学園の女王とイケメン王子様
私立星蘭学園。
政財界の名家に生まれた子息、全国模試で上位に名を連ねる秀才、全国大会で活躍するスポーツ選手、さらには音楽や芸術の分野で将来を期待される才能の持ち主まで。
あらゆる分野のエリートが集うこの学園には、ひとつの暗黙の了解があった。
――一ノ瀬冷花には逆らうな。
中等部二年生にして生徒会長。
学年トップの成績、非の打ちどころのない容姿、どんな競技でも上位に入る運動能力。さらに料理や裁縫といった家事全般まで完璧にこなす。
名門一ノ瀬家の令嬢という家柄も相まって、彼女は学園の頂点に君臨していた。
そして今朝も。
「おはようございます、一ノ瀬会長!」
「お、おはようございます!」
廊下を歩くだけで、生徒たちが次々と頭を下げていく。
冷花は足を止め、礼儀正しく一礼した。
「おはようございます。今日も一日、よろしくお願いします」
それだけだった。
それだけなのに。
「い、今の聞いたか?」
「『今日も一日』って……昨日の僕たちの態度に何か問題があったんじゃ……」
「まさか、生徒会から何か指摘されるのか?」
ひそひそと交わされる声。
冷花は聞こえていないのか、聞こえていて気にしていないのか、涼しげな表情のまま歩いていった。
実際のところ、彼女は何も考えていなかった。
朝の挨拶をした。
相手も挨拶を返してくれた。
それで終わり。
彼女にとって、それ以上でも以下でもない。
ところが周囲はそう受け取らない。
彼女のわずかな表情の変化に意味を探し、何気ない言葉の裏に意図を読み取り、勝手に緊張していく。
その結果、冷花の周囲にはいつも人がいなかった。
正確には、近づきたいと思う人間は大勢いる。
けれど、近づける人間がいないのだ。
そんな彼女に、今日も遠慮なく近づいていく少年が一人いた。
「おーい、一ノ瀬!」
廊下に響く、よく通る声。
周囲の生徒たちが一斉に振り返った。
「おい、誰だよ。会長を呼び捨てにしたぞ……」
「神崎だ」
「神崎颯真か……。また始まるのか?」
声の主は、神崎颯真。
冷花と同じ中等部二年生であり、学園一のイケメンと称される少年だった。
整った顔立ちに、少し癖のある髪。運動神経抜群で、成績も優秀。家柄も申し分なく、女子生徒からの人気は冷花に負けず劣らず高い。
そんな彼には、ひとつだけ解決できない問題があった。
目の前を歩く少女に、何をやっても勝てないのである。
「神崎くん。おはようございます」
「おう。……って、そうじゃない!」
「何か用でしょうか?」
「あるに決まってるだろ!」
颯真は、びしっと冷花を指さした。
「一ノ瀬冷花! 今日こそ、お前に勝負を申し込む!」
廊下が静まり返った。
誰かが息をのむ音さえ聞こえた気がした。
冷花は数秒ほど颯真を見つめ、それから首をわずかに傾けた。
「そうですか」
「……は?」
「では、勝負の内容を教えてください」
「いや、反応それだけかよ!」
「勝負をするのでしょう? 内容がわからなければ、準備もできません」
「そ、それはそうだけど……!」
颯真は調子を狂わされながらも、すぐに胸を張った。
「今日の一時間目、数学の小テストがあるだろ!」
「ありますね」
「そこで勝負だ! どっちが高い点数を取るか!」
「わかりました」
「負けたほうは、勝ったほうのお願いを一つ聞く!」
「構いません」
「よし! 言ったな!」
颯真は勝ち誇ったように笑った。
対する冷花は、いつもどおりの無表情だった。
「ちなみに神崎くん」
「なんだ?」
「今回の小テストの範囲は、先週までに授業で扱った二次方程式と関数です。昨日の放課後、あなたがサッカーをしていた時間に、私はすでに復習を終えています」
「なんでそんなことをわざわざ言うんだよ!」
「事実を伝えただけですが」
「お前なあ……!」
颯真が頭を抱える。
その様子を見ていた生徒たちは、そろって思った。
――神崎くん、すごいな。
――あの一ノ瀬会長に、あんなに普通に話しかけられるなんて。
しかし、彼らは知らない。
颯真が冷花に対して、特別な勇気を持っているわけではないことを。
単に、負けず嫌いなだけなのだ。
そして、本人もまだ気づいていなかった。
自分が彼女に勝ちたいと思う理由が、少しずつ変わり始めていることに。
*
午前十時十五分。
二年生の教室に、数学の小テストが配られた。
「それでは、始めてください」
教師の合図とともに、教室中で一斉に鉛筆が動き出す。
颯真も問題用紙に目を落とした。
第一問。二次方程式。
簡単だ。
第二問。関数のグラフ。
これも問題ない。
第三問。文章題。
少し考える必要があるが、解ける。
颯真は自分の実力に手応えを感じていた。
今回はいける。
昨日はサッカーを早めに切り上げて勉強した。今朝も教科書を読み直してきた。
何より、数学は得意科目だ。
冷花にだって、苦手な問題くらいあるはずだ。
そう信じて、颯真は最後の問題に取りかかった。
そして、テスト終了。
「どうだった、神崎?」
休み時間になった途端、友人の佐伯が尋ねてきた。
「完璧だ。たぶん満点!」
「おお、マジか。今回は一ノ瀬に勝てるんじゃないか?」
「当然だろ。俺だって、いつまでも負けっぱなしじゃないんだよ」
颯真は自信満々に笑った。
その視線の先では、冷花が自分の席で読書をしていた。
「おい、一ノ瀬!」
「はい」
「テスト、どうだった?」
「特に問題ありませんでした」
「そうか。俺もだ!」
「それはよかったですね」
「……お前、もう少し悔しそうな顔とかできないのか?」
「なぜですか?」
「いや、なんでもない……」
勝負を挑んだ側が、なぜか疲れている。
そんな光景も、星蘭学園ではすっかりおなじみになっていた。
*
昼休み。
颯真は友人たちと食堂で昼食を取っていた。
「なあ、神崎」
佐伯が箸を動かしながら言った。
「お前さ、なんでそんなに一ノ瀬に勝ちたいんだ?」
「はあ?」
「いや、普通そこまでこだわらないだろ。勉強でもスポーツでも、あいつに勝てないからって、毎回勝負を挑むなんてさ」
「決まってるだろ。負けたままなのが嫌だからだ」
「それだけ?」
「それだけだよ」
颯真は即答した。
自分より優秀な人間がいる。
しかも、どれだけ努力しても、なかなか追いつけない。
それが悔しい。
だから勝ちたい。
実に単純な理由だった。
「まあ、お前らしいけどな」
佐伯は苦笑した。
「でも、一ノ瀬って、なんか怖くないか?」
「どこが?」
「いや、あの無表情とか。何考えてるかわからないし」
「別に普通だろ」
「普通じゃないって。こないだ俺、廊下でぶつかりそうになって謝ったんだよ。そしたら、じっと見つめられてさ」
「それで?」
「『前方には注意してくださいね』って言われた」
「……それだけ?」
「それだけだよ! でも、あの目で言われると、もう二度と廊下を歩けない気がするんだ!」
「歩けよ!」
颯真は思わず突っ込んだ。
確かに、冷花は表情が乏しい。
喜んでいるのか、怒っているのか、判断しにくいところもある。
けれど、彼女は別に意地悪な人間ではない。
間違っていることを指摘するし、困っている人がいれば助ける。仕事だって誰よりも丁寧にこなす。
ただ、それを大げさに表現しないだけなのだ。
「お前ら、一ノ瀬のことを誤解しすぎなんだよ」
颯真がそう言うと、佐伯は目を丸くした。
「……お前、あいつのこと、よくわかってるんだな」
「は? な、なんだよ、それ」
「いや、別に?」
「変なこと言うな!」
颯真は慌てて昼食をかき込んだ。
そのときだった。
「神崎くん」
聞き慣れた声が、背後からした。
颯真の動きが止まる。
ゆっくり振り返ると、そこには冷花が立っていた。
「い、一ノ瀬!?」
「先ほどの小テストについてですが」
「お、おう! なんだよ!」
「採点が終わったそうです。先生が、結果を教えてくださいました」
冷花は手元の小さなメモを見た。
「私は百点でした」
「……っ!」
「神崎くんは九十九点だったそうですね」
「な、なんでお前が俺の点数を知ってるんだよ!」
「先生から聞きました」
「先生ぇぇぇ!」
颯真が天を仰ぐ。
冷花は淡々と続けた。
「惜しかったですね。第七問の符号を一つ間違えたようです」
「わかってるよ! 見直したときに気づいたんだよ!」
「そうでしたか」
「……それで? 勝負は俺の負けってことか」
「はい。約束どおり、私の勝ちです」
冷花は静かにうなずいた。
颯真は悔しそうに唇をかんだ。
あと一点。
たった一点だった。
もう少しで、彼女に勝てたのに。
「……くそっ。次は絶対に勝つからな!」
「期待しています」
冷花はそう言って、軽く頭を下げた。
そして、そのまま食堂を去ろうとする。
しかし、数歩進んだところで、ふと足を止めた。
「神崎くん」
「……今度はなんだよ」
「あなたの答案について、一つ気になったことがあります」
「答案?」
「第七問です。途中の計算式は正しかったので、最後の符号さえ間違えなければ満点でした」
「……だから?」
「見直しをすれば気づけたはずです。あなたなら、次は満点を取れると思います」
颯真は、ぽかんと口を開けた。
冷花は相変わらず、無表情だった。
褒めているのか、ただ事実を述べているだけなのか、やはりわかりにくい。
けれど。
「……おう」
颯真は、少しだけ笑った。
「次は満点を取って、お前に勝つ」
「はい。お待ちしています」
冷花は今度こそ立ち去った。
その背中を見送りながら、佐伯がぽつりと言った。
「……なあ、神崎」
「なんだよ」
「お前、あいつのこと好きなの?」
「ぶっ飛ばすぞ!」
食堂に、颯真の怒声が響き渡った。
*
放課後。
生徒会室では、冷花が一人で書類を整理していた。
今日の議事録をまとめ、明日の会議資料を確認し、提出された部活動の予算申請書に目を通す。
どれも特別難しい仕事ではない。
順番に処理していけば、予定どおりに終わる。
冷花は時計を確認した。
午後四時三十分。
そろそろ帰宅してもよい時間だった。
そのとき。
コンコン。
扉をノックする音がした。
「どうぞ」
扉が開く。
「よう、一ノ瀬!」
顔を出したのは、もちろん颯真だった。
「神崎くん。何か用でしょうか?」
「決まってるだろ。次の勝負の申し込みだ!」
「今日、負けたばかりですが」
「だからだよ! 次こそ勝つ!」
「……そうですか」
冷花は手元の書類を机に置いた。
「それで、今度は何で勝負するのですか?」
「明日の体育だ。バスケットボールで勝負しようぜ!」
「構いません」
「よし!」
颯真は拳を握った。
冷花は淡々と告げる。
「ただし、明日は体育の授業でバスケットボールをする予定はありません」
「……は?」
「明日の体育は持久走です」
「うそだろ!?」
「時間割を確認していなかったのですか?」
「いや、だって……!」
颯真は頭を抱えた。
明日は持久走。
しかも、冷花は長距離走でも学年トップの記録を持っている。
また負ける未来が見えた気がした。
「……じゃあ、持久走で勝負だ!」
「わかりました」
「今度こそ勝つからな!」
「はい」
冷花は、いつもどおりの表情で答えた。
颯真はしばらく彼女を見つめていたが、ふと口を開いた。
「なあ、一ノ瀬」
「はい?」
「お前さ、俺と勝負してて楽しいか?」
自分でも、なぜそんなことを尋ねたのかわからなかった。
いつもなら、次こそ勝つと宣言して帰るだけだ。
けれど今日は、少しだけ気になった。
冷花はすぐには答えなかった。
窓の外に視線を向け、それから颯真を見た。
「楽しい、という感情については、あまり意識したことがありません」
「……そっか」
「ですが」
冷花は続けた。
「あなたは、私に遠慮をしませんね」
「当たり前だろ。お前に勝ちたいんだから」
「そうですね」
彼女はわずかに目を細めた。
笑ったわけではない。
けれど、いつもより少しだけ柔らかな表情だった。
「神崎くんと話していると、予想外のことが起こります」
「……それ、褒めてるのか?」
「私にとっては、興味深いことです」
颯真は、なぜか返事に困った。
冷花がそんなことを言うとは思わなかったからだ。
「……ま、まあ、当然だな! 俺は普通のやつとは違うからな!」
「そうなのですか?」
「そうだよ!」
「では、明日の持久走で確認させてください」
「……お前、絶対に俺をからかってるだろ!」
「そのつもりはありません」
冷花は首を傾げた。
颯真は深いため息をついた。
やっぱり、この女には勝てそうにない。
勉強でも、運動でも、会話でも。
いつだって、自分の予想を超えてくる。
だからこそ。
「覚えてろよ、一ノ瀬! 絶対にお前を負かしてやるからな!」
「はい。楽しみにしています」
颯真は勢いよく生徒会室を飛び出した。
廊下に響く足音が、次第に遠ざかっていく。
静かになった生徒会室で、冷花は再び机に向かった。
書類を手に取り、続きを確認する。
けれど。
ふと、先ほどの颯真の顔が頭に浮かんだ。
負けても、負けても、彼は挑戦してくる。
自分を恐れず、遠慮せず、思ったことをそのまま口にする。
ほかの生徒たちとは、ずいぶん違う。
「……不思議な人ですね」
冷花は誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。
そして、ほんの一瞬。
自分の口元がわずかに緩んでいることに、彼女自身は気づかなかった。
翌日、持久走。
神崎颯真は、学園の女王に勝利することができるのか。
そして、彼はまだ知らない。
自分が挑み続けている少女が、いつの間にか彼のことを、ほかの誰よりも気にかけるようになり始めていることを。
政財界の名家に生まれた子息、全国模試で上位に名を連ねる秀才、全国大会で活躍するスポーツ選手、さらには音楽や芸術の分野で将来を期待される才能の持ち主まで。
あらゆる分野のエリートが集うこの学園には、ひとつの暗黙の了解があった。
――一ノ瀬冷花には逆らうな。
中等部二年生にして生徒会長。
学年トップの成績、非の打ちどころのない容姿、どんな競技でも上位に入る運動能力。さらに料理や裁縫といった家事全般まで完璧にこなす。
名門一ノ瀬家の令嬢という家柄も相まって、彼女は学園の頂点に君臨していた。
そして今朝も。
「おはようございます、一ノ瀬会長!」
「お、おはようございます!」
廊下を歩くだけで、生徒たちが次々と頭を下げていく。
冷花は足を止め、礼儀正しく一礼した。
「おはようございます。今日も一日、よろしくお願いします」
それだけだった。
それだけなのに。
「い、今の聞いたか?」
「『今日も一日』って……昨日の僕たちの態度に何か問題があったんじゃ……」
「まさか、生徒会から何か指摘されるのか?」
ひそひそと交わされる声。
冷花は聞こえていないのか、聞こえていて気にしていないのか、涼しげな表情のまま歩いていった。
実際のところ、彼女は何も考えていなかった。
朝の挨拶をした。
相手も挨拶を返してくれた。
それで終わり。
彼女にとって、それ以上でも以下でもない。
ところが周囲はそう受け取らない。
彼女のわずかな表情の変化に意味を探し、何気ない言葉の裏に意図を読み取り、勝手に緊張していく。
その結果、冷花の周囲にはいつも人がいなかった。
正確には、近づきたいと思う人間は大勢いる。
けれど、近づける人間がいないのだ。
そんな彼女に、今日も遠慮なく近づいていく少年が一人いた。
「おーい、一ノ瀬!」
廊下に響く、よく通る声。
周囲の生徒たちが一斉に振り返った。
「おい、誰だよ。会長を呼び捨てにしたぞ……」
「神崎だ」
「神崎颯真か……。また始まるのか?」
声の主は、神崎颯真。
冷花と同じ中等部二年生であり、学園一のイケメンと称される少年だった。
整った顔立ちに、少し癖のある髪。運動神経抜群で、成績も優秀。家柄も申し分なく、女子生徒からの人気は冷花に負けず劣らず高い。
そんな彼には、ひとつだけ解決できない問題があった。
目の前を歩く少女に、何をやっても勝てないのである。
「神崎くん。おはようございます」
「おう。……って、そうじゃない!」
「何か用でしょうか?」
「あるに決まってるだろ!」
颯真は、びしっと冷花を指さした。
「一ノ瀬冷花! 今日こそ、お前に勝負を申し込む!」
廊下が静まり返った。
誰かが息をのむ音さえ聞こえた気がした。
冷花は数秒ほど颯真を見つめ、それから首をわずかに傾けた。
「そうですか」
「……は?」
「では、勝負の内容を教えてください」
「いや、反応それだけかよ!」
「勝負をするのでしょう? 内容がわからなければ、準備もできません」
「そ、それはそうだけど……!」
颯真は調子を狂わされながらも、すぐに胸を張った。
「今日の一時間目、数学の小テストがあるだろ!」
「ありますね」
「そこで勝負だ! どっちが高い点数を取るか!」
「わかりました」
「負けたほうは、勝ったほうのお願いを一つ聞く!」
「構いません」
「よし! 言ったな!」
颯真は勝ち誇ったように笑った。
対する冷花は、いつもどおりの無表情だった。
「ちなみに神崎くん」
「なんだ?」
「今回の小テストの範囲は、先週までに授業で扱った二次方程式と関数です。昨日の放課後、あなたがサッカーをしていた時間に、私はすでに復習を終えています」
「なんでそんなことをわざわざ言うんだよ!」
「事実を伝えただけですが」
「お前なあ……!」
颯真が頭を抱える。
その様子を見ていた生徒たちは、そろって思った。
――神崎くん、すごいな。
――あの一ノ瀬会長に、あんなに普通に話しかけられるなんて。
しかし、彼らは知らない。
颯真が冷花に対して、特別な勇気を持っているわけではないことを。
単に、負けず嫌いなだけなのだ。
そして、本人もまだ気づいていなかった。
自分が彼女に勝ちたいと思う理由が、少しずつ変わり始めていることに。
*
午前十時十五分。
二年生の教室に、数学の小テストが配られた。
「それでは、始めてください」
教師の合図とともに、教室中で一斉に鉛筆が動き出す。
颯真も問題用紙に目を落とした。
第一問。二次方程式。
簡単だ。
第二問。関数のグラフ。
これも問題ない。
第三問。文章題。
少し考える必要があるが、解ける。
颯真は自分の実力に手応えを感じていた。
今回はいける。
昨日はサッカーを早めに切り上げて勉強した。今朝も教科書を読み直してきた。
何より、数学は得意科目だ。
冷花にだって、苦手な問題くらいあるはずだ。
そう信じて、颯真は最後の問題に取りかかった。
そして、テスト終了。
「どうだった、神崎?」
休み時間になった途端、友人の佐伯が尋ねてきた。
「完璧だ。たぶん満点!」
「おお、マジか。今回は一ノ瀬に勝てるんじゃないか?」
「当然だろ。俺だって、いつまでも負けっぱなしじゃないんだよ」
颯真は自信満々に笑った。
その視線の先では、冷花が自分の席で読書をしていた。
「おい、一ノ瀬!」
「はい」
「テスト、どうだった?」
「特に問題ありませんでした」
「そうか。俺もだ!」
「それはよかったですね」
「……お前、もう少し悔しそうな顔とかできないのか?」
「なぜですか?」
「いや、なんでもない……」
勝負を挑んだ側が、なぜか疲れている。
そんな光景も、星蘭学園ではすっかりおなじみになっていた。
*
昼休み。
颯真は友人たちと食堂で昼食を取っていた。
「なあ、神崎」
佐伯が箸を動かしながら言った。
「お前さ、なんでそんなに一ノ瀬に勝ちたいんだ?」
「はあ?」
「いや、普通そこまでこだわらないだろ。勉強でもスポーツでも、あいつに勝てないからって、毎回勝負を挑むなんてさ」
「決まってるだろ。負けたままなのが嫌だからだ」
「それだけ?」
「それだけだよ」
颯真は即答した。
自分より優秀な人間がいる。
しかも、どれだけ努力しても、なかなか追いつけない。
それが悔しい。
だから勝ちたい。
実に単純な理由だった。
「まあ、お前らしいけどな」
佐伯は苦笑した。
「でも、一ノ瀬って、なんか怖くないか?」
「どこが?」
「いや、あの無表情とか。何考えてるかわからないし」
「別に普通だろ」
「普通じゃないって。こないだ俺、廊下でぶつかりそうになって謝ったんだよ。そしたら、じっと見つめられてさ」
「それで?」
「『前方には注意してくださいね』って言われた」
「……それだけ?」
「それだけだよ! でも、あの目で言われると、もう二度と廊下を歩けない気がするんだ!」
「歩けよ!」
颯真は思わず突っ込んだ。
確かに、冷花は表情が乏しい。
喜んでいるのか、怒っているのか、判断しにくいところもある。
けれど、彼女は別に意地悪な人間ではない。
間違っていることを指摘するし、困っている人がいれば助ける。仕事だって誰よりも丁寧にこなす。
ただ、それを大げさに表現しないだけなのだ。
「お前ら、一ノ瀬のことを誤解しすぎなんだよ」
颯真がそう言うと、佐伯は目を丸くした。
「……お前、あいつのこと、よくわかってるんだな」
「は? な、なんだよ、それ」
「いや、別に?」
「変なこと言うな!」
颯真は慌てて昼食をかき込んだ。
そのときだった。
「神崎くん」
聞き慣れた声が、背後からした。
颯真の動きが止まる。
ゆっくり振り返ると、そこには冷花が立っていた。
「い、一ノ瀬!?」
「先ほどの小テストについてですが」
「お、おう! なんだよ!」
「採点が終わったそうです。先生が、結果を教えてくださいました」
冷花は手元の小さなメモを見た。
「私は百点でした」
「……っ!」
「神崎くんは九十九点だったそうですね」
「な、なんでお前が俺の点数を知ってるんだよ!」
「先生から聞きました」
「先生ぇぇぇ!」
颯真が天を仰ぐ。
冷花は淡々と続けた。
「惜しかったですね。第七問の符号を一つ間違えたようです」
「わかってるよ! 見直したときに気づいたんだよ!」
「そうでしたか」
「……それで? 勝負は俺の負けってことか」
「はい。約束どおり、私の勝ちです」
冷花は静かにうなずいた。
颯真は悔しそうに唇をかんだ。
あと一点。
たった一点だった。
もう少しで、彼女に勝てたのに。
「……くそっ。次は絶対に勝つからな!」
「期待しています」
冷花はそう言って、軽く頭を下げた。
そして、そのまま食堂を去ろうとする。
しかし、数歩進んだところで、ふと足を止めた。
「神崎くん」
「……今度はなんだよ」
「あなたの答案について、一つ気になったことがあります」
「答案?」
「第七問です。途中の計算式は正しかったので、最後の符号さえ間違えなければ満点でした」
「……だから?」
「見直しをすれば気づけたはずです。あなたなら、次は満点を取れると思います」
颯真は、ぽかんと口を開けた。
冷花は相変わらず、無表情だった。
褒めているのか、ただ事実を述べているだけなのか、やはりわかりにくい。
けれど。
「……おう」
颯真は、少しだけ笑った。
「次は満点を取って、お前に勝つ」
「はい。お待ちしています」
冷花は今度こそ立ち去った。
その背中を見送りながら、佐伯がぽつりと言った。
「……なあ、神崎」
「なんだよ」
「お前、あいつのこと好きなの?」
「ぶっ飛ばすぞ!」
食堂に、颯真の怒声が響き渡った。
*
放課後。
生徒会室では、冷花が一人で書類を整理していた。
今日の議事録をまとめ、明日の会議資料を確認し、提出された部活動の予算申請書に目を通す。
どれも特別難しい仕事ではない。
順番に処理していけば、予定どおりに終わる。
冷花は時計を確認した。
午後四時三十分。
そろそろ帰宅してもよい時間だった。
そのとき。
コンコン。
扉をノックする音がした。
「どうぞ」
扉が開く。
「よう、一ノ瀬!」
顔を出したのは、もちろん颯真だった。
「神崎くん。何か用でしょうか?」
「決まってるだろ。次の勝負の申し込みだ!」
「今日、負けたばかりですが」
「だからだよ! 次こそ勝つ!」
「……そうですか」
冷花は手元の書類を机に置いた。
「それで、今度は何で勝負するのですか?」
「明日の体育だ。バスケットボールで勝負しようぜ!」
「構いません」
「よし!」
颯真は拳を握った。
冷花は淡々と告げる。
「ただし、明日は体育の授業でバスケットボールをする予定はありません」
「……は?」
「明日の体育は持久走です」
「うそだろ!?」
「時間割を確認していなかったのですか?」
「いや、だって……!」
颯真は頭を抱えた。
明日は持久走。
しかも、冷花は長距離走でも学年トップの記録を持っている。
また負ける未来が見えた気がした。
「……じゃあ、持久走で勝負だ!」
「わかりました」
「今度こそ勝つからな!」
「はい」
冷花は、いつもどおりの表情で答えた。
颯真はしばらく彼女を見つめていたが、ふと口を開いた。
「なあ、一ノ瀬」
「はい?」
「お前さ、俺と勝負してて楽しいか?」
自分でも、なぜそんなことを尋ねたのかわからなかった。
いつもなら、次こそ勝つと宣言して帰るだけだ。
けれど今日は、少しだけ気になった。
冷花はすぐには答えなかった。
窓の外に視線を向け、それから颯真を見た。
「楽しい、という感情については、あまり意識したことがありません」
「……そっか」
「ですが」
冷花は続けた。
「あなたは、私に遠慮をしませんね」
「当たり前だろ。お前に勝ちたいんだから」
「そうですね」
彼女はわずかに目を細めた。
笑ったわけではない。
けれど、いつもより少しだけ柔らかな表情だった。
「神崎くんと話していると、予想外のことが起こります」
「……それ、褒めてるのか?」
「私にとっては、興味深いことです」
颯真は、なぜか返事に困った。
冷花がそんなことを言うとは思わなかったからだ。
「……ま、まあ、当然だな! 俺は普通のやつとは違うからな!」
「そうなのですか?」
「そうだよ!」
「では、明日の持久走で確認させてください」
「……お前、絶対に俺をからかってるだろ!」
「そのつもりはありません」
冷花は首を傾げた。
颯真は深いため息をついた。
やっぱり、この女には勝てそうにない。
勉強でも、運動でも、会話でも。
いつだって、自分の予想を超えてくる。
だからこそ。
「覚えてろよ、一ノ瀬! 絶対にお前を負かしてやるからな!」
「はい。楽しみにしています」
颯真は勢いよく生徒会室を飛び出した。
廊下に響く足音が、次第に遠ざかっていく。
静かになった生徒会室で、冷花は再び机に向かった。
書類を手に取り、続きを確認する。
けれど。
ふと、先ほどの颯真の顔が頭に浮かんだ。
負けても、負けても、彼は挑戦してくる。
自分を恐れず、遠慮せず、思ったことをそのまま口にする。
ほかの生徒たちとは、ずいぶん違う。
「……不思議な人ですね」
冷花は誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。
そして、ほんの一瞬。
自分の口元がわずかに緩んでいることに、彼女自身は気づかなかった。
翌日、持久走。
神崎颯真は、学園の女王に勝利することができるのか。
そして、彼はまだ知らない。
自分が挑み続けている少女が、いつの間にか彼のことを、ほかの誰よりも気にかけるようになり始めていることを。