私だけに優しい、殺人鬼
第7話『踏み込む者』
「あ、やっぱり病院関係者ですよね?」
そう言って笑いながら、高瀬蒼介(たかせそうすけ)は大股で神倉月(かぐらつき)に近づいてくる。その距離感は、初対面とは思えないほど馴れ馴れしく、無遠慮なものだった。
高瀬の視線は月の顔に向いていたわけではない。首に下げていた職員証のストラップの痕跡を探し、手の甲に残る消毒荒れを一瞬でなぞるようにせわしなく動いていた。
月は不快感を隠そうともせず、眉をひそめた。
「どちら様ですか?」
「あ、俺ね。動画配信者のタカセ探偵局です」
言いながら、高瀬は名刺を差し出してくる。
月は受け取らなかった。ただ、侮蔑も露わな目つきで名刺を一瞥してから尋ねた。
「取材ですか?」
「そうそう」
高瀬は月の表情など気にも留めずに笑う。
「ちょっとだけ。ちょっとだけでいいので。お願いできませんかね」
月はその言葉を無視して歩き出した。
だが高瀬はついてくる。
「東雲総合医療センターの看護師さんですよね?」
「お答えできません」
「否定しないんだ」
その嘲笑的な言い方が妙に癇に障った。
月は愛想笑いの一つも浮かべず、冷ややかに言い捨てた。
「失礼します」
「ちょっとだけだから。いいでしょ。減るもんじゃあるまいし」
高瀬はへらへらと笑いながらスマートフォンを取り出した。無断で録音しているのかもしれない。その画面は伏せられていたが、背面のレンズは月の方を向いていた。
「八年前の件、どう思います?」
月は足を止めた。
「何の話ですか?」
「医療ミス隠蔽の件ですよ」
高瀬の声は楽しそうに弾んでいた。
まるで芸能ゴシップでも話しているかのようだった。
月は半ば呆れながら、冷たく答えた。
「コメントできません」
「病院から口止めされてる感じです?」
「されていません」
「でも答えない」
高瀬が得意げに笑う。
「ますます怪しいなあ」
高瀬は完全に決めつけてかかっていた。
何を答えても記事にされる。何を言っても都合よく使われる。
そんな確信が、月の胸の奥に立ちこめる。
「……失礼します」
月は再び歩き出す。
だが、高瀬は引き下がろうとはしなかった。
「患者さん、結構亡くなります?」
「……」
「やっぱり多いです?」
高瀬は悪びれることなく、軽い口調でまくし立てる。
「ほら、こういう病院って、死ぬのが当たり前じゃないですか」
その瞬間、月の胸の奥底で何かが冷えた。
──お前に何が分かる。
看護師として生死の現場に携わってきた月にとって、高瀬の態度は無神経極まりないものだった。安全圏から分かったようなことを言う。それは彼女の人生と、看護師として関わった全ての患者とその家族に対する侮辱だった。彼女は殺人鬼だが、看護師の仕事に愛着と誇りを抱いてもいた。仕事など生活と殺人の手段に過ぎない、と割り切るにはあまりにも人生のリソースを割きすぎた。
しかしやはり月は殺人鬼だった。
彼女が密かに殺していた患者たちの最期の様子。遠い過去の母の罵声。それらに対する怒りと憐憫、自責の念で作り上げた『マトモな人間』の仮面の奥に、殺人者としてのプライドが冷たくそそり立っていた。
「人が死ぬのは、当たり前ではありません」
思わず声が強くなる。
「あれ? そうなんですか?」
高瀬はおどけたような仕草で首を大きく傾げる。だがその目は笑っていなかった。月の反応を測るように、わずかな沈黙まで観察している。
「でも毎日誰かが亡くなってるんでしょ?」
「……」
「正直、外から見てるとですね、感覚が麻痺してるんじゃないかなーって思っちゃうんですよねぇ」
ただひたすらに無神経だった。おそらく今の彼の中には悪意すらないのだろう。この世の全てが自分のための舞台だと言わんばかりの態度。それ以上に不気味なのは、相手を怒らせるような言葉を選びながら、その反応だけを冷静に集めているような違和感だった。病室で泣く家族について、死を待つ患者について、患者の最期の呼吸について、何も知らず、想像しようとすらせずに、自分を特別な何かにする都合のいい物語を探しているかのようだ。
「すみません。これ以上はお答えできません」
月は低い声で言った。
「もう帰ります」
「ははは、もしかして怒りました?」
月の怒りを浴びてもなお、高瀬は笑っていた。
「いや、そういう反応も貴重なんですよ。わざわざ取材に来た甲斐がありました」
月は心底うんざりした。
何もかもが取材対象。何もかもがコンテンツ。人の感情すらも娯楽として消費する。
『近いうちに痛い目を見るだろうね』
高瀬に対する九条の言葉が脳裏に甦る。
本当に、そうなればいいのに。
そんなことを思ったとき、不意に高瀬が話題を変えた。
「ちなみに。最後にもう一つ聞いておきたいんですが。九条先生ってどんな人です?」
月の心臓が跳ねた。
「……九条先生?」
「外科の九条先生。あのイケメンの。知りません?」
高瀬はスマートフォンを見ながら言う。
月の動揺には、まったく気付いていないようだ。
「結構評判いいみたいで。気になってるんですよね」
彼のスマホの画面には、メモアプリらしきものが表示されていた。
だが一瞬だけ見えた文字列は、九条零(くじょうれい)という医師の評判や経歴ではなく、勤務時間や移動経路を記したもののように見えた。
月は無言になる。なぜ九条の名前が今ここで出てくるのか。
「取材対象なんですか?」
「まあ、色々とね」
高瀬は意味深に笑った。
「面白い先生ですよね」
まるで同意を求めるように、月の顔を覗き込む。
これまでの彼とは異なる部類の、不気味な表情だった。口はにやりと笑っているのに、見開かれた目と下がった眉はひどく怯えているかのよう。彼の今の笑顔には、恐怖が混じっているように見えた。
九条は高瀬の取材に応じていると言っていた。
しかしいったいどんな話をしているのだろう。どんな話を聞かせれば、高瀬のような手合いを怯えさせることができるのだろう。月には皆目見当がつかない。協力するふりをして聞き出してみようかと思いかけて、いや、高瀬と話したところで苛々させられるだけだ──そう考え、やめておくことにした。
「九条先生のことはよく知りません。私はこれで失礼します」
「そうですか。ご協力あざっす!」
高瀬は手を振りながら月を見送り、踵(きびす)を返した。あんなにしつこかったのに、拍子抜けするほどあっさりと目の前から立ち去っていく。
車に乗り込んだ月の視界の片隅を、私服姿の先輩看護師が横切った。彼女に近寄っていく高瀬の後ろ姿も見える。あの人なら高瀬をうまくあしらえるだろう。そんなことを思いながら、月は車を発進させた。
◇
九条零について調べたことが本人に知られた後も、月の胸の奥には小さな棘が残っていた。観覧車での会話。真壁隆志(まかべたかし)の話。あの時の九条の視線。そして何より、自分の抱える秘密を見透かしたような言葉。
あれ以来、九条について考える時間が増えていた。
だから調べる。ただそれだけ。月はそう思っていた。
昼休みに。夜勤明けに。誰も使っていない時間帯に。月は病院の端末を開き、患者データベースを少しずつ検索した。もちろん診療上必要な範囲で閲覧できる情報は限られている。それでも充分だった。
九条が担当した患者の数は、多すぎるほどに多かった。脳神経外科医として彼は、膨大な数の手術をこなし、膨大な数の入院患者を担当していた。月はすぐに後悔した。こんなもの調べ切れるわけがない。そう思ったが、やめなかった。少しずつ、少しずつ、断片を拾い集めていく。
そして月は気付いた。九条の患者は死亡率が高い。いや、正確には違う。脳神経外科医としては特別に高いわけではない。重症患者が多いし、難しい手術も多い。数字については説明がつく。問題は別だった。死亡した患者の中に、似たような経歴を持つ人間が混じっていることだった。
最初にはただの偶然だと思った。
六十五歳男性、元病院事務長、脳出血、入院後死亡。
五十九歳男性、医療法人理事、術後合併症、死亡。
七十一歳女性、元看護部長、死亡。
そう。偶然に違いない。
だが、言葉にならない違和感がある。
その時──
「……ねえ、ちょっと。神倉さん」
同僚の女性看護師の声が、月の思索を断ち切った。
それはある日の休み時間のことだった。
年輩の同僚は、ひどく慌てた様子で月に声をかけてきた。
「神倉さん、タカセ探偵局の取材を受けた?」
「いいえ。お断りしましたが……」
「やっぱりそうよね。神倉さん、ああいうの好きじゃなさそうだもんね」
「……何かあったんですか?」
「何かあったも何も……、神倉さん、この動画は見た?」
彼女は月に自身のスマートフォンを差し出す。
スマホの画面には、動画サイトにアップされた動画のサムネイルが映っていた。
動画の投稿者名は、タカセ探偵所。
「……いいえ。見てません」
「だったら見て。私のスマホを貸してあげるから」
「ありがとうございます」
嫌な予感を抱えながら、月は再生ボタンを押した。
そう言って笑いながら、高瀬蒼介(たかせそうすけ)は大股で神倉月(かぐらつき)に近づいてくる。その距離感は、初対面とは思えないほど馴れ馴れしく、無遠慮なものだった。
高瀬の視線は月の顔に向いていたわけではない。首に下げていた職員証のストラップの痕跡を探し、手の甲に残る消毒荒れを一瞬でなぞるようにせわしなく動いていた。
月は不快感を隠そうともせず、眉をひそめた。
「どちら様ですか?」
「あ、俺ね。動画配信者のタカセ探偵局です」
言いながら、高瀬は名刺を差し出してくる。
月は受け取らなかった。ただ、侮蔑も露わな目つきで名刺を一瞥してから尋ねた。
「取材ですか?」
「そうそう」
高瀬は月の表情など気にも留めずに笑う。
「ちょっとだけ。ちょっとだけでいいので。お願いできませんかね」
月はその言葉を無視して歩き出した。
だが高瀬はついてくる。
「東雲総合医療センターの看護師さんですよね?」
「お答えできません」
「否定しないんだ」
その嘲笑的な言い方が妙に癇に障った。
月は愛想笑いの一つも浮かべず、冷ややかに言い捨てた。
「失礼します」
「ちょっとだけだから。いいでしょ。減るもんじゃあるまいし」
高瀬はへらへらと笑いながらスマートフォンを取り出した。無断で録音しているのかもしれない。その画面は伏せられていたが、背面のレンズは月の方を向いていた。
「八年前の件、どう思います?」
月は足を止めた。
「何の話ですか?」
「医療ミス隠蔽の件ですよ」
高瀬の声は楽しそうに弾んでいた。
まるで芸能ゴシップでも話しているかのようだった。
月は半ば呆れながら、冷たく答えた。
「コメントできません」
「病院から口止めされてる感じです?」
「されていません」
「でも答えない」
高瀬が得意げに笑う。
「ますます怪しいなあ」
高瀬は完全に決めつけてかかっていた。
何を答えても記事にされる。何を言っても都合よく使われる。
そんな確信が、月の胸の奥に立ちこめる。
「……失礼します」
月は再び歩き出す。
だが、高瀬は引き下がろうとはしなかった。
「患者さん、結構亡くなります?」
「……」
「やっぱり多いです?」
高瀬は悪びれることなく、軽い口調でまくし立てる。
「ほら、こういう病院って、死ぬのが当たり前じゃないですか」
その瞬間、月の胸の奥底で何かが冷えた。
──お前に何が分かる。
看護師として生死の現場に携わってきた月にとって、高瀬の態度は無神経極まりないものだった。安全圏から分かったようなことを言う。それは彼女の人生と、看護師として関わった全ての患者とその家族に対する侮辱だった。彼女は殺人鬼だが、看護師の仕事に愛着と誇りを抱いてもいた。仕事など生活と殺人の手段に過ぎない、と割り切るにはあまりにも人生のリソースを割きすぎた。
しかしやはり月は殺人鬼だった。
彼女が密かに殺していた患者たちの最期の様子。遠い過去の母の罵声。それらに対する怒りと憐憫、自責の念で作り上げた『マトモな人間』の仮面の奥に、殺人者としてのプライドが冷たくそそり立っていた。
「人が死ぬのは、当たり前ではありません」
思わず声が強くなる。
「あれ? そうなんですか?」
高瀬はおどけたような仕草で首を大きく傾げる。だがその目は笑っていなかった。月の反応を測るように、わずかな沈黙まで観察している。
「でも毎日誰かが亡くなってるんでしょ?」
「……」
「正直、外から見てるとですね、感覚が麻痺してるんじゃないかなーって思っちゃうんですよねぇ」
ただひたすらに無神経だった。おそらく今の彼の中には悪意すらないのだろう。この世の全てが自分のための舞台だと言わんばかりの態度。それ以上に不気味なのは、相手を怒らせるような言葉を選びながら、その反応だけを冷静に集めているような違和感だった。病室で泣く家族について、死を待つ患者について、患者の最期の呼吸について、何も知らず、想像しようとすらせずに、自分を特別な何かにする都合のいい物語を探しているかのようだ。
「すみません。これ以上はお答えできません」
月は低い声で言った。
「もう帰ります」
「ははは、もしかして怒りました?」
月の怒りを浴びてもなお、高瀬は笑っていた。
「いや、そういう反応も貴重なんですよ。わざわざ取材に来た甲斐がありました」
月は心底うんざりした。
何もかもが取材対象。何もかもがコンテンツ。人の感情すらも娯楽として消費する。
『近いうちに痛い目を見るだろうね』
高瀬に対する九条の言葉が脳裏に甦る。
本当に、そうなればいいのに。
そんなことを思ったとき、不意に高瀬が話題を変えた。
「ちなみに。最後にもう一つ聞いておきたいんですが。九条先生ってどんな人です?」
月の心臓が跳ねた。
「……九条先生?」
「外科の九条先生。あのイケメンの。知りません?」
高瀬はスマートフォンを見ながら言う。
月の動揺には、まったく気付いていないようだ。
「結構評判いいみたいで。気になってるんですよね」
彼のスマホの画面には、メモアプリらしきものが表示されていた。
だが一瞬だけ見えた文字列は、九条零(くじょうれい)という医師の評判や経歴ではなく、勤務時間や移動経路を記したもののように見えた。
月は無言になる。なぜ九条の名前が今ここで出てくるのか。
「取材対象なんですか?」
「まあ、色々とね」
高瀬は意味深に笑った。
「面白い先生ですよね」
まるで同意を求めるように、月の顔を覗き込む。
これまでの彼とは異なる部類の、不気味な表情だった。口はにやりと笑っているのに、見開かれた目と下がった眉はひどく怯えているかのよう。彼の今の笑顔には、恐怖が混じっているように見えた。
九条は高瀬の取材に応じていると言っていた。
しかしいったいどんな話をしているのだろう。どんな話を聞かせれば、高瀬のような手合いを怯えさせることができるのだろう。月には皆目見当がつかない。協力するふりをして聞き出してみようかと思いかけて、いや、高瀬と話したところで苛々させられるだけだ──そう考え、やめておくことにした。
「九条先生のことはよく知りません。私はこれで失礼します」
「そうですか。ご協力あざっす!」
高瀬は手を振りながら月を見送り、踵(きびす)を返した。あんなにしつこかったのに、拍子抜けするほどあっさりと目の前から立ち去っていく。
車に乗り込んだ月の視界の片隅を、私服姿の先輩看護師が横切った。彼女に近寄っていく高瀬の後ろ姿も見える。あの人なら高瀬をうまくあしらえるだろう。そんなことを思いながら、月は車を発進させた。
◇
九条零について調べたことが本人に知られた後も、月の胸の奥には小さな棘が残っていた。観覧車での会話。真壁隆志(まかべたかし)の話。あの時の九条の視線。そして何より、自分の抱える秘密を見透かしたような言葉。
あれ以来、九条について考える時間が増えていた。
だから調べる。ただそれだけ。月はそう思っていた。
昼休みに。夜勤明けに。誰も使っていない時間帯に。月は病院の端末を開き、患者データベースを少しずつ検索した。もちろん診療上必要な範囲で閲覧できる情報は限られている。それでも充分だった。
九条が担当した患者の数は、多すぎるほどに多かった。脳神経外科医として彼は、膨大な数の手術をこなし、膨大な数の入院患者を担当していた。月はすぐに後悔した。こんなもの調べ切れるわけがない。そう思ったが、やめなかった。少しずつ、少しずつ、断片を拾い集めていく。
そして月は気付いた。九条の患者は死亡率が高い。いや、正確には違う。脳神経外科医としては特別に高いわけではない。重症患者が多いし、難しい手術も多い。数字については説明がつく。問題は別だった。死亡した患者の中に、似たような経歴を持つ人間が混じっていることだった。
最初にはただの偶然だと思った。
六十五歳男性、元病院事務長、脳出血、入院後死亡。
五十九歳男性、医療法人理事、術後合併症、死亡。
七十一歳女性、元看護部長、死亡。
そう。偶然に違いない。
だが、言葉にならない違和感がある。
その時──
「……ねえ、ちょっと。神倉さん」
同僚の女性看護師の声が、月の思索を断ち切った。
それはある日の休み時間のことだった。
年輩の同僚は、ひどく慌てた様子で月に声をかけてきた。
「神倉さん、タカセ探偵局の取材を受けた?」
「いいえ。お断りしましたが……」
「やっぱりそうよね。神倉さん、ああいうの好きじゃなさそうだもんね」
「……何かあったんですか?」
「何かあったも何も……、神倉さん、この動画は見た?」
彼女は月に自身のスマートフォンを差し出す。
スマホの画面には、動画サイトにアップされた動画のサムネイルが映っていた。
動画の投稿者名は、タカセ探偵所。
「……いいえ。見てません」
「だったら見て。私のスマホを貸してあげるから」
「ありがとうございます」
嫌な予感を抱えながら、月は再生ボタンを押した。