嫌いだった課長と恋をするまで

第06話 課長と衝突する

 その日の午後、取引先から仕様変更の連絡が入った。納品予定日は変えないまま、商品の一部を変更したいという話である。内容を確認すると、すでに進んでいる作業をかなりやり直す必要がある。それでも、今すぐ動けば納期には間に合う。正式な社内承認を待ってから関係部署へ連絡すれば、その日の作業時間がほとんどなくなってしまう。俺は変更内容を整理して先方に細かい条件を確認し、現場で対応できる範囲を判断したうえで、必要な部署へ連絡を入れた。勝手に仕様を決めたわけではないし、誰かに迷惑を押しつけたわけでもない。納期を守るために必要なことを、自分なりに考えて動いただけだった。もちろん、もし判断を誤っていたら、その責任は自分が取るつもりだった。だから、迷っている暇はなかった。

「高橋さん、先ほどの仕様変更について確認しました。先方への確認も、関係部署への連絡も済ませていますね。対応そのものについては問題ありません。ただ、どうして私への相談をせずに進めたんですか?」

「時間がなかったからです。今から承認を取って、それから各部署へ回していたら今日の作業に間に合いませんでした。先方に確認すべきことは確認しましたし、変更後の作業についても関係部署と話をつけています。納期にも影響は出ません」

「そこは分かっています。今回の判断が結果として正しかったことも理解しています。それでも、私は問題があると思っています。正式な承認を取る前に、高橋さん一人の判断で社内を動かしたことです」

「だったら、どうしろっていうんですか? 問題が目の前にあるのに、課長の判断を待って何もしないほうがいいんですか?」

「何もしないで待っていてほしいとは言っていません。自分で考えて動くことは必要です。ただ、今回なら私に連絡することはできたはずです。電話一本なら、それほど時間はかかりません」

「その数分が惜しかったんです。先方は今日中の回答を求めていましたし、課長に連絡して判断を待って、それから動く時間があれば、現場ではもっと先へ進められます。俺は目の前の仕事を止めたくなかったんです」

「だからこそ、高橋さんは私に相談すべきでした」

「課長は現場にいなかったじゃないですか。先方がどういう状況で、何を急いでいて、どこまでなら変更できるのか、その場で聞いていたのは俺です。実際に作業する人間が何をすれば納期を守れるのかも、俺のほうが分かっています。それなのに、結果が出たあとになって、最初から俺の判断に問題があったみたいに言われるのは納得できません」

「私は、高橋さんの判断が間違っていたとは言っていません」

「でも、やったことは問題だと言うんでしょう?」

「はい。問題です」

 迷いのない返事だった。その瞬間、俺の中にあった苛立ちが一気に膨らんでくる。仕事の結果については認めると言いながら、俺がその場で考えて動いたことだけは認めない。そんなふうに受け取ってしまった俺は、椅子に座ったままではいられず、立ち上がって課長を見た。頭では落ち着いて話すべきだと分かっている。それでも、これまで仕事だけは自分なりに責任を持ってやってきたという自負があっただけに、簡単に納得することはできなかった。

「俺は一人で好き勝手にやったわけじゃありません。先方にも確認しましたし、現場にも確認しています。必要な人間には全部話を通しています。それでも課長が問題だと言うなら、結局は俺の判断そのものを信用していないってことじゃないですか」

「違います」

「何が違うって言うんですか」

「高橋さんの判断力を信用しているからこそ、私は問題にしているんです。何も考えずに指示を待つ人なら、今回のような動きはできません。先方の要求を整理して、必要な部署まで動かしたことも分かっていますし、結果を出したことも評価しています。ただ、能力があるからといって、一人で判断を完結させていいわけではありません」

「俺は、自分で判断した仕事については自分で責任を持ちたいんです。誰かに判断を預けて、返事を待って、それから動くような仕事をしていたら、現場では間に合わないことがあります。今回だって、俺が動かなかったら納期に影響が出ていた可能性はあります」

「責任を持つことと、一人で背負うことは違います」

「俺は背負っているつもりなんてありません」

「では、なぜ私に相談しなかったんですか?」

 その問いだけは、すぐに答えられなかった。相談したくなかったわけではない。ただ、神谷課長なら止めると思った。手順を確認して、正式な承認を取るまで待つように言われると思ったから、自分で進めた。その考えを認めるのが悔しくて、俺はしばらく黙ったまま課長を見ていた。

「……課長なら、止めると思ったからです」

「そう思っていたんですね」

「はい。だから、自分でやったほうが早いと思いました」

「それなら、今日の問題はもっとはっきりしています。高橋さんは、私がどう判断するかを確認する前に、私なら止めると決めつけて、自分だけで進めたんです」

 言い返したかったが、できなかった。なぜなら、図星だったからだ。

 俺は神谷課長を、何でも正しい手順に当てはめようとする人間だと思っていた。だから、現場で必要な判断まで課長に委ねるつもりはなかった。自分のほうが現場を分かっているなら、自分で決めればいい。そう考えていた。

「高橋さんには、自分で考えることをやめてほしいわけではありません。むしろ、これからも自分で考えてください。現場を見て、必要だと思ったら動いてください。ただ、その判断を自分一人で終わらせないでほしいんです。私に相談すれば、私も判断できますし、その判断について責任を負うこともできます。高橋さんが一人で正しい答えを出すことだけが、仕事ではありません」

 その言葉を聞いても、俺の中に残っていた苛立ちは消えない。ただ、さっきまでとは少し違う。俺の仕事を否定しているわけではないことが、少しずつ分かってきたからだ。それでも、自分で考えて動くことまで簡単に手放す気にはなれない。俺にとって仕事は、誰かの指示を待ってこなすだけのものではない。目の前にある問題を見つけたら、自分で考えて、できることを探して、最後まで片づける。そのやり方を否定されたくなかった。

「……俺は、自分の仕事まで課長に管理されたくありません」

「管理したいわけではありません。任せたいんです」

 課長は少しだけ間を置いてから、俺をまっすぐ見た。それは、思いもしなかった言葉だった。

「高橋さんが自分で考えて動けることは、もう分かっています。だから、私は任せるつもりです。ただ、任せることと、何も知らないまま見ていることは違います。高橋さんが判断したことを私にも伝えてください。そうすれば、私は高橋さんの判断を尊重したうえで、課長として必要な責任を引き受けられます」

 さっきまでなら、また正論を言っていると思っただろう。でも今は、その言葉を簡単に跳ね返すことができなくなっていた。神谷課長は俺の仕事を取り上げたいわけではなく、俺が一人で全部背負わなくても済むように、別のやり方を示している。そう考えると、俺が意地になっているだけのようにも思えてきた。

「今回の対応については、私が先方への最終確認をします。高橋さんは変更後の作業内容を整理してください。それから、次に同じようなことがあったときは、必ず私に連絡してください」

「……分かりました」

「そこは、考えておいてくださいという意味ではありません。約束してください」

 その言い方には、さっきまでの議論とは違う強さが感じられる。俺は一度だけ息を吐き、課長から目を逸らした。納得したわけではない。自分のやり方を全部変えるつもりもない。それでも、今回のことで課長が俺の仕事を見てくれていたことだけは認めるしかなかった。

「……分かりました。約束します」

「ありがとうございます」

 課長はそれだけ言うと、資料を持って会議室を出ていった。

 俺はしばらく、その場から動けなかった。腹が立っているのは変わらない。自分の判断を否定されたわけではないと分かったあとでも、簡単に気持ちを切り替えられるほど、俺は器用ではない。ただ、今日のやり取りを思い返すほど、神谷課長が俺の仕事をちゃんと見ていたことだけは否定できなくなっていた。

 俺がどんな理由で動いたのかを聞き、その判断そのものは評価したうえで、それでも管理職として譲れない部分を伝えてきた。俺が最初に思っていたような、ただ正しいことを押しつけてくるだけの人ではないのかもしれない。

 席に戻って作業を再開してからも、課長の言葉が頭に残っていた。自分で考えることをやめなくていい。ただ、一人で終わらせる必要もない。そんな考え方を、俺は今まであまりしてこなかった。仕事でも、それ以外でも、誰かに頼るより自分で片づけたほうが早いと思っていたし、そのほうが迷惑をかけずに済むと思っていた。

 だから、神谷課長が言った「任せたい」という言葉が、妙に胸に残る。俺のやり方を変えろと言われたわけではない。それなのに、自分の中にある何かを見透かされたような気がして、少しだけ落ち着かなかった。

 
 会社を出るころには、外はすっかり暗くなっていた。駅へ向かう道を歩きながら、俺は今日のことをもう一度思い返してみる。
 
 やっぱり神谷課長は苦手だ。自分の考えを簡単には曲げないし、俺が腹を立てていることが分かっていても、必要だと思ったことは最後まで言う。それなのに、俺の仕事を適当に扱うことはなく、間違っていると思えば自分の言葉で伝え、俺の判断が正しかった部分についてはきちんと認める。そんな人だと分かってしまうと、これまでのように単純に、人の気持ちを考えない女と決めつけることもできなくなっていた。

 だからといって、好きになったわけじゃない。
 そもそも、俺はまだ神谷美月のことをほとんど知らない。ただ、最初に会ったときに感じた印象だけで、この人を決めつけるのは少し違うのかもしれないと、初めて思った。

 それが何を意味するのか、このときの俺にはまだ分からなかった。
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