?」
「それが1番嬉しいよ」
「なら」
私は彼の頭を撫でようとすると
「待ってせっかくだから」
彼は私の膝を枕にした。
「ふふ、いいね」
「だろ?」
そして彼とキスをした。
今までしたキスの中で1番幸せだった。
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