泣いたら、泣くから。

 ◆

 
 向かった先は、四年前から高血圧でわたしの勤める医院にかかっている長谷川さんのお宅である。御年78歳のおばあさんだ。
 最近膝を悪くして医者に通えないというのでわたしが往診に来ている。


「先生」
「なんですか」


 呼ばれて顔を上げると、眉根を寄せてじっとわたしを見つめる――否、睨み付ける長谷川さんと目が合った。 


「な、なんでしょうか長谷川さん」
「どうかしたんだが、先生?」
「どう、とは?」
「んなごどおれがわがるわけねえべ。おれが聞いてるんだがら」


 それは、そうである。
 あまりの威圧感にとっさに言ってしまっただけだ。
 こほんとひとつ咳をして姿勢を正す。


「そうですね。では質問をかえます。わたしのどこを見てどうしたとおっしゃるのですか」
「ぜんぶだあ」
「……全部?」
「んだ。今日の先生なーんか変だ。心ここにあらずな感じだな」


 ばれてる。


 思わず苦笑した。
 心ここにあらずか。まったくその通りだ。

 しかし呑気に納得しているわたしを見つめる長谷川さんの顔は恐ろしいほど真剣だった。

 ぎょっとしてカルテを落としてしまったほどだ。「どうか、されましたか」


「……もうすぐな、孫の運動会なんだ。ばーば来てって約束しちまったもんだがら行かないわけにはいかないんだず。ちっとでも具合が悪いとうるさい嫁が家を出してくれなぐなっがらな、――先生。おれ、運動会さ行ってもいいべが」


 たるんだシワの向こうにのぞく切実な瞳は年のわりになんとも強い光を宿していた。
 約束を守ってあげたい――長谷川さんの孫を大事に想う気持ちがひしひしと伝わってきた。

 わたしは頷く。


「薬を毎日欠かさず飲んでください。 運動会、楽しんでいらしてくださいね」


 そう言うと長谷川さんは「んだがあ」と、ほっとしたような顔を浮かべた。




 長谷川さんの家を出ると、そのまま医院へ戻る方向とは別のほうへ自転車を向けた。

 ――運動会。
 そういえばこの時期はどこも体育祭シーズンである………。



 もしかしたらと、一縷の望みにかけてわたしはペダルを蹴った。



< 67 / 171 >

この作品をシェア

pagetop