私だけに優しい、殺人鬼

第1話『お前はマトモな人間じゃない』

『お前はマトモな人間じゃない』

 母の怒鳴り声が聞こえる。
 今では遠い過去の記憶だ。看護学校を卒業し、東雲総合医療センターの看護師になっってから今日に至るまで、母には一度も会っていない。終末期医療の病棟は、盆も正月もゴールデンウィークも休まずに稼働しているから、実家に帰らない言い訳が立つ。それでも幼い頃から何度も母に吐きつけられた罵声は、今でも胸の奥底にまとわりついて離れない。

 深夜二時の病棟で、ナースコールが鳴っている。
 脳裏に響く母の声をかき消そうとするように。
 神倉月(かぐらつき)はナースステーションのパソコン画面から顔を上げた。

 コールは六〇七号室からだった。
 患者のことは覚えている。末期肺癌患者の柏木。七十代の男性。予後不良。全身転移。酸素投与中。今日だけで三度、急変している。

「六〇七、行ってきます」

 月は立ち上がり、誰に言うでもなく呟いた。
 先輩看護師はカルテ入力に集中していて、軽く頷いただけだった。

 ──誰も、私を見ていない。

 記憶に焼き付いた光景を月はふと、思い出す。
 小学生の時のこと、フィギュアスケート選手を目指していた頃の記憶。
 ジュニア大会の観客席。観衆は自分に興味を示していなかった──

『お前はマトモな人間じゃない』

 脳裏で母が怒鳴っている。
 しかし今の月は、傷つき怒り泣きわめくだけの幼い子供ではなかった。

 月は心の中で母に反論する──仮にそうだったとして、何か問題でもあるの? 誰も私を見ていない。私がマトモな人間じゃないと証明できる人はどこにもいない。皆、私のことを礼儀正しく心優しい看護師だと思っている。お母さんの言葉には、何の意味もないの──
 患者のもとに向かいながら、月は静かに笑った。

 消灯後の病棟は、昼間とは別の生き物のようだった。
 天井灯は落とされ、廊下には足元を照らす間接照明だけが残っている。ナースステーションから漏れる白い光が、静まり返ったフロアに淡く滲み、夜の海のような静けさを漂わせていた。
 モニターの電子音。空調の低い唸り。遠くの病室から聞こえる寝息。病院が眠ることはない。ただ、昼間とは違う呼吸をしているだけだ。

 月は暗い病室に足を踏み入れた。
 窓辺にかかったカーテンの隙間から差し込む街の光が、患者の顔を青白く照らしている。

 柏木は目を閉じていた。
 酸素マスクの下から、ひゅう、ひゅう、と湿った音が聞こえる。苦しそうな呼吸だった。細い胸郭が上下するたび、まるで生命そのものが軋んでいるかのように見えた。
 月はベッドの脇に立ち、老人の顔を見る。痩せこけた頬。浮き出た鎖骨。黄ばんだ皮膚。もう長くないことは、誰の目にも明らかだった。

 月はゆっくりと息を吐いた。
 心臓が少しずつ速くなる。胸の奥に熱が灯る。指先がじんじんする。全身の神経が研ぎ澄まされていくのを感じる。
 点滴ラインへ視線を落とし、周囲の様子を確認する。
 誰もいない。廊下にも人影はない。病棟内には数十人の人間がいるはずなのに、世界に自分ひとりだけが取り残されたような錯覚に陥る。

 ──大丈夫。誰も、私を見ていない。

 月はスクラブウェアのポケットに手を入れた。
 ワインレッドのスクラブは、東雲(しののめ)総合医療センターの病棟看護師の証だった。月はそこから注射器を取り出す。致死量の薬液が入っている。鋭く尖った針管を、月は慣れた手つきで患者の腕にあてがった。

「柏木さん、もう大丈夫ですからね」 

 優しく囁きかけながら、注射器を押し込んで、薬液を注入する。
 柏木の指先が微かに震えた。
 月の胸の奥で何かが満たされていく。

『なんてことをしたの。お爺さんが可哀想じゃない!』

 脳裏で母が怒鳴っている。

『人殺し! 致死量の薬品を故意に投与するなんて。看護師の立場を利用して人を殺しているなんて。こんなことばかり繰り返して、お前はマトモな人間じゃない!』

 空想の中の母に向かって月は穏やかに微笑んだ。

 ──お母さん、何を言っているの。この人はもう、長くなかった。本人も、家族も、主治医も、看護師たちもみんな知っていた。なのに誰も終わらせようとしなかった。人命尊重、自然な死、そんな綺麗事を口実にこの人を苦しめていた。私はこの人を解放してあげただけ。この人の苦しみを終わりにしてあげただけ。私がマトモな人間じゃないなら、お母さん、マトモな人間なんてこの世にいないんじゃないの?

 モニターの波形が乱れた。
 患者の呼吸状態が悪化し、血中酸素飽和度が低下する。
 月は我に返ると、模範的な看護師の顔に戻り、ナースコールのボタンを押した。

「六〇七、急変です!」

 病棟が動き出す。足音と処置カートの音が廊下に響く。ベッドに駆け寄る医療者たち。しかし患者の容態が回復することはなく、数分後に死亡が確認された。
 医師が死亡時刻を告げる。家族への連絡。死亡時記録。カルテの入力。全てが淡々と進んでいく。
 死は珍しいものではない。東雲総合医療センターでは。
 急性期や終末期の緩和ケアを併設するこの病院において、患者の死は日常で、ゆえに故意の殺人はノイズに紛れて消えていく。

          ◇

 東雲総合医療センターの病棟看護師は、日勤、準夜勤、深夜勤の三交代制で働いている。病棟に休みはなく、シフトは不規則だ。深夜勤の日は夜中に出勤し、深夜から朝まで勤務が続くから、朝日が差し込んでいるのにまだ夜が終わっていないような感覚に陥ることがある。今日も、そうだった。夜勤明けの病院の独特の空気を感じながら、月はナースステーションを後にした。

 長い夜だった。そして、良い夜だった。
 軽やかな足取りで、月は病棟の廊下を歩く。
 窓から射し込む冬の朝の光が、ワックスのかかった白い床にまばゆく映えている。消毒液のにおいがする。深夜勤の看護師たちは申し送りを終え、日勤スタッフが次々と出勤してくる時間だった。

「お疲れ様です」
「お疲れ様」

 いつものように挨拶を返す。
 自然に。穏やかに。
 善良な看護師を演じている自分を誇りながら。

 昨夜のことを知る者はいない。
 あの患者の死の直前に、病室で自分がしていたことを。
 致死量の薬液を、患者に投与したことを。
 佐伯の最期を思い出すと、全能感が胸を満たす。私には、力がある。人の生死を決める力が。倫理も善悪も踏み越えて、誰かを苦しみから救う力が。

『お前はマトモな人間じゃない』

 母が怒鳴っている。今の自分には関係ない。遠い過去の出来事だ。マトモな人間なのかどうかを親が決めるなんて滑稽だ。マトモな人間とは何なのか。何をもってマトモとするのか。あんなに感情的になっていた母に判断できるのか。

 身も心も軽かった。世界が少しだけ鮮やかに見えた。
 月はエレベーターホールへ向かうべく、廊下の角を曲がった。
 そこで、足が止まった。向こうから白衣の男が歩いてくるのが見える。

 端整な顔立ちの、若い男だった。前髪は額を見せるようにワックスで軽く整えられ、清潔感と落ち着きのある印象を醸(かも)し出している。彼はダークネイビーのスクラブウェアの上に白衣を着ていた。東雲総合医療センターにおいて、濃紺のスクラブは医師の証であり、白衣は診察時に着用することになっている。これから仕事なのだろう。彼の名前は月も知っていた。脳神経外科医の九条零(くじょうれい)。看護師たちの噂話によく出てくる、優秀な医師だ。彼に憧れているという女性看護師も少なくない。
 しかし月自身はそんな浮ついた話に興味はなかった。恋愛よりも殺人がしたい。それが率直な気持ちだった。だから今までも、これからも、すれ違えば挨拶をする程度の間柄でしかない。九条零に対する神倉月の認識は、その程度のものだった。

「おはようございます」

 いつものように、月は軽く会釈する。
 それだけで終わるはずだった。
 だが、九条は立ち止まり、月の顔をじっと見る。
 そして数秒経ってから、穏やかな声で彼女に答えた。

「おはよう。今日は随分と楽しそうだね」
「え?」

 月の心臓が跳ねた。
 九条は優しげに笑いながら、何気ない世間話のように尋ねる。

「何か良いことでもあった?」

 月の唇が震える。返事ができなかった。背中を冷たいものが流れる。
 昨夜、患者を殺したこと。その高揚感が顔に出ていたのだろうか──そう思った瞬間、自分の顔から血の気が引くのが分かった。

「別に──」

 声が硬くなる。

「何もありません」
「そう?」

 穏やかに微笑んだまま、九条は首を傾げる。

「今日は随分と機嫌が良さそうに見えたから」

 ただそれだけ。それだけのことで、月は息苦しさを覚えた。重大な隠し事を見抜かれたような錯覚に陥る。

 ──馬鹿らしい。そんなはずがない。

 作り笑いを浮かべながら、嫌な予感を振り払う。
 誰も知らない。気付かない。今までずっと、そうだった。あのときのジュニア大会の、観客席の人々のように、誰も自分を見ていない。満面の笑みを浮かべ、全身全霊で演技をしても、自分に向けられた視線はまばら。世の中、そんなものだ。自分が思うほど、他人は自分に興味を持たない。いくら優秀な医師だとしても、昨夜の殺人に気づくなんてまず有り得ない。だって私はうまくやったのだから──
 月の中に自信が満ちる。笑顔が自然なものに変わる。

「深夜勤明けはたまにこうなるんです。少しテンションがおかしくなって。それだけです」
「そうかな」

 九条は不思議そうな顔でじっと月を見ていた。
 どこか観察するような彼の視線が嫌だった。一刻も早く、この場から立ち去りたい。そう思いながら、月は一歩引いた。

「失礼します」
「お疲れ様。ゆっくり休んで」

 彼の口調は優しかった。それなのに、何故か胸の奥がざわつく。
 平静を装い、会釈をして、月は歩き出した。背中に視線を感じるが、彼女は振り返らなかった。九条が自分を見ているかどうかを気にしていることを、彼に知られたくなかった。居心地の悪さを感じながら、前だけを見て、エレベーターに乗る。背後で扉が静かに閉まった。そこで初めて息を吐く。

「……何なの。あの人」

 月は小さく呟いた。
 密室になったエレベーターの中で、鏡に映った自分を見る。
 不機嫌そうな顔をしているに違いない。そう思った。
 しかし実際はそうではなかった。九条の言ったとおりだった。口元が少し、笑っている。どれだけ楽しいことがあったのか、と自分に訊きたくなる。少なくとも患者が死んだときに見せていい顔ではない。

 ──でも、だからといって、私が人を殺したとは思わないよね。普通は。

 普通。それは母の口癖だった。思い通りにならない娘に怒りをぶつけるとき、母は決まって「普通は」と切り出した。

 普通はそんなことをしない。
 普通はこうする。
 だからお前はマトモな人間じゃない。

 それが母の論調だった。そんな母が嫌いだった。普段なら、母の悪癖を無意識のうちに真似ていることに気づいたら、月は自己嫌悪に陥るはずだった。しかし今は違う。嫌いな言葉を意のままに使う自分が誇らしい。自分は母親とは別の人間なのだから、同じ言葉を使っても同じ結果にはならないだろう。そう確信できるから、今は何も気にならない。
 月はエレベーターを降り、駐車場に向かった。

 一方、その頃──
 月の去ったエレベーターホールに一人残った九条零は、閉じた扉を見つめながら、ほんの少しだけ楽しそうに微笑んでいた。
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