恋時雨~恋、ときどき、涙~
西日の中で、幸が見せた笑顔は、どこか悲しみに満ちているような、そんな表情だった。


「忘れたい、は、忘れたないと同じやん。忘れとらん証拠やで、真央」


そして、幸は、店を出て行った。


一度、帰ろうや。


帰って、3年前のあの日に縛られとるあの男を、解放してやりなさいよ。


もう、自由にしてやりなさいよ。


そう言い残して、西日で煌めく5月の霧雨の中に、幸は飛び出して行った。


ぐらり。


歪んで見える目の前に、いつかの海の景色と夕立が見えた気がした。


熱い。


よろけたわたしは、店長の腕に支えられていた。


意識が遠のいて行く。


「おい!」


ぐるぐる、ぐるぐる、目が回る。


回る光景の中、店長の口が大きく動いている。


「お前……熱が……」


え?


次第に意識が遠のく中、店長の唇さえ読めなくなっていった。


ただ、はっきりと覚えていたのは、これから起ころうとしている何かを暗示させるような、幸の手話だった。







一度、帰ろうや。


帰って、3年前のあの日に縛られとるあの男を、解放してやりなさいよ。


もう、自由にしてやりなさいよ。





わたし、自分だけがこんなに辛いんだと、思っていたの。


ごめんなさい。


知らなかったの。


あなたが、そんなになってしまうまで、苦しんでいたこと。


知らなかったの。


だって、あなたは幸せになっているんだと、信じていたから。








その日、わたしは熱を出して倒れてしまった。


家まで運んでくれたのは店長だった。


目を覚ましたのは真夜中で、窓の外は、雨だった。


わたしはけだるい体にムチを打つようにベッドを抜け出した。


雨粒が打ちつける冷たい窓に手のひらを当てる。


何が原因なのかは、定かではなかった。


だけど、黒い窓に映るわたしは泣いていた。

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