偏愛ワルツ





「ありがと」

と小さな声で呟いたのに、彼はそれを拾う。シートベルトをしながら、「気にすることじゃないさ」と。

結局、彼が降りた次のバス停でも降りず、次でも降りず、次の次でも降りなかった私は、終点まで行ってしまった。初めての土地だった。でも、遠くに来たという実感はうそみたいに薄かった。

感想はとても短い。

なんだ、ここも、アスファルトとコンクリートで、いっぱいだ。

バスを降りるとき、運転手のおじさんに、「本当にここに用があるのかい?」みたいな目で見られた。でも私はそれに、にっこりと微笑み返した。八重歯は、あえて覗かせず。

おじさんがなにを感じたのかわからないけど、被っていた帽子を目深くして、逃げてしまった。ぷぁん、と背後で鳴った音が、どんどん遠くなっていくバスが、あんなに滑稽に見えたのは初めてだった。

きっとあのおじさんは、少し気が強い奥さんがいて、わがままでうるさい男の子がいる家庭に帰るんだ。これ、ただの妄想。

バスを降りた私は、ブラブラと見知らない土地を歩いて、当てもなく歩道橋を渡ったり、線路下のトンネルをくぐったりした。通りにはいろいろなお店があったけど、名前や看板や色が違うだけで、私達の街にあるそれと、大差なんてなかった。

街はどこまで行っても街で、行き交う人は当然、誰も彼も私を知っているはずがなくて。空ばっかりがどこで見ても同じように、水色から紫、そしてオレンジ、また紫、最終的に藍から黒くなっていった。雲のグラデーションが、今日も絶妙だった。

だから、私が命綱のケータイを開いた時にはもう、七時を回っていた。家にかけるような素直な性格はしてない。アドレス帳から手繰ったのは、おじさんの番号だ。

もう家に帰っているかもしれない。素敵な奥さんとあったかいひと時を過ごしているかもしれない。もしくは、熱いひと時だったりして。それともまだ会社で残業をしているのだろうか。

空想はほんの四コールほどで途切れ、おじさんは満足な事情も聞かず、私に応えて車を走らせてきてくれた。


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