馬上の姫君
 大軍を率いて入洛した長慶は、まず霊

山城を攻略して城内に火を放ち、城を完

全に破壊してから、船岡山の将軍陣営を

攻撃した。

 晴元の蜂起は惨憺たる結果に終わった。

圧倒的多数の長慶勢に押しまくられた将

軍義藤は杉坂に退却、丹波を経由して近

江竜華(大津市)に逃れた。そこで晴元

と合流して暫くの間、坂本に滞在してい

たが、三好軍の脅威に耐えかねて八月三

十日、再び朽木谷へ退いていった。義賢

は加担した高屋城主畠山高政や安見直政、

遊佐信教らを近江に庇護するため一緒に

観音寺城に戻った。こうして将軍義藤の

在京は、わずか二年で中断した。

 長慶は京都を制圧すると幕府奉公衆、

奉行人らの責任を問い、将軍義藤に従う

ものの知行をすべて没収した。幕府直轄

領の山城も没収、段米や棟別銭の賦課、

及びその徴収権、それに一国五十余郷の

夫役挑発権なども長慶の手に握られ、

事務は代官松永久秀が執り行った。

 将軍家が朽木谷に没落してしまうと、

禁裏料までが次々に押妨され、幕府に

依拠しない長慶政権が成立した。

 晴元はふたたび心月一清にもどり、

朽木と観音寺城を往復し態勢の建て直

しに努めたが、京都では長慶政権が最

盛期に入ったため、朽木谷の将軍家と

ともに問題にされることもなかった。

対立勢力の衰退により、街には平和が

訪れる。


< 2 / 106 >

この作品をシェア

pagetop