差し戻し五回目の課長から、経費にならない申請書が届きました
「不動産事業本部の真壁課長から、また経費精算の申請が来てる」

東京・丸の内、東雲ホールディングス本社。
財務本部経理部で経費精算を担当して五年目になる私――七瀬遥は、画面に表示された申請書を見て深いため息をついた。
社内では「いちばん差し戻しが厳しい経理」なんて囁かれているけれど、厳しいんじゃない。みんなの申請が雑すぎるだけだ。

宛名なし、但し書きなし。
おまけに『会議費』で計上されているのに、誰と会議をしたのか参加者の名前すら書かれていない。

「……これは通せない」

経費精算システム上で不足している項目を打ち込み、画面の送信ボタンを押す。

「差し戻し、っと」



カチリと鳴ったクリック音から、ほんの二分後だった。
五十人以上が並ぶ経理部のフロアに、革靴の足音が近づいてくる。私のデスクの横でピタリと止まった影を見上げると、困ったように眉を下げた男性が立っていた。

「七瀬さん。さっきの差し戻し、どこがだめでした?」

不動産事業本部開発部の課長、真壁航(三十四歳)。
東雲が手がける分譲タワーマンションの開発担当で、週の半分はヘルメットを被って現場に出ている人だ。

「……理由は、経費精算システム上で全部書いてお送りしましたので、そちらをご確認ください」
「読みました。読んだうえで、聞きに来ました」

真壁課長は悪びれもせず、人懐っこい笑みを浮かべる。
今月は、これで四回目だった。

「まず、このコンビニの領収書です。缶コーヒーを十二本買って、会議費で申請されていますよね。会議費で落とすなら、参加者のお名前を全員分書いていただく決まりなんです」
「ああ、それは現場の打ち合わせに行ったときに、職人さんたちに差し入れたコーヒーです。ちょうど十二人いたので、一人一本ずつ」
「では、十二人分のお名前を書いてください」
「十二人、全員分ですか。缶コーヒー一本なのに」
「一本でも、会議費は会議費です。今ここで書いていってください」

メモ用紙とボールペンを差し出すと、真壁課長は「参ったな」と苦笑しながらサラサラとペンを走らせ始めた。

「職人さんの名簿、お手元にありますか? なければ、現場に確認してから改めて――」
「いえ、大丈夫です。……はい、書けました」

差し出された紙を見て、思わず目を丸くした。一分も経っていない。名簿も何も見ずに、十二人分の名前がびっしりと埋まっていた。

「……源田誠、カッコ、ゲンさん。佐藤健太、カッコ、ケンちゃん。……課長、このカッコの中は何ですか」
「現場での呼び名です。名字だけだと、誰のことか分からないので」
「経費の書類にあだ名は要りません。消して出し直してください」
「……ゲンさん、ケンちゃんのほうが、通じるんだけどな」
「それは現場での話です」

思わずピシャリと言い放つ。真壁課長は頭を掻きながら、小さく笑った。

「それから、こちらの手書きの領収書。宛名が『上様』で、但し書きも空白です。これは何を買ったんですか?」
「ああ、それはカイロです。先月、雨の日が続いて現場がとにかく冷えたんですよ。職人さんたちが手をこすり合わせてたので、近くの金物屋さんで箱ごと買ってきました」
「でしたら、お店の方に『カイロ代』と書いてもらってください。宛名も上様ではなく、会社名でお願いします」
「……次からは、そうします」
「最後に、この定食屋さんの領収書。まるやさんで、日替わり定食が六百八十円。……これも会議費で入っていますけど」
「えっ、それも入ってました? すみません、それは俺の昼飯です。財布に領収書をまとめて突っ込んでるので、スマホで写真を撮るときに一緒に写しちゃったみたいで」

先月も、その前の月も、まったく同じことを言っていた。

「お昼ご飯は、ご自分で払ってください。この一枚は外して、出し直してくださいね」
「いつもすみません、七瀬さん」



真壁課長がひらひらと手を振ってフロアを出ていくと、隣の席から「くすくす」と忍び笑いが聞こえてきた。経理部の先輩、田所さんだ。

「真壁課長、また来てたわね」
「来てました。今月だけで四回目ですよ。システムに差し戻しの理由を全部書いてるのに、毎回直接聞きに来るんです」
「ふふ、真面目なのね」
「真面目な人なら、最初から宛名を書いてきます」
「でも遥ちゃん、全然困ってる顔に見えないけど?」
「困ってます! 毎月、本当に困ってるんです」
「はいはい」

田所さんは楽しそうにマグカップに口をつけると、ふと思い出したように言った。

「そういえば、あの人、遥ちゃんの名前を間違えないわね」
「……え?」
「社内メールだと、みんな『七海さん』って書いてくるじゃない」

言われてみれば、そうだ。
入社して五年になるけれど、私の苗字「七瀬」を一発で正しく書いてくれる人はほとんどいない。みんな無意識に「七海」と打ち間違えて送ってくる。
なのに真壁課長は、最初の差し戻しメールの返信からずっと、一度も間違えずに「七瀬さん」と呼んでいた。

◇

それから何か月か経った、十二月のこと。
真壁課長は相変わらず、申請を差し戻されるたびに経理部まで足を運んでいた。

「七瀬さん、すみません。年末の差し入れの精算、今回は何がいけなかったんですか?」
「ホームセンターの領収書ですよね。軍手百組と、タオル三十本。これを全部まとめて会議費で申請されていますけど、会議で軍手は使いません。何に使ったんですか?」
「軍手は職人さんへの年末の差し入れで、タオルは工事でご迷惑をかけているご近所へ挨拶に回った分です」
「でしたら、社外の方への贈り物なので『交際費』です。費目を直してください」
「交際費……そんな費目があるんですね」
「あります。……それと課長、またまるやさんの日替わり定食が入っていました」
「え、またですか? 財布の中で一緒になってたみたいで……」
「これで五回目です。しかも、全部金曜日の分なんですよ」
「……そんなに出してましたか、俺」
「出してました。今回のは、鯖味噌定食ですよね」

真壁課長が、ぽかんと目を丸くした。

「え? なんで分かるんですか。領収書には『日替わり定食』としか書いてないのに」
「……まるやさんのホームページに、曜日ごとのメニューが載っているんです。金曜日は鯖味噌って」
「わざわざ調べたんですか」
「経費の確認のためです」
「経理の人って、昼飯の中身まで確認するんですか」
「……しません」

墓穴を掘った私を見て、真壁課長がふっと吹き出した。

「まるやの鯖味噌、うまいんですよ。味噌が甘めで、ご飯が止まらなくて。七瀬さんも今度行ってみてください。行くなら金曜です。……あ、でも俺の分がなくなると困るので、俺より先には行かないでくださいね」
「……食べてもらいたいのか来てほしくないのか、どっちなんですか」

口を尖らせる私に、課長は声を立てて笑った。



◇

年が明けて、一月の締め日。
画面に届いた不動産事業本部の申請書を開いて、いつもの癖で差し戻しのボタンに伸ばしかけた手が、途中で止まった。

宛名も但し書きも、ひとつも抜けていない。
会議費の参加者も、現場の職人さん十二人分が抜けなく記載されている。
まるやの日替わり定食の領収書も、どこにも紛れ込んでいない。

「……え。これ、本当に真壁課長の申請?」

思わず、申請者の欄をもう一度確かめた。
……間違いない。

マウスを動かし、承認のボタンにカーソルを合わせる。
真壁課長の申請を一回で通すのは、これが初めてだ。ずっとこうしてほしかったはずなのに、クリックする指が何故か重かった。
差し戻しがなければ、真壁課長がここまで来ることもない。
静まり返った経理部の通路に目をやってみたが、そこには誰もいなかった。

「遥ちゃん、さっきから通路のほうばっかり見てるわよ」
「見てません。……通路の向こうの書類棚を見てたんです」
「あの棚、去年の秋から空っぽだけど?」
「……仕事に戻ります」

そして翌月、二月の締め日。
いつもなら締めの何日も前に雑な申請を出してくるはずの真壁課長から、夕方になっても一件も書類が届かなかった。

「真壁課長なら、今日は引き渡し前の検査で現場ですって」
田所さんが、パソコンの画面から目を離さずに言った。
「遥ちゃんがさっきから何度も時計を見てるから、開発部の同期に聞いてみたの。不具合が見つかって、夕方まで戻れそうにないみたいよ」
「そうなんですね……。でも、締めは今日の十七時半です。過ぎたら、来月に回すしかありません」
「課長が立て替えてる額、けっこう大きいんじゃない? 缶コーヒーもカイロも、全部あの人が立て替えてるんでしょ」
時計は十六時五十分を回っていた。
「電話してあげたら?」
「経理から催促する決まりはありません」
「じゃあ、私がかけようか」
「……私がかけます」

受話器を取り、真壁課長の携帯の番号を押す。現場のざわめきとともに、少し息の上がった声が返ってきた。

『はい、真壁です』
「経理部の七瀬です。精算の締め、今日の十七時半です」
『あ……すみません、すっかり忘れてました。今日は検査で不具合が見つかって、夕方まで現場を離れられそうにないんです。今月の分は来月に回してもらえますか』
「来月に回すと、一月の初めに使った分が期限を過ぎてしまいます。そうなると遅延理由書を書いて、本部長の承認印まで必要になりますよ」
『本部長の承認……それは、ちょっと面倒ですね』
「なので、今日中に申請だけは出してください。スマホで領収書を撮れば出せますから。……そのかわり、参加者の名前まで全部入れてくださいね。一つでも抜けていたら差し戻します」
『……厳しいなあ』
「厳しいですよ。締めの時間は延ばしません。あと三十八分です」

十七時二十九分。
締め切り一分前、私の画面にピコンと通知がポップアップした。
添付された領収書の写真の端に、工事用の養生シートと、使い古された軍手の指先が写り込んでいる。
現場の床に領収書を並べて、必死にスマホで撮ったのだと一目で分かった。

「……承認」

クリックした瞬間、デスクの電話が鳴り響いた。

『七瀬さん、間に合いましたか!?』
「十七時二十九分に受け付けました。差し戻しはありません。参加者のお名前も一つも抜けていませんでした」
『よかった……! 一つでも抜けてたら差し戻すって言われたので、検査より緊張しましたよ』
「ふふ、できるなら毎月そうしてください」
『毎月、七瀬さんが電話してくれるなら、頑張ります』
「……っ。け、経理部はそういうことをする部署じゃありません。お疲れさまでした」

慌てて受話器を置き、熱くなった両頬に手のひらを当てた。

◇

翌週。検査を終えた真壁課長が、スーツ姿で経理部へやって来た。

「先週の電話、本当に助かりました。あれがなかったら本部長に頭を下げに行くところでした」
「仕事ですから。……それより課長、先週の申請、参加者が十三人になっていましたね。先月までは十二人でしたけど」
「新しく左官の見習いが入ったんです。まだ十八の子で」

私はずっと気になっていたことを口にした。

「どうして、職人さんの名前を全員覚えてるんですか? うちの社員でもないのに」
「……入社したての頃、現場の会議資料で、毎回名前を間違えられてたんですよ。真壁の『真』を、あいだの『間』に」

課長は少し苦笑いを浮かべた。

「読み方は同じだし、たいしたことじゃないんですけどね。なんとなく、ちゃんと見てもらえてない気がして。だから、一緒に働く人の名前は絶対に間違えないって決めてるんです」
「……だから、私の名前も、最初から間違えなかったんですね」
「七瀬さんも、一緒に働いている人ですから」

まっすぐに見つめられて、すぐには言葉が出てこなかった。
「七海さん」と何度も呼ばれるので、訂正することすらすっかりやめてしまっていた名前を、この人は最初から間違えずに意識して見てくれていた。
真壁課長はスーツの内ポケットに手を入れると、一枚の紙を取り出して私のデスクに置いた。

「それと七瀬さん。もう一件、確認してもらえますか」
「はい。何でしょう」
「経費精算の申請書です。システムからは出せない内容なので、手書きで書いてきました」
「……今どき、紙の申請書ですか?」

紙を手に取り、目を落とす。

件名:会議費
日時:今週の金曜、十八時
場所:まるや
参加者:不動産事業本部開発部 真壁航 / 財務本部経理部 七瀬遥

「…………え?」
「課長。これは経費になりません」
「はい、知ってます。なので、お金は俺が払います」
「……は?」
「金曜の夜、俺とまるやに行きませんか」

広いフロアの空気が止まった気がした。
え、待って。今、誘われた? 私が? 真壁課長に?

「どうですか?」
私は震える手で赤ペンを握りしめ、平然を装って言った。

「……差し戻しです」
「やっぱり、だめですか」

私は申請書の『十八時』の文字に二重線を引き、赤文字で書き直した。

「時間が間違っています」
「時間?」
「まるやの金曜の鯖味噌は、十八時には売り切れます。十七時半にしてください」

真壁課長が一瞬固まり、それから堪えきれずに吹き出した。

「……やっぱり。おかみさんが言ってたの、七瀬さんだったんですね」
「え……何の話ですか」
「昨日の昼、まるやに行ったら言われたんですよ。『先週の金曜、東雲の社員証を下げた女の人が一人で来て、鯖味噌が売り切れだって言ったらすごく残念そうな顔をしてた』って。社員証の名前、おかみさんは『ななみさん』って読んでましたけど」
「――っ!」

顔から火が出るかと思った。

「……経費の確認です! 毎月まるやさんの領収書が混ざってくるので、実在する店か確かめに行っただけです!」
「経理の人って、そこまで確認するんですか?」
「……しません」
「じゃあ、何をしに行ったんですか」
「その質問は、差し戻します!」
「理由を教えてくれないと直せませんよ」
「……っ、課長がおいしいって言ってた鯖味噌を、食べてみたかったからです!」

白状すると、真壁課長はこれ以上ないくらい嬉しそうに目を細めた。

「じゃあ、十七時半に直したら……金曜、来てくれるってことですね」
「直さないと、受け付けません」
「直します。金曜の十七時半に」

満足そうに書類を受け取ろうとする課長の手を、私は赤ペンで軽く制した。

「……課長、もう一か所訂正があります」
「はい?」
「件名の『会議費』は、消します」
ピッと赤線を引き、その上に文字を書き加える。
「……正しい費目は、『交際費』です」

真壁課長の手がピタリと止まった。

「交際費……。交際、ですか」
「……費目の話です!」

そこへ、隣の席から田所さんが身を乗り出してきた。

「ちょっと真壁課長! うちの七瀬を誘うのに経費精算書を使わないでください!」
「すみません、これなら絶対目を通してもらえると思いまして」
「……最初から普通に誘ってください!」
「普通に誘ったら、差し戻されそうだったんで」

田所さんが大笑いし、私は両手で顔を覆った。
真壁課長は悪戯っぽく笑いながら、申請書を大切そうに胸ポケットにしまった。

「金曜は、仕事の話は抜きでお願いしますね」
「……当たり前です。会議費じゃないんですから」

◇

金曜日の十七時。
定時のチャイムが鳴る三十分前に、社内でいちばん厳しいはずの経理担当は、入社以来初めての時間休を取って会社を飛び出していた。

オフィス街の裏通り、赤提灯が揺れる「まるや」の暖簾の前に、コート姿の真壁課長が立っていた。

「七瀬さん、こっちです。鯖味噌、二つ取っておいてもらいました」

カウンターに並んだ、湯気を立てる甘辛い鯖の味噌煮。
箸を取ろうとした真壁課長が、ふと真顔になって私を見た。

「七瀬さん。一つ、申請してもいいですか」
「……今日は仕事の話はなしです」
「仕事じゃないです。……これから、遥さんって呼んでもいいですか」
「……っ」

味噌の香りに紛れて、頬がじわりと熱くなる。

「……承認します」
「ありがとうございます、遥さん」



真壁課長――ううん、航さんは、満面の笑みを浮かべた。それから、少しだけ真面目な顔をして付け加えた。

「じゃあ、遥さん。来週の金曜も、ここで」
「……差し戻しです」
「えっ」
「金曜日は混みますから。……水曜日なら、ノー残業デーで早く上がれます」
「……水曜日にします」

ほっと胸を撫で下ろす彼を見て、私は思わず小さく吹き出した。

「それと、次からは申請書は要りません」
「じゃあ、どうやって誘えばいいですか?」
「普通に、誘ってください」

航さんは少し照れたように首筋を掻くと、まっすぐに私の目を見た。

「じゃあ遥さん。来週の水曜日、俺とデートしてください」

赤くなった頬を隠すように、私は割り箸を割った。

「……承認します」

(了)

これ、短編として登録しといて
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