恋する旅のその先に

 それでも邪険に扱えないのは、彼女が嫌いになって別れたわけではなかったから。

 もちろん、今でもあの頃と変わらない気持ちかといえばそういうわけでもなく。

 ただそこに置いてきた記憶に、今の俺の日常にはない“やさしい痛み”がないからだ。

 だからこの瞬間に重苦しい沈黙は不必要。

 声のトーンを今度はこちらが半音上げて、

「じゃぁ……俺のところに、くる?」

 沈鬱な空気を払うためにいったその言葉は半分、本気。

『そんなこと、出来るわけないよ……』

「そんなこと、今になっていわないでよ……」と、俺には聞こえた。

『それに結納も済ませたし、もう式場も押さえてスケジュールも決まってるもの。今更やめるなんて……そんな迷惑かけられないし、相手にも失礼よ』

 そう。

 彼女はただ聞いて欲しかったのだ。

 俺なら自分を責めることなんてないと、確信があったのだろう。

 事実、俺はこのときも、そして“これまでも”彼女を責めたりなどしなかった。

 今でも鮮明に彼女の声が耳の奥に残っている。



「どうして、本気で怒ってくれないの?」



 その言葉が、俺たちの関係にピリオドが打たれた理由のすべてだった。

 これがもし罰だとするならば、それを演じきるのが“スジ”というものだろう。

“やさしい男”を演じきらなければ、彼女も、俺も、きっとこの先前には進めやしない。

 さっきとは打って変わって、1音トーンを下げる。

 諭すように。

 彼女の胸の奥に言葉が落ちるように。

「そりゃ今更結婚をやめるなんて、迷惑をかけることかもしれないけどさ。だからって自分の気持ちに嘘をついても長続きなんてしないし、それこそ相手に失礼なんじゃないか?」

『それは……』

「結婚てのは、そういうもんじゃないだろ?」

『うん……』

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