冷たい水面が君を抱く
終話 止まった時計と流れる水
尚美が亡くなってから、三年が過ぎた。雨の朝になると、右手の指が今でも疼く。あの日、男たちに踏みつけられた指は少し曲がったままで、折れた肋骨のあたりにも鈍い痛みが残っている。身体に残った傷なら、時間とともに薄れていくものだと思っていた。実際、仕事をしている間は気にならない。それよりも厄介なのは、胸の奥に空いたままの場所だった。
大学を中退した洋平は、尚美と暮らした町から少し離れた小さな町工場で働いている。朝から機械の音に囲まれ、油の匂いが染みついた作業着で一日を過ごし、帰れば簡単な飯を作って眠る。そんな毎日の中でも、新聞に神宮寺家の名前を見つけると、洋平は必ず記事へ目を通した。尚美を奪った家が、何事もなかったようにそこにある。その事実だけが、三年経っても許せなかった。
その日の昼休み、工場の食堂で弁当を広げていると、同僚が入口から顔を出した。
「河野さん、裏口にお客さんが来てますよ。河野さんに会いたいそうです」
「僕に?」
「はい。名前は聞いてませんけど、かなり年配の女性です」
心当たりはなかった。仕事関係なら会社を通すはずだし、親戚とも連絡が絶えて久しい。
洋平は箸を置き、作業着の袖についた油を軽く払って裏口へ向かった。そこに、灰色の髪をした老女が一人で立っている。胸の前には、古い風呂敷包みが大事そうに抱えられていた。洋平の姿を見つけると、老女は一歩だけ前へ出たものの、すぐに足を止めた。
「河野洋平さん……で、間違いありませんやろか」
「はい。僕です。失礼ですが、どちら様ですか?」
「突然すんません。私、昔、神宮寺のお屋敷で働いとりました」
神宮寺という名前を聞いた途端、胸の奥がざわつく。老女は洋平の表情を確かめるように見つめ、それから風呂敷へ視線を落とした。洋平は裏口脇の古いベンチを指した。
「ここでよければ、座って話しませんか」
「おおきに」
老女はゆっくり腰を下ろし、膝の上に風呂敷を置いた。結び目へ伸ばした指が、何度もためらうように止まる。
「これを、お渡ししたくて来ました」
「僕に……ですか?」
「はい。お嬢様が亡くならはる前まで、ベッドの下へ隠してはったもんです」
風呂敷の中から出てきたのは、小さな日記帳だった。表紙の角は擦れ、何度も手に取られた跡が残っている。洋平はすぐには触れなかった。指を伸ばせば、その中にある尚美の時間へ触れてしまう気がしたからだ。
「旦那様に見つかったら、燃やされると思いました。お嬢様が何を書いていたとしても、最後まで隠してしまうのは……もう、嫌やったんです」
「どうして、今なんですか」
「私も、ずっと怖かったんです。でも、あの日のことを忘れたふりして生きるほうが、もっと怖くなりました」
その言葉を聞いて、洋平は日記帳を受け取った。紙の感触が指先に伝わった瞬間、胸が詰まる。表紙を開くと、細く整った文字が並んでいた。スポーツセンターの受付で、尚美が利用申込書へ名前を書いたときの字と同じだった。少し右上がりで、丁寧なのにどこか柔らかい。あの頃の尚美が、そこに座っているような気がした。
最初のページをめくる。そこには監禁されていた日々が、日付とともに残されていた。
――十月十二日――
今日も窓の外に雀さんが来ました。
雀さんに「洋平さんはどこにいるの」と聞いても、答えてくれません。
私を助けようとして、ひどい怪我を負わせてしまった。
私のせい。全部、私のせい。
でも、後悔はしていません。
あの三ヶ月、私は初めて『自分』として生きていたんだから。
尚美は、あの屋敷で一人だった。窓の外を飛ぶ雀を眺めながら、洋平のことを考えていた。その事実が胸へ突き刺さる。洋平は尚美を助けられなかった。あの日、伸ばした手は届かず、連れていかれる彼女を見送るしかなかった。その記憶は三年経っても消えていない。
老女は黙って洋平の隣に座っていた。急かすことも、慰めることもしない。その気遣いがありがたかった。洋平は袖で目元を拭い、次のページを開いた。
――十月二十日――
父が、洋平さんはもう私を忘れて、別の女の人と暮らしてるって言いました。
嘘やわ。あなたはそんな人やない。
私の指には、まだあなたの手の温もりが残ってるもん。
右手を見れば、少し曲がった指がある。三年前、男たちに押さえつけられたときの傷だ。あのとき尚美は、洋平の手を最後まで離そうとしなかった。細い指が必死に絡んできた感触を、洋平は今でも覚えている。記憶の中の尚美は、いつも笑っていた。だからこそ、最後に一人で何を考えていたのかを知るのが怖かった。それでも、最後のページを開かずにはいられない。
――十月二十四日――
今夜、会いに行きます。
冷たい場所かもしれへんけど、そこが一番、あなたに近い気がするから。
「……尚美」
名前を口にした途端、堪えていたものが崩れた。洋平は日記帳を胸へ押しつけ、声を上げて泣いてしまった。老女は顔を伏せたまま、何も言わない。洋平の涙が日記帳の表紙へ落ちていく。
「お嬢様は……最後まで、河野さんのことを話してはりました」
「何を話していたんですか?」
「細かいことまでは覚えてません。ただ……笑ってはりました」
その一言が、胸の奥へ突き刺さる。尚美は洋平を恨んでいなかった。あの三ヶ月を、自分自身として生きた時間だと思ってくれていた。あの時間だけは尚美にとって嘘ではなかった。その確かさだけを、洋平は日記帳の重みと一緒に受け取った。
「私は、もう帰らせてもらいます。旦那様には、何も言わんといてください。私がここへ来たことも……」」
老女が立ち上がる。
「分かりました。でも、あなたが見たことまで、黙っている必要はないと思います」」
「……話しても、ええんでしょうか」
「僕には止める理由がありません。尚美が何をされたのか知っている人がいるなら、話してください」
老女はしばらく洋平を見つめていたが、やがて小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「僕のほうこそ、ありがとうございます」
老女が帰ったあとも、洋平はしばらく裏口から動けなかった。手の中の日記帳は薄い。それなのに、三年間ずっと抱えていたものより、ずっと重く感じられた。
————
それから少しずつ、神宮寺家の内側から声が出始めた。最初は老女一人だった。次に、尚美が閉じ込められていた部屋を知る元使用人が現れ、その次には、洋平が屋敷へ助けに入った日のことを見ていた男が訪ねてきた。誰も最初から堂々としていたわけではない。封筒を差し出す手は震え、名前を明かすことをためらう人もいた。それでも、尚美の名前を口にすると、最後には皆が話し始めた。
「こんな話を表へ出したら、神宮寺家が黙っていないかもしれませんよ」
「もう、怖くありません」
元使用人の男は、封筒を洋平へ渡しながらそう言った。
「お嬢様が亡くなっても、私は黙っていました。旦那様に逆らうのが怖かったんです。でも、お嬢様が最後まで一人で苦しんでいたと思うと……もう、黙っているほうが辛いんです」
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことやありません」
「それでも、ありがとうございます」
洋平は受け取った証言を一つずつ整理し、必要なものは弁護士へ渡した。洋平自身が神宮寺家を潰そうとしたわけではない。ただ、尚美について知っている人たちが、もう黙らないと決めた。その流れは洋平にも止められなかったし、止めるつもりもなかった。
新聞に神宮寺家の記事が載ったのは、それからしばらくしてからだった。尚美の死だけではない。屋敷の中で長年続いていた監禁や暴力、隠されていた金の流れまで、次々と明るみに出ていった。記事を読んだ朝、洋平は工場の休憩室で新聞を膝に置いたまま、しばらくページから目を離せなかった。ようやく尚美の死が、誰にも知られないまま終わらずに済む。そう思う一方で、新聞のどこを探しても、尚美が笑っていた顔は載っていない。そのことが妙に寂しかった。
神宮寺家を取り巻いていた人間たちは、少しずつ離れていった。取引先から契約を打ち切られ、銀行からも融資を断られた。使用人の姿が屋敷から消え、庭は伸びた草に覆われていったという。それでも父親だけは、自分の名前にまだ力があると信じていたらしい。
「神宮寺家が、こんなことで潰れるわけがない!」
証言に来た元使用人が、屋敷で聞いた言葉を教えてくれた。
「銀行が融資を止めると言ってきた。だが、神宮寺の名前がある。必ず向こうから頭を下げてくる」
その言葉を聞いた洋平は、何も返せなかった。数週間後、また元使用人が工場を訪れたときには、屋敷の中から高価な家具まで運び出されていた。
「旦那様は、まだ自分が当主だと言い張ってました」
「……そうですか」
「退職する使用人にも、神宮寺家がなければ何もできないと言ってました。でも、その人がこう答えたそうです」
男は少しだけ間を置いた。
「もう、その言葉で戻ってくる人はおりません、と」
その話を聞いたとき、洋平の中に喜びはなかった。ただ、尚美を閉じ込めていた場所が、少しずつ形を失っていることだけが分かった。
やがて屋敷は差し押さえられ、蔵の品も土地も売りに出された。最後には門の表札まで外されたという。長い間、誰も逆らえなかった『神宮寺』の二文字が地面へ置かれ、高い石垣も重機によって崩されていった。
その知らせを聞いた夜、洋平は日記帳を開いた。最後のページには、あの日の尚美の文字が残っている。神宮寺家がなくなっても、屋敷が消えても、そこに書かれた文字は変わらない。尚美は戻ってこない。洋平が本当に欲しかったものは、家の没落でも謝罪でもなかったのだと、そのとき初めて思った。
「……会いたかったな」
声に出すと、部屋が急に広く感じられた。
————
数日後、洋平は尚美が身を投げたダムへ向かった。三年前と同じように、水面には山の景色が映っている。風が頬を冷やし、湖面に細かな波を作っていた。洋平は日記帳を胸に抱えたまま、しばらく何も言えずに立っていた。最後のページを開くこともできる。それでも、もう何度も読んだ文字を、今さら確かめる必要はない気がした。
「尚美。僕は、まだ生きていくよ」
右手を握る。曲がった指が、少しだけ痛んだ。
「いつか僕もそっちへ行く。そのときは、もう誰にも邪魔させへん。二人で、あの安い部屋に帰ろうな。一緒に肉じゃが作ろうな」
返事はない。
それでも、洋平はすぐには帰らなかった。水面を眺めながら、洋平は日記帳を胸へ抱き直した。神宮寺家はもうない。尚美を閉じ込めていた屋敷も、高い石垣も消えた。それでも洋平の中には、あの三ヶ月が残っている。消えてほしくないと思う。あの時間までなくなってしまったら、尚美と過ごした日々まで本当になかったことになってしまう気がするからだ。
「尚美」
洋平は水面を見つめたまま、もう一度だけ尚美の名前を呼んだ。返事はなかった。それでも、あの日と同じ笑顔で「洋平さん」と呼ぶ彼女の声が、今も洋平の胸の奥に残っている。
洋平はその声を抱えたまま、ゆっくりと歩き出した。
——完——
大学を中退した洋平は、尚美と暮らした町から少し離れた小さな町工場で働いている。朝から機械の音に囲まれ、油の匂いが染みついた作業着で一日を過ごし、帰れば簡単な飯を作って眠る。そんな毎日の中でも、新聞に神宮寺家の名前を見つけると、洋平は必ず記事へ目を通した。尚美を奪った家が、何事もなかったようにそこにある。その事実だけが、三年経っても許せなかった。
その日の昼休み、工場の食堂で弁当を広げていると、同僚が入口から顔を出した。
「河野さん、裏口にお客さんが来てますよ。河野さんに会いたいそうです」
「僕に?」
「はい。名前は聞いてませんけど、かなり年配の女性です」
心当たりはなかった。仕事関係なら会社を通すはずだし、親戚とも連絡が絶えて久しい。
洋平は箸を置き、作業着の袖についた油を軽く払って裏口へ向かった。そこに、灰色の髪をした老女が一人で立っている。胸の前には、古い風呂敷包みが大事そうに抱えられていた。洋平の姿を見つけると、老女は一歩だけ前へ出たものの、すぐに足を止めた。
「河野洋平さん……で、間違いありませんやろか」
「はい。僕です。失礼ですが、どちら様ですか?」
「突然すんません。私、昔、神宮寺のお屋敷で働いとりました」
神宮寺という名前を聞いた途端、胸の奥がざわつく。老女は洋平の表情を確かめるように見つめ、それから風呂敷へ視線を落とした。洋平は裏口脇の古いベンチを指した。
「ここでよければ、座って話しませんか」
「おおきに」
老女はゆっくり腰を下ろし、膝の上に風呂敷を置いた。結び目へ伸ばした指が、何度もためらうように止まる。
「これを、お渡ししたくて来ました」
「僕に……ですか?」
「はい。お嬢様が亡くならはる前まで、ベッドの下へ隠してはったもんです」
風呂敷の中から出てきたのは、小さな日記帳だった。表紙の角は擦れ、何度も手に取られた跡が残っている。洋平はすぐには触れなかった。指を伸ばせば、その中にある尚美の時間へ触れてしまう気がしたからだ。
「旦那様に見つかったら、燃やされると思いました。お嬢様が何を書いていたとしても、最後まで隠してしまうのは……もう、嫌やったんです」
「どうして、今なんですか」
「私も、ずっと怖かったんです。でも、あの日のことを忘れたふりして生きるほうが、もっと怖くなりました」
その言葉を聞いて、洋平は日記帳を受け取った。紙の感触が指先に伝わった瞬間、胸が詰まる。表紙を開くと、細く整った文字が並んでいた。スポーツセンターの受付で、尚美が利用申込書へ名前を書いたときの字と同じだった。少し右上がりで、丁寧なのにどこか柔らかい。あの頃の尚美が、そこに座っているような気がした。
最初のページをめくる。そこには監禁されていた日々が、日付とともに残されていた。
――十月十二日――
今日も窓の外に雀さんが来ました。
雀さんに「洋平さんはどこにいるの」と聞いても、答えてくれません。
私を助けようとして、ひどい怪我を負わせてしまった。
私のせい。全部、私のせい。
でも、後悔はしていません。
あの三ヶ月、私は初めて『自分』として生きていたんだから。
尚美は、あの屋敷で一人だった。窓の外を飛ぶ雀を眺めながら、洋平のことを考えていた。その事実が胸へ突き刺さる。洋平は尚美を助けられなかった。あの日、伸ばした手は届かず、連れていかれる彼女を見送るしかなかった。その記憶は三年経っても消えていない。
老女は黙って洋平の隣に座っていた。急かすことも、慰めることもしない。その気遣いがありがたかった。洋平は袖で目元を拭い、次のページを開いた。
――十月二十日――
父が、洋平さんはもう私を忘れて、別の女の人と暮らしてるって言いました。
嘘やわ。あなたはそんな人やない。
私の指には、まだあなたの手の温もりが残ってるもん。
右手を見れば、少し曲がった指がある。三年前、男たちに押さえつけられたときの傷だ。あのとき尚美は、洋平の手を最後まで離そうとしなかった。細い指が必死に絡んできた感触を、洋平は今でも覚えている。記憶の中の尚美は、いつも笑っていた。だからこそ、最後に一人で何を考えていたのかを知るのが怖かった。それでも、最後のページを開かずにはいられない。
――十月二十四日――
今夜、会いに行きます。
冷たい場所かもしれへんけど、そこが一番、あなたに近い気がするから。
「……尚美」
名前を口にした途端、堪えていたものが崩れた。洋平は日記帳を胸へ押しつけ、声を上げて泣いてしまった。老女は顔を伏せたまま、何も言わない。洋平の涙が日記帳の表紙へ落ちていく。
「お嬢様は……最後まで、河野さんのことを話してはりました」
「何を話していたんですか?」
「細かいことまでは覚えてません。ただ……笑ってはりました」
その一言が、胸の奥へ突き刺さる。尚美は洋平を恨んでいなかった。あの三ヶ月を、自分自身として生きた時間だと思ってくれていた。あの時間だけは尚美にとって嘘ではなかった。その確かさだけを、洋平は日記帳の重みと一緒に受け取った。
「私は、もう帰らせてもらいます。旦那様には、何も言わんといてください。私がここへ来たことも……」」
老女が立ち上がる。
「分かりました。でも、あなたが見たことまで、黙っている必要はないと思います」」
「……話しても、ええんでしょうか」
「僕には止める理由がありません。尚美が何をされたのか知っている人がいるなら、話してください」
老女はしばらく洋平を見つめていたが、やがて小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「僕のほうこそ、ありがとうございます」
老女が帰ったあとも、洋平はしばらく裏口から動けなかった。手の中の日記帳は薄い。それなのに、三年間ずっと抱えていたものより、ずっと重く感じられた。
————
それから少しずつ、神宮寺家の内側から声が出始めた。最初は老女一人だった。次に、尚美が閉じ込められていた部屋を知る元使用人が現れ、その次には、洋平が屋敷へ助けに入った日のことを見ていた男が訪ねてきた。誰も最初から堂々としていたわけではない。封筒を差し出す手は震え、名前を明かすことをためらう人もいた。それでも、尚美の名前を口にすると、最後には皆が話し始めた。
「こんな話を表へ出したら、神宮寺家が黙っていないかもしれませんよ」
「もう、怖くありません」
元使用人の男は、封筒を洋平へ渡しながらそう言った。
「お嬢様が亡くなっても、私は黙っていました。旦那様に逆らうのが怖かったんです。でも、お嬢様が最後まで一人で苦しんでいたと思うと……もう、黙っているほうが辛いんです」
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことやありません」
「それでも、ありがとうございます」
洋平は受け取った証言を一つずつ整理し、必要なものは弁護士へ渡した。洋平自身が神宮寺家を潰そうとしたわけではない。ただ、尚美について知っている人たちが、もう黙らないと決めた。その流れは洋平にも止められなかったし、止めるつもりもなかった。
新聞に神宮寺家の記事が載ったのは、それからしばらくしてからだった。尚美の死だけではない。屋敷の中で長年続いていた監禁や暴力、隠されていた金の流れまで、次々と明るみに出ていった。記事を読んだ朝、洋平は工場の休憩室で新聞を膝に置いたまま、しばらくページから目を離せなかった。ようやく尚美の死が、誰にも知られないまま終わらずに済む。そう思う一方で、新聞のどこを探しても、尚美が笑っていた顔は載っていない。そのことが妙に寂しかった。
神宮寺家を取り巻いていた人間たちは、少しずつ離れていった。取引先から契約を打ち切られ、銀行からも融資を断られた。使用人の姿が屋敷から消え、庭は伸びた草に覆われていったという。それでも父親だけは、自分の名前にまだ力があると信じていたらしい。
「神宮寺家が、こんなことで潰れるわけがない!」
証言に来た元使用人が、屋敷で聞いた言葉を教えてくれた。
「銀行が融資を止めると言ってきた。だが、神宮寺の名前がある。必ず向こうから頭を下げてくる」
その言葉を聞いた洋平は、何も返せなかった。数週間後、また元使用人が工場を訪れたときには、屋敷の中から高価な家具まで運び出されていた。
「旦那様は、まだ自分が当主だと言い張ってました」
「……そうですか」
「退職する使用人にも、神宮寺家がなければ何もできないと言ってました。でも、その人がこう答えたそうです」
男は少しだけ間を置いた。
「もう、その言葉で戻ってくる人はおりません、と」
その話を聞いたとき、洋平の中に喜びはなかった。ただ、尚美を閉じ込めていた場所が、少しずつ形を失っていることだけが分かった。
やがて屋敷は差し押さえられ、蔵の品も土地も売りに出された。最後には門の表札まで外されたという。長い間、誰も逆らえなかった『神宮寺』の二文字が地面へ置かれ、高い石垣も重機によって崩されていった。
その知らせを聞いた夜、洋平は日記帳を開いた。最後のページには、あの日の尚美の文字が残っている。神宮寺家がなくなっても、屋敷が消えても、そこに書かれた文字は変わらない。尚美は戻ってこない。洋平が本当に欲しかったものは、家の没落でも謝罪でもなかったのだと、そのとき初めて思った。
「……会いたかったな」
声に出すと、部屋が急に広く感じられた。
————
数日後、洋平は尚美が身を投げたダムへ向かった。三年前と同じように、水面には山の景色が映っている。風が頬を冷やし、湖面に細かな波を作っていた。洋平は日記帳を胸に抱えたまま、しばらく何も言えずに立っていた。最後のページを開くこともできる。それでも、もう何度も読んだ文字を、今さら確かめる必要はない気がした。
「尚美。僕は、まだ生きていくよ」
右手を握る。曲がった指が、少しだけ痛んだ。
「いつか僕もそっちへ行く。そのときは、もう誰にも邪魔させへん。二人で、あの安い部屋に帰ろうな。一緒に肉じゃが作ろうな」
返事はない。
それでも、洋平はすぐには帰らなかった。水面を眺めながら、洋平は日記帳を胸へ抱き直した。神宮寺家はもうない。尚美を閉じ込めていた屋敷も、高い石垣も消えた。それでも洋平の中には、あの三ヶ月が残っている。消えてほしくないと思う。あの時間までなくなってしまったら、尚美と過ごした日々まで本当になかったことになってしまう気がするからだ。
「尚美」
洋平は水面を見つめたまま、もう一度だけ尚美の名前を呼んだ。返事はなかった。それでも、あの日と同じ笑顔で「洋平さん」と呼ぶ彼女の声が、今も洋平の胸の奥に残っている。
洋平はその声を抱えたまま、ゆっくりと歩き出した。
——完——


