期限付きの恋
俺は、病室の窓の外をぼんやりと眺めていた。
ガラス越しに見える空は、どこまでも青い。雲ひとつない、よく晴れた日だった。遠くには高いビルが立ち並び、その間を縫うように車が走っている。こんな日には、学校のグラウンドで体育の授業でもしているのだろうか。
そんなことを考えて、俺は小さく息を吐いた。
二か月前までは、俺も学校に通っていた。
『おい、一! 集中しろ!』
授業中、先生に何度も怒鳴られた。友達とくだらない話をして、くだらないことで笑って、面倒くさい宿題に文句を言う。朝は眠いとぼやき、放課後になれば早く帰りたいと騒いでいた。
そんな、どこにでもある普通の高校生活を送るはずだった。
少なくとも、あの日までは。
今の俺には、授業も、宿題も、友達との他愛ない会話もない。
あるのは、真っ白な病室と、消毒液の匂いと、定期的に聞こえてくる看護師たちの足音。そして、いつ終わるとも知れない治療の日々だけだった。
いや。
いつ終わるのかは、もう知っている。
医者から、はっきりと告げられたのだから。
俺の人生は、残り一年。
そう宣告された、あの日から始まったんだ。
俺の、期限付きの人生が。
* * *
あの日は、いつもと何も変わらない一日だった。
学校からの帰り道。
俺の通っていた高校は家から遠く、毎日の通学にはバスを利用していた。朝は満員のバスに揺られ、帰りは疲れ切った身体を座席に預けながら、窓の外を眺める。
それが、俺の日常だった。
その日も、いつもと同じようにバスを降りた。
家の近くのバス停。見慣れた道路。何度も通った帰り道。
あと少し歩けば家に着く。
そう思って、最初の一歩を踏み出した瞬間だった。
「……っ、痛……!」
腹部に、鋭い痛みが走った。
思わず足を止める。
何だ、これ。
最初は、食べ過ぎでもしたのかと思った。昼食に何を食べたのか思い出そうとしたが、そんなことを考えていられる余裕はすぐになくなった。
腹部の痛みが、どんどん強くなっていく。
それだけではなかった。背中にも、鈍く重たい痛みが広がっていった。
「っ、は……」
息を吸うことさえ、苦しく感じた。
以前にも、似たような痛みを感じたことはあった。
授業中に腹部が痛くなったこともあるし、夜、背中の痛みでなかなか寝つけなかったこともある。
けれど、そのたびに俺は気のせいだと片づけてきた。
少し休めば治る。
寝れば大丈夫。
病院に行くほどのことじゃない。
そうやって、見て見ぬふりをしてきた。
でも、今日の痛みは違った。
今まで経験したどんな痛みよりも強く、まるで身体の奥から何かに締めつけられているようだった。
「……っ、くそ……!」
歩こうとした。
けれど、足に力が入らない。
膝が折れ、その場にしゃがみ込む。冷や汗が額を伝い、視界がかすかに揺れた。
立たなければ。
家に帰らなければ。
そう思うのに、身体が言うことを聞いてくれない。
通り過ぎていく人の足音が聞こえた。
誰か、助けてくれ。
そう口にしたかったのに、声を出す余裕すらなかった。
やがて、俺の異変に気づいた通行人が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!? 聞こえますか?」
返事をしようとしたが、うまく声が出なかった。
「救急車、呼びますからね!」
その人がスマートフォンを取り出すのが、ぼんやりと見えた。
その後のことは、あまり覚えていない。
救急車のサイレン。
担架に乗せられた感覚。
見知らぬ人たちの声。
そして、白い天井。
気がついたとき、俺は近くの大学附属病院に搬送されていた。
* * *
病院では、さまざまな検査を受けた。
採血をされ、血液検査や腫瘍マーカーの検査を受けた。エコー検査に続いて、MRI検査も行われた。
検査が進むにつれて、医師や看護師の表情が少しずつ変わっていくのが気になった。
何かあるのだろうか。
俺の身体に、何かおかしなことが起きているのだろうか。
そう尋ねたかった。
でも、聞くのが怖かった。
もし、何か重大な病気が見つかっていたら。
もし、今までの痛みが、ただの腹痛ではなかったとしたら。
俺は、その答えを知る覚悟ができていなかった。
結局、その日は痛み止めを処方され、いったん家に帰ることになった。
「また一週間後に来てください。検査結果についても、そのときに詳しくお話しします」
医師の言葉に従い、俺は帰る前に次の診察の予約を入れた。
家に帰ると、普段なら仕事で帰りが遅いはずの両親が、珍しくそろっていた。
学校か病院から連絡が入ったのだろう。
「大丈夫なの?」
母親が尋ねた。
その声には、心配しているような響きがあった。
「……別に。大したことないって」
俺はそう答えた。
実際には、原因もわかっていない。大したことがないと決まったわけでもない。
それでも、そう言うしかなかった。
両親はそれ以上、深く尋ねてこなかった。
そして俺も、それ以上何も話さなかった。
いつものことだ。
俺たち家族は、必要なこと以外、あまり話をしない。
同じ家に住んでいても、それぞれが自分の生活を送っている。俺の学校生活に興味があるわけでもなければ、俺が普段何を考えているのか知ろうとするわけでもない。
だからこそ、あの日の両親の態度には、どこか違和感があった。
まるで、何か悪いことが起きると、最初からわかっているみたいだった。
その違和感の正体を知るまで、あと一週間。
俺は、何も知らずに眠りについた。
* * *
一週間後。
病院は、前回よりも静かに感じられた。
待合室には何人かの患者がいたが、誰も大きな声では話していない。受付の機械音や、遠くから聞こえる車椅子の音が、やけに耳についた。
俺は両親と並んで、診察の順番を待っていた。
母親は膝の上で両手を組み、父親はスマートフォンの画面を眺めている。
いつもと変わらない光景。
なのに、何かが違った。
母親の横顔が、妙に気になったのだ。
普段は俺が学校で何をしていようと、あまり関心を示さない人だ。テストの点数を聞かれることはあっても、それ以上の話になることは少ない。
そんな母親が、今日は何度も俺の顔を見ていた。
心配しているのだろうか。
今さら?
俺が苦笑しそうになった、そのときだった。
「一さん、二番診察室にお入りください」
天井のスピーカーから、落ち着いた声が響いた。
俺たちは立ち上がり、診察室へと向かった。
扉を開ける。
中には、前回担当してくれた医師が座っていた。
机の上には、いくつかの書類と検査結果の資料が置かれている。
医師は俺たちが座るのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。
「先日の検査結果について、お話ししたいと思います」
その声を聞いた瞬間、嫌な予感がした。
医師の表情が、あまりにも重かったからだ。
俺は無意識に、膝の上で拳を握りしめていた。
「検査の結果ですが…… 祐介さんは、膵臓がんである可能性が非常に高いと考えられます」
「……え?」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
膵臓がん。
その単語だけが、頭の中で何度も繰り返される。
がん。
ドラマやニュースの中で聞いたことのある病名。
高齢の人がかかる病気。
治療が難しく、命に関わることもある病気。
それが、俺?
「それも、現時点ではステージ3に相当すると考えられます」
医師は慎重に言葉を選んでいた。
追加の検査や詳しい評価が必要であることも、治療方針についても、説明していたのだと思う。
けれど、俺の耳にはほとんど入ってこなかった。
ステージ3。
膵臓がん。
どうして。
何がいけなかったんだ。
俺は、まだ十六歳だ。
まだ高校生になったばかりだ。
これから、いろいろなことがあるはずだった。
友達とくだらないことで笑って、テストの点数に一喜一憂して、文化祭で騒いで、体育祭で競い合って。
いつか大学に進学して、好きなことを見つけて、知らない場所へ旅行に行って。
そんな未来が、当たり前のように続いていくと思っていた。
それなのに。
「……治るん、ですよね?」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
自分でも驚くほど、声が小さかった。
医師は一瞬、言葉に詰まった。
そのわずかな沈黙だけで、俺は答えを察してしまった。
「治療については、これから詳しく検討していきます。ただ、裕介さんの場合、腫瘍の位置や周囲の血管との関係などから、現時点では手術が難しいと考えられます」
医師の説明は続いた。
治療の選択肢。
抗がん剤治療。
今後の経過。
どれも、俺にとっては現実味のない言葉ばかりだった。
そして、最後に。
「厳しいお話になりますが、現在の状態を踏まえると、余命は一年程度となる可能性があります」
……。
何も、聞こえなくなった。
十六年間。
たった十六年だ。
これから始まるはずだった人生が、一年程度で終わるかもしれない。
俺は高校を卒業できない。
大学にも行けない。
大人になることも、働くことも、誰かと出会って恋をすることも。
全部、できないかもしれない。
いや。
きっと、できないのだろう。
だって、医者がそう言ったのだから。
* * *
俺は、昔からとことん運が悪い男だった。
正月に引くおみくじは、決まって凶。
せっかく買ったアイスを落とす。
鳥の糞が、なぜか俺の頭上に落ちてくる。
財布をなくしたと思ったら、次の日には傘までなくす。
楽しみにしていた行事の日に限って熱を出し、テスト前日に限って体調を崩す。
友達からは「お前、前世で何かやらかしたんじゃねえの?」と笑われたこともある。
そのたびに、俺も笑っていた。
「俺の運の悪さ、さすがに異常だろ」
なんて言いながら。
でも、今になって思う。
今までの運の悪さなんて、ずいぶんと優しいものだったのかもしれない。
財布をなくしたって、また買えばいい。
傘がなくなったって、雨宿りをすればいい。
テストで悪い点を取ったって、次に頑張ればいい。
失敗したって、やり直せる。
けれど、命は?
失った時間は?
もう二度と来ない未来は?
どうすれば、取り戻せるんだろう。
「あの……」
沈黙を破ったのは、母親だった。
「生存率は、どれくらいなのでしょうか?」
母親は医師に尋ねた。
俺は、その横顔を見つめた。
どうせ、早く死んだら教育費がかからなくなるとか、そんなことでも考えているのだろう。
そう思ってしまう自分がいた。
ひどい息子だと思う。
でも、今までの母親を思い返せば、そう考えてしまうのも無理はなかった。
俺が何を好きなのか。
何に悩んでいるのか。
どんな未来を望んでいるのか。
そんなことを、母親が真剣に聞いてくれた記憶は、あまりない。
だから、今さら心配そうな顔をされても、どう反応すればいいのかわからなかった。
「膵臓がんのステージ3については、統計によって差がありますが、五年生存率はおおむね一桁台とされることもあります。ただし、これは集団の統計であり、個人の経過をそのまま予測するものではありません」
「一桁……」
母親が、かすれた声でつぶやいた。
医師は、さらに説明を続けた。
俺の場合は手術が難しく、病状を踏まえると厳しい見通しであること。そして、抗がん剤治療を早急に始める必要があること。
話を聞いているはずなのに、どこか他人事のようだった。
俺のことなのに。
俺の人生なのに。
自分の未来が、自分の手からどんどん離れていく。
そんな感覚だった。
「抗がん剤治療を始める必要がありますので、できるだけ早く入院していただきたいと思います」
医師のその言葉に、俺はようやく現実へ引き戻された。
入院?
すぐに?
俺は高校を卒業できないだけじゃない。
明日からも学校に通うことすら、できなくなるのか。
友達に会うことも、授業を受けることも、放課後に寄り道をすることも。
何もかもが、突然なくなってしまう。
「……わかりました」
父親が答えた。
俺の気持ちを聞くこともなく、話はどんどん進んでいった。
入院の手続き。
必要な書類。
今後の予定。
俺はただ、うなずいていた。
何かを言ったところで、何かが変わるわけではない。
そう思ったからだ。
診察室を出たあと、両親は入院に必要な荷物を用意するため、一度家へ帰った。
「すぐに戻るから、ここで待っていて」
母親はそう言った。
俺は「うん」とだけ答えた。
その背中が遠ざかっていくのを、ぼんやりと見送った。
涙は出なかった。
悲しくないわけではない。
怖くないわけでもない。
ただ、あまりにも突然のことすぎて、感情が追いついていなかった。
絶望することすら、できなかった。
* * *
看護師に案内された病室は、二人部屋だった。
窓際にベッドが二つ並び、それぞれのベッドの横には小さな棚とテーブルがある。白いカーテンがゆらゆらと揺れ、窓から差し込む光が床に細長い影を落としていた。
病院特有の消毒液の匂いがする。
ここで、これから生活するのか。
そう考えると、少しだけ息苦しくなった。
「じゃあ、荷物が届くまでは、ゆっくり休んでいてね」
看護師はそう言って、俺をベッドまで案内した。
そのあと、カーテンの向こうから明るい声が聞こえた。
「櫂凪ちゃん、この子が今日から同じ部屋になるから。病院のこと、いろいろ教えてあげてね」
「はーい!」
返事とともに、カーテンが開いた。
そこにいたのは、同い年くらいの女子だった。
肩のあたりまで伸びた髪。柔らかな目元。病院着を着ているのに、どこか明るい雰囲気をまとっている。
彼女は俺を見ると、にこっと笑った。
「私、胡桃櫂凪。よろしくね!」
「あ、ああ。よろしく」
突然のことに、俺は少し戸惑いながら返事をした。
「君、名前は?」
「裕介」
「裕介君ね。よろしく!」
彼女は、まるでずっと前から知り合いだったかのように笑った。
それから少し話しているうちに、俺たちは同い年だとわかった。
同じ年に生まれて、同じように学校へ通っていたはずの人間。
なのに、俺たちは今、学校ではなく病院で出会っている。
なんだか、不思議な感じがした。
「へぇ、裕介君の名字って【一】って言うんだ。珍しいね!」
櫂凪は、俺の名前を聞いて興味深そうに目を輝かせた。
「ああ、よく言われる」
「読み方、初見じゃ絶対わからないよね。普通に『いち』とか『はじめ』って読んじゃいそう」
「まあな」
俺は苦笑した。
学校では、先生も友達も、ほとんど名字で俺を呼んでいた。
珍しい名字だから覚えやすいらしい。
ただ、そのせいで下の名前を呼ばれることはほとんどなかった。
裕介。
自分の名前なのに、誰かに呼ばれると、少し違和感がある。
もっとも、誰も俺の名前なんて覚えていないと思うが。
「それを言ったら、お前の名字も珍しいだろ」
「え?」
「胡桃、なんて名字、友達で見たことないぞ」
「あはは、確かに!」
櫂凪は楽しそうに笑った。
「じゃあ、私のことは櫂凪って呼んで! 胡桃より呼びやすいでしょ?」
「まあ、そうだな」
「ねえ、裕介君。胡桃って名字、名字の多さランキングで何位だと思う?」
「え……。百位くらい?」
「ブッブー!」
櫂凪は、両腕を胸の前で交差させた。
「正解は、十三万……じゃなくて、一万三千百一位!」
「細かっ!」
「えへへ、調べたことあるんだよね」
「じゃあ、一は?」
「裕介君の名字は何位なの?」
「一万四千九百三位」
「えっ、私のほうが多いんだ!」
「いや、どっちも珍しいだろ。ていうか、よく覚えてるな」
「それを言ったら裕介君もじゃん!」
櫂凪は声を上げて笑った。
その笑顔を見ていると、不思議と心が軽くなった。
ほんの少し前まで、俺は自分の人生に絶望していた。
これから先、一年間で何ができるのか。
どうやって過ごせばいいのか。
そんなことばかり考えていた。
なのに、今は。
名字の順位なんて、どうでもいい話で笑っている。
ほんの一瞬だけ、病気のことを忘れられた。
それが、妙に嬉しかった。
* * *
「ねえ、裕介君」
しばらく話したあと、櫂凪が尋ねてきた。
「ん?」
「裕介君は、病気? それとも怪我?」
その質問に、俺は少しだけ視線を落とした。
「……病気」
「そっか」
櫂凪は、それ以上何も聞かなかった。
ただ、そうなんだ、と受け止めるようにうなずいただけだった。
普通なら、気になるはずだ。
同い年の人間が、学校ではなく病院に入院している。
しかも、見たところ大きな怪我をしているわけでもない。
何の病気なのか、どうして入院しているのか。
少しくらい、尋ねたくなるだろう。
なのに、櫂凪は聞かなかった。
「……なんの病気か、気にならないのか?」
俺が尋ねると、櫂凪は少し考えるように首を傾げた。
「うーん。気になるか、気にならないかで言ったら、気になるよ?」
「じゃあ……」
「でも、聞いたら裕介君がつらくなるかもしれないじゃん?」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「言いたくないことって、誰にでもあると思うんだ。だから、無理に聞こうとは思わないよ。話したくなったら話してくれればいいし、話したくないなら、話さなくてもいいし!」
櫂凪は、いつものように笑った。
「私はそれでいいと思う!」
どうして、そんなことが言えるんだろう。
俺たちは、今日初めて会ったばかりなのに。
俺のことなんて何も知らないはずなのに。
それなのに、どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。
胸の奥が、少しだけ苦しくなった。
「……膵臓がん」
「え?」
「俺、膵臓がんなんだ。ステージ3だって」
口に出すと、現実が少しだけ近づいてくる気がした。
「さっき、余命宣告された。残り一年くらいだって」
言い終えてから、俺は櫂凪の顔をうかがった。
驚かれるかもしれない。
気まずそうな顔をされるかもしれない。
かわいそうだと、同情されるかもしれない。
けれど、櫂凪は。
「……そっか」
ただ、それだけを言った。
そして、少しだけ寂しそうに笑った。
その表情が、なぜか気になった。
「櫂凪は?」
俺は尋ねた。
「言いたくないなら言わなくていいけど……」
「奇遇だね!」
櫂凪は、少しだけ声を明るくした。
「私も、がんなんだよ!」
「……え?」
「膵臓じゃなくて、脾臓だけどね」
「脾臓……?」
「うん。ステージ4なんだ」
彼女は、まるで明日の天気でも話すような口調で言った。
「二か月前に余命宣告されたんだ。私も、残り一年くらいだって」
「……」
「だから、今のところはあと十か月くらいかな?」
櫂凪は笑った。
けれど、俺は笑えなかった。
同い年。
同じ病院。
そして、同じように余命を告げられた人間。
そんな偶然が、本当にあるのだろうか。
「……ごめん」
気づけば、俺は謝っていた。
「えっ、何で謝るの?」
「いや……」
何と言えばいいのかわからなかった。
彼女も、俺と同じように苦しんでいる。
それなのに、俺は自分のことで頭がいっぱいだった。
彼女の気持ちを考える余裕なんて、少しもなかった。
「謝らなくていいよー!」
櫂凪は笑いながら手を振った。
「私たち、同じような境遇なんだね。なんだか、すごい偶然!」
「……そうだな」
俺は、曖昧にうなずいた。
「ステージ4ってことは……転移してるのか?」
「そうらしいね。肺とか、骨にも転移してるんだって」
「……そっか」
「うん!」
櫂凪は明るく答えた。
あまりにも自然な返事だった。
まるで、何も怖くないみたいに。
まるで、自分の未来がなくなることなんて、何とも思っていないみたいに。
でも、俺は気づいてしまった。
彼女の口元は笑っているのに、目の奥は笑っていなかった。
ほんの一瞬。
彼女が視線を落としたとき、そこに浮かんだ表情。
俺は、それがなぜか喉に引っかかって、うまく息ができなかった。
きっと、彼女だって怖いのだ。
俺と同じように。
それなのに、彼女は笑っている。
俺の前では、明るく振る舞ってくれている。
そのことが、どうしようもなく胸に刺さった。
* * *
しばらくして、病室の扉が開いた。
「あの、裕介の母です」
母親が荷物を抱えて入ってきた。
その後ろには父親もいる。
俺は軽くうなずいた。
母親は俺の荷物を棚に置くと、隣のベッドにいる櫂凪へと視線を向けた。
「櫂凪ちゃん、裕介をよろしくね」
「はい! 任せてください!」
櫂凪は、元気よく返事をした。
その勢いに、俺は思わず吹き出しそうになった。
いや、ちょっと待て。
初対面の人間に、何を任せているんだ。
それに、母親らしいことなんて普段はほとんどしないくせに、こういうときだけ母親を名乗るのか。
そんな不満が、頭の中をぐるぐると回った。
けれど、櫂凪の明るい声を聞いていると、どうでもよくなってしまった。
母親は必要な荷物を置くと、すぐに病室を出ていった。
扉が閉まる。
静けさが戻った。
「……そういえば、櫂凪の親は?」
ふと思い出して、俺は尋ねた。
櫂凪は一瞬だけ目を伏せた。
「ああ、私、お母さんがいないんだ」
「……え?」
「小さい頃に病気で亡くなっちゃって。だから、お父さんと二人暮らしなんだよ」
「……そう、なのか」
俺は、それ以上何も言えなかった。
何と声をかければいいのか、わからなかったからだ。
すると、ちょうどそのとき。
病室の扉が開いた。
背の高い男性が入ってくる。
白衣を着ていて、いかにも医者らしい雰囲気だった。
男性は俺に軽く会釈すると、櫂凪のほうへ歩いていった。
「櫂凪、これ」
そう言って、コンビニのレジ袋を差し出す。
「ありがとう!」
櫂凪は袋を受け取った。
知り合いなのだろうか。
それに、さっきから妙に親しげだ。
男性は櫂凪の頭を軽く撫でると、優しく笑った。
そして、櫂凪が口を開いた。
「ありがとう、お父さん!」
「……え?」
思わず声が出た。
お父さん?
この人が?
「裕介君、紹介するね! これが私のお父さん!」
「初めまして。櫂凪の父です」
「あ、初めまして。裕介です」
俺は慌てて頭を下げた。
「裕介君は、今日から入院なのか?」
「は、はい」
「そっか。慣れないことも多いだろうし、大変だと思うけど、困ったことがあったら遠慮なく言ってくれ」
櫂凪のお父さんは、そう言って優しく笑った。
「何か食べたいものとかあるか? 好きなお菓子でもあれば、今度買ってくるけど」
「い、いえ、大丈夫です。そんな、買ってもらうなんて悪いですし……」
「子供が遠慮しちゃ駄目だって!」
即答だった。
俺は思わず言葉に詰まった。
結構、グイグイくるタイプの人なのかもしれない。
すると、櫂凪が俺のベッドのそばまでやってきて、小声で囁いた。
「ごめんね。こういう性格だけど、悪い人じゃないから」
「……うん、ありがとう」
俺が小さくうなずくと、櫂凪のお父さんがこちらを見た。
「ん? 何、二人で内緒話してるんだ?」
「な、何でもないよ!」
櫂凪が慌てて答える。
その様子がおかしくて、俺は少し笑ってしまった。
「あ、そうだ。裕介君、スマホは持ってるか?」
「え? はい」
「よかったら、メッセージを交換しておかないか? 櫂凪に何かあったとき、君から連絡をもらえると助かるし、逆に君に何かあったときも、連絡できるだろう?」
櫂凪のお父さんは、スマートフォンを取り出した。
「ちょっと、お父さん! 初対面なのに失礼でしょ!」
「えー? そうか?」
「そうだよ! ごめんね、裕介君」
櫂凪が申し訳なさそうにこちらを見る。
俺は、少しだけ考えた。
正直、初対面の大人と連絡先を交換するのは、少し緊張する。
けれど、この人は櫂凪のお父さんだ。
それに、俺たちは同じ病室で生活することになる。
何かあったとき、連絡を取り合えるのは便利かもしれない。
「全然大丈夫です。ぜひ、交換させてください」
「おお、ありがとう!」
俺はメッセージアプリのIDを見せた。
お互いに登録を済ませると、櫂凪のお父さんは満足そうにうなずいた。
「よし、これで大丈夫だな。じゃあ、僕は仕事に戻るよ。二人とも、何かあったら遠慮なく連絡してくれ」
「はーい!」
「ありがとうございます」
そう言って、櫂凪のお父さんは病室を出ていった。
扉が閉まる。
すると、櫂凪がこちらを向いた。
「ねえ、裕介君」
「ん?」
「私とも、メッセージ交換しない?」
櫂凪は、スマートフォンを取り出してIDを見せてきた。
「もちろん!」
俺は、少し慌てながら彼女のIDを入力した。
登録が完了すると、画面に櫂凪の名前が表示された。
ただ、それだけのことだった。
それなのに。
どうしてだろう。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
嬉しい。
でも、いつもの嬉しいとは違う。
友達と連絡先を交換したときとも、何かが違う。
この先、俺は何人の人と出会うのだろう。
何人の人と話すのだろう。
そんな未来を考えることさえ、できなくなっていたはずなのに。
今は、少しだけ思えた。
明日も、この子と話せたらいいな。
明日も、笑ってくれたらいいな。
そして、できることなら。
明日も、その次の日も。
この病室で、彼女の笑顔を見ていたい。
そんなことを思っている自分に、俺はまだ気づいていなかった。
* * *
それから、俺たちは毎日のように一緒に過ごすようになった。
もちろん、治療がある日は自由に動けないこともあったし、体調が悪くてベッドから起き上がれない日もあった。
それでも、調子のいい日には二人で病院の中を歩いた。
コンビニへ行って、お菓子を選ぶ。
漫画コーナーで、面白そうな本を探す。
窓際の椅子に並んで座り、外を眺めながら話をする。
屋上へ行ける日は、二人で景色を見に行った。
最初の頃、俺はほとんど笑わなかった。
何をしていても、頭のどこかで余命のことを考えてしまう。
あと一年。
その言葉が、ずっと頭から離れなかった。
学校に戻れるのだろうか。
卒業できるのだろうか。
友達は、俺がいなくなったあと、どうするのだろう。
考え始めると、何もかもが無意味に思えてきた。
どうせ一年後にはいなくなるのなら、何を頑張ったところで意味がないのではないか。
そう考えてしまう日もあった。
けれど、櫂凪は違った。
「ねえ、裕介君! 今日はコンビニで新しいお菓子が出てるらしいよ!」
「……それ、昨日も言ってなかったか?」
「昨日とは違うやつだもん!」
「はいはい」
「絶対、はいはいって思ってないでしょ!」
そんなくだらない会話をしているうちに、気づけば笑っていた。
櫂凪は、特別なことをしてくれたわけではない。
俺を励ますために、無理に前向きな言葉をかけてくれたわけでもない。
ただ、いつもどおりに接してくれた。
病気だからといって、かわいそうな人として扱うこともなかった。
俺が笑えば一緒に笑い、俺が黙っていれば、無理に話しかけず隣にいてくれた。
それだけだった。
でも、その「それだけ」が、俺には何よりもありがたかった。
彼女のおかげで、俺は少しずつ前を向けるようになった。
完全に絶望が消えたわけではない。
病気が怖くなくなったわけでもない。
それでも、今日という一日を過ごすことに、少しだけ意味を感じられるようになった。
間違いなく、櫂凪のおかげだった。
入院して一週間ほど経った頃、俺たちの間に、もう一つ共通の趣味ができた。
それは、写真を撮ることだった。
きっかけは、何気ない会話だったと思う。
ある日の朝、窓から差し込む光があまりにも綺麗だった。
淡いオレンジ色の光が、病室の白い壁を照らしている。
窓の向こうには、まだ眠そうな街並みが広がっていた。
「……綺麗だな」
俺がそうつぶやくと、櫂凪が顔を上げた。
「え? どこ?」
「ほら、窓の外」
「あ、本当だ!」
櫂凪はすぐにスマートフォンを取り出した。
「写真、撮ろうよ!」
「写真?」
「うん! せっかく綺麗なんだもん。残しておきたいじゃん!」
そう言って、彼女は窓の外にカメラを向けた。
画面の中に、朝焼けが映る。
俺もつられてスマートフォンを取り出した。
シャッターを押す。
カシャッ、と小さな音がした。
画面には、オレンジ色に染まった空が写っていた。
ただ、それだけ。
けれど、撮った写真を見返すと、不思議な気持ちになった。
今、この瞬間に見た景色が、形になって残っている。
明日には消えてしまう朝焼けも、写真の中なら、いつでも見返すことができる。
「いいね、これ!」
櫂凪が、俺のスマートフォンをのぞき込んだ。
「裕介君、写真撮るの上手だね!」
「いや、適当に撮っただけだぞ」
「それでも上手!」
「……そうか?」
「そうだよ!」
櫂凪は、満足そうにうなずいた。
それからだった。
俺たちは、綺麗なものを見つけるたびに写真を撮るようになった。
朝焼け。
夕焼け。
屋上から眺めるビルの明かり。
夜になると、遠くの街にぽつぽつと灯る光。
中庭にある小さな池を泳ぐ鯉。
風に揺れる木々。
雨上がりの空に浮かぶ雲。
普段なら、わざわざ立ち止まって見ることもなかった景色。
けれど、櫂凪と一緒にいると、何でもないものが特別に思えた。
「ねえ、裕介君。見て!」
ある日の夕方、櫂凪が窓の外を指さした。
空が、赤や紫に染まっていた。
雲の端が金色に光り、沈みかけた太陽が街を優しく照らしている。
「……すげえ」
俺は、思わず声を漏らした。
「でしょ? こういう景色、ずっと見てたいなあ」
櫂凪はスマートフォンを構えながら、そう言った。
「明日も見られるかな?」
「天気がよければな」
「じゃあ、明日も一緒に見ようね!」
何でもない約束だった。
明日も空を見る。
ただ、それだけ。
なのに、俺はその言葉を、いつまでも覚えていた。
明日も。
その次の日も。
そんなふうに、当たり前に続いていく未来を、俺たちは自然と口にしていた。
それが、どれほど貴重なことなのか。
本当は、二人ともわかっていたはずなのに。
* * *
写真を撮るようになってから、俺はもう一つ、こっそり続けていることがあった。
櫂凪の写真を撮ることだ。
もちろん、本人には内緒で。
彼女が窓の外を眺めているとき。
漫画を読んで、面白い場面で笑っているとき。
コンビニでお菓子を選びながら、真剣な顔をしているとき。
夕焼けを見つめて、静かに目を細めているとき。
そんな何気ない瞬間を、俺は何枚も写真に収めていた。
最初は、ただ綺麗だと思ったからだった。
窓の外の景色を撮るのと同じように、残しておきたいと思った。
けれど、いつからだろう。
写真を見返すたびに、胸の奥が少しだけ苦しくなるようになった。
彼女の笑顔。
横顔。
何かを考えているときの、少しだけ真剣な表情。
どれも、俺の目には、ほかの何よりも美しく映った。
世界には、もっと綺麗な景色があるのかもしれない。
もっと素晴らしい場所も、もっと感動するような光景も、きっとたくさんあるのだろう。
でも、俺にとっては。
櫂凪が隣で笑っている景色が、一番綺麗だった。
気づいてしまった。
俺は、彼女ともっと一緒にいたいと思っている。
もっと話したい。
もっと笑ってほしい。
明日も、その次の日も、隣にいてほしい。
彼女がいない病室なんて、今では考えられなくなっていた。
彼女が笑ってくれるだけで、少しだけ明日が楽しみになる。
彼女が隣にいてくれるだけで、今まで何も感じられなかった時間が、少しだけ温かくなる。
そんな気持ちに、名前をつけるのは簡単だった。
俺は、恋をしたのだ。
胡桃櫂凪に。
たぶん、ずっと前から。
彼女が初めて俺に笑いかけてくれたときから。
あるいは、俺の病気を聞いても、変わらずに接してくれたときから。
彼女が何気なく「明日も一緒に見ようね」と言ってくれたときから。
いつからなのか、もうわからない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
俺は、櫂凪のことが好きだ。
心から、そう思っている。
……でも。
この恋は、きっと長くは続かない。
俺も、櫂凪も、病気を抱えている。
医者から告げられた余命が、必ずそのとおりになるとは限らない。
それでも、俺たちに残された時間が限られていることだけは、変わらなかった。
いつか、どちらかが先にいなくなる。
その瞬間、隣にいることも、くだらない話をすることも、綺麗な景色を一緒に見ることもできなくなる。
それが、怖くないと言えば嘘になる。
できることなら、もっと長く一緒にいたい。
十年後も、二十年後も、同じ景色を見ていたい。
病院を出て、二人でどこかへ出かけて、写真を撮って、笑い合いたい。
そんな未来を、夢見てしまう。
でも、それが叶うとは限らない。
むしろ、叶わない可能性のほうが高いのかもしれない。
それでも。
俺は、彼女を好きになったことを後悔していなかった。
出会わなければ、こんな気持ちを知ることもなかっただろう。
残された時間のことばかり考えて、ただ絶望したまま過ごしていたかもしれない。
櫂凪と出会ったから、俺は今日を大切にしたいと思えた。
明日が来ることを、少しだけ楽しみにできるようになった。
だから、たとえこの恋に期限があったとしても。
たとえ、いつか必ず終わりが来るとしても。
俺は、この恋を大切にしたい。
短くてもいい。
限られた時間でもいい。
彼女と一緒に笑えるなら。
彼女と一緒に、綺麗な景色を見られるなら。
俺は、それだけでよかった。
これは、期限付きの恋だ。
いつまで続くのか、誰にもわからない。
それでも俺は、今日も彼女の隣にいる。
そして、願ってしまうのだ。
どうか、明日も。
明日も、櫂凪の笑顔を見られますように。
どうか、もう少しだけ。
この時間が続きますように。漢字漢字
ガラス越しに見える空は、どこまでも青い。雲ひとつない、よく晴れた日だった。遠くには高いビルが立ち並び、その間を縫うように車が走っている。こんな日には、学校のグラウンドで体育の授業でもしているのだろうか。
そんなことを考えて、俺は小さく息を吐いた。
二か月前までは、俺も学校に通っていた。
『おい、一! 集中しろ!』
授業中、先生に何度も怒鳴られた。友達とくだらない話をして、くだらないことで笑って、面倒くさい宿題に文句を言う。朝は眠いとぼやき、放課後になれば早く帰りたいと騒いでいた。
そんな、どこにでもある普通の高校生活を送るはずだった。
少なくとも、あの日までは。
今の俺には、授業も、宿題も、友達との他愛ない会話もない。
あるのは、真っ白な病室と、消毒液の匂いと、定期的に聞こえてくる看護師たちの足音。そして、いつ終わるとも知れない治療の日々だけだった。
いや。
いつ終わるのかは、もう知っている。
医者から、はっきりと告げられたのだから。
俺の人生は、残り一年。
そう宣告された、あの日から始まったんだ。
俺の、期限付きの人生が。
* * *
あの日は、いつもと何も変わらない一日だった。
学校からの帰り道。
俺の通っていた高校は家から遠く、毎日の通学にはバスを利用していた。朝は満員のバスに揺られ、帰りは疲れ切った身体を座席に預けながら、窓の外を眺める。
それが、俺の日常だった。
その日も、いつもと同じようにバスを降りた。
家の近くのバス停。見慣れた道路。何度も通った帰り道。
あと少し歩けば家に着く。
そう思って、最初の一歩を踏み出した瞬間だった。
「……っ、痛……!」
腹部に、鋭い痛みが走った。
思わず足を止める。
何だ、これ。
最初は、食べ過ぎでもしたのかと思った。昼食に何を食べたのか思い出そうとしたが、そんなことを考えていられる余裕はすぐになくなった。
腹部の痛みが、どんどん強くなっていく。
それだけではなかった。背中にも、鈍く重たい痛みが広がっていった。
「っ、は……」
息を吸うことさえ、苦しく感じた。
以前にも、似たような痛みを感じたことはあった。
授業中に腹部が痛くなったこともあるし、夜、背中の痛みでなかなか寝つけなかったこともある。
けれど、そのたびに俺は気のせいだと片づけてきた。
少し休めば治る。
寝れば大丈夫。
病院に行くほどのことじゃない。
そうやって、見て見ぬふりをしてきた。
でも、今日の痛みは違った。
今まで経験したどんな痛みよりも強く、まるで身体の奥から何かに締めつけられているようだった。
「……っ、くそ……!」
歩こうとした。
けれど、足に力が入らない。
膝が折れ、その場にしゃがみ込む。冷や汗が額を伝い、視界がかすかに揺れた。
立たなければ。
家に帰らなければ。
そう思うのに、身体が言うことを聞いてくれない。
通り過ぎていく人の足音が聞こえた。
誰か、助けてくれ。
そう口にしたかったのに、声を出す余裕すらなかった。
やがて、俺の異変に気づいた通行人が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!? 聞こえますか?」
返事をしようとしたが、うまく声が出なかった。
「救急車、呼びますからね!」
その人がスマートフォンを取り出すのが、ぼんやりと見えた。
その後のことは、あまり覚えていない。
救急車のサイレン。
担架に乗せられた感覚。
見知らぬ人たちの声。
そして、白い天井。
気がついたとき、俺は近くの大学附属病院に搬送されていた。
* * *
病院では、さまざまな検査を受けた。
採血をされ、血液検査や腫瘍マーカーの検査を受けた。エコー検査に続いて、MRI検査も行われた。
検査が進むにつれて、医師や看護師の表情が少しずつ変わっていくのが気になった。
何かあるのだろうか。
俺の身体に、何かおかしなことが起きているのだろうか。
そう尋ねたかった。
でも、聞くのが怖かった。
もし、何か重大な病気が見つかっていたら。
もし、今までの痛みが、ただの腹痛ではなかったとしたら。
俺は、その答えを知る覚悟ができていなかった。
結局、その日は痛み止めを処方され、いったん家に帰ることになった。
「また一週間後に来てください。検査結果についても、そのときに詳しくお話しします」
医師の言葉に従い、俺は帰る前に次の診察の予約を入れた。
家に帰ると、普段なら仕事で帰りが遅いはずの両親が、珍しくそろっていた。
学校か病院から連絡が入ったのだろう。
「大丈夫なの?」
母親が尋ねた。
その声には、心配しているような響きがあった。
「……別に。大したことないって」
俺はそう答えた。
実際には、原因もわかっていない。大したことがないと決まったわけでもない。
それでも、そう言うしかなかった。
両親はそれ以上、深く尋ねてこなかった。
そして俺も、それ以上何も話さなかった。
いつものことだ。
俺たち家族は、必要なこと以外、あまり話をしない。
同じ家に住んでいても、それぞれが自分の生活を送っている。俺の学校生活に興味があるわけでもなければ、俺が普段何を考えているのか知ろうとするわけでもない。
だからこそ、あの日の両親の態度には、どこか違和感があった。
まるで、何か悪いことが起きると、最初からわかっているみたいだった。
その違和感の正体を知るまで、あと一週間。
俺は、何も知らずに眠りについた。
* * *
一週間後。
病院は、前回よりも静かに感じられた。
待合室には何人かの患者がいたが、誰も大きな声では話していない。受付の機械音や、遠くから聞こえる車椅子の音が、やけに耳についた。
俺は両親と並んで、診察の順番を待っていた。
母親は膝の上で両手を組み、父親はスマートフォンの画面を眺めている。
いつもと変わらない光景。
なのに、何かが違った。
母親の横顔が、妙に気になったのだ。
普段は俺が学校で何をしていようと、あまり関心を示さない人だ。テストの点数を聞かれることはあっても、それ以上の話になることは少ない。
そんな母親が、今日は何度も俺の顔を見ていた。
心配しているのだろうか。
今さら?
俺が苦笑しそうになった、そのときだった。
「一さん、二番診察室にお入りください」
天井のスピーカーから、落ち着いた声が響いた。
俺たちは立ち上がり、診察室へと向かった。
扉を開ける。
中には、前回担当してくれた医師が座っていた。
机の上には、いくつかの書類と検査結果の資料が置かれている。
医師は俺たちが座るのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。
「先日の検査結果について、お話ししたいと思います」
その声を聞いた瞬間、嫌な予感がした。
医師の表情が、あまりにも重かったからだ。
俺は無意識に、膝の上で拳を握りしめていた。
「検査の結果ですが…… 祐介さんは、膵臓がんである可能性が非常に高いと考えられます」
「……え?」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
膵臓がん。
その単語だけが、頭の中で何度も繰り返される。
がん。
ドラマやニュースの中で聞いたことのある病名。
高齢の人がかかる病気。
治療が難しく、命に関わることもある病気。
それが、俺?
「それも、現時点ではステージ3に相当すると考えられます」
医師は慎重に言葉を選んでいた。
追加の検査や詳しい評価が必要であることも、治療方針についても、説明していたのだと思う。
けれど、俺の耳にはほとんど入ってこなかった。
ステージ3。
膵臓がん。
どうして。
何がいけなかったんだ。
俺は、まだ十六歳だ。
まだ高校生になったばかりだ。
これから、いろいろなことがあるはずだった。
友達とくだらないことで笑って、テストの点数に一喜一憂して、文化祭で騒いで、体育祭で競い合って。
いつか大学に進学して、好きなことを見つけて、知らない場所へ旅行に行って。
そんな未来が、当たり前のように続いていくと思っていた。
それなのに。
「……治るん、ですよね?」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
自分でも驚くほど、声が小さかった。
医師は一瞬、言葉に詰まった。
そのわずかな沈黙だけで、俺は答えを察してしまった。
「治療については、これから詳しく検討していきます。ただ、裕介さんの場合、腫瘍の位置や周囲の血管との関係などから、現時点では手術が難しいと考えられます」
医師の説明は続いた。
治療の選択肢。
抗がん剤治療。
今後の経過。
どれも、俺にとっては現実味のない言葉ばかりだった。
そして、最後に。
「厳しいお話になりますが、現在の状態を踏まえると、余命は一年程度となる可能性があります」
……。
何も、聞こえなくなった。
十六年間。
たった十六年だ。
これから始まるはずだった人生が、一年程度で終わるかもしれない。
俺は高校を卒業できない。
大学にも行けない。
大人になることも、働くことも、誰かと出会って恋をすることも。
全部、できないかもしれない。
いや。
きっと、できないのだろう。
だって、医者がそう言ったのだから。
* * *
俺は、昔からとことん運が悪い男だった。
正月に引くおみくじは、決まって凶。
せっかく買ったアイスを落とす。
鳥の糞が、なぜか俺の頭上に落ちてくる。
財布をなくしたと思ったら、次の日には傘までなくす。
楽しみにしていた行事の日に限って熱を出し、テスト前日に限って体調を崩す。
友達からは「お前、前世で何かやらかしたんじゃねえの?」と笑われたこともある。
そのたびに、俺も笑っていた。
「俺の運の悪さ、さすがに異常だろ」
なんて言いながら。
でも、今になって思う。
今までの運の悪さなんて、ずいぶんと優しいものだったのかもしれない。
財布をなくしたって、また買えばいい。
傘がなくなったって、雨宿りをすればいい。
テストで悪い点を取ったって、次に頑張ればいい。
失敗したって、やり直せる。
けれど、命は?
失った時間は?
もう二度と来ない未来は?
どうすれば、取り戻せるんだろう。
「あの……」
沈黙を破ったのは、母親だった。
「生存率は、どれくらいなのでしょうか?」
母親は医師に尋ねた。
俺は、その横顔を見つめた。
どうせ、早く死んだら教育費がかからなくなるとか、そんなことでも考えているのだろう。
そう思ってしまう自分がいた。
ひどい息子だと思う。
でも、今までの母親を思い返せば、そう考えてしまうのも無理はなかった。
俺が何を好きなのか。
何に悩んでいるのか。
どんな未来を望んでいるのか。
そんなことを、母親が真剣に聞いてくれた記憶は、あまりない。
だから、今さら心配そうな顔をされても、どう反応すればいいのかわからなかった。
「膵臓がんのステージ3については、統計によって差がありますが、五年生存率はおおむね一桁台とされることもあります。ただし、これは集団の統計であり、個人の経過をそのまま予測するものではありません」
「一桁……」
母親が、かすれた声でつぶやいた。
医師は、さらに説明を続けた。
俺の場合は手術が難しく、病状を踏まえると厳しい見通しであること。そして、抗がん剤治療を早急に始める必要があること。
話を聞いているはずなのに、どこか他人事のようだった。
俺のことなのに。
俺の人生なのに。
自分の未来が、自分の手からどんどん離れていく。
そんな感覚だった。
「抗がん剤治療を始める必要がありますので、できるだけ早く入院していただきたいと思います」
医師のその言葉に、俺はようやく現実へ引き戻された。
入院?
すぐに?
俺は高校を卒業できないだけじゃない。
明日からも学校に通うことすら、できなくなるのか。
友達に会うことも、授業を受けることも、放課後に寄り道をすることも。
何もかもが、突然なくなってしまう。
「……わかりました」
父親が答えた。
俺の気持ちを聞くこともなく、話はどんどん進んでいった。
入院の手続き。
必要な書類。
今後の予定。
俺はただ、うなずいていた。
何かを言ったところで、何かが変わるわけではない。
そう思ったからだ。
診察室を出たあと、両親は入院に必要な荷物を用意するため、一度家へ帰った。
「すぐに戻るから、ここで待っていて」
母親はそう言った。
俺は「うん」とだけ答えた。
その背中が遠ざかっていくのを、ぼんやりと見送った。
涙は出なかった。
悲しくないわけではない。
怖くないわけでもない。
ただ、あまりにも突然のことすぎて、感情が追いついていなかった。
絶望することすら、できなかった。
* * *
看護師に案内された病室は、二人部屋だった。
窓際にベッドが二つ並び、それぞれのベッドの横には小さな棚とテーブルがある。白いカーテンがゆらゆらと揺れ、窓から差し込む光が床に細長い影を落としていた。
病院特有の消毒液の匂いがする。
ここで、これから生活するのか。
そう考えると、少しだけ息苦しくなった。
「じゃあ、荷物が届くまでは、ゆっくり休んでいてね」
看護師はそう言って、俺をベッドまで案内した。
そのあと、カーテンの向こうから明るい声が聞こえた。
「櫂凪ちゃん、この子が今日から同じ部屋になるから。病院のこと、いろいろ教えてあげてね」
「はーい!」
返事とともに、カーテンが開いた。
そこにいたのは、同い年くらいの女子だった。
肩のあたりまで伸びた髪。柔らかな目元。病院着を着ているのに、どこか明るい雰囲気をまとっている。
彼女は俺を見ると、にこっと笑った。
「私、胡桃櫂凪。よろしくね!」
「あ、ああ。よろしく」
突然のことに、俺は少し戸惑いながら返事をした。
「君、名前は?」
「裕介」
「裕介君ね。よろしく!」
彼女は、まるでずっと前から知り合いだったかのように笑った。
それから少し話しているうちに、俺たちは同い年だとわかった。
同じ年に生まれて、同じように学校へ通っていたはずの人間。
なのに、俺たちは今、学校ではなく病院で出会っている。
なんだか、不思議な感じがした。
「へぇ、裕介君の名字って【一】って言うんだ。珍しいね!」
櫂凪は、俺の名前を聞いて興味深そうに目を輝かせた。
「ああ、よく言われる」
「読み方、初見じゃ絶対わからないよね。普通に『いち』とか『はじめ』って読んじゃいそう」
「まあな」
俺は苦笑した。
学校では、先生も友達も、ほとんど名字で俺を呼んでいた。
珍しい名字だから覚えやすいらしい。
ただ、そのせいで下の名前を呼ばれることはほとんどなかった。
裕介。
自分の名前なのに、誰かに呼ばれると、少し違和感がある。
もっとも、誰も俺の名前なんて覚えていないと思うが。
「それを言ったら、お前の名字も珍しいだろ」
「え?」
「胡桃、なんて名字、友達で見たことないぞ」
「あはは、確かに!」
櫂凪は楽しそうに笑った。
「じゃあ、私のことは櫂凪って呼んで! 胡桃より呼びやすいでしょ?」
「まあ、そうだな」
「ねえ、裕介君。胡桃って名字、名字の多さランキングで何位だと思う?」
「え……。百位くらい?」
「ブッブー!」
櫂凪は、両腕を胸の前で交差させた。
「正解は、十三万……じゃなくて、一万三千百一位!」
「細かっ!」
「えへへ、調べたことあるんだよね」
「じゃあ、一は?」
「裕介君の名字は何位なの?」
「一万四千九百三位」
「えっ、私のほうが多いんだ!」
「いや、どっちも珍しいだろ。ていうか、よく覚えてるな」
「それを言ったら裕介君もじゃん!」
櫂凪は声を上げて笑った。
その笑顔を見ていると、不思議と心が軽くなった。
ほんの少し前まで、俺は自分の人生に絶望していた。
これから先、一年間で何ができるのか。
どうやって過ごせばいいのか。
そんなことばかり考えていた。
なのに、今は。
名字の順位なんて、どうでもいい話で笑っている。
ほんの一瞬だけ、病気のことを忘れられた。
それが、妙に嬉しかった。
* * *
「ねえ、裕介君」
しばらく話したあと、櫂凪が尋ねてきた。
「ん?」
「裕介君は、病気? それとも怪我?」
その質問に、俺は少しだけ視線を落とした。
「……病気」
「そっか」
櫂凪は、それ以上何も聞かなかった。
ただ、そうなんだ、と受け止めるようにうなずいただけだった。
普通なら、気になるはずだ。
同い年の人間が、学校ではなく病院に入院している。
しかも、見たところ大きな怪我をしているわけでもない。
何の病気なのか、どうして入院しているのか。
少しくらい、尋ねたくなるだろう。
なのに、櫂凪は聞かなかった。
「……なんの病気か、気にならないのか?」
俺が尋ねると、櫂凪は少し考えるように首を傾げた。
「うーん。気になるか、気にならないかで言ったら、気になるよ?」
「じゃあ……」
「でも、聞いたら裕介君がつらくなるかもしれないじゃん?」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「言いたくないことって、誰にでもあると思うんだ。だから、無理に聞こうとは思わないよ。話したくなったら話してくれればいいし、話したくないなら、話さなくてもいいし!」
櫂凪は、いつものように笑った。
「私はそれでいいと思う!」
どうして、そんなことが言えるんだろう。
俺たちは、今日初めて会ったばかりなのに。
俺のことなんて何も知らないはずなのに。
それなのに、どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。
胸の奥が、少しだけ苦しくなった。
「……膵臓がん」
「え?」
「俺、膵臓がんなんだ。ステージ3だって」
口に出すと、現実が少しだけ近づいてくる気がした。
「さっき、余命宣告された。残り一年くらいだって」
言い終えてから、俺は櫂凪の顔をうかがった。
驚かれるかもしれない。
気まずそうな顔をされるかもしれない。
かわいそうだと、同情されるかもしれない。
けれど、櫂凪は。
「……そっか」
ただ、それだけを言った。
そして、少しだけ寂しそうに笑った。
その表情が、なぜか気になった。
「櫂凪は?」
俺は尋ねた。
「言いたくないなら言わなくていいけど……」
「奇遇だね!」
櫂凪は、少しだけ声を明るくした。
「私も、がんなんだよ!」
「……え?」
「膵臓じゃなくて、脾臓だけどね」
「脾臓……?」
「うん。ステージ4なんだ」
彼女は、まるで明日の天気でも話すような口調で言った。
「二か月前に余命宣告されたんだ。私も、残り一年くらいだって」
「……」
「だから、今のところはあと十か月くらいかな?」
櫂凪は笑った。
けれど、俺は笑えなかった。
同い年。
同じ病院。
そして、同じように余命を告げられた人間。
そんな偶然が、本当にあるのだろうか。
「……ごめん」
気づけば、俺は謝っていた。
「えっ、何で謝るの?」
「いや……」
何と言えばいいのかわからなかった。
彼女も、俺と同じように苦しんでいる。
それなのに、俺は自分のことで頭がいっぱいだった。
彼女の気持ちを考える余裕なんて、少しもなかった。
「謝らなくていいよー!」
櫂凪は笑いながら手を振った。
「私たち、同じような境遇なんだね。なんだか、すごい偶然!」
「……そうだな」
俺は、曖昧にうなずいた。
「ステージ4ってことは……転移してるのか?」
「そうらしいね。肺とか、骨にも転移してるんだって」
「……そっか」
「うん!」
櫂凪は明るく答えた。
あまりにも自然な返事だった。
まるで、何も怖くないみたいに。
まるで、自分の未来がなくなることなんて、何とも思っていないみたいに。
でも、俺は気づいてしまった。
彼女の口元は笑っているのに、目の奥は笑っていなかった。
ほんの一瞬。
彼女が視線を落としたとき、そこに浮かんだ表情。
俺は、それがなぜか喉に引っかかって、うまく息ができなかった。
きっと、彼女だって怖いのだ。
俺と同じように。
それなのに、彼女は笑っている。
俺の前では、明るく振る舞ってくれている。
そのことが、どうしようもなく胸に刺さった。
* * *
しばらくして、病室の扉が開いた。
「あの、裕介の母です」
母親が荷物を抱えて入ってきた。
その後ろには父親もいる。
俺は軽くうなずいた。
母親は俺の荷物を棚に置くと、隣のベッドにいる櫂凪へと視線を向けた。
「櫂凪ちゃん、裕介をよろしくね」
「はい! 任せてください!」
櫂凪は、元気よく返事をした。
その勢いに、俺は思わず吹き出しそうになった。
いや、ちょっと待て。
初対面の人間に、何を任せているんだ。
それに、母親らしいことなんて普段はほとんどしないくせに、こういうときだけ母親を名乗るのか。
そんな不満が、頭の中をぐるぐると回った。
けれど、櫂凪の明るい声を聞いていると、どうでもよくなってしまった。
母親は必要な荷物を置くと、すぐに病室を出ていった。
扉が閉まる。
静けさが戻った。
「……そういえば、櫂凪の親は?」
ふと思い出して、俺は尋ねた。
櫂凪は一瞬だけ目を伏せた。
「ああ、私、お母さんがいないんだ」
「……え?」
「小さい頃に病気で亡くなっちゃって。だから、お父さんと二人暮らしなんだよ」
「……そう、なのか」
俺は、それ以上何も言えなかった。
何と声をかければいいのか、わからなかったからだ。
すると、ちょうどそのとき。
病室の扉が開いた。
背の高い男性が入ってくる。
白衣を着ていて、いかにも医者らしい雰囲気だった。
男性は俺に軽く会釈すると、櫂凪のほうへ歩いていった。
「櫂凪、これ」
そう言って、コンビニのレジ袋を差し出す。
「ありがとう!」
櫂凪は袋を受け取った。
知り合いなのだろうか。
それに、さっきから妙に親しげだ。
男性は櫂凪の頭を軽く撫でると、優しく笑った。
そして、櫂凪が口を開いた。
「ありがとう、お父さん!」
「……え?」
思わず声が出た。
お父さん?
この人が?
「裕介君、紹介するね! これが私のお父さん!」
「初めまして。櫂凪の父です」
「あ、初めまして。裕介です」
俺は慌てて頭を下げた。
「裕介君は、今日から入院なのか?」
「は、はい」
「そっか。慣れないことも多いだろうし、大変だと思うけど、困ったことがあったら遠慮なく言ってくれ」
櫂凪のお父さんは、そう言って優しく笑った。
「何か食べたいものとかあるか? 好きなお菓子でもあれば、今度買ってくるけど」
「い、いえ、大丈夫です。そんな、買ってもらうなんて悪いですし……」
「子供が遠慮しちゃ駄目だって!」
即答だった。
俺は思わず言葉に詰まった。
結構、グイグイくるタイプの人なのかもしれない。
すると、櫂凪が俺のベッドのそばまでやってきて、小声で囁いた。
「ごめんね。こういう性格だけど、悪い人じゃないから」
「……うん、ありがとう」
俺が小さくうなずくと、櫂凪のお父さんがこちらを見た。
「ん? 何、二人で内緒話してるんだ?」
「な、何でもないよ!」
櫂凪が慌てて答える。
その様子がおかしくて、俺は少し笑ってしまった。
「あ、そうだ。裕介君、スマホは持ってるか?」
「え? はい」
「よかったら、メッセージを交換しておかないか? 櫂凪に何かあったとき、君から連絡をもらえると助かるし、逆に君に何かあったときも、連絡できるだろう?」
櫂凪のお父さんは、スマートフォンを取り出した。
「ちょっと、お父さん! 初対面なのに失礼でしょ!」
「えー? そうか?」
「そうだよ! ごめんね、裕介君」
櫂凪が申し訳なさそうにこちらを見る。
俺は、少しだけ考えた。
正直、初対面の大人と連絡先を交換するのは、少し緊張する。
けれど、この人は櫂凪のお父さんだ。
それに、俺たちは同じ病室で生活することになる。
何かあったとき、連絡を取り合えるのは便利かもしれない。
「全然大丈夫です。ぜひ、交換させてください」
「おお、ありがとう!」
俺はメッセージアプリのIDを見せた。
お互いに登録を済ませると、櫂凪のお父さんは満足そうにうなずいた。
「よし、これで大丈夫だな。じゃあ、僕は仕事に戻るよ。二人とも、何かあったら遠慮なく連絡してくれ」
「はーい!」
「ありがとうございます」
そう言って、櫂凪のお父さんは病室を出ていった。
扉が閉まる。
すると、櫂凪がこちらを向いた。
「ねえ、裕介君」
「ん?」
「私とも、メッセージ交換しない?」
櫂凪は、スマートフォンを取り出してIDを見せてきた。
「もちろん!」
俺は、少し慌てながら彼女のIDを入力した。
登録が完了すると、画面に櫂凪の名前が表示された。
ただ、それだけのことだった。
それなのに。
どうしてだろう。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
嬉しい。
でも、いつもの嬉しいとは違う。
友達と連絡先を交換したときとも、何かが違う。
この先、俺は何人の人と出会うのだろう。
何人の人と話すのだろう。
そんな未来を考えることさえ、できなくなっていたはずなのに。
今は、少しだけ思えた。
明日も、この子と話せたらいいな。
明日も、笑ってくれたらいいな。
そして、できることなら。
明日も、その次の日も。
この病室で、彼女の笑顔を見ていたい。
そんなことを思っている自分に、俺はまだ気づいていなかった。
* * *
それから、俺たちは毎日のように一緒に過ごすようになった。
もちろん、治療がある日は自由に動けないこともあったし、体調が悪くてベッドから起き上がれない日もあった。
それでも、調子のいい日には二人で病院の中を歩いた。
コンビニへ行って、お菓子を選ぶ。
漫画コーナーで、面白そうな本を探す。
窓際の椅子に並んで座り、外を眺めながら話をする。
屋上へ行ける日は、二人で景色を見に行った。
最初の頃、俺はほとんど笑わなかった。
何をしていても、頭のどこかで余命のことを考えてしまう。
あと一年。
その言葉が、ずっと頭から離れなかった。
学校に戻れるのだろうか。
卒業できるのだろうか。
友達は、俺がいなくなったあと、どうするのだろう。
考え始めると、何もかもが無意味に思えてきた。
どうせ一年後にはいなくなるのなら、何を頑張ったところで意味がないのではないか。
そう考えてしまう日もあった。
けれど、櫂凪は違った。
「ねえ、裕介君! 今日はコンビニで新しいお菓子が出てるらしいよ!」
「……それ、昨日も言ってなかったか?」
「昨日とは違うやつだもん!」
「はいはい」
「絶対、はいはいって思ってないでしょ!」
そんなくだらない会話をしているうちに、気づけば笑っていた。
櫂凪は、特別なことをしてくれたわけではない。
俺を励ますために、無理に前向きな言葉をかけてくれたわけでもない。
ただ、いつもどおりに接してくれた。
病気だからといって、かわいそうな人として扱うこともなかった。
俺が笑えば一緒に笑い、俺が黙っていれば、無理に話しかけず隣にいてくれた。
それだけだった。
でも、その「それだけ」が、俺には何よりもありがたかった。
彼女のおかげで、俺は少しずつ前を向けるようになった。
完全に絶望が消えたわけではない。
病気が怖くなくなったわけでもない。
それでも、今日という一日を過ごすことに、少しだけ意味を感じられるようになった。
間違いなく、櫂凪のおかげだった。
入院して一週間ほど経った頃、俺たちの間に、もう一つ共通の趣味ができた。
それは、写真を撮ることだった。
きっかけは、何気ない会話だったと思う。
ある日の朝、窓から差し込む光があまりにも綺麗だった。
淡いオレンジ色の光が、病室の白い壁を照らしている。
窓の向こうには、まだ眠そうな街並みが広がっていた。
「……綺麗だな」
俺がそうつぶやくと、櫂凪が顔を上げた。
「え? どこ?」
「ほら、窓の外」
「あ、本当だ!」
櫂凪はすぐにスマートフォンを取り出した。
「写真、撮ろうよ!」
「写真?」
「うん! せっかく綺麗なんだもん。残しておきたいじゃん!」
そう言って、彼女は窓の外にカメラを向けた。
画面の中に、朝焼けが映る。
俺もつられてスマートフォンを取り出した。
シャッターを押す。
カシャッ、と小さな音がした。
画面には、オレンジ色に染まった空が写っていた。
ただ、それだけ。
けれど、撮った写真を見返すと、不思議な気持ちになった。
今、この瞬間に見た景色が、形になって残っている。
明日には消えてしまう朝焼けも、写真の中なら、いつでも見返すことができる。
「いいね、これ!」
櫂凪が、俺のスマートフォンをのぞき込んだ。
「裕介君、写真撮るの上手だね!」
「いや、適当に撮っただけだぞ」
「それでも上手!」
「……そうか?」
「そうだよ!」
櫂凪は、満足そうにうなずいた。
それからだった。
俺たちは、綺麗なものを見つけるたびに写真を撮るようになった。
朝焼け。
夕焼け。
屋上から眺めるビルの明かり。
夜になると、遠くの街にぽつぽつと灯る光。
中庭にある小さな池を泳ぐ鯉。
風に揺れる木々。
雨上がりの空に浮かぶ雲。
普段なら、わざわざ立ち止まって見ることもなかった景色。
けれど、櫂凪と一緒にいると、何でもないものが特別に思えた。
「ねえ、裕介君。見て!」
ある日の夕方、櫂凪が窓の外を指さした。
空が、赤や紫に染まっていた。
雲の端が金色に光り、沈みかけた太陽が街を優しく照らしている。
「……すげえ」
俺は、思わず声を漏らした。
「でしょ? こういう景色、ずっと見てたいなあ」
櫂凪はスマートフォンを構えながら、そう言った。
「明日も見られるかな?」
「天気がよければな」
「じゃあ、明日も一緒に見ようね!」
何でもない約束だった。
明日も空を見る。
ただ、それだけ。
なのに、俺はその言葉を、いつまでも覚えていた。
明日も。
その次の日も。
そんなふうに、当たり前に続いていく未来を、俺たちは自然と口にしていた。
それが、どれほど貴重なことなのか。
本当は、二人ともわかっていたはずなのに。
* * *
写真を撮るようになってから、俺はもう一つ、こっそり続けていることがあった。
櫂凪の写真を撮ることだ。
もちろん、本人には内緒で。
彼女が窓の外を眺めているとき。
漫画を読んで、面白い場面で笑っているとき。
コンビニでお菓子を選びながら、真剣な顔をしているとき。
夕焼けを見つめて、静かに目を細めているとき。
そんな何気ない瞬間を、俺は何枚も写真に収めていた。
最初は、ただ綺麗だと思ったからだった。
窓の外の景色を撮るのと同じように、残しておきたいと思った。
けれど、いつからだろう。
写真を見返すたびに、胸の奥が少しだけ苦しくなるようになった。
彼女の笑顔。
横顔。
何かを考えているときの、少しだけ真剣な表情。
どれも、俺の目には、ほかの何よりも美しく映った。
世界には、もっと綺麗な景色があるのかもしれない。
もっと素晴らしい場所も、もっと感動するような光景も、きっとたくさんあるのだろう。
でも、俺にとっては。
櫂凪が隣で笑っている景色が、一番綺麗だった。
気づいてしまった。
俺は、彼女ともっと一緒にいたいと思っている。
もっと話したい。
もっと笑ってほしい。
明日も、その次の日も、隣にいてほしい。
彼女がいない病室なんて、今では考えられなくなっていた。
彼女が笑ってくれるだけで、少しだけ明日が楽しみになる。
彼女が隣にいてくれるだけで、今まで何も感じられなかった時間が、少しだけ温かくなる。
そんな気持ちに、名前をつけるのは簡単だった。
俺は、恋をしたのだ。
胡桃櫂凪に。
たぶん、ずっと前から。
彼女が初めて俺に笑いかけてくれたときから。
あるいは、俺の病気を聞いても、変わらずに接してくれたときから。
彼女が何気なく「明日も一緒に見ようね」と言ってくれたときから。
いつからなのか、もうわからない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
俺は、櫂凪のことが好きだ。
心から、そう思っている。
……でも。
この恋は、きっと長くは続かない。
俺も、櫂凪も、病気を抱えている。
医者から告げられた余命が、必ずそのとおりになるとは限らない。
それでも、俺たちに残された時間が限られていることだけは、変わらなかった。
いつか、どちらかが先にいなくなる。
その瞬間、隣にいることも、くだらない話をすることも、綺麗な景色を一緒に見ることもできなくなる。
それが、怖くないと言えば嘘になる。
できることなら、もっと長く一緒にいたい。
十年後も、二十年後も、同じ景色を見ていたい。
病院を出て、二人でどこかへ出かけて、写真を撮って、笑い合いたい。
そんな未来を、夢見てしまう。
でも、それが叶うとは限らない。
むしろ、叶わない可能性のほうが高いのかもしれない。
それでも。
俺は、彼女を好きになったことを後悔していなかった。
出会わなければ、こんな気持ちを知ることもなかっただろう。
残された時間のことばかり考えて、ただ絶望したまま過ごしていたかもしれない。
櫂凪と出会ったから、俺は今日を大切にしたいと思えた。
明日が来ることを、少しだけ楽しみにできるようになった。
だから、たとえこの恋に期限があったとしても。
たとえ、いつか必ず終わりが来るとしても。
俺は、この恋を大切にしたい。
短くてもいい。
限られた時間でもいい。
彼女と一緒に笑えるなら。
彼女と一緒に、綺麗な景色を見られるなら。
俺は、それだけでよかった。
これは、期限付きの恋だ。
いつまで続くのか、誰にもわからない。
それでも俺は、今日も彼女の隣にいる。
そして、願ってしまうのだ。
どうか、明日も。
明日も、櫂凪の笑顔を見られますように。
どうか、もう少しだけ。
この時間が続きますように。漢字漢字

