上林弥生の事情

第6話 疑念


比較見積は、翌週の半ばに揃った。

弥生は東雲建設の会議室で、前に確認した契約書の隣へ新しい資料を置いた。契約変更の履歴、追加工事の申請と承認、請求書。担当者が現場から集めた施工記録には、工事の進み具合を撮った写真も添えられていた。

「前回、添付のなかった分はこちらです。変更前に取ったものと、追加工事の際に取り直したものがあります」

「ありがとうございます」

見積もりの前提を揃え、金額を比べる。採用された業者が最も安いとは限らなかったが、工期や人員の条件まで含めると、選定理由は理解できた。変更後の単価にも、資材価格の上昇を示す資料がついている。

請求された工事は、現場の記録にもあった。出来高の確認日と支払額を照らし合わせても、存在しない工事に金を払った形跡はない。

弥生は、一つの変更申請へ戻った。

追加の作業が必要になったことは分かる。それをこの金額で引き受ける理由も、書類には書かれている。だが、最初の予算からそこまでたどると、東雲に残るはずだった利益がずいぶん減っていた。

「案件別の一覧を、データでもいただけますか。完了したものだけでなく、進行中のものもお願いします」

「期間は、前回と同じでよろしいですか」

「はい。取引先ごとの発注額と、変更後の金額を分けて見られるようにしたいんです」

担当者が資料の束へ手を伸ばした。弥生は、今開いている一件を手元へ残した。

この工事に説明のつかない支出を探すだけでは、同じところを回り続ける。

*

受け取った一覧を利益率の順に並べると、低い数字が画面の上へ集まった。

赤字の案件だけを抜き出すことはしなかった。受注時の計画から利益が大きく減ったものを拾い、その中から、売上はさほど崩れていない案件を選ぶ。工事そのものが縮小したり、中止になったりしたものは、いったん外した。

残った案件の外注先を確かめているうちに、同じ名前が何度か目に入った。

相良建工。

弥生はその会社名で一覧を絞り、別のシートへ移した。東雲の協力会社が複数の現場へ入るのは普通のことだった。それだけで意味はない。他の継続取引先も同じように抜き出してから、当初の発注額と最終的な支払額を並べた。

相良への最初の発注は、特別に高くはなかった。

変わっているのは、そのあとだった。

ある案件では、資材の値上がりを受けて契約額を変更している。別の案件では、設計変更に伴う追加工事が重なった。工程を組み替えた際の人員の待機費用を、東雲が負担したものもある。

弥生は待機費用の申請書を開いた。相良側の人員確保にも調整の余地があったようだが、費用の分担を詰めるより先に、東雲が全額を引き受けていた。

理由の欄には、工程の遅延を避けるため、とある。

現場を止めれば、相良に払う金だけでは済まない。ほかの業者も待たせるし、引き渡しにも響く。その場で費用を負担する判断は、あり得た。

問題は、それとよく似た判断が、ほかの相良案件にも見つかることだった。

他社の契約変更には、提示額から値引きを求めた記録や、追加費用を双方で分けた記録もある。相良には、それが少ない。値上げの根拠を確かめ、必要性を認め、そのまま東雲が負担する。変更の理由は違っても、結果は似ていた。

当初の見積もりだけを比べていれば、目立たない。

弥生は、変更後の金額が増えた欄へ印をつけた。それから請求書を開き、支払記録へ移った。

知りたいのは、いくら払ったかだけではなかった。

いつ、金が出ていったのか。

発注規模と工事内容の近い他社を隣へ置くと、相良への支払いは早かった。前払金を厚くした案件があり、締めてから支払うまでの期間を短くした案件もある。追加工事分も、完成確認が済むと、次の通常の支払日を待たずに精算されていた。

早く払うこと自体に問題があるわけではない。資材を先に買い、人を確保する協力会社の資金繰りは、東雲の工程にも関わる。

それでも、費用を多めに負担する相手と、現金を早く渡す相手が、これほど重なるものだろうか。

弥生は、相良への支払いだけを月ごとに集計した。

契約の変更によって利益を削り、支払いを早めたことで、手元に残る現金も減っている。東雲自身の資金に余裕がなくなってからも、その傾向は続いていた。

相良の工事を買っているというより、相良の資金繰りを支えているように見えた。

*

以前に受け取った資金繰り表を出し、同じ月を横へ並べた。

相良への発注が増え始めた時期と、支払いの条件が変わった時期は違う。複数の現場で少しずつ変更が重なり、そのあとで東雲の手元資金が急速に減っている。

弥生が外から手を入れるより、前だった。

その順序は、最初に確認した資料から変わっていない。ただ、今はそこへ、支払日と金額が加わっていた。

弥生は椅子の背へ身体を預けた。

当時、東雲の公表資料も、資産も、借り入れの状況も見ていた。資金調達の条件を悪くし、別の調達先へ簡単には移れなくする。それでも会社が耐えられる範囲を見積もったつもりだった。

潰してしまっては意味がない。上林キャピタルの資金を受け入れさせ、その後に立て直す。そこまで含めて考えていた。

ところが、実際に減っていった現金は、弥生の想定よりはるかに多かった。借り換えが難しくなったことや、取引先が条件を厳しくしたことで、予想以上に効いたのだと思っていた。

画面の中では、相良への支払いが先に増えている。

新しい金が入りにくくなったところへ、予定より早く、予定より多くの金が出ていった。

——そら、持たへんわ。

弥生は口元へ指を当てた。

——……どうりで上手く行き過ぎやと思った。

会社が耐えられるという計算に、見えていない支出があった。救済を入れる時期がずれていたら、自分が戻すつもりだった会社そのものを失っていたかもしれない。

しばらく指を動かせなかった。やがて背もたれから身体を起こし、相良の一覧へ戻った。

誰が、この条件を認めたのか。

そして、何のために。

*

取引先の登録資料で見る限り、相良建工は普通の建設会社だった。

創業からの施工実績があり、社員もいる。東雲以外の取引先も記載されていた。今回の資料に添えられた現場の写真にも、相良の作業員が写っている。

品質に重大な問題があるのかと担当者へ尋ねても、返ってきたのは、むしろ仕事はきちんとしている、という答えだった。

「対応も早いです。急な変更でも、人を出してくれることがあるので」

「それで、継続してお願いしているんですね」

「はい。現場から名前が上がることもあります」

架空の会社へ、存在しない仕事を発注しているのではない。相良は実際に働いていて、東雲もその仕事を必要としている。

ただ、必要な仕事だからというだけでは、条件の偏りまでは説明できなかった。

弥生は承認記録を開いた。発注先の選定、契約額の変更、追加工事、支払条件。それぞれの欄から、申請者と承認者を一覧へ転記していく。

同じ名前が出れば、そこから話を聞けると思った。

出なかった。

選定を承認したのは調達部の大野。契約変更は工事部の野口。別の現場の追加工事を認めたのは施工管理部の宮原で、支払条件には財務部の長谷川が承認を入れていた。

部署も、権限も違う。役員へ上げる金額に届かず、部内で完結しているものもあった。相良に有利な変更のすべてを、一人が通したわけではない。

弥生は、その数日を聞き取りに使った。

大野は過去の施工実績を挙げ、現場からの希望もあったと説明した。野口は値上がりした資材の一覧を出し、変更額の計算を確かめ直してくれた。

「この時、費用の一部を相良側へ負担してもらう話は出ましたか」

宮原へ尋ねると、彼は一度、申請書を読み返した。

「出ています。ただ、そこで調整を長引かせるより、こちらで持った方がいいと判断しました。引き渡しを遅らせる方が損失は大きいので」

「ほかの現場でも、同じ対応になるでしょうか」

「状況によりますね。この時は、相良もかなり無理をして人を集めてくれています」

長谷川には、支払いを早めた理由を聞いた。

「完成の確認は済んでいましたし、相手の資金繰りを考慮しました。支払額を増やしたわけではありません」

「通常の支払日まで待つ選択は、ありませんでしたか」

「ありました。ただ、次の現場にも入ってもらう予定でしたから。こちらが待たせることで、人の手配に支障が出ても困ります」

誰も、質問から逃げようとはしなかった。資料を探し、当時の担当者へ確認し、判断した理由を説明してくれる。弥生自身、一件ずつなら否定できなかった。

どの判断にも、もう一つの選択肢があったはずだった。

費用の分担をもう少し詰める。別の業者にも相談する。支払いは契約どおりの日まで待つ。

その選択肢を採らなかった理由は、皆、違う。違う理由で、同じ会社が得をしている。

相良が提出した請求を疑うだけでは足りなかった。東雲の側が、自分たちの判断で条件をよくしている。

弥生は聞き取りの記録を一覧へ加えた。何度並べ直しても、部署をまたいで同じ決裁者は現れない。相良への優遇は見えるのに、誰がそれを始めたのかは見えなかった。

帰る時間になっても、机の上には、開いたままの承認記録が残っていた。

*

夕食と風呂を済ませてから、弥生は持ち帰った資料をダイニングテーブルへ広げた。

全部を持ってきたわけではない。相良に関する契約変更と支払いの記録、それに聞き取りのメモだった。パソコンには、会社で作った一覧を出している。

キッチンで冷蔵庫が開く音がした。瑛美が二つのグラスに水を注ぎ、持って戻ってくる。

「まだ仕事してるの?」

「もうちょいやな」

「それ、さっきも言ってなかった?」

「言うたかもしれん」

瑛美は資料を濡らさないよう、弥生の手元から少し離れたところへグラスを置いた。

「はい、お水」

「ありがとう」

弥生が一口飲む間に、瑛美も自分のグラスをテーブルの端へ置いた。

「最近ずっと、東雲の資料見てるよね」

「そらまあ、金出した側やしな」

「ゴルフの練習は?」

「今それ言う?」

「忘れてるかと思って」

「忘れさせて」

瑛美が笑った。弥生も笑って、椅子へ掛けていたカーディガンを渡す。彼女は礼を言って受け取り、そのまま隣の椅子の背へ掛け直した。

「何で着いひんの」

「まだ寒くないもん」

「ほな、何で受け取ったん」

「渡してくるからでしょ」

もっともだった。

瑛美は椅子の背へ片手を置き、テーブルを見た。弥生が紙を重ねようとすると、その前に一枚の会社名へ目を留める。

「相良建工ばっかり」

「ちょっと気になってんねん」

「ふうん」

彼女はグラスを一口飲み、パソコンの画面にも目をやった。問い詰めるでも、手伝おうとするでもなかった。前に自分が見ていた書式があるのを、懐かしそうに眺めている。

「承認フローまで見てるんだ」

「誰が条件変えてんのか見てたんやけどな。見事にバラバラや」

「案件ごとに違うしね」

瑛美は椅子を少し引いた。腰を下ろしてから、手近な一枚を自分の方へ向ける。

「あ、大野部長」

「知ってんの?」

「知ってるよ。お兄ちゃんと仲いい人」

「そうなん」

弥生は、聞き取りで会った顔を思い出した。落ち着いた話し方をする人だった。現場からの要望書を、自分で持ってきてくれた。

瑛美が次の紙をめくる。

「野口さんもいる」

「この人も?」

「うん。お兄ちゃん、入社した頃から可愛がってもらってるよ。今でもよく飲みに行ってるんじゃないかな」

弥生は画面を見た。

野口の承認がついた契約変更は、一件ではなかった。相良の見積もりを認めた理由には、工程への影響や資材の価格が書かれている。

「……この人は?」

追加工事の記録を瑛美へ向けた。

「宮原部長? この人も仲いいよ。昔うちに来てたじゃん。覚えてない?」

言われてみれば、東雲家の居間で見たことがある。聞き取りの時は、社内のどこかで会ったのだと思っていた。

「あと、長谷川部長もそうだよね。お兄ちゃんと、お父さんのお供で一緒に出張してたし」

瑛美は支払条件の紙へ目を移しただけだった。弥生の手は、さっき開いた契約変更の上で止まっていた。

「なんか、お兄ちゃんの知り合い多いね」

彼女は軽い調子で言った。

東雲雪哉は、瑛美より三つ年上の三十歳で、今は東雲建設の取締役だった。弥生が七歳で東京へ来た時から、ずっと知っている。瑛美との取っ組み合いを止めたことも、自分が相手になって喧嘩したこともあった。

そんな相手の名前が、今、四枚の資料を結んでいた。

弥生は承認者の欄を見直した。

紙の上にない人間の名前を、以前にも、こうして聞いたことがあった。

*

その時は、まだ外資系投資銀行へ入って一年も経っていなかった。

買収を検討している顧客のため、対象会社の資料を集めていた。弥生が任されていたのは、契約と実際の支払いを照合し、確認すべき箇所を一覧へまとめる仕事だった。

学生の頃、インターンで座っていたのと同じフロアに、新卒社員として自分の席があった。大学を出たら一族の会社へ入る道もあったが、数年間は外で仕事を覚えることにした。他人の会社と他人の金を扱い、上林の家では教わりきれないことを知るためだった。

名字も実家も、周囲は知っていた。

ただ、それで弥生の作った資料が通るわけではなかった。

その夜も、差し戻された一覧を直していた。出典へ戻れるようにしたつもりの数字に、先輩が何か所も印を入れている。参照先が違うものと、期間の違う数字を同じ欄へ入れてしまったものがあった。

夕方には一度、顧客との会食へ出た。二軒目まで付き合い、戻る途中でトイレに寄って吐いた。水で口をゆすいでも、まだ喉の奥が痛い。

先輩へ渡すのは翌朝だった。ほかにも確認したいことがあり、間違えた数字を直すだけでは終われなかった。

対象会社の一つの取引先だけ、条件がよかった。

契約はある。仕事もしている。承認も正式に取っていた。それなのに、更新や例外処理を重ねるたび、その会社へ払う金が増えていた。

翌朝、弥生は直した一覧と一緒に、その部分を先輩へ見せた。

「確認を求められている役員ですが、承認フローにはほとんど入っていません。こちらの変更も、部長決裁です」

先輩は画面を見てから、弥生へ顔を向けた。

「だから、関係ない?」

「そこまでは言えません。ただ、この人が通したという記録は見つかっていません」

「決裁した人だけ見ても、分からないことがあるよ」

先輩は、弥生の一覧に並んだ部長の名前を指した。

「この人たちが、誰の言葉なら信用するのか。そっちも見て」

その時は、具体的に何を探せばいいのか、すぐには分からなかった。

追加で受け取った会議の記録を読み、聞き取りのメモをまとめていくうちに、同じ役員の名前が出始めた。

取引先を選んだ部長も、価格の変更を認めた部長も、例外の支払いを通した部長も、その人と長く一緒に働いていた。

誰も、優遇しろとは命じられていないと言った。

代わりに出てきたのは、あそこはいい会社だという話だった。最近は大変らしい。ちゃんと見てやってほしい。仕事の話の合間や、食事の席で、そう聞いていた。

現場を止めたくなかった。関係を維持したかった。相手の事情を考慮した。

それぞれの部長には、自分が承認した理由があった。役員の指示を実行したつもりも、会社に損をさせたつもりもない。

弥生は聞き取りの内容を加え、もう一度一覧を作った。決裁者の欄に、役員の名前は増えなかった。それでも、なぜこの取引先だけ違う扱いを受けるのかという問いには、前より近づいていた。

資料を見た先輩が、一か所を指した。

「この承認に関わったかどうかと、判断に影響したかどうかは、別だから」

弥生はうなずき、聞き取りの言葉を省略せずに残した。

その晩も修正を続け、気づくと朝になっていた。弥生は眠気をこらえて椅子を引き直した。前の晩から着ていたシャツを替える時間もなかった。

あの頃の働き方を、瑛美に話したことはない。

会食のあとに吐いたことも、好きでもない煙草を吸っていたことも、話していなかった。休みの日に会った時や、たまに連絡が取れた時には、もっと別の話をした。

仕事を覚えるために外へ出たのだから、うまくできないところを直すのも、相手へ頭を下げるのも、自分の仕事だった。

ただ、できれば、あの頃の自分を彼女に見られたくはなかった。

*

「弥生?」

顔を上げると、瑛美がこちらを見ていた。

彼女の手元には、長谷川が承認した支払条件の記録がある。グラスにはまだ半分ほど水が残っていた。

弥生は、相良建工の一覧へ視線を戻した。

発注先を選んだ大野。契約変更を認めた野口。追加工事の費用を引き受けた宮原。支払いを早めた長谷川。

今日まで、違う部署にいる、違う判断をした人間として見ていた。聞き取りで得た説明も、互いに矛盾していない。

そこへ、瑛美の知っている関係が加わった。

雪哉と親しい。雪哉が可愛がられている。家へ来たことがある。一緒に出張へ行っていた。

東雲で働く雪哉に、知り合いが多いのは当たり前だった。部長たちと仲がよくても、それだけで疑う理由にはならない。相良を評価している彼らが、たまたま雪哉とも親しかっただけかもしれない。

弥生は契約変更の紙を引き寄せ、承認欄の前後を確かめた。

雪哉の名前は、ない。

別の申請にも、支払いの記録にも、この四人を結ぶ決裁者として雪哉は出てこなかった。

それは、関与していない証拠にはならない。

「どうしたの?」

瑛美が少し首を傾けた。

「……何でもない。ちょっと昔のこと思い出してただけ」

弥生は紙から手を離し、グラスを取った。

「水、ありがとうな。もうちょっとで片づけるわ」

「うん。あんまり遅くならないでね」

瑛美は自分のグラスを持って立ち上がった。弥生はうなずき、彼女がテーブルを離れてから、もう一度資料へ目を落とした。

相良から取引をたどると、別々の部署へ行き着く。その先を人間関係でたどり直すと、どこからでも同じ名前が出てくる。

テーブルの上には、その男が承認した資料など、一枚もなかった。

東雲雪哉。

二十年間知っているその名前を、弥生は初めて、相良への優遇と結びつけて考えていた。

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