夢のまた夢
第一部
慶長3年(1598年)8月伏見城では豊臣秀吉が病に倒れ、病養中であった。回復の兆しがなく、死を予期した太閤は、自分亡き後の体制を整えるのに奔走し、その傍らには常に石田三成を置いていた。太閤と三成は豊臣家の前途を連日談合し、今後徳川家康が豊臣の天下を危うくするという認識で一致した。これまで通り徳川を懐柔するか、戦によって全てを決するか、方策はこの二者択一であったが、太閤は戦を避け、徳川を懐柔する方針を三成に説き伏せていた。太閤の後継者である秀頼はまだ幼く、秀頼が直接、天下を治めることができないために、実力者である徳川になびく大名が現れ、天下が二分されるだろうと考えたからだった。秀頼が成人するまでは徳川と争うことはならぬと太閤は三成に遺言した。秀頼が成人する頃には家康とてこの世にいないと太閤は考えたからだった。石田三成は太閤の寵愛を一身に受け、成り上がった男だった。才知に長け、美男子であり、太閤の目に止まり今の地位を築き上げた。太閤によって取り立てられた者の中でも三成は格別に器量がよかった。太閤は実は男色家であり、今で言うところのゲイであった。三成を見初めた太閤は強引に小姓として取り立て、夜の相手をさせた。それからの三成の出世は早く、太閤の側近中の側近となり、今や豊臣家を動かす存在になっていた。病床の太閤が言う、秀頼の出自は決して知られてはならぬ、知られては豊臣家の命取りとなると。三成が言う、それを知る者はごく僅か、大事ありませぬと。秀頼の出自は豊臣家最大の秘め事であった。





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