Bitter
浴室の扉を開くと、すごい形相で脱衣所に入ってきた高瀬とはち合わせた。

私の手首をつかみ、傷がないのを確認すると、すごい力で抱き締められた。

身動きがとれないどころか、手足の感覚がなくなりそうなほど。


『いかせるかよ‥』

耳元でつぶやく。

きっと、血だらけの教室を思い出しているのだろう。

息を噛み殺しているかのように、苦しそうに呼吸をしている。

暴れる鼓動が伝わってくる。


『‥じゃぁ、いつになったらいいの?』


私は静かに聞いて、うっすら笑った。


このまま彼の前から消えたら‥『私本当に最後まで、文子さん二号だね‥。』


高瀬は言葉を失い、力をゆるめた。


あの日、彼を救いたいと、切に願ったのに。
私はその傷を鋭利な刃物でえぐっているのだ。

さっきの指の血が固まってきたのを、他の指で触る。

背中で隠しながら、かさぶた代わりのその固まりを剥がし、そこに爪を食い込ませる。

顔が歪み、声がもれそうになる。

彼の泣きそうな目をみていたら、こうせずにはいられなかった。



高瀬は静かに立ち上がり、私に「来い」というように顎を動かした。

ついていくと、彼は引き出しから厚みのある原稿用紙の束を出し、私に渡した。

昔のものなのか、少し端が変色して、独特の香を醸し出している。

『‥何‥‥?』


タイトルを見た。



『「ビター」 沖野文子』

————‥‥‥これ‥


『あいつの小説。あいつの部屋にあったんだよ。』


この原稿に、何粒の彼の涙が染み渡っているのだろう。

この字を、何度指でなぞったことだろう。


『‥‥たかせ‥‥‥』


手に力をこめずにいられなかった。


頭の中で高瀬が、彼女の名を呼び声を枯らすから。


『お前なら読んでもいいと、あいつも言ってくれると思う。』


『‥なんで、今‥私‥‥?』


『今、渡せって、言われた気がした。読めばわかる。』




それは、精神病患者同士のラブストーリーだった。


< 219 / 245 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop