馬上の姫君
第七章 国司家の粛清
 天正四年正月三日、御台屋敷に国永が立ち寄った。国永はお松御前の生んだ具房が、織田方にあって信雄の養父として待遇されている関係で、何かにつけて御台屋敷を訪れ、お松御前を元気づけていた。新年を寿いだあとで、国永が一首詠じる。

ことのほか 波のしハぶき よせてけり 七十(ななそじ)にわが ミつのはま風

 老齢になって押し寄せる激変の波は、それはもう大変なものです。私もとうとう七十になってしまいました。お松御前の前で、国永はおどけて見せた。
 この日、与志摩は具教のもとへ年賀に赴くことにしていた。国永に、三瀬谷に行くことを勧めると、多気までは同道すると言うので午後から出かけることにした。
 棄却されて人影のない多気の城跡を通る。モノクロームの中に遙か志摩青峰山が吹雪に霞んで見えた。

人めかれ 花も夢とし ちりゆかば さびしかるべき 春のふるさと

故郷(ふるさと)は 雪とこそなれ ちるはなを さそふ青根が 峯のあらしに

 国永が多気まで同道したのは、故郷である新年の多気の風物に触れて見たかったためである。この頃、国永は、榊原に自分を庇護してくれている庸安院殿(木造具康)の恩義に応えて、具教方の機密情報を漏らしていた。このことが庸安院殿の継子になった晴具の三男で、具教と敵対する弟木造具政に流れて、鳥屋尾石見守が武田信玄と交わした密約などの情報なども織田に漏洩した。

 多気から一人馬で駆け、夕刻、三瀬谷に着いた与志摩が具教に年賀の挨拶をしていると、早馬があって、具教の名代として岐阜の城へ年賀に訪れた鳥屋尾石見守満榮が、城内で信長に刺殺されたと急を知らせた。

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