カナフの明かりのしたで♡歌声が教えてくれたもの
福岡から神奈川へ——引っ越してきたあの日から、ずいぶん時が流れる。
親の仕事の都合で住み慣れた街を離れた愛斗を待つのは、少し寂しいけれど穏やかな日々だ。
父親とは別れ、母親は亡くなり、弟も結婚して自立する。
気がつけば家族と呼べる人たちはそれぞれの道を歩み始め、愛斗は三十六歳の春を迎える。
だけど愛斗には、いつも心の支えがある。
ライブハウスレストラン「カナフ」——高の妻がオーナーを務めるその店で、アルバイトをしながら、愛斗はずっと憧れ続けてきたコーラスグループ「サーカス」の歌声を、毎日のように聴くことができる。
「サーカス」は本当に温かなグループだ。
姉の叶正子、弟の叶高、もう一人の弟の叶央介を中心に、オーディションで出会い恋をして結婚した原淳子、いとこの卯月節子が加わり、まるで本当の家族のように心をつなぎ合わせて結成される。
血のつながりも心のつながりも深いメンバーたちの歌声は、どこか懐かしく心の奥まで温かく染み渡り、だからこそ長く多くの人に愛され続ける。
時は流れ、メンバーの入れ替わりもある。
淳子や節子、央介が第一線を退いた今も、変わることなく美しいハーモニーを届け続けるのは、叶正子と叶高、高の一人娘である叶ありさ、そしてオーディションから新しく加わった吉村勇一の四人だ。
世代を超えて受け継がれるその歌声は、今日も変わらず愛斗の心を優しく支え続ける。
「カナフ」の扉が開くたび、愛斗はいつも少しだけ胸が躍る。
今日は特別な日だ。
元メンバーの原淳子が、叶央介と結成するデュオ「2voice」のライブで、このカナフに来てくれる。
淳子が第一線を退いたあとも、央介と二人で紡ぎ出す歌声は、以前と変わらず温かく、それでいて新しい輝きを放つ。愛斗は開店前から少しそわそわとした気持ちで、入り口の方を何度も眺める。
「お待たせしました」
柔らかな声が響くと、愛斗は思わず駆け出す。
「淳子さん! いらっしゃいませ!」
「あら、愛斗くん。元気そうね」
淳子は相変わらず優しい笑顔で、そっと手を振る。後ろには央介がにっこりと立つ。
「今日は本当に楽しみにしていました。準備、手伝いますね!」
「ありがとう。助かるわ」
愛斗はステージのセッティングや機材の確認、チケットの準備などを手伝いながら、二人のやり取りをそっと聞く。長年連れ添ってきた二人だけの息遣い——言葉にしなくても分かり合える、そんな深い絆がそこにある。
やがて開店時間となり、店内は少しずつお客さんで賑わい始める。そしてステージの照明が柔らかく灯る。
淳子と央介が並んで立つ。
深呼吸をするような静かな一瞬のあと、歌声が響き始める。
澄んだ声と深い声が重なり合う。それは懐かしいだけではなく、心の奥にそっと触れるような、穏やかで力強いハーモニーだ。
愛斗は客席の隅で、ただじっと聴き入る。
淳子の一つ一つの歌詞が、一つ一つの表情が、愛斗の目にはとても輝いて見える。その姿に見とれながら、愛斗はこの場所に立てることの幸せを、心の底から感じる。
愛斗は淳子の歌声に、ただ聴き惚れている。
その澄んだ声が心に染み込み、時間が過ぎるのを忘れるほどだ。だがふと気づくと、入り口にお客さんが姿を見せる。
愛斗は静かに深呼吸し、笑顔で応対に向かう。
その後は忙しい時間が続く。注文を受け、料理を運び、グラスを拭き——カナフの店内は温かな笑い声と話し声で満たされる。愛斗は一人一人のお客さんに丁寧に声をかけながら、動き回る。
やがて時計の針が閉店の時間を指す。
「本日はありがとうございました」
お客さんたちが帰り、店の扉を閉める。静かになった店内で、淳子が片付けを始める。愛斗もそっと駆け寄る。
「手伝いますよ」
淳子は柔らかく笑顔を向ける。
「ありがとう、愛斗くん」
二人でテーブルを拭き、食器を片付け、椅子を戻していく。さっきまでの歌声がまだどこかに残っているような、そんな穏やかな夜だ。
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