ブルーヘヴンの彼方に
「あの……大丈夫?」
私はゆっくり顔を上げた。
まず見えたのは、黒いレザーシューズ。
細身の黒いパンツ。
モスグリーンのマフラー。
黒いロングコート。
そして――ブロンドの髪。
年齢は、私とそう変わらないように見えた。
白い肌。
少し長めの前髪。
その隙間から覗いた瞳に、息を呑む。
鮮やかな、翡翠色。
「……」
目が離せなかった。
彼は、私と視線の高さが合うところまで腰を落とした。
「立てる?」
男性にしては少し高い、ハスキーな声。
それなのに、不思議なくらい澄んでいる。
どこか懐かしいような。
初めて聞いたはずなのに、胸の奥に残る声だった。
「す、すみません。私、その……浮かれてて……」
思わず正直に答えると、彼が吹き出した。
「浮かれてたって……自分で言っちゃうんだ」
「……」
「あはは。面白い子だね」
そんなに笑わなくてもいいのに。
恥ずかしくなって俯くと、彼の視線が私の腕の中へ落ちた。
「その薔薇、綺麗だね」
「あ……」
「青い薔薇なんて初めて見た」
「これは着色した薔薇なんです。白い花に、色をつけた水を吸わせてあって……」
「へえ」
彼は少し嬉しそうに花を見つめる。
「花、好きなの?」
「はい。昔から」
「もしかして、その道を目指してる?」
「……はい。まだ勉強中ですけど」
すると彼は、何の迷いもなく笑った。
「素敵な夢だね」
そして。
「叶うといいね」
差し出された手。
私は、その手を取った。
細くて長い指。
なのに、思っていたより大きくて。
温かい。
「ありがとうございます……」
立ち上がったあとも、しばらく鼓動がおさまらなかった。
(何、これ……)
冬なのに、顔が熱い。
呼吸まで少し苦しい。
全身に心臓があるみたいに、どくどくと脈打っている。
やがて彼の手が離れた。
「それじゃ。今度は前、ちゃんと見てね」
「は、はい……」
彼は軽く片手を上げ、そのまま歩き去っていった。
私は、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。
☆
「……あの人」
数か月前の出来事を、今になって鮮明に思い出す。
名前も知らない。
どこに住んでいるのかも知らない。
ほんの数分話しただけ。
なのに。
「もう一度……会いたいな」
口にした瞬間、自分でも驚いた。
これが恋なのかどうかなんて、まだわからない。
ただ。
もし、奇跡というものがあるのなら。
もう一度だけ。
(あの人に、会えますように)
窓を開ける。
ひんやりとした夜風が、熱を持った頬を撫でていった。