波千鳥が鳴く頃に
 風鈴の音を聞くと思い出す。
 五年前の夏のこと。

「千鳥」

 朝顔の見える縁側で、それまで一緒に笑い転げていた光(コウ)は、不意に私と唇を重ねた。
 鈴の音が涼しげに鳴り、私の心臓も負けじと五月蝿くなる。

「ごめん」
「なんで謝るの?」
「……魔が差した」

 光は俯いたまま、静かに立ち上がる。
 伸ばそうとした私の手を振り払い、踵を返して離れていく。

「光!」

 どんなに叫んでも振り返ることはせず、この時を境に光は私の目の前から姿を消した。

 *   *   *

 ちりんちりんと、風によって鈴が鳴る。
 テーブルを拭いていた手を止め、私は店の中に入ってきたおばあちゃんたちに笑顔を作った。

「いらっしゃいませ」
「千鳥ちゃんは今日も別嬪さんね」
「あはは。そんなお世辞じゃ何もサービスできませんよ!」

 高校を卒業してから、私はここで働いている。
 何もない山奥のお寺の側で、祖父が営む軽食とお土産を扱う小さなお店。ゆっくりと時が流れる場所は、意外なことに常連さんが多いのだ。

「アイスコーヒーとかき氷が人数分。以上でよろしいですか?」
「それでお願い。あと、くっちゃべってるから、ゆっくり作ってくれていいわよ~」
「ありがとうございます。おじいちゃんたら、今どき手動で削るから……」
「それがいいのよ。ここにハイテクなものがあるほうがびっくりしちゃう!」

 店内を見回しても、どこか昭和のノスタルジーが残っている。私が子どもの頃からほとんど変わらない。

「じゃあ、ちょっと待っていてくださいね」

 奥の厨房に入り、おじいちゃんに声をかける。

「あのばあさんたち、また長居する気か」
「そんな言い方しちゃ駄目だよ。おじいちゃんのコーヒーの貴重なファンなんだから」

 競馬新聞を読んでいたおじいちゃんは、悪態をつきながら腰を上げた。足取りはゆっくりだけど、慣れた手つきで豆を挽き始める。

「……お前も物好きだなぁ。こんな場所でばあさんたちを相手にするなんてよ」
「そうかな? ここが好きだからだよ」
「今くらいの時期になったら遊びに来てたもんな。他の孫たちはちっとも顔を出さなくなったが。ヒロキや光は何してるもんだか分かんねぇな」

 冷凍庫の氷に伸ばしていた指が止まる。
 久しぶりに聞いた名前は、胸の奥をひんやりと撫でる。

「……ヒロちゃんは、近いうちに結婚するかもって。お母さんがそんなことを話していたよ」
「俺には報告なしか?」
「ちゃんと決まったらってことでしょう。お母さんは伯母ちゃんから聞いたみたいだし」
「昔から俺を除け者にするんだ、あいつら」

 娘たちに構われないと、おじいちゃんは拗ねてしまう。

「お母さんたち、もうアラフィフだよ?」
「いくつになっても娘は可愛いもんなんだよ。息子はそうでもないけどな」
「……差別だ」
「そういうもんだ」

 言い切っちゃった。
 伯父さんが可哀想……。

「あのヒロキが結婚か。時が経つのは早いな」

 しみじみとおじいちゃんは呟く。
 私もそう思う。

 ……もうあれから五年も経ってしまった。
 風鈴の音色だけは全く変わらなかった。

 *   *   *

 小学生の頃、夏休みになると私は祖父母に預けられていた。普段は都心部で生活している子どもにとって、川遊びや虫取りは非日常のようでワクワクしていた。

「本当にここって何もねーじゃん。持ってきたゲームも飽きちゃったし」

 二歳上のヒロちゃんはそうでもないようで、数日も経てば不満を口にしていた。

 縁側に座って、おばあちゃんが切ってくれた西瓜を少しずつ食べる。近所の人がくれたそうでとても甘い。

「千鳥の口はちっせぇな。まだ食ってんのかよ」
「ゆっくり味わいたいの。ヒロちゃんも光も食べ終わるのが早すぎる」

 宿題のドリルをしていた光は顔を上げたかと思えば、急に噴き出した。

「千鳥、顔に種がついてる」
「えっ」
「なんで気づかないんだよ」

 笑いながらも、光は手を伸ばして取ってくれた。
 外遊びばかりしている光は日に焼けていて、白い歯を見せて笑う。

「また水遊びに行くか? じいちゃんに釣り竿借りて、魚釣りでもいいけど」
「釣りしたい!」

 盛り上がる私たちに、ヒロちゃんはため息をつく。

「外なんて暑いし、虫がいるし、パス」
「ヒロちゃんは誘ってないよ?」

 嫌がるのは分かっている。

「……」

 自分で断ったくせに、仲間外れにされた子どもみたいな顔をする。ヒロちゃんは昔から、そういうところがちょっと面倒くさい。

「光! 千鳥に怪我とかさせるなよ。こいつの良いところは見た目だけなんだから」
「酷い!」
「ガキ共はさっさと遊びに行けよ。せいせいすらぁ!」

 完全に不貞腐れている。
 この人、中一になったんだよね……?
 中学生って案外まだ子どもなんだな。

 ヒロちゃんに追い出された私たちは、釣り竿を持って近くの川に向かった。山の中に緩やかに流れる穴場
「魚いるのかな?」
「小さいのはいるはずだけど」

 二人で川の中を覗き込み、気長に過ごすことにした。
 都心部と違って、風が吹けば涼しい。

「光はいつまでこっちにいるの?」
「盆が終わったら、親と帰る予定」
「そっか。私はギリギリまでいなきゃいけないみたい」

 両親は忙しいから、夏休みの間はずっとここに預けられる。ヒロちゃんもそのうち帰るだろうし、毎年のことでも寂しくなるな……。

「また来年遊ぼうぜ」
「……うん」
「再来年……中学になったら、あんまり来なくなるかも」
「そうなの?」
「みんなそういうもんだろ。ヒロ兄(にい)は何でか来たけど」

 たしかに、昔ははとこのお姉ちゃんたちも来ていたけど、パタリと来なくなった。

「ヒロちゃんは暇なんだよ」
「千鳥……意外とヒロ兄には辛辣だよな」
「そんなことないよ」
「口が悪いのはじいちゃん似なのか……?」

 それにしても全然反応がない。
 水面は穏やかすぎる。

「釣りはやめて水遊びにしようか」
「もうちょっと我慢しろよ」
「光だって飽きてきたくせに」
「……うん」

 浅瀬に足を浸けた私たちは、お互いに水を掛け合ってびしょ濡れになった。
 おばあちゃんに呆れられたけど、光といると、やりたいように遊べる。そんなところが楽しかった。

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