3月の歩行
3月の歩行
「この雪や氷が、春には全て解けるのか」
 彼女は、にわかには信じられない、といったふうに呟き、少し息を吐いて、そこら中水浸しになるぞ、と小さく続けた。3月とはいえ北海道は寒いのである。彼女はダウンのファスナーを少し上に引き上げて、手をこすり合わせた。そして二つ咳をした。雪解けはまだ先だ。そこかしこに積もった雪を眺めて、彼女はおかしそうな、また不思議そうな顔をしていた。
「君はこの雪が解ける瞬間を見たことがあるのか?」
「ないよ。そもそも、そんなに素早く解ける訳じゃないんだ。じっくり、ゆっくり解けてゆく」
 彼女は不意にこちらを見た。雪と同じくらい白い肌が少し紅潮している。僕は、なに? と尋ねた。
「ほう、じっくりゆっくり、解けてしまうのか」
「うん、じっくりゆっくりだよ」
「可哀想だな」
 彼女はそう言ってまた少し息を吐いた。白い息が広がる。
「可哀想かもね」
 僕も真似して息を吐く。はあ。
「春まで生きられないらしい、私は」
 どきりとした。彼女の病気の事を僕はあまり知らなかったし、また訊かなかった。訊く必要がないと思っていたのだ。いつか、彼女は全快して、ここを去るだろうから。転地療養の施設は、僕の家からそう遠くない。だからこうして、時々彼女と周囲を散歩した。彼女と出会ったのも散歩の最中だった。二つ咳をして、彼女は続ける。
「雪が解けるのを見たいな」
 切実な響きは、そこらの木々を少し反射して、白い空に抜けた。僕が名前の知らない鳥が、ばたばたと飛び去って消えた。
「この散歩は君と私の最後の散歩かも知れないな」
「……そうだったら悲しいけど、そうじゃなかったら嬉しい」
「全くだ」
「また散歩をしよう。そして、おいしいパンを食べよう。僕が買ってくる」
「甘いパンがいい。それとコーヒー。コーヒーは苦くても良いけど、熱いのは苦手だな」
「雪を落としたら少しは冷めるさ」
「今度は」
「うん、今度は……」
 手を繋いで病室に帰る。窓の外が薄ぼんやりと橙色に染まりつつあった。ベッドに横たわって、本当に解けるのか、と呟く彼女の顔を、僕は見ていない。
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