月鬼
──障子に映る月が、今夜だけ赤かった。
「うわぁぁあああ、ごふっ…」
そこには、公家の悲惨な最後の姿が横たわっていた…。
「違う……私は……」
◆◆◆
翁は幼い頃から、村で囁かれる月の言い伝えを信じていた。
──月が赤く輝く時、世界に鬼が出現する。
それは誰かが酒の席で作った噂話だと笑われる類のものだった。あるいは、子供が言うことを聞かない時にする作り話だと思われていた。
翁の家には、古い巻物が残っていた。
ぼろぼろで、ところどころ墨が滲み、まるで読ませたくない何かが、わざと崩したような文字だった。そこには確かに、赤い月と鬼の影が描かれていた。
◆◆◆
赤い満月が夜を照らしていたある日、翁は、竹林で光っている竹をみつけた。
「眩いばかりに光っている。あそこには何があるんだろう」
翁はその竹に近づいた。
「なんだ、この光は、なぜだろう、私の心を疼かせる。く、苦しい…」
翁はこらえきれず、斧を振り下ろした。その瞬間、眩い光が溢れ、周囲はまるで真昼間のように明るくなる。光に目を眩まされていた翁。光が収まり起き上がると、竹の中には赤子がいた。
「なぜ、赤子が」
色白で、静かで、泣き声が控えめだったその赤子は、何物をも寄せ付けない光を放っているようだった。
翁は震える手で竹の断面を見た。思いっきり割ったはずなのに、竹はどこか切られた痕が薄い。まるで最初から開くべき場所が用意されていたようだった。
「私は光っている竹そのものを切ったはずなのに……赤子は無事だった。何故切れぬのか」
その時、翁は本能的に理解した。この子は、竹よりも硬い“何かに守られている”と。
翁はその赤子を家に連れ帰った。子供が出来なかった妻は喜び、妻の声を聴くとその赤子は笑った。妻には「捨てられた子を拾ってきた」とだけ伝えていた。翁だけが、胸の奥にその秘密を抱えたまま、赤子を育てはじめた。
◆◆◆
名は、かぐや。
彼女は美しく育っていった。所謂美しさというより、目が思わず追いかけてしまう“月の引力”に近かった。彼女が笑えば心がほどけ、視線を向けられれば、誰もが釘付けになり、目を逸らすことが出来なくなる。
程なくして、公家たちがその噂を聞きつけ、次々に求婚してきた。かぐやの返事はいつも同じだった。
「わたしは、あなたと視ている世界が違うのです」
翁は、あの日の事を思い出していた。あの日の月は赤かった。
ある夜、月がやけに大きかった。大満月だった。村人は「月が近い」とだけ言い、酒を飲み、笑い、妙に口数が増えた。怒りっぽい者が増え、喧嘩が起き、泣き声が遠くで響いていた。
その夜、かぐやは縁側に立った。月光が彼女を白く照らし出す。翁は、そこで見てしまった。かぐやの頭のあたりに──角の影があるのを。確かに、二本。細く、鋭い影が、月の光に浮かび上がっている。
「……影だ。影に過ぎない」
そう言い聞かせても、翁の喉の奥が乾いていく。その影が、あまりに“鬼のそれのような形”をしていたからだ。かぐや自身は気付かない。彼女はただ、月を眺め、少し寂しげに微笑んでいた。
「お父様。月は、綺麗ですね」
その言葉に、翁の背筋が凍った。
「綺麗」──そう語るかぐやの目は、獣が獲物を見るそれにも似ていた。
◆◆◆
ある日、事件が起きた。
かぐやに狂信的な愛を捧げる公家が、屋敷に押し入ったのだ。拒まれても引かず、むしろ「姫は私のものだ」と叫び、手を伸ばした。かぐやは逃げなかった。一歩も下がらなかった。彼女の瞳が、瞬きもしないまま公家を見据える。瞳に赤い血の色の光が宿り、行灯に照らされたその影には、明らかに鬼の角が映し出されていた。その形相を見た公家の表情が引きつり、彼に得も言われぬ恐怖感が駆け巡った。本能的に彼が逃げようとしたその瞬間──
「うわぁぁあああ、ごふっ…」
男の喉が潰れた。直接触れたわけでもない。刃物もない。ただ、空気が握り潰されたように見えた。男は倒れ、口から泡を吹いた。かぐやは自分の手を見つめた。震えている。そして──泣こうとしたのか、笑おうとしたのか分からない表情になった。
翁は、確かに“鬼”を見た。人の顔ではない。人の情ではない。獲物を壊した後の、静かな満足の表情。かぐやの顔にいつもの空気が感じられた瞬間、彼女は口を開いた。
「違う……私は……」
かぐやは崩れ落ち、息を荒げた。その頭の中で、何かが混濁するのが翁にも分かった。言葉にならない記憶。走馬灯のように流れ込む鬼の記録。
翁は抱きしめた。思わず抱きしめてしまった。
「大丈夫だ。お前は……お前は、かぐやだ」
本当は、その言葉が自分に向けた祈りだと分かっていた。
巻物に書かれていたもう一つの文字が、翁の脳裏に浮かんだ。
──次に来るのは、鬼月。
月は地上を乗っ取りに来る。
鬼月。
巻物にはそう記されていた。大大満月。月が赤く輝き、世界の境目が薄くなる夜。
かぐやの中の鬼が目を覚ましたのは、偶然ではなかった。“呼ばれている”のだ。月に。
◆◆◆
かぐやに、翁の巻物が目に入った。
彼女は思い出した。
「かぐや、この巻物は絶対読んではいけないよ」
「なぜですか?お父様」
「かぐやが嫌いな怖い話が書いてあるのだよ。約束できるかな?」
「はい。お父様。約束いたします」
吸い寄せられるようにして、彼女は読んでしまった。そこに書かれている、鬼の言葉を、辿ってしまった。そして、言った。
「……わたし、知っています。月の裏側の匂いを」
「かぐや、読んでしまったのか」
涙をこぼしながら、かぐやは微笑んだ。まるで、長い夢から覚めたように。
「わたし、帰らなきゃいけないわ。鬼の一族は……地上を吸い上げにきます。みんなの心を荒らして、争わせて、空っぽにして……そして持ち帰るのです」
翁は首を振った。違うと言いたかった。帰るなと言いたかった。
だが、かぐやは続けた。
「満月で人が荒れるのは、昔から“月のせい”って言うでしょう?本当は、鬼の魔力なのです。月が近いほど、それは強くなります」
かぐやは全てを悟った。自分に課せられた使命を。ただ一つ違っていたのは、“人の心を宿していた”ということだった。
彼女は翁の手を握った。その手は温かった。人の温度だった。
「お父様。わたし、鬼の一族である自覚なんてありませんでした。でも……今は分かります。わたしに課せられた使命も、野望も、全部。……だからこそ、わたしは、わたしの意思で決めたいのです」
「かぐや…お前」
「わたしは、お父様の娘です」
翁の胸の中の冷たい塊が、砕ける音がした。
「…行くのか」
「行きます。月に帰って、壊します。鬼一族の野望を。お父様がいらっしゃるこの地上を守るために」
◆◆◆
月がまた近づいていた。赤い気配を帯びた、異様に大きな満月。鬼月は間近だ。
その夜、かぐやは白い衣をまとい、竹林へ向かった。竹は風もないのにざわめき、空気は薄い水のように震えた。月光が道を作り、彼女の足元を照らし出す。
翁は追いかけようとした。
「お父様、こないで」
「けれど、かぐや、お前を一人で行かせるわけには」
「わたしは一人で大丈夫です。お父様にご迷惑をかけてしまうので」
「迷惑なんて…お前は私達の大事な娘なのだよ」
「わかっています。お父様…お母様には一言だけ伝えてください“お母様、心配なさらないで。かぐやは、少し旅に出てきます”と」
かぐやは、振り返った。
「……お父様、ありがとう」
その頭に、角の影はもうなかった。
その代わりに、月の光そのものが、彼女の背中に羽のように差していた。
◆◆◆
かぐやは月へ帰っていった。
お迎えではない。鬼の言う「吸い上げ」でもない。
鬼一族への叛逆として。
それから村は、奇妙なほど静かになった。満月の夜、昔ほど人々は荒れなくなった。喧嘩は減り、酒の席も穏やかになった。
翁だけが知っている。
鬼が地上に来ないのは、偶然ではない。
かぐやが、月の門を塞いでいるからだ。
そして満月の夜、翁はいつも空を見上げる。
「今宵の月も、綺麗だ」
──その美しさは、月の裏側の世界で、ひとりの姫が、鬼を殺しているからだった。
月鬼。

