馬上の姫君
第四章 産土の地へ
 六月三日、光秀は上立売大宮東入の阿弥陀寺に行き、面誉上人に砂金二袋を寄進し、本能寺や二条城で戦死した敵味方の霊を慰める法要を行う。
 その日、伝奏中納言難波宗豊は、四方征討の勅許を光秀に下されるようにと、正親町天皇に奏上した。
六月四日、権大納言難波宗豊、権大納言久我吉道、少将土御門道重らが勅使として光秀を訪れ、征夷大将軍宣下の勅諚を伝達する。
 安土城に入った光秀のもとに勅使吉田兼見が下向して正親町天皇より下賜された緞子一巻を届けた。
しかし、その後の歴史は、秀吉が塗り替えた。
六月十二日、中国戦線から急遽軍を返した秀吉は摂津富田に野陣を張り、全軍の部署を決定する。
その日、光秀は山崎に置いた兵を円明寺川の線まで後退させた。山崎の隘路部で秀吉の進入を食い止めるより、引き込んでから敵中枢部に集中攻撃をかけた方が良いと考えたからである。 
 両軍対峙のまま一夜が明けた。正午過ぎ、神戸信孝と丹羽長秀が富田へ到着する。
 戦端が開かれたのは午後四時であった。光秀軍の右翼先鋒並河易家・松田政近隊と秀吉軍の左翼(天王山山の手側)先鋒高山重友・中川清秀隊が激突、山崎へ馬を進めた秀吉が突撃命令を下す。
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