姓は寿限、名は無一郎
第二章 新規蒔き直し
 九尺二間の裏長屋が空いているというので、その大家が檀家ということもあり、働き口が見つかるまでは居て構わないそうだ。九尺二間とは、間口九尺、奥行二間、三坪ほどの棟割り長屋の一室は、独り者には充分な居場所だった。

 引っ越し、と言うより、野垂れ死にしたという侍の遺品である横幅は良いのであるが肘と膝が丸出しの七五三のようなテンツルテンに着替えさせられ、これまた遺品の錆びた大小を帯びて、挨拶に回った。当日、朝から雨だった。
 桶、へっつい、釜、火吹き竹から、椀、布団などは夜逃げ者が残していったという物を貸してくれるそうだ。が、自炊する気など毛頭も無かった。

 いたせりつくせりで幽霊が出るのでもない、左隣は大工の源サンが賑やかな夫婦喧嘩を繰り返すらしく、さっそく大家が来て、亭主を説教していた。と、右隣は船乗の若女房で、まったく気配が無くて不気味なくらいだ。彼は、こういう長屋に住んだ経験が無いのだろうと推測できた。真っ暗闇の底、彼は、煎餅布団の上で胡座で坐っていたが、やがて瞑想に入っていた。坐禅か…と、雑念に戻った…かなり坐り慣れている…そういえば幾度か、はるか昔に、警策で背を打たれたような記憶が瞬いた。確かに、禅寺の僧堂で坐った…まさか、禅僧か?

「旦那、湯屋に行きやせんか」と。翌日も雨だったので、仕事の流された源二が誘ってくれた。例の七五三を、継ぎ当てだらけの倅に呉れてやったのが、よほど嬉しかったとみえる。近くに湯屋が有って、有り難かった。8文で、身も心も洗われた気分に浸れるのだから、暇なときの居場所も決まった。




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