『白い盾 〜不器用なドクターの特効薬〜』
第一章:白衣を脱いだ天敵
「千歳さんって、本当に気が利くし、笑顔が素敵だよね。お仕事は何をされてるんですか?」
渋谷の、少し落ち着いた雰囲気のダイニングバー。
合コンの賑やかな声が飛び交う中、対面に座る神楽日向(かぐらひなた)が、形のよい目を細めて微笑んだ。
千歳亜耶奈(ちとせあやな)は、手元のおしぼりを丁寧に畳みながら、営業用の完璧な笑みを返す。
「ありがとうございます。私はメディカルコンシェルジュをしています。自由診療のクリニックで、受診される方のサポートやスケジュール管理をする仕事です」
「へえ、メディカルコンシェルジュ! かっこいいな。じゃあ、医療の知識も豊富なんですね」
「いえ、私はあくまで案内役ですから。……神楽さんは、どんなお仕事を?」
日向は少し困ったように眉を下げ、手にしたグラスを揺らした。
「俺? 俺は……まあ、その、亜耶奈さんの職場の、さらに奥にいる人間というか。一応、技術職……みたいな感じかな。毎日バタバタしてて」
「技術職、ですか。職人気質なんですね。素敵です」
亜耶奈は、ほっと胸をなで下ろした。
よかった。医療関係者ではなさそうだ。
もしここで「医者」や「看護師」なんて言葉が出ていたら、その瞬間に心のシャッターを勢いよく下ろしていたかもしれない。
仕事では、毎日クリニックで患者を迎えている。
けれど、亜耶奈は大の病院嫌いだった。
注射も、薬も、もちろん苦手だ。
鼻をつく消毒液の匂い。肌に触れる冷たい聴診器。そして、「痛くないよ」という言葉のあとに、容赦なく近づいてくる注射針。
大人になった今でも、医療に関わるものは恐怖の対象でしかない。
だからこそ、プライベートの時間くらいは、あの白い世界の気配から離れていたかった。
一方、日向もまた、胸の中で小さく息を吐いていた。
(危ねぇ……。とりあえず、技術職で濁せてよかった……)
日向の本当の職業は、総合病院の消化器内科医だ。
過去の合コンで、正直に「医者です」と打ち明けたことがある。
そのとき、周囲の女性たちの目の色が変わったのを、日向は今でも苦々しく覚えていた。
「すごい!」
「お医者さんなんだ、かっこいい!」
最初こそ、そんな言葉を向けられる。
けれど、会話が進むにつれて、年収や実家の資産を探るような質問が増えていく。
お酒が進めば、今度は健康相談の始まりだ。
「最近、肩こりがひどくて」
「これって何かの病気ですか?」
気がつけば、プライベートの時間が無料の健康相談所に早変わりしている。
もちろん、医師として誰かの役に立てるのは嬉しい。
それでも、休みの日くらいは、ただの一人の男として人と向き合いたかった。
(せめてオフのときくらい、普通の『神楽日向』として話がしたい)
だからこそ、日向は合コンで自分の職業を明かさないと決めていた。
「技術職なんて大層なものじゃないよ。ただのしがない男です」
そう言って笑った日向は、ふと亜耶奈の視線がテーブルのメニューに向いていることに気づいた。
「そういえば亜耶奈さん、さっきから『レバーの赤ワイン煮』をじっと見てますよね。頼みます?」
「えっ?」
亜耶奈は、思わず小さく飛び上がった。
確かに、ここ最近、少し貧血気味なのが気になっていた。
メニューを眺めながら、鉄分が豊富そうな料理に目を留めていたのだ。
「どうして分かったんですか……?」
「なんとなく。さっきから、何度かそっちを見てたから。それに、ちょっと顔色も気になって」
日向は、しまったというように軽く笑った。
「ごめん。変な意味じゃないんだ。昔から、人の様子をつい観察しちゃう癖があって」
日々、患者のわずかな顔色の変化や、歩き方の違和感に目を光らせている。
それは、医師として身についた習慣だった。
けれど、そんな事情など知るはずもない亜耶奈には、日向の言葉が、相手をよく見てくれる人のさりげない気遣いに感じられた。
「神楽さんって、すごく優しい目をしてますね。お話ししていると、なんだか安心します」
不意に告げられた言葉に、日向は一瞬、目を瞬かせた。
「……本当?」
「はい」
「そう言ってもらえると、毎日すり減りながら働いてる甲斐があるな」
日向は、嬉しそうに、少し照れたように笑った。
職業を聞いて態度を変えるわけでもなく、肩書きに期待するわけでもない。
ただ、自分自身を見て「安心する」と言ってくれた亜耶奈。
そんな彼女に、日向の心もまた、静かに引き込まれていく。
(……この人、いいな。もっと話してみたい)
このときの亜耶奈は、まだ知る由もなかった。
日向が口にした「バタバタした技術職」の職場が、自分の最も苦手とする医療の最前線であることを。
そして、彼女が安心すると言ったその優しい目が、毎日多くの患者と向き合い、不安を受け止めてきた、本物の医師の目だということを――。
渋谷の、少し落ち着いた雰囲気のダイニングバー。
合コンの賑やかな声が飛び交う中、対面に座る神楽日向(かぐらひなた)が、形のよい目を細めて微笑んだ。
千歳亜耶奈(ちとせあやな)は、手元のおしぼりを丁寧に畳みながら、営業用の完璧な笑みを返す。
「ありがとうございます。私はメディカルコンシェルジュをしています。自由診療のクリニックで、受診される方のサポートやスケジュール管理をする仕事です」
「へえ、メディカルコンシェルジュ! かっこいいな。じゃあ、医療の知識も豊富なんですね」
「いえ、私はあくまで案内役ですから。……神楽さんは、どんなお仕事を?」
日向は少し困ったように眉を下げ、手にしたグラスを揺らした。
「俺? 俺は……まあ、その、亜耶奈さんの職場の、さらに奥にいる人間というか。一応、技術職……みたいな感じかな。毎日バタバタしてて」
「技術職、ですか。職人気質なんですね。素敵です」
亜耶奈は、ほっと胸をなで下ろした。
よかった。医療関係者ではなさそうだ。
もしここで「医者」や「看護師」なんて言葉が出ていたら、その瞬間に心のシャッターを勢いよく下ろしていたかもしれない。
仕事では、毎日クリニックで患者を迎えている。
けれど、亜耶奈は大の病院嫌いだった。
注射も、薬も、もちろん苦手だ。
鼻をつく消毒液の匂い。肌に触れる冷たい聴診器。そして、「痛くないよ」という言葉のあとに、容赦なく近づいてくる注射針。
大人になった今でも、医療に関わるものは恐怖の対象でしかない。
だからこそ、プライベートの時間くらいは、あの白い世界の気配から離れていたかった。
一方、日向もまた、胸の中で小さく息を吐いていた。
(危ねぇ……。とりあえず、技術職で濁せてよかった……)
日向の本当の職業は、総合病院の消化器内科医だ。
過去の合コンで、正直に「医者です」と打ち明けたことがある。
そのとき、周囲の女性たちの目の色が変わったのを、日向は今でも苦々しく覚えていた。
「すごい!」
「お医者さんなんだ、かっこいい!」
最初こそ、そんな言葉を向けられる。
けれど、会話が進むにつれて、年収や実家の資産を探るような質問が増えていく。
お酒が進めば、今度は健康相談の始まりだ。
「最近、肩こりがひどくて」
「これって何かの病気ですか?」
気がつけば、プライベートの時間が無料の健康相談所に早変わりしている。
もちろん、医師として誰かの役に立てるのは嬉しい。
それでも、休みの日くらいは、ただの一人の男として人と向き合いたかった。
(せめてオフのときくらい、普通の『神楽日向』として話がしたい)
だからこそ、日向は合コンで自分の職業を明かさないと決めていた。
「技術職なんて大層なものじゃないよ。ただのしがない男です」
そう言って笑った日向は、ふと亜耶奈の視線がテーブルのメニューに向いていることに気づいた。
「そういえば亜耶奈さん、さっきから『レバーの赤ワイン煮』をじっと見てますよね。頼みます?」
「えっ?」
亜耶奈は、思わず小さく飛び上がった。
確かに、ここ最近、少し貧血気味なのが気になっていた。
メニューを眺めながら、鉄分が豊富そうな料理に目を留めていたのだ。
「どうして分かったんですか……?」
「なんとなく。さっきから、何度かそっちを見てたから。それに、ちょっと顔色も気になって」
日向は、しまったというように軽く笑った。
「ごめん。変な意味じゃないんだ。昔から、人の様子をつい観察しちゃう癖があって」
日々、患者のわずかな顔色の変化や、歩き方の違和感に目を光らせている。
それは、医師として身についた習慣だった。
けれど、そんな事情など知るはずもない亜耶奈には、日向の言葉が、相手をよく見てくれる人のさりげない気遣いに感じられた。
「神楽さんって、すごく優しい目をしてますね。お話ししていると、なんだか安心します」
不意に告げられた言葉に、日向は一瞬、目を瞬かせた。
「……本当?」
「はい」
「そう言ってもらえると、毎日すり減りながら働いてる甲斐があるな」
日向は、嬉しそうに、少し照れたように笑った。
職業を聞いて態度を変えるわけでもなく、肩書きに期待するわけでもない。
ただ、自分自身を見て「安心する」と言ってくれた亜耶奈。
そんな彼女に、日向の心もまた、静かに引き込まれていく。
(……この人、いいな。もっと話してみたい)
このときの亜耶奈は、まだ知る由もなかった。
日向が口にした「バタバタした技術職」の職場が、自分の最も苦手とする医療の最前線であることを。
そして、彼女が安心すると言ったその優しい目が、毎日多くの患者と向き合い、不安を受け止めてきた、本物の医師の目だということを――。