掌編集
蚊取りの香
 蚊にとって生と死を分ける季節がやってきた。

 人間は、何かと蚊のことを眼の敵にする。何をどうしたということも無い。ただ、蚊にとって生きていく為に必要な糧を得ているだけだ。ただそれだけなのに、人間達は蚊を毛嫌いする。何故か。それは、蚊に血を吸われると蚊が分泌する、吸血を容易にさせる様々な生理活性物質を含む分泌液が人間の抗体と反応して痒みを伴うからであろう。痒みは人間にとって不快な生理現象である。その不快な生理現象を起させた張本虫に対して敵愾心を抱くのも当然といえば当然であろう。いわばこれは、蚊と人間との戦争なのだ。

 戦いに敗れた蚊は死ぬか、例え生き残れたとしても半死半生だったりする。蚊の百倍は身体が大きい人間に勝てる見込みなど、端から微々足るものなのである。戦争とはいえ、蚊にとってのそれはただの虐殺でしかない。しかも、当の人間は呵責の念など微塵も感じていないのだ。

 蚊は大体、十四日で成虫になる。

 つまり、蚊にとって一分、いや一秒が生きるための戦いなのだ。まず、生まれるために水溜りが必要だ。その水溜りに卵を産み付ける。雨が降った後などは無性に卵を産み付けたくなるのだ。何が何でも産み付けなければならぬと、強迫観念に駆られる。それを本能だと人は言う。だが、蚊にしてみれば甘い情事の果ての行為なのだ。その果てに、卵を産み付ける。蚊にとってのこれは産みの苦しみであり、愛情の始まりであり、種を保存するための生理現象である。母親というものはこうして一つの役目を終えていくのだ。

 やがて子供達は、嫌が応にも巣立っていく。蚊は風に弱い。少し風が吹いただけでも目を回す。だから、空気の動きに敏感で、比較的風が穏やかな七月、八月に巣立つのだ。

 巣立っていった子供達は、本能のままに生きていく。やがて糧を得るためには人間の傍に群がるほうが効率がよい事を知る。この世界には自然界の生き物よりも、人間の方が多く分布しているからだ。蚊は自然界の生き物の体液を吸って生きている。だが近年、獲物の方が少数になってきているので、より多く分布している人間を獲物として狙ったほうが効率が良いのだ。そして、彼らは命を懸けて糧を得る事を知る。その難しさも。人間だとて、自己防衛のためには手段を選んではいられない。日本脳炎やナイル熱などにかかっては生死を分けるからだ。
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