君が好き
月夜
 毎日のように風に乗って外から彼女の歌が聴こえてきた。歌のすべてを聴くことはできず、聴こえてくるのは所々のみだった。
 彼女の紡ぐ言葉は哀しいものが多く、今の碧には心に染みるものがいくつもあった。
 外出が許されない碧にとって、十センチ程度しか開かない窓の隙間から彼女を眺めるのが日課になっていた。
(彼女は歌手なのかな? 見た感じ同じくらいの歳だけれど)
碧は自然と彼女に会いたい想いを募らせた。
 看護婦は朝昼晩の三回検診に来た。入院したての頃は碧が自殺未遂者ということもあり、三十分ないし一時間おきに担当のカウンセラーや看護婦が診に来ていた。しかし、最近は碧が落ち着いた様子であったため、回数が減っていた。
「カウンセラーの先生がね、もうそろそろ一般病棟に移ってもいいって言っていたわよ」
看護婦は自分のことのように嬉しそうに言った。その顔も碧には卑屈に感じた。人が笑うということは自分が笑われていると受けてしまうようになっていた。
「……そう」
碧はろくに返事をせずに横を向いた。
 看護婦は深く息を吐くと、黙って血圧を測った。


生まれてきてすぐに 僕らは
泣くことを強要される

光満たされた 世界に
産み落とされた はずなのに


 いつものように窓の外から歌が聴こえた。碧はゆっくりと外を見た。
「ああ、美雨ちゃんね。確か碧くんと同じ歳よ」
看護婦は穏やかな顔をして外を眺めた。
「……美雨」
「そう。冬原美雨ちゃん」
看護婦が碧に目を戻すと、碧は真っ直ぐな涙を溢していた。
「ごめん、痛かった?」
看護婦は慌てて血圧計を外したが、碧はそうじゃない、と首を横に振った。
 何故泣いているのか碧自身理解できなかった。ただ、歌を聴いたとたんに涙が溢れていた。
「ごめんなさい」
碧は素直に頭を下げた。
 看護婦は碧の手を軽く握った。
 碧はエッ、エッと声を殺して泣いた。
『もともと私は子供を生む気なんてなかったのよ』
不意に母親の声を思い出した。
 碧は母親の喪失をいっそう深いところで感じた。それだけではなく、自分の周りのあらゆる人も失ったことを頭で理解した。
 穏やかな風が緑の香りを運んだ。
握られた手の温もりを感じると、碧は少し優しい気持ちに包まれた。
< 5 / 40 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop