君の遺影が、世界一美しく撮れるまで
プロローグ
世界は、シャッターを切ると静止する。
指先に伝わるわずかな振動。ミラーが跳ね上がる乾いた音。
そのコンマ数秒の間だけ、流れ続ける時間は僕たちの手を離れ、永遠という名の箱に閉じ込められる。
だから僕は、カメラが好きだった。
だからこそ、カメラが嫌いになった。
記録された静止画は、それが過去になった瞬間に「もうそこにはいないもの」の証明をしてしまうからだ。
「……ピントが合わない」
放課後の屋上。五月の風はまだ少し冷たくて、僕の指先をこわばらせる。
使い古された一眼レフのファインダーを覗き込んでも、ぼやけた視界の先にある少女の輪郭は、一向に鮮明にはならなかった。
「ねえ、結人くん。そんなに難しい顔してると、せっかく目の前に美少女がいるのに勿体ないよ?」
ファインダーの向こう側で、被写体の秋月凛がくすくすと笑った。
緩くウェーブした長い髪が、逆光を受けて黄金色に輝いている。
校内でも『高嶺の花』と名高い彼女が、なぜか写真部の幽霊部員である僕に声をかけてきたのは、一週間前のことだった。
彼女はフェンスに背を預け、スカートをひるがえしながら僕を見た。
その瞳は、吸い込まれそうなほど澄んでいる。
けれど、どこか遠く、この学校の喧騒さえ届かない場所にピントを合わせているような、そんな危うさがあった。
「やり直しだ。風で髪が乱れすぎてる」
「厳しいなぁ。プロのカメラマンさんみたい」
「プロじゃない。ただの趣味だ。……それも、もうやめるつもりだったやつだ」
僕がカメラを構える手を下ろすと、凛は少しだけ寂しそうに微笑んだ。
そして、呼吸を整えるように一つ深く息を吐き、とんでもないことを口にした。
「ねえ、結人くん。改めてお願いがあるんだけど」
「なに? 前に言ってたこと?」
「うん。一生に一度のお願い」
彼女は一歩、僕の方へ踏み出した。校舎を抜ける風が、彼女の細い肩を震わせる。
「私の、遺影を撮ってほしいの」
――心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
冗談だと思って、彼女の顔を見る。
けれど、そこに笑みはなかった。ただ、春の夕暮れのような、穏やかで切ない決意だけが張り付いていた。
「……不謹慎だ。そんな冗談、笑えない」
「冗談じゃないよ。私ね、あと一年くらいなんだって。この心臓、ちょっと欠陥品みたいでさー」
彼女は自分の左胸にそっと手を当てた。
制服のブラウス越しでもわかるほど、彼女の体は華奢だった。
綺麗なはずなのに、今の僕にはとても病弱な体に見えた。
「お医者さんには、次の桜は見られないかもね、なんて言われちゃった。ドラマみたいでしょ? でもね、私、死ぬのはいいんだけど、可愛くない姿で記憶されるのだけは耐えられないの」
彼女はまるで、軽いジョークを友達に話すような軽やかさで自分の死を語った。
その軽さが、逆に僕の喉を締め付ける。声が出ない。
「親戚のおじさんのお葬式でさ、すごくボケた古い写真が飾られてるのを見たの。あんなの、おじさんじゃないって思った。私は、世界で一番綺麗な私をみんなに残したい。だから……君に撮ってほしい。君が撮る写真は、嘘をつかないから」
僕は何も言えなかった。
手の中にあるカメラが、急にひどく重い鉄の塊に感じられた。
記録することは、失うことの準備だ。彼女の「最高の一枚」を撮るということは、彼女がこの世から消える準備を手伝うということだ。
「……できないよ。ほんとは僕は、人を撮るのが嫌いなんだ」
「どうして?」
「変わっちゃうからだよ。写真は一瞬を止めるけど、写っている人間は次の瞬間にはもう、その写真の中の人じゃない。残酷すぎるんだよ」
僕の拒絶に、彼女は少しだけ目を細めた。そして、僕の手からカメラを奪うようにして受け取ると、レンズを自分ではなく、僕の方へと向けた。
「じゃあ、賭けをしよう」
「……賭け?」
「この一年間で、結人くんが『これなら彼女を送り出せる』って思える最高の一枚が撮れたら、私の勝ち。もし撮れなかったら、結人くんの負け」
「勝ち負けの問題じゃないだろ」
「もし私が勝ったら……結人くん、これからもカメラを続けてね。私の死を『残酷な終わり』じゃなくて、『美しい記録』にしてくれたお礼に」
ファインダー越しではない彼女の瞳が、真っ直ぐに僕を射抜く。
逃げ場なんて、どこにもなかった。
「……わかったよ。撮るよ。でも、簡単には合格を出さないからな」
「うん。よろしくね、私のカメラマンさん」
彼女は、今日一番の笑顔を見せた。
夕闇が迫る屋上で、その笑顔だけが異常に鮮やかで。
僕は思わず、彼女の手からカメラを取り戻し、無意識にシャッターを切っていた。
カシャ、という乾いた音が響く。
液晶に映し出されたのは、オレンジ色の光に包まれた、泣き出しそうなほど綺麗な少女。
けれど、それはまだ「遺影」には遠い。
僕たちの、カウントダウンが、静かに始まった。
世界で一番美しく、そして世界で一番撮りたくない一枚を求める旅。
それが、僕と彼女の、期限付きの恋のすべてだった。
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