アネモネ

一章 誤送信

「また、明日、さよなら、凛」
 こびり付いて離れない記憶の欠片に起こされた。夜の十時。まだ数分しか寝てない。
 もう五年も前の男の言葉が、時折私の眠りを妨げて、現実の世界に引き戻す。脂汗が滲む体を起こして、無造作に枕元に投げ捨てたスマートフォンを手に取った。
「最悪、また夢見た」
 文字を打つ時、同時に言葉が出る癖を直さなきゃ。明日会う予定をしてる優香に愚痴を交えたメッセージを送信した。乾ききった喉を潤す為にキッチンに向かう私の耳に、聞きなれた通知音が鳴り響く。
 優香、返事はや。
 なんて心の中で呟きながら、スマートフォンを手に取ると、優香からのメッセージではなかった。
「アンタ、間違えとる」
 は、何が、そう思いながら確認したメッセージアプリのアイコンは、ビール片手に笑う親友の笑顔の写真ではなくて、生まれたばかりの甥っ子のドアップだった。最悪、お母さんじゃん。
 気づいた時には、もう遅かった。私が既読を付けた瞬間に、こちらの返事を待たずにせっかちな文章が続けて送られてきた。
「さくらにおいで、よっちゃんおるよ」
 母の行きつけのスナックに、いつの間にか私も通うようになってもう何年経っただろう。そのスナックの名前の後に続く「よっちゃん」という名前を母から聞いたのは、つい先日のことだ。
『アンタ、覚えとらんの?よっちゃん。海斗とちっちゃいときよく遊びよったやん。アンタも一緒になってかけっこしよったし』
 何十年前の事をさも昨日の出来事のことのように語り出す母の顔が浮かぶ。従兄弟の海斗は、私より数ヶ月早く生まれただけなのに、学年は一つ上で、双子のようにお揃いの服を着た写真が実家の押し入れの奥に今も眠ってるだろう。その海斗と仲の良かった子?、ダメ、全然思い出せない。海馬は要らない記憶を次から次に消していく。〝よっちゃん〟という愛称の人物は、名前を聞いたことあるようなないような曖昧な記憶の中にも存在していない。
「よっちゃん、知らんよ」
 ぶっきらぼうにそう返したら、すぐに返事は返ってきた。
「まぁ、おいでーや。けんさんおるし」
 けんさんは知ってる。私のことが大好きなさくらの常連のお客さん。白髪頭を隠すことを諦めたけんさんには、もう暫く会ってないな、なんて感傷に浸りながらも、めんどくさい、もう化粧落としたしと言い訳を連ねて送る。「おいで」。この一文を境に、連絡は途切れた。気づけばクローゼットを開けて、黒いワンピースを手にとった。外したばかりのコンタクトを目に押し込んだら世界を明るく見せてくれる。
「よっちゃんねぇ」
 頭を捻っても出てこない。けんさんはすぐ笑顔が浮かぶのに。興味本位だった。本当に。ただの。カーディガンを羽織って、すっぴんを隠すマスクを手にした私は、いつもなら絶対に乗らない母の誘いに乗った。ただの気まぐれ。さくらまでは車で十五分。代行運転、あるかな、最悪寝て帰ればいいかなんて頭の中で考えながら、車内に流れたのは、中学時代によく聞いていた曲。音量を上げて口ずさんだ。BUMP OF CHICKENの車輪の唄。

 さくらは繁華街の片隅にひっそりと佇む小綺麗なのに気さくなママががさついた声で語りかけてくれるような優しい飲み屋だった。さくら。明朝体の文字が迎える看板を前に、一つだけため息を吐く。なんで来たんだろう。中から聞こえるカラオケの音色と、盛り上がりを抑えきれない熱量が重い一枚の扉から筒抜けだった。意を決して開けた扉の先に、見慣れたカウンターの席とママの笑顔があった。
「凛!久しぶりやない」
 私が三ヶ月も此処に来なかったのを、このママは咎めたりはしない。当たり前のように出された〝RIN〟と書いたキープには、ちょうど三ヶ月前の日付もかいてある。キョロキョロと店内を見渡せば、マイクを片手に笑顔で手を振る母と、凛ちゃん、と笑ったねんさんの間の一席が空いている。此処に座れという意図を汲み取った私は、とりあえず、ビールで、とママに笑顔を作った。酔ってないから、早く追いつかないと。
 注がれたビールを一気に流し込んだ私は、右側から降り注がれる視線に気づいた。けんさんを挟んで三つ隣。カウンター席の一番端に、頬杖をついて足を組んでグラスを持った男の眼差しに、目を見開いたあと、口角を上げた。伸びた前髪を掻き分けた先にあるタレ目が、柔らかく弧を描いた。よっちゃんだ、でもやっぱり知らない。だけど何処かで見たことあるような気もする優しい顔立ちのその男に軽く会釈をすれば、顔の向きを逸らされた。なに、この人。足を組み替えて正面を向いた彼は、カラオケのデンモクに思考も視線も移し替えた。私もビールのグラスに目を向けて、冷えたアルコールを喉に勢いよく流し込んだ。
「覚えとらん?よっちゃん」
「わからん」
 歌を終えた母の陽気な声に、現実に引き戻される。よっちゃんを一度だけちらりと見た。彼もまた、自分の名前が違う席から出たことに反応したのか、ちらりと私たちの方を見て、一緒に来ているんだろう男の人と楽しげな会話へ帰って行った。
「まぁ、ええわーね。けんさんが奢っちゃるってゆうけ、今日は飲み!」
 その言葉を皮切りに、私はビールをもう一杯飲んだ。騒がしい雰囲気に飲まれたくて、いつもよりも早くグラスを空ける私は、道中コンビニで買ったタバコを取り出して封を切る。フィルターを咥えて火をともせば、煙の先に、私の方に目を向ける〝よっちゃん〟の眼光が見えた。ちらりと目線を彼に向けたら、また不自然なほどゆったりと私を視界から外した。まじ、なんなん。
 キープは半分ほど減る。その頃には少し顔も火照って、マイクを握り締める手のひらの温度も上がった。
「俺ら今年マジで運ない」
「離婚やろーそれに浮気されるやろー不幸コンビやん」
「離婚と浮気、どっちが重いん?」
「そりゃ、俺の離婚やろ」
 和やかなバラードの間奏の隙間に聞こえてくるは、右端にいる二人組の会話。〝よっちゃん〟とそのお友達。あ、離婚したんだ。ぼんやりと耳を掠めた情報は、すぐに左耳から抜けていく。必要ない、でもちょっと気になった。今度は私が〝よっちゃん〟に視線を向けたら、不幸だなんて言葉が不釣り合いな柔らかい笑顔があった。ふと混じりあった視線の先、どうせまた逸らすんだろうと少し彼を睨めば、砕けたように顔いっぱいの笑顔を作ってきた。無防備なほど優しいその笑顔に、背筋を伸ばして、カラオケの歌詞が流れる画面へ急いで意識を向け直した。
 一杯、二杯、アルコールを流し込むペースが上がる。ついさっきまで脳内を埋めつくした悪夢を忘れるために、体を麻痺させる麻薬として次から次に飲んだ。
「凛、ペース早いね」
 いつの間にかけんさんと私の座る位置が変わっていた。母と話し込んでいたけんさんがトイレへ向かった時、空いたひとつの椅子に手をついて母が言う。お母さん、酔ってるな、とちょっと呂律が回ってない母の言葉に声を出さずに首を縦に振り肯定した。
「やな事あってさ」
「お姉さんなにがあったん?もしかして離婚?浮気?」
 〝よっちゃん〟の隣に座る友達は、智樹という名前だとさっきママから紹介された。智樹くんと一言二言言葉を交わしたら、人懐っこい幼い彼は、何度も私に話しかけてくれる。
「どっちでもないです」
 唇を貼り付けて笑う。見開いた目の先に、また、〝よっちゃん〟の気配。さっきからかち合うことのなかった視線がもう一度、私に向けられる。さっきの笑顔と全く違う、射抜くくらい力強いライオンのような眼差し。少しだけ、胸が痛かった。何かを見透かしたような目の光が、私を離してくれない錯覚を覚えてしまう。
「凛ちゃんていうん?彼氏とかおらんの?」
「私彼氏作らないって決めてるんで」
「えーもったいない」
「この子もう五年もおらんのよ、智くん誰か紹介しちゃらん、はよこの子の花嫁姿みたいせ、まったく」
 くだらない世間話を繰り返して、賑わう店内。時折流れるカラオケは、昭和の懐かしいメロディしか流さない。それが心地よかった。
「トイレ行ってくるー!」
 立ち上がった私に、また感じる視線。どうせ〝よっちゃん〟やろ。この気だるい気配。右端を見たら、やっぱりこっち向いてる。口の端を少し上げたら、さっきまでにこにこと笑っていた彼の顔色がまた変わる。何この人。何考えてるの。少し首を傾けて、そのまま〝よっちゃん〟を見続けたら、眉を吊り下げて笑う。困ったようなその笑い顔にどんな意味があるかなんてわからないし、興味無い。背を向けてトイレへ向かう私は、まだ、〝よっちゃん〟の目線が離れてないことに、何となく気づいていた。
 少し汚いトイレの洗面所の鏡の前に立つと、疲れた顔をした女がそこに写っていた。化粧を落とした顔は少し目の下に隈が滲んで、頬だけほんのりと赤く染まって余計目立ってる。口元を少し上げた。目を開けて鏡の前で笑顔をつくる。「よしっ」。呟いた独り言は、賑やかな笑い声の中に消えていく。だから誰にも聞こえてない。大丈夫、笑えてる。さっきより少し正気を取り戻した鏡の中の私に何度も言い聞かせた。
 席に戻ると、唇の乾きを潤したくて、半分以上グラスに残ったウーロンハイを飲み干した。ママが気づく前に自分で焼酎を注ぐ。もうちょっとしか残ってない。結構飲んじゃったなんて思いながら、少しだけ量を多めに入れる。智樹くんが歌っていた曲が終わって、予約の無くなったカラオケが止まる。一瞬の沈黙だけで、土曜日の夜はまた派手な笑い声が飛び交う。
「俺もトイレ行こ」
 マイクを置いた智樹くんが席をたって、ひとつ空いた椅子を挟んで、〝よっちゃん〟の姿が現れる。
「覚えとらんの?俺の事」
 最初は私に向けられた言葉か理解するのに時間がかかった。それくらい自然な流れで向けられた疑問符にぶっきらぼうに返した。
「……知らないです」
 手にしたグラスに口を付けて、わざと小さな音を鳴らしてコースターに置いた。長い前髪のせいで、彼の顔色は全くわからない。グラスばかり見て、私と目を合わせないから、よけいその顔は隠されたままだった。
「まぁ、俺も覚えとらんけど」
 低い音色がベースみたいだった。脳を揺らすくらい心地いいリズムを刻んで話す人だなって思った。グラスに添えられた左の手のひらが、ゴツゴツして骨ばってて、男の人にしては少し華奢な印象を受ける。綺麗な細い指のひとつに、くっきりとした跡が残ってるのが、少し離れたこの席からでも分かってしまった。本当に、離婚したんだ。
「おまたせー」
「お、おかえり、うるせぇの」
「陽介、今日全然飲んでないやん、俺のが飲んどる」
 沈黙が支配した私と〝よっちゃん〟の隙間を埋めるように戻ってきた陽だまりのような智樹くんが、〝よっちゃん〟肩を掴んでる。〝陽介〟って言うんだ。聞いた事、やっぱりあるかも。呼び覚ます記憶の先にいる少年の姿は見えない。だけど、海斗がよーすけーって呼ぶ声ははっきりと浮かんだ。陽介。名前を心の中で呟いてみる。でも、記憶の中の彼の姿、やっぱり思い出せなかった。
 日付が変われば少しずつ客足は減っていく。騒がしいほど盛り上がった店内も、私と母と〝よっちゃん〟と智樹くんしか残っていない。
「アンタ、どうやって帰るん?」
「代行呼ぶよ。明日優香と会う約束あるからもう帰らなきゃ」
「気をつけて帰りーよ」
 この店の近くにある実家に泊まるつもりはない。歩いて帰れる距離なのに、母は無理に私を招くことをしない。
「ママ、お会計」
「けんさん、本当に払ってったから凛のはないよ」
「やだ、今度お礼せんにゃいけん」
 タクシーを呼んでくれたママに感謝を述べながら、私は帰り支度を始めた。タバコ、スマホ、財布。そそっかしい私はよくこの店に忘れ物をしちゃう。でも今日は、お酒をいっぱい飲んだ割に酔ってない。ちゃんとしなきゃって理性を保った私は、カーディガンを羽織直して、バッグを手に持ち立ち上がる。
「外でタバコ吸いながら待ってる、またねママ。お母さん」
「はーい、またね」

 外はもう夜が更けていて、分厚い雲が星を隠す代わりに月だけははっきりと照らしていた。店の前に座り込んだ私は、タバコを一本取り出して火をつける。深呼吸するくらい深く吸い込んで吐いた煙が、暗い空へと登って行く。
 ガチャンという来店音をかき消す乱暴な扉を開ける音に、口元に挟んだタバコを指に持ち替えて振り返る。
 〝よっちゃん〟。
 咥えタバコをして上着のポケットに手を突っ込んだ男の影で、少し暗がりになる。
「よう飲むな」
 遠くの方を見つめた彼は、私の隣に腰を落としてしゃがみこむ。
「……やな事あったんで」
 なるべく低い声で紡いだ。軽そうなこの男へ警戒心を捨ててないという牽制のつもり。
「そうやろうな」
 少し動けば肩がぶつかりそうなほど近い距離に、戸惑いを隠せない私は、勢いよくタバコを吸い込む。何もかも知っていると言いたげな視線が怖かった。近くで見た〝よっちゃん〟は、雰囲気と違って凄く幼く見えた。タレ目に少し片鱗を浮かべる皺が、薬指の跡と重なっているよう気がした。
「あれ、お前の車?」
 私の返事を待たずに繋いだ言葉に私は返した。
「そうですけど」
「似合わんな」
 まだ強ばったままの私を嘲笑うように、彼は薄い唇を噛んでる。その唇が心做しかすこし、上を向いたように思えた。〝よっちゃん〟が見つめる先にある私の愛車のジムニーは、先月納車したばかりで、まだ新車の匂いが消えていない。
「悪かったですね」
 むっした顔をわざとつくって、下から彼を睨んだら、〝よっちゃん〟は声をあげて笑った。
「じゃ、来週の土曜日」
 タバコの煙で少し掠れた音を残して立ち上がった彼は、再び夜の香りを纏う世界に、戻って行った。
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