恋時雨~恋、ときどき、涙~
それが、健ちゃんの幸せを壊さない最良の選択だと思ったから。


健康な健ちゃんと、耳の聞こえないわたしでは、幸せにはなれっこないと思ったから。


別れることが、お互いのためにいちばんだと思ったから。


わたしはハンドバッグからメモ帳を取り出して、そのページを開いた。


心臓をわし掴みされたような苦痛が走る。


亘さんが書き記した文字が、わたしの喉を締め付ける。


苦しくて、切なくて、悲しくて……悔しくて。


胸が焼け焦げつくように痛む。


健ちゃん。


ごめんなさい。


……ごめんなさい。


ふわり、と膨らむように吹いた風が、メモ帳を数枚めくった。


わたしはメモ帳をハンドバッグに押し込んで、深呼吸を繰り返した。


何度も、何度も、繰り返した。


少しでも油断したら、泣き崩れてしまいそうだったから。


鼻の奥がつーんと痛い。


ふと、顔を上げて振り向くと、人影があった。


眩しい。


わたしはとっさに目を細めた。


……誰?


逆光のせいで、人影は光を放つシルエットになっている。


だけど、間もなく分かった。


西日を背に向かって来たのは、まだ純白のタキシード姿の順也だった。


「真央」


車椅子の車輪に西日が当たってぎらぎらと眩しい。


海の香りが、ゆるやかな風に溶け込んでいる。


わたしは慌てて目元を軽くこすった。


涙が付いていない事を確認して、必死に笑顔を作り、人差し指を左右に振る。


〈どうしたの?〉


「探していたんだよ、さっきから。ここに居たんだね」


車椅子を停めてふうと息を吐き、優しい手話をする順也に霧雨のような陽光が降り注ぐ。
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