エタってしまった小説の世界で、ヤンデレ化した勇者が離してくれません。【2】~ バンシーと呼ばれ警戒されていますが……ただの迷子です!~
①氷像問題
「そろそろ口の中乾きませんか?」
魔王城の最上階。執務室に飾られている一枚の絵を見て、紗希はふと本を閉じてバルトに声をかけた。
絵の中の太陽は草原の真上に昇っているので今の時刻はおそらく昼過ぎだ。
絵画時計と命名されたそれは、閉塞的な魔王城の景観作りと時計の役割を兼ねている魔道具で、おおよその時刻が分かる。
「休憩しませんか?紅茶淹れてきますよ」
最後にバルトが飲み物を口にしたのは朝食時の一度きりで、随分前だ。
尋ねるとバルトが書き物をしていた手を止めて、長い睫毛を何度か瞬き、気付いたように眉尻を下げた。
「……あぁ、ありがとうございます。まだ慣れなくて」
言ってバルトは口許を弛ませて穏やかに笑う。
こうした不意の瞬間に垣間見れる笑みはごく自然なもので、紗希もつられて口端を緩めた。
バルト自身が自らの意思で紗希を元の世界に戻そうとした日から、ひと月が経とうとしていた。
――――今までバルトの身体は七年も時間が止まっていた。
しかしそれも、どういうわけか紗希が触れたことがきっかけで時が動き始めたという。
不死者でなくなった今のバルトには、食事も水分も睡眠も生きるためには必要不可欠だ。しかし長い年月で消えていた習慣が再び身体に馴染むには、まだ時間がかかるらしい。
――いや……もしかすると抵抗感があるのかもしれない。
紗希に対しては、やれ紅茶を飲まないか、茶菓子はどんなものがいいか、食事に不満はないかと、城の生活に馴染めているかと気を遣ってくれるので、何かと飲み物や茶菓子が用意される機会は多い。
なのに運ばれてきても殆ど手を付けず、促しては空返事をするだけ。
そんなバルトを紗希が何度か促してようやくひと口ふた口とつまむ程度なのだ。
いくら勇者の称号を持ち、魔王にまでなってしまっているバルトといえど、基本的なことを疎かにした生活を続ければいずれ身体に支障をきたすだろう。
初めて出会った時に『久々に腹が減った気がする』などとあんなに沸き立っていたのに。
そのことに気付いてから、紗希は簡易的な調理場を執務室のある最終層に設けたいと提案した。
以前、紗希が紅茶を淹れた時に珍しく喜んでいたのを思い出したのだ。
そのため最近はこうして食事が駄目なら飲み物だけでもと、最低限摂らせようとしている。
「――紗希が淹れてくれる紅茶は好きです。同じ茶葉でも雑味がなく香りが繊細だ。俺も一緒に行きましょう」
そう言って立ち上がりかけたバルトを紗希はすかさず制した。
「あ、大丈夫です。そこで待っててください。邪魔になるので」
「邪魔……」
理由は二つある。
ひとつは、これぐらい言わなければ四六時中、離れようとしないのだ。
離れないだけならまだしも隙あらばスキンシップを取ろうとする。自然体でやってくるので困るのだ。
確かに、自分の意思でこの世界にまだ居ると告げたのは紗希だった。しかし両手放しのゴーサインまで出したつもりはない。
一人の人間としてお互いにもっと知り合おうと、少し意識したいと思い始めたばかりで、一足飛びに恋人同士のように触れ合おうするのはいかがなものだろう。
執務室で仕事をしている時はそちらに集中しているので、ショックを受けているバルトを置いて紗希は執務室を出た。
ほどなくして辿り着いた調理場は、当初の構想からかなり様変わりしている。
アパートのIDKにありがちな小規模なイメージから一変して、出来上がったのはプロの料理人が使う様式。思わず厨房かとツッコミたくなるほど、調理器具がひと通り揃えられていた。
それこそ規格外の大きさのノコギリや、大きな千枚通しまで。
今ではここで夕食作りなども行っており、紗希が茶葉を取り出していると調理場の主である悪魔ニスロクがふわふわとした柔らかな声で呼びかけてきた。
彼の存在が、バルトを伴いたくない理由の二つ目だ。
「お、聖女様。魔王様の紅茶ですかぁ?」
野菜の入った箱を腕に抱えて現れたニスロクは”人間の食事に知見のある悪魔”として紗希が魔王城に召喚されてから食事の面倒を見てくれた悪魔である。
襟足眺めの淡い桃色の髪をしており、垂れ目に猫のような瞳と一見すると難破な印象が強い。
だが実際のニスロクは、柔らかな物言いで人懐こく、研究肌というべきか、彼は食に対して強い探求心を持つ悪魔だった。
この彼こそが”一応人が食べても死なない料理”を提供してくれた本人で、今はニスロクたっての希望で紗希と共に魔族領の食材を使った人間用の料理研究をしている。
「はい。ニスロクは下準備中ですよね。もう少し後で私も手伝います」
「本当ですかぁ?やった。あぁでも、ちゃんと魔王様によーく言い聞かせといてくださいよぉ。この前みたいなのは嫌ですからね、俺」
柔らかな語尾を伸ばした口調で釘を指され、紗希は僅かに頬を引きつらせ頷いた。
以前バルトは『なぜお前が共同作業しているんだ』と凍てついた表情でニスロクに詰め寄ったのだ。
ニスロクは紗希の顔を見て、へへと笑った。
「ま、あれぐらい生き生きとしてる方が俺らも肩の力抜けていいんですけどねぇ。なんていうか、前はもっと殺伐としてたんで」
「……あれで生き生きしてるんですか?皆さんの前だと淡々としてる感じがしますけど」
「全然マシですよ。采配を仰げば答えてくれるけど、無駄口叩くと首が飛ぶんで。しかも俺からしたらあり得ないんですけど人間なのに無欲というか、自分が城から出られなくとも命令すれば女侍らせるなり色々出来るのにしないし。あの魂は口に入れた瞬間オゲェッってなりそーな勢いでしたよ」
ニスロクはわざとらしく舌を出してみせ、それからのんびりとした口調で言った。
「いやぁ……恋って魂を変えるんですねぇ……あんな独占欲の塊って面倒ですけど、良い感じに育ててもらえたら嬉しいです。意外とあぁいうのが珍味に化けるというか……自分で言うのもなんですが、美食家の俺としては興味深い変化なんで」
明け透けに言うとニスロクは薄っすらと笑みを浮かべて野菜の皮むきを始めた。
どうやらバルトは珍味扱いで、ニスロクの言葉を借りれば”一応健全に育っている“から楽しみらしい。
「……あの、悪魔って人間の魂を食べるんですか?」
ふと、まさかそのつもりがあるのか懐疑的に問うと、ニスロクは黄金色の瞳を大きく瞬いてゆるりと首を傾げた。
「魂?あ〜……俺は肉派なので一概には言えないですねぇ」
想像を超えた答えに、紗希は無意識に立て置かれたノコギリに視線をやった。
持ち手の真新しさや刃の輝きから察するに、おそらくそれは使用された形跡はない。
どこか現代の会社組織的にありがちな悩みを抱える魔王城は拍子抜けするほど穏やかな装いを保っているが、時折こうした剥き出しの猟奇が潜んでいる。
迂闊に足を踏み入れれば戻って来れないような気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
今後誰も捌かれる事がないよう今は願うしかないのかもしれない。
魔王城の最上階。執務室に飾られている一枚の絵を見て、紗希はふと本を閉じてバルトに声をかけた。
絵の中の太陽は草原の真上に昇っているので今の時刻はおそらく昼過ぎだ。
絵画時計と命名されたそれは、閉塞的な魔王城の景観作りと時計の役割を兼ねている魔道具で、おおよその時刻が分かる。
「休憩しませんか?紅茶淹れてきますよ」
最後にバルトが飲み物を口にしたのは朝食時の一度きりで、随分前だ。
尋ねるとバルトが書き物をしていた手を止めて、長い睫毛を何度か瞬き、気付いたように眉尻を下げた。
「……あぁ、ありがとうございます。まだ慣れなくて」
言ってバルトは口許を弛ませて穏やかに笑う。
こうした不意の瞬間に垣間見れる笑みはごく自然なもので、紗希もつられて口端を緩めた。
バルト自身が自らの意思で紗希を元の世界に戻そうとした日から、ひと月が経とうとしていた。
――――今までバルトの身体は七年も時間が止まっていた。
しかしそれも、どういうわけか紗希が触れたことがきっかけで時が動き始めたという。
不死者でなくなった今のバルトには、食事も水分も睡眠も生きるためには必要不可欠だ。しかし長い年月で消えていた習慣が再び身体に馴染むには、まだ時間がかかるらしい。
――いや……もしかすると抵抗感があるのかもしれない。
紗希に対しては、やれ紅茶を飲まないか、茶菓子はどんなものがいいか、食事に不満はないかと、城の生活に馴染めているかと気を遣ってくれるので、何かと飲み物や茶菓子が用意される機会は多い。
なのに運ばれてきても殆ど手を付けず、促しては空返事をするだけ。
そんなバルトを紗希が何度か促してようやくひと口ふた口とつまむ程度なのだ。
いくら勇者の称号を持ち、魔王にまでなってしまっているバルトといえど、基本的なことを疎かにした生活を続ければいずれ身体に支障をきたすだろう。
初めて出会った時に『久々に腹が減った気がする』などとあんなに沸き立っていたのに。
そのことに気付いてから、紗希は簡易的な調理場を執務室のある最終層に設けたいと提案した。
以前、紗希が紅茶を淹れた時に珍しく喜んでいたのを思い出したのだ。
そのため最近はこうして食事が駄目なら飲み物だけでもと、最低限摂らせようとしている。
「――紗希が淹れてくれる紅茶は好きです。同じ茶葉でも雑味がなく香りが繊細だ。俺も一緒に行きましょう」
そう言って立ち上がりかけたバルトを紗希はすかさず制した。
「あ、大丈夫です。そこで待っててください。邪魔になるので」
「邪魔……」
理由は二つある。
ひとつは、これぐらい言わなければ四六時中、離れようとしないのだ。
離れないだけならまだしも隙あらばスキンシップを取ろうとする。自然体でやってくるので困るのだ。
確かに、自分の意思でこの世界にまだ居ると告げたのは紗希だった。しかし両手放しのゴーサインまで出したつもりはない。
一人の人間としてお互いにもっと知り合おうと、少し意識したいと思い始めたばかりで、一足飛びに恋人同士のように触れ合おうするのはいかがなものだろう。
執務室で仕事をしている時はそちらに集中しているので、ショックを受けているバルトを置いて紗希は執務室を出た。
ほどなくして辿り着いた調理場は、当初の構想からかなり様変わりしている。
アパートのIDKにありがちな小規模なイメージから一変して、出来上がったのはプロの料理人が使う様式。思わず厨房かとツッコミたくなるほど、調理器具がひと通り揃えられていた。
それこそ規格外の大きさのノコギリや、大きな千枚通しまで。
今ではここで夕食作りなども行っており、紗希が茶葉を取り出していると調理場の主である悪魔ニスロクがふわふわとした柔らかな声で呼びかけてきた。
彼の存在が、バルトを伴いたくない理由の二つ目だ。
「お、聖女様。魔王様の紅茶ですかぁ?」
野菜の入った箱を腕に抱えて現れたニスロクは”人間の食事に知見のある悪魔”として紗希が魔王城に召喚されてから食事の面倒を見てくれた悪魔である。
襟足眺めの淡い桃色の髪をしており、垂れ目に猫のような瞳と一見すると難破な印象が強い。
だが実際のニスロクは、柔らかな物言いで人懐こく、研究肌というべきか、彼は食に対して強い探求心を持つ悪魔だった。
この彼こそが”一応人が食べても死なない料理”を提供してくれた本人で、今はニスロクたっての希望で紗希と共に魔族領の食材を使った人間用の料理研究をしている。
「はい。ニスロクは下準備中ですよね。もう少し後で私も手伝います」
「本当ですかぁ?やった。あぁでも、ちゃんと魔王様によーく言い聞かせといてくださいよぉ。この前みたいなのは嫌ですからね、俺」
柔らかな語尾を伸ばした口調で釘を指され、紗希は僅かに頬を引きつらせ頷いた。
以前バルトは『なぜお前が共同作業しているんだ』と凍てついた表情でニスロクに詰め寄ったのだ。
ニスロクは紗希の顔を見て、へへと笑った。
「ま、あれぐらい生き生きとしてる方が俺らも肩の力抜けていいんですけどねぇ。なんていうか、前はもっと殺伐としてたんで」
「……あれで生き生きしてるんですか?皆さんの前だと淡々としてる感じがしますけど」
「全然マシですよ。采配を仰げば答えてくれるけど、無駄口叩くと首が飛ぶんで。しかも俺からしたらあり得ないんですけど人間なのに無欲というか、自分が城から出られなくとも命令すれば女侍らせるなり色々出来るのにしないし。あの魂は口に入れた瞬間オゲェッってなりそーな勢いでしたよ」
ニスロクはわざとらしく舌を出してみせ、それからのんびりとした口調で言った。
「いやぁ……恋って魂を変えるんですねぇ……あんな独占欲の塊って面倒ですけど、良い感じに育ててもらえたら嬉しいです。意外とあぁいうのが珍味に化けるというか……自分で言うのもなんですが、美食家の俺としては興味深い変化なんで」
明け透けに言うとニスロクは薄っすらと笑みを浮かべて野菜の皮むきを始めた。
どうやらバルトは珍味扱いで、ニスロクの言葉を借りれば”一応健全に育っている“から楽しみらしい。
「……あの、悪魔って人間の魂を食べるんですか?」
ふと、まさかそのつもりがあるのか懐疑的に問うと、ニスロクは黄金色の瞳を大きく瞬いてゆるりと首を傾げた。
「魂?あ〜……俺は肉派なので一概には言えないですねぇ」
想像を超えた答えに、紗希は無意識に立て置かれたノコギリに視線をやった。
持ち手の真新しさや刃の輝きから察するに、おそらくそれは使用された形跡はない。
どこか現代の会社組織的にありがちな悩みを抱える魔王城は拍子抜けするほど穏やかな装いを保っているが、時折こうした剥き出しの猟奇が潜んでいる。
迂闊に足を踏み入れれば戻って来れないような気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
今後誰も捌かれる事がないよう今は願うしかないのかもしれない。