期限付きの恋
 俺は、病室の窓の外をぼんやりと眺めていた。

 ガラス越しに見える空は、どこまでも青い。雲ひとつない、よく晴れた日だった。遠くには高いビルが立ち並び、その間を縫うように車が走っている。こんな日には、学校のグラウンドで体育の授業でもしているのだろうか。

 そんなことを考えて、俺は小さく息を吐いた。

 二か月前までは、俺も学校に通っていた。

『おい、一(にのまえ)! 集中しろ!』

 授業中、先生に何度も怒鳴られた。友達とくだらない話をして、くだらないことで笑って、面倒くさい宿題に文句を言う。朝は眠いとぼやき、放課後になれば早く帰りたいと騒いでいた。

 そんな、どこにでもある普通の高校生活を送るはずだった。

 少なくとも、あの日までは。

 今の俺には、授業も、宿題も、友達との他愛ない会話もない。

 あるのは、真っ白な病室と、消毒液の匂いと、定期的に聞こえてくる看護師たちの足音。そして、いつ終わるとも知れない治療の日々だけだった。

 いや。

 いつ終わるのかは、もう知っている。

 医者から、はっきりと告げられたのだから。

 俺の人生は、残り一年。

 そう宣告された、あの日から始まったんだ。

 俺の、期限付きの人生が。

     * * *

 あの日は、いつもと何も変わらない一日だった。

 学校からの帰り道。

 俺の通っていた高校は家から遠く、毎日の通学にはバスを利用していた。朝は満員のバスに揺られ、帰りは疲れ切った身体を座席に預けながら、窓の外を眺める。

 それが、俺の日常だった。

 その日も、いつもと同じようにバスを降りた。

 家の近くのバス停。見慣れた道路。何度も通った帰り道。

 あと少し歩けば家に着く。

 そう思って、最初の一歩を踏み出した瞬間だった。

「……っ、痛……!」

 腹部に、鋭い痛みが走った。

 思わず足を止める。

 何だ、これ。

 最初は、食べ過ぎでもしたのかと思った。昼食に何を食べたのか思い出そうとしたが、そんなことを考えていられる余裕はすぐになくなった。

 腹部の痛みが、どんどん強くなっていく。

 それだけではなかった。背中にも、鈍く重たい痛みが広がっていった。

「っ、は……」

 息を吸うことさえ、苦しく感じた。

 以前にも、似たような痛みを感じたことはあった。

 授業中に腹部が痛くなったこともあるし、夜、背中の痛みでなかなか寝つけなかったこともある。

 けれど、そのたびに俺は気のせいだと片づけてきた。

 少し休めば治る。

 寝れば大丈夫。

 病院に行くほどのことじゃない。

 そうやって、見て見ぬふりをしてきた。

 でも、今日の痛みは違った。

 今まで経験したどんな痛みよりも強く、まるで身体の奥から何かに締めつけられているようだった。

「……っ、くそ……!」

 歩こうとした。

 けれど、足に力が入らない。

 膝が折れ、その場にしゃがみ込む。冷や汗が額を伝い、視界がかすかに揺れた。

 立たなければ。

 家に帰らなければ。

 そう思うのに、身体が言うことを聞いてくれない。

 通り過ぎていく人の足音が聞こえた。

 誰か、助けてくれ。

 そう口にしたかったのに、声を出す余裕すらなかった。

 やがて、俺の異変に気づいた通行人が駆け寄ってきた。

「大丈夫ですか!? 聞こえますか?」

 返事をしようとしたが、うまく声が出なかった。

「救急車、呼びますからね!」

 その人がスマートフォンを取り出すのが、ぼんやりと見えた。

 その後のことは、あまり覚えていない。

 救急車のサイレン。

 担架に乗せられた感覚。

 見知らぬ人たちの声。

 そして、白い天井。

 気がついたとき、俺は近くの大学附属病院に搬送されていた。

     * * *

 病院では、さまざまな検査を受けた。

 採血をされ、血液検査や腫瘍マーカーの検査を受けた。エコー検査に続いて、MRI検査も行われた。

 検査が進むにつれて、医師や看護師の表情が少しずつ変わっていくのが気になった。

 何かあるのだろうか。

 俺の身体に、何かおかしなことが起きているのだろうか。

 そう尋ねたかった。

 でも、聞くのが怖かった。

 もし、何か重大な病気が見つかっていたら。

 もし、今までの痛みが、ただの腹痛ではなかったとしたら。

 俺は、その答えを知る覚悟ができていなかった。

 結局、その日は痛み止めを処方され、いったん家に帰ることになった。

「また一週間後に来てください。検査結果についても、そのときに詳しくお話しします」

 医師の言葉に従い、俺は帰る前に次の診察の予約を入れた。

 家に帰ると、普段なら仕事で帰りが遅いはずの両親が、珍しくそろっていた。

 学校か病院から連絡が入ったのだろう。

「大丈夫なの?」

 母親が尋ねた。

 その声には、心配しているような響きがあった。

「……別に。大したことないって」

 俺はそう答えた。

 実際には、原因もわかっていない。大したことがないと決まったわけでもない。

 それでも、そう言うしかなかった。

 両親はそれ以上、深く尋ねてこなかった。

 そして俺も、それ以上何も話さなかった。

 いつものことだ。

 俺たち家族は、必要なこと以外、あまり話をしない。

 同じ家に住んでいても、それぞれが自分の生活を送っている。俺の学校生活に興味があるわけでもなければ、俺が普段何を考えているのか知ろうとするわけでもない。

 だからこそ、あの日の両親の態度には、どこか違和感があった。

 まるで、何か悪いことが起きると、最初からわかっているみたいだった。

 その違和感の正体を知るまで、あと一週間。

 俺は、何も知らずに眠りについた。

     * * *

 一週間後。

 病院は、前回よりも静かに感じられた。

 待合室には何人かの患者がいたが、誰も大きな声では話していない。受付の機械音や、遠くから聞こえる車椅子の音が、やけに耳についた。

 俺は両親と並んで、診察の順番を待っていた。

 母親は膝の上で両手を組み、父親はスマートフォンの画面を眺めている。

 いつもと変わらない光景。

 なのに、何かが違った。

 母親の横顔が、妙に気になったのだ。

 普段は俺が学校で何をしていようと、あまり関心を示さない人だ。テストの点数を聞かれることはあっても、それ以上の話になることは少ない。

 そんな母親が、今日は何度も俺の顔を見ていた。

 心配しているのだろうか。

 今さら?

 俺が苦笑しそうになった、そのときだった。

「一さん、二番診察室にお入りください」

 天井のスピーカーから、落ち着いた声が響いた。

 俺たちは立ち上がり、診察室へと向かった。

 扉を開ける。

 中には、前回担当してくれた医師が座っていた。

 机の上には、いくつかの書類と検査結果の資料が置かれている。

 医師は俺たちが座るのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。

「先日の検査結果について、お話ししたいと思います」

 その声を聞いた瞬間、嫌な予感がした。

 医師の表情が、あまりにも重かったからだ。

 俺は無意識に、膝の上で拳を握りしめていた。

「検査の結果ですが…… 祐介(たすく)さんは、膵臓がんである可能性が非常に高いと考えられます」

「……え?」

 言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

 膵臓がん。

 その単語だけが、頭の中で何度も繰り返される。

 がん。

 ドラマやニュースの中で聞いたことのある病名。

 高齢の人がかかる病気。

 治療が難しく、命に関わることもある病気。

 それが、俺?

「それも、現時点ではステージ3に相当すると考えられます」

 医師は慎重に言葉を選んでいた。

 追加の検査や詳しい評価が必要であることも、治療方針についても、説明していたのだと思う。

 けれど、俺の耳にはほとんど入ってこなかった。

 ステージ3。

 膵臓がん。

 どうして。

 何がいけなかったんだ。

 俺は、まだ十六歳だ。

 まだ高校生になったばかりだ。

 これから、いろいろなことがあるはずだった。

 友達とくだらないことで笑って、テストの点数に一喜一憂して、文化祭で騒いで、体育祭で競い合って。

 いつか大学に進学して、好きなことを見つけて、知らない場所へ旅行に行って。

 そんな未来が、当たり前のように続いていくと思っていた。

 それなのに。

「……治るん、ですよね?」

 気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。

 自分でも驚くほど、声が小さかった。

 医師は一瞬、言葉に詰まった。

 そのわずかな沈黙だけで、俺は答えを察してしまった。

「治療については、これから詳しく検討していきます。ただ、裕介さんの場合、腫瘍の位置や周囲の血管との関係などから、現時点では手術が難しいと考えられます」

 医師の説明は続いた。

 治療の選択肢。

 抗がん剤治療。

 今後の経過。

 どれも、俺にとっては現実味のない言葉ばかりだった。

 そして、最後に。

「厳しいお話になりますが、現在の状態を踏まえると、余命は一年程度となる可能性があります」

 ……。

 何も、聞こえなくなった。

 十六年間。

 たった十六年だ。

 これから始まるはずだった人生が、一年程度で終わるかもしれない。

 俺は高校を卒業できない。

 大学にも行けない。

 大人になることも、働くことも、誰かと出会って恋をすることも。

 全部、できないかもしれない。

 いや。

 きっと、できないのだろう。

 だって、医者がそう言ったのだから。

     * * *

 俺は、昔からとことん運が悪い男だった。

 正月に引くおみくじは、決まって凶。

 せっかく買ったアイスを落とす。

 鳥の糞が、なぜか俺の頭上に落ちてくる。

 財布をなくしたと思ったら、次の日には傘までなくす。

 楽しみにしていた行事の日に限って熱を出し、テスト前日に限って体調を崩す。

 友達からは「お前、前世で何かやらかしたんじゃねえの?」と笑われたこともある。

 そのたびに、俺も笑っていた。

「俺の運の悪さ、さすがに異常だろ」

 なんて言いながら。

 でも、今になって思う。

 今までの運の悪さなんて、ずいぶんと優しいものだったのかもしれない。

 財布をなくしたって、また買えばいい。

 傘がなくなったって、雨宿りをすればいい。

 テストで悪い点を取ったって、次に頑張ればいい。

 失敗したって、やり直せる。

 けれど、命は?

 失った時間は?

 もう二度と来ない未来は?

 どうすれば、取り戻せるんだろう。

「あの……」

 沈黙を破ったのは、母親だった。

「生存率は、どれくらいなのでしょうか?」

 母親は医師に尋ねた。

 俺は、その横顔を見つめた。

 どうせ、早く死んだら教育費がかからなくなるとか、そんなことでも考えているのだろう。

 そう思ってしまう自分がいた。

 ひどい息子だと思う。

 でも、今までの母親を思い返せば、そう考えてしまうのも無理はなかった。

 俺が何を好きなのか。

 何に悩んでいるのか。

 どんな未来を望んでいるのか。

 そんなことを、母親が真剣に聞いてくれた記憶は、あまりない。

 だから、今さら心配そうな顔をされても、どう反応すればいいのかわからなかった。

「膵臓がんのステージ3については、統計によって差がありますが、五年生存率はおおむね一桁台とされることもあります。ただし、これは集団の統計であり、個人の経過をそのまま予測するものではありません」

「一桁……」

 母親が、かすれた声でつぶやいた。

 医師は、さらに説明を続けた。

 俺の場合は手術が難しく、病状を踏まえると厳しい見通しであること。そして、抗がん剤治療を早急に始める必要があること。

 話を聞いているはずなのに、どこか他人事のようだった。

 俺のことなのに。

 俺の人生なのに。

 自分の未来が、自分の手からどんどん離れていく。

 そんな感覚だった。

「抗がん剤治療を始める必要がありますので、できるだけ早く入院していただきたいと思います」

 医師のその言葉に、俺はようやく現実へ引き戻された。

 入院?

 すぐに?

 俺は高校を卒業できないだけじゃない。

 明日からも学校に通うことすら、できなくなるのか。

 友達に会うことも、授業を受けることも、放課後に寄り道をすることも。

 何もかもが、突然なくなってしまう。

「……わかりました」

 父親が答えた。

 俺の気持ちを聞くこともなく、話はどんどん進んでいった。

 入院の手続き。

 必要な書類。

 今後の予定。

 俺はただ、うなずいていた。

 何かを言ったところで、何かが変わるわけではない。

 そう思ったからだ。

 診察室を出たあと、両親は入院に必要な荷物を用意するため、一度家へ帰った。

「すぐに戻るから、ここで待っていて」

 母親はそう言った。

 俺は「うん」とだけ答えた。

 その背中が遠ざかっていくのを、ぼんやりと見送った。

 涙は出なかった。

 悲しくないわけではない。

 怖くないわけでもない。

 ただ、あまりにも突然のことすぎて、感情が追いついていなかった。

 絶望することすら、できなかった。

     * * *

 看護師に案内された病室は、二人部屋だった。

 窓際にベッドが二つ並び、それぞれのベッドの横には小さな棚とテーブルがある。白いカーテンがゆらゆらと揺れ、窓から差し込む光が床に細長い影を落としていた。

 病院特有の消毒液の匂いがする。

 ここで、これから生活するのか。

 そう考えると、少しだけ息苦しくなった。

「じゃあ、荷物が届くまでは、ゆっくり休んでいてね」

 看護師はそう言って、俺をベッドまで案内した。

 そのあと、カーテンの向こうから明るい声が聞こえた。

「櫂凪(かいな)ちゃん、この子が今日から同じ部屋になるから。病院のこと、いろいろ教えてあげてね」

「はーい!」

 返事とともに、カーテンが開いた。

 そこにいたのは、同い年くらいの女子だった。

 肩のあたりまで伸びた髪。柔らかな目元。病院着を着ているのに、どこか明るい雰囲気をまとっている。

 彼女は俺を見ると、にこっと笑った。

「私、胡桃(くるみ)櫂凪。よろしくね!」

「あ、ああ。よろしく」

 突然のことに、俺は少し戸惑いながら返事をした。

「君、名前は?」

「裕介」

「裕介君ね。よろしく!」

 彼女は、まるでずっと前から知り合いだったかのように笑った。

 それから少し話しているうちに、俺たちは同い年だとわかった。

 同じ年に生まれて、同じように学校へ通っていたはずの人間。

 なのに、俺たちは今、学校ではなく病院で出会っている。

 なんだか、不思議な感じがした。

「へぇ、裕介君の名字って【一(にのまえ)】って言うんだ。珍しいね!」

 櫂凪は、俺の名前を聞いて興味深そうに目を輝かせた。

「ああ、よく言われる」

「読み方、初見じゃ絶対わからないよね。普通に『いち』とか『はじめ』って読んじゃいそう」

「まあな」

 俺は苦笑した。

 学校では、先生も友達も、ほとんど名字で俺を呼んでいた。

 珍しい名字だから覚えやすいらしい。

 ただ、そのせいで下の名前を呼ばれることはほとんどなかった。

 裕介。

 自分の名前なのに、誰かに呼ばれると、少し違和感がある。

 もっとも、誰も俺の名前なんて覚えていないと思うが。

「それを言ったら、お前の名字も珍しいだろ」

「え?」

「胡桃、なんて名字、友達で見たことないぞ」

「あはは、確かに!」

 櫂凪は楽しそうに笑った。

「じゃあ、私のことは櫂凪って呼んで! 胡桃より呼びやすいでしょ?」

「まあ、そうだな」

「ねえ、裕介君。胡桃って名字、名字の多さランキングで何位だと思う?」

「え……。百位くらい?」

「ブッブー!」

 櫂凪は、両腕を胸の前で交差させた。

「正解は、十三万……じゃなくて、一万三千百一位!」

「細かっ!」

「えへへ、調べたことあるんだよね」

「じゃあ、一は?」

「裕介君の名字は何位なの?」

「一万四千九百三位」

「えっ、私のほうが多いんだ!」

「いや、どっちも珍しいだろ。ていうか、よく覚えてるな」

「それを言ったら裕介君もじゃん!」

 櫂凪は声を上げて笑った。

 その笑顔を見ていると、不思議と心が軽くなった。

 ほんの少し前まで、俺は自分の人生に絶望していた。

 これから先、一年間で何ができるのか。

 どうやって過ごせばいいのか。

 そんなことばかり考えていた。

 なのに、今は。

 名字の順位なんて、どうでもいい話で笑っている。

 ほんの一瞬だけ、病気のことを忘れられた。

 それが、妙に嬉しかった。

     * * *

「ねえ、裕介君」

 しばらく話したあと、櫂凪が尋ねてきた。

「ん?」

「裕介君は、病気? それとも怪我?」

 その質問に、俺は少しだけ視線を落とした。

「……病気」

「そっか」

 櫂凪は、それ以上何も聞かなかった。

 ただ、そうなんだ、と受け止めるようにうなずいただけだった。

 普通なら、気になるはずだ。

 同い年の人間が、学校ではなく病院に入院している。

 しかも、見たところ大きな怪我をしているわけでもない。

 何の病気なのか、どうして入院しているのか。

 少しくらい、尋ねたくなるだろう。

 なのに、櫂凪は聞かなかった。

「……なんの病気か、気にならないのか?」

 俺が尋ねると、櫂凪は少し考えるように首を傾げた。

「うーん。気になるか、気にならないかで言ったら、気になるよ?」

「じゃあ……」

「でも、聞いたら裕介君がつらくなるかもしれないじゃん?」

 その言葉に、俺は顔を上げた。

「言いたくないことって、誰にでもあると思うんだ。だから、無理に聞こうとは思わないよ。話したくなったら話してくれればいいし、話したくないなら、話さなくてもいいし!」

 櫂凪は、いつものように笑った。

「私はそれでいいと思う!」

 どうして、そんなことが言えるんだろう。

 俺たちは、今日初めて会ったばかりなのに。

 俺のことなんて何も知らないはずなのに。

 それなのに、どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。

 胸の奥が、少しだけ苦しくなった。

「……膵臓がん」

「え?」

「俺、膵臓がんなんだ。ステージ3だって」

 口に出すと、現実が少しだけ近づいてくる気がした。

「さっき、余命宣告された。残り一年くらいだって」

 言い終えてから、俺は櫂凪の顔をうかがった。

 驚かれるかもしれない。

 気まずそうな顔をされるかもしれない。

 かわいそうだと、同情されるかもしれない。

 けれど、櫂凪は。

「……そっか」

 ただ、それだけを言った。

 そして、少しだけ寂しそうに笑った。

 その表情が、なぜか気になった。

「櫂凪は?」

 俺は尋ねた。

「言いたくないなら言わなくていいけど……」

「奇遇だね!」

 櫂凪は、少しだけ声を明るくした。

「私も、がんなんだよ!」

「……え?」

「膵臓じゃなくて、脾臓だけどね」

「脾臓……?」

「うん。ステージ4なんだ」

 彼女は、まるで明日の天気でも話すような口調で言った。

「二か月前に余命宣告されたんだ。私も、残り一年くらいだって」

「……」

「だから、今のところはあと十か月くらいかな?」

 櫂凪は笑った。

 けれど、俺は笑えなかった。

 同い年。

 同じ病院。

 そして、同じように余命を告げられた人間。

 そんな偶然が、本当にあるのだろうか。

「……ごめん」

 気づけば、俺は謝っていた。

「えっ、何で謝るの?」

「いや……」

 何と言えばいいのかわからなかった。

 彼女も、俺と同じように苦しんでいる。

 それなのに、俺は自分のことで頭がいっぱいだった。

 彼女の気持ちを考える余裕なんて、少しもなかった。

「謝らなくていいよー!」

 櫂凪は笑いながら手を振った。

「私たち、同じような境遇なんだね。なんだか、すごい偶然!」

「……そうだな」

 俺は、曖昧にうなずいた。

「ステージ4ってことは……転移してるのか?」

「そうらしいね。肺とか、骨にも転移してるんだって」

「……そっか」

「うん!」

 櫂凪は明るく答えた。

 あまりにも自然な返事だった。

 まるで、何も怖くないみたいに。

 まるで、自分の未来がなくなることなんて、何とも思っていないみたいに。

 でも、俺は気づいてしまった。

 彼女の口元は笑っているのに、目の奥は笑っていなかった。

 ほんの一瞬。

 彼女が視線を落としたとき、そこに浮かんだ表情。

 俺は、それがなぜか喉に引っかかって、うまく息ができなかった。

 きっと、彼女だって怖いのだ。

 俺と同じように。

 それなのに、彼女は笑っている。

 俺の前では、明るく振る舞ってくれている。

 そのことが、どうしようもなく胸に刺さった。

     * * *

 しばらくして、病室の扉が開いた。

「あの、裕介の母です」

 母親が荷物を抱えて入ってきた。

 その後ろには父親もいる。

 俺は軽くうなずいた。

 母親は俺の荷物を棚に置くと、隣のベッドにいる櫂凪へと視線を向けた。

「櫂凪ちゃん、裕介をよろしくね」

「はい! 任せてください!」

 櫂凪は、元気よく返事をした。

 その勢いに、俺は思わず吹き出しそうになった。

 いや、ちょっと待て。

 初対面の人間に、何を任せているんだ。

 それに、母親らしいことなんて普段はほとんどしないくせに、こういうときだけ母親を名乗るのか。

 そんな不満が、頭の中をぐるぐると回った。

 けれど、櫂凪の明るい声を聞いていると、どうでもよくなってしまった。

 母親は必要な荷物を置くと、すぐに病室を出ていった。

 扉が閉まる。

 静けさが戻った。

「……そういえば、櫂凪の親は?」

 ふと思い出して、俺は尋ねた。

 櫂凪は一瞬だけ目を伏せた。

「ああ、私、お母さんがいないんだ」

「……え?」

「小さい頃に病気で亡くなっちゃって。だから、お父さんと二人暮らしなんだよ」

「……そう、なのか」

 俺は、それ以上何も言えなかった。

 何と声をかければいいのか、わからなかったからだ。

 すると、ちょうどそのとき。

 病室の扉が開いた。

 背の高い男性が入ってくる。

 白衣を着ていて、いかにも医者らしい雰囲気だった。

 男性は俺に軽く会釈すると、櫂凪のほうへ歩いていった。

「櫂凪、これ」

 そう言って、コンビニのレジ袋を差し出す。

「ありがとう!」

 櫂凪は袋を受け取った。

 知り合いなのだろうか。

 それに、さっきから妙に親しげだ。

 男性は櫂凪の頭を軽く撫でると、優しく笑った。

 そして、櫂凪が口を開いた。

「ありがとう、お父さん!」

「……え?」

 思わず声が出た。

 お父さん?

 この人が?

「裕介君、紹介するね! これが私のお父さん!」

「初めまして。櫂凪の父です」

「あ、初めまして。裕介です」

 俺は慌てて頭を下げた。

「裕介君は、今日から入院なのか?」

「は、はい」

「そっか。慣れないことも多いだろうし、大変だと思うけど、困ったことがあったら遠慮なく言ってくれ」

 櫂凪のお父さんは、そう言って優しく笑った。

「何か食べたいものとかあるか? 好きなお菓子でもあれば、今度買ってくるけど」

「い、いえ、大丈夫です。そんな、買ってもらうなんて悪いですし……」

「子供が遠慮しちゃ駄目だって!」

 即答だった。

 俺は思わず言葉に詰まった。

 結構、グイグイくるタイプの人なのかもしれない。

 すると、櫂凪が俺のベッドのそばまでやってきて、小声で囁いた。

「ごめんね。こういう性格だけど、悪い人じゃないから」

「……うん、ありがとう」

 俺が小さくうなずくと、櫂凪のお父さんがこちらを見た。

「ん? 何、二人で内緒話してるんだ?」

「な、何でもないよ!」

 櫂凪が慌てて答える。

 その様子がおかしくて、俺は少し笑ってしまった。

「あ、そうだ。裕介君、スマホは持ってるか?」

「え? はい」

「よかったら、メッセージを交換しておかないか? 櫂凪に何かあったとき、君から連絡をもらえると助かるし、逆に君に何かあったときも、連絡できるだろう?」

 櫂凪のお父さんは、スマートフォンを取り出した。

「ちょっと、お父さん! 初対面なのに失礼でしょ!」

「えー? そうか?」

「そうだよ! ごめんね、裕介君」

 櫂凪が申し訳なさそうにこちらを見る。

 俺は、少しだけ考えた。

 正直、初対面の大人と連絡先を交換するのは、少し緊張する。

 けれど、この人は櫂凪のお父さんだ。

 それに、俺たちは同じ病室で生活することになる。

 何かあったとき、連絡を取り合えるのは便利かもしれない。

「全然大丈夫です。ぜひ、交換させてください」

「おお、ありがとう!」

 俺はメッセージアプリのIDを見せた。

 お互いに登録を済ませると、櫂凪のお父さんは満足そうにうなずいた。

「よし、これで大丈夫だな。じゃあ、僕は仕事に戻るよ。二人とも、何かあったら遠慮なく連絡してくれ」

「はーい!」

「ありがとうございます」

 そう言って、櫂凪のお父さんは病室を出ていった。

 扉が閉まる。

 すると、櫂凪がこちらを向いた。

「ねえ、裕介君」

「ん?」

「私とも、メッセージ交換しない?」

 櫂凪は、スマートフォンを取り出してIDを見せてきた。

「もちろん!」

 俺は、少し慌てながら彼女のIDを入力した。

 登録が完了すると、画面に櫂凪の名前が表示された。

 ただ、それだけのことだった。

 それなのに。

 どうしてだろう。

 胸の奥が、じんわりと温かくなった。

 嬉しい。

 でも、いつもの嬉しいとは違う。

 友達と連絡先を交換したときとも、何かが違う。

 この先、俺は何人の人と出会うのだろう。

 何人の人と話すのだろう。

 そんな未来を考えることさえ、できなくなっていたはずなのに。

 今は、少しだけ思えた。

 明日も、この子と話せたらいいな。

 明日も、笑ってくれたらいいな。

 そして、できることなら。

 明日も、その次の日も。

 この病室で、彼女の笑顔を見ていたい。

 そんなことを思っている自分に、俺はまだ気づいていなかった。

     * * *

 それから、俺たちは毎日のように一緒に過ごすようになった。

 もちろん、治療がある日は自由に動けないこともあったし、体調が悪くてベッドから起き上がれない日もあった。

 それでも、調子のいい日には二人で病院の中を歩いた。

 コンビニへ行って、お菓子を選ぶ。

 漫画コーナーで、面白そうな本を探す。

 窓際の椅子に並んで座り、外を眺めながら話をする。

 屋上へ行ける日は、二人で景色を見に行った。

 最初の頃、俺はほとんど笑わなかった。

 何をしていても、頭のどこかで余命のことを考えてしまう。

 あと一年。

 その言葉が、ずっと頭から離れなかった。

 学校に戻れるのだろうか。

 卒業できるのだろうか。

 友達は、俺がいなくなったあと、どうするのだろう。

 考え始めると、何もかもが無意味に思えてきた。

 どうせ一年後にはいなくなるのなら、何を頑張ったところで意味がないのではないか。

 そう考えてしまう日もあった。

 けれど、櫂凪は違った。

「ねえ、裕介君! 今日はコンビニで新しいお菓子が出てるらしいよ!」

「……それ、昨日も言ってなかったか?」

「昨日とは違うやつだもん!」

「はいはい」

「絶対、はいはいって思ってないでしょ!」

 そんなくだらない会話をしているうちに、気づけば笑っていた。

 櫂凪は、特別なことをしてくれたわけではない。

 俺を励ますために、無理に前向きな言葉をかけてくれたわけでもない。

 ただ、いつもどおりに接してくれた。

 病気だからといって、かわいそうな人として扱うこともなかった。

 俺が笑えば一緒に笑い、俺が黙っていれば、無理に話しかけず隣にいてくれた。

 それだけだった。

 でも、その「それだけ」が、俺には何よりもありがたかった。

 彼女のおかげで、俺は少しずつ前を向けるようになった。

 完全に絶望が消えたわけではない。

 病気が怖くなくなったわけでもない。

 それでも、今日という一日を過ごすことに、少しだけ意味を感じられるようになった。

 間違いなく、櫂凪のおかげだった。

 入院して一週間ほど経った頃、俺たちの間に、もう一つ共通の趣味ができた。

 それは、写真を撮ることだった。

 きっかけは、何気ない会話だったと思う。

 ある日の朝、窓から差し込む光があまりにも綺麗だった。

 淡いオレンジ色の光が、病室の白い壁を照らしている。

 窓の向こうには、まだ眠そうな街並みが広がっていた。

「……綺麗だな」

 俺がそうつぶやくと、櫂凪が顔を上げた。

「え? どこ?」

「ほら、窓の外」

「あ、本当だ!」

 櫂凪はすぐにスマートフォンを取り出した。

「写真、撮ろうよ!」

「写真?」

「うん! せっかく綺麗なんだもん。残しておきたいじゃん!」

 そう言って、彼女は窓の外にカメラを向けた。

 画面の中に、朝焼けが映る。

 俺もつられてスマートフォンを取り出した。

 シャッターを押す。

 カシャッ、と小さな音がした。

 画面には、オレンジ色に染まった空が写っていた。

 ただ、それだけ。

 けれど、撮った写真を見返すと、不思議な気持ちになった。

 今、この瞬間に見た景色が、形になって残っている。

 明日には消えてしまう朝焼けも、写真の中なら、いつでも見返すことができる。

「いいね、これ!」

 櫂凪が、俺のスマートフォンをのぞき込んだ。

「裕介君、写真撮るの上手だね!」

「いや、適当に撮っただけだぞ」

「それでも上手!」

「……そうか?」

「そうだよ!」

 櫂凪は、満足そうにうなずいた。

 それからだった。

 俺たちは、綺麗なものを見つけるたびに写真を撮るようになった。

 朝焼け。

 夕焼け。

 屋上から眺めるビルの明かり。

 夜になると、遠くの街にぽつぽつと灯る光。

 中庭にある小さな池を泳ぐ鯉。

 風に揺れる木々。

 雨上がりの空に浮かぶ雲。

 普段なら、わざわざ立ち止まって見ることもなかった景色。

 けれど、櫂凪と一緒にいると、何でもないものが特別に思えた。

「ねえ、裕介君。見て!」

 ある日の夕方、櫂凪が窓の外を指さした。

 空が、赤や紫に染まっていた。

 雲の端が金色に光り、沈みかけた太陽が街を優しく照らしている。

「……すげえ」

 俺は、思わず声を漏らした。

「でしょ? こういう景色、ずっと見てたいなあ」

 櫂凪はスマートフォンを構えながら、そう言った。

「明日も見られるかな?」

「天気がよければな」

「じゃあ、明日も一緒に見ようね!」

 何でもない約束だった。

 明日も空を見る。

 ただ、それだけ。

 なのに、俺はその言葉を、いつまでも覚えていた。

 明日も。

 その次の日も。

 そんなふうに、当たり前に続いていく未来を、俺たちは自然と口にしていた。

 それが、どれほど貴重なことなのか。

 本当は、二人ともわかっていたはずなのに。

     * * *

 写真を撮るようになってから、俺はもう一つ、こっそり続けていることがあった。

 櫂凪の写真を撮ることだ。

 もちろん、本人には内緒で。

 彼女が窓の外を眺めているとき。

 漫画を読んで、面白い場面で笑っているとき。

 コンビニでお菓子を選びながら、真剣な顔をしているとき。

 夕焼けを見つめて、静かに目を細めているとき。

 そんな何気ない瞬間を、俺は何枚も写真に収めていた。

 最初は、ただ綺麗だと思ったからだった。

 窓の外の景色を撮るのと同じように、残しておきたいと思った。

 けれど、いつからだろう。

 写真を見返すたびに、胸の奥が少しだけ苦しくなるようになった。

 彼女の笑顔。

 横顔。

 何かを考えているときの、少しだけ真剣な表情。

 どれも、俺の目には、ほかの何よりも美しく映った。

 世界には、もっと綺麗な景色があるのかもしれない。

 もっと素晴らしい場所も、もっと感動するような光景も、きっとたくさんあるのだろう。

 でも、俺にとっては。

 櫂凪が隣で笑っている景色が、一番綺麗だった。

 気づいてしまった。

 俺は、彼女ともっと一緒にいたいと思っている。

 もっと話したい。

 もっと笑ってほしい。

 明日も、その次の日も、隣にいてほしい。

 彼女がいない病室なんて、今では考えられなくなっていた。

 彼女が笑ってくれるだけで、少しだけ明日が楽しみになる。

 彼女が隣にいてくれるだけで、今まで何も感じられなかった時間が、少しだけ温かくなる。

 そんな気持ちに、名前をつけるのは簡単だった。

 俺は、恋をしたのだ。

 胡桃櫂凪に。

 たぶん、ずっと前から。

 彼女が初めて俺に笑いかけてくれたときから。

 あるいは、俺の病気を聞いても、変わらずに接してくれたときから。

 彼女が何気なく「明日も一緒に見ようね」と言ってくれたときから。

 いつからなのか、もうわからない。

 ただ、一つだけ確かなことがある。

 俺は、櫂凪のことが好きだ。

 心から、そう思っている。

 ……でも。

 この恋は、きっと長くは続かない。

 俺も、櫂凪も、病気を抱えている。

 医者から告げられた余命が、必ずそのとおりになるとは限らない。

 それでも、俺たちに残された時間が限られていることだけは、変わらなかった。

 いつか、どちらかが先にいなくなる。

 その瞬間、隣にいることも、くだらない話をすることも、綺麗な景色を一緒に見ることもできなくなる。

 それが、怖くないと言えば嘘になる。

 できることなら、もっと長く一緒にいたい。

 十年後も、二十年後も、同じ景色を見ていたい。

 病院を出て、二人でどこかへ出かけて、写真を撮って、笑い合いたい。

 そんな未来を、夢見てしまう。

 でも、それが叶うとは限らない。

 むしろ、叶わない可能性のほうが高いのかもしれない。

 それでも。

 俺は、彼女を好きになったことを後悔していなかった。

 出会わなければ、こんな気持ちを知ることもなかっただろう。

 残された時間のことばかり考えて、ただ絶望したまま過ごしていたかもしれない。

 櫂凪と出会ったから、俺は今日を大切にしたいと思えた。

 明日が来ることを、少しだけ楽しみにできるようになった。

 だから、たとえこの恋に期限があったとしても。

 たとえ、いつか必ず終わりが来るとしても。

 俺は、この恋を大切にしたい。

 短くてもいい。

 限られた時間でもいい。

 彼女と一緒に笑えるなら。

 彼女と一緒に、綺麗な景色を見られるなら。

 俺は、それだけでよかった。

 これは、期限付きの恋だ。

 いつまで続くのか、誰にもわからない。

 それでも俺は、今日も彼女の隣にいる。

 そして、願ってしまうのだ。

 どうか、明日も。

 明日も、櫂凪の笑顔を見られますように。

 どうか、もう少しだけ。

 この時間が続きますように。漢字(かんじ)漢字(かんじ)
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