看護学校へ行こう
事例研究
 三年生ともなると、一人で「看護研究」をしなければならない。いわゆる大学でいうところの卒業論文にあたる。一年生の時行ったグループ研究のような、稚拙なものではなく、一人の患者さんに焦点を当てた「事例研究」だ。私には思い入れのある患者さんがいた。その人は脳外科に脳梗塞で入院してきた、50代の男性Bさんである。トラックの運転手をしていて、ある日仕事中、荷物の積み卸しをしているとき、ばったりと倒れた。それで病院に搬送され、脳梗塞の診断を受け、急性期の治療をし、状態が安定してきた頃に、私が受け持った。

 一家の大黒柱が急に脳梗塞で倒れ、奥さんは狼狽していた。毎日朝から病院につきっきりだった。Bさんは慢性期となり、リハビリが日に日に増えていくのだが、右半身麻痺で、知的レベルも判断力も格段に落ちていて、リハビリはあまりスムーズにすすまなかった。私はなんとかBさんの思考が少しでもクリアになることと、奥さんを喜ばせてあげることを実習中にしようと考えた。脳外科実習は4週間だ。最初の週は患者さん、奥さんとコミュニケーションをとり、お互いを知り合うことに時間をかけた。

 2週目、自分で水が飲めること、スプーンを使って食事ができることを看護目標にあげ、Bさんにつきっきりで練習した。他に経験したい処置などには一切つかなかった。4週間の実習と言っても、週3回である。関われる時間は少ない。少ない時間の間に、なんとか目に見える成果を出したかった。自分としては、いつになく熱心だったと思う。だがBさんは集中力が低下している所為か、すぐにスプーンをおいてしまう。だが急性期から慢性期への変換期に状態が安定していたこともあり、リハビリの成果が日に日に目に見え、手指の運動を積極的にしていたせいか、言葉がどんどん明瞭になっていった。それまではほとんど話をしなかったのだが、私と将棋をしているときに、

「ぼったくられちまった。」

と言葉を発した。駒をとられたという意味である。物事に無関心で、こちらから聞かない限り、言葉を発しないBさんだったので、私は手応えを感じた。
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