あたしが眠りにつく前に
「不安?」

「うん。あたしね、思ってたの。あたしは本当は、こっち側の住人なんじゃないかって」

 離れていても透る声で、珠結は歌うように言葉を紡ぐ。

「生徒は普通、校舎にいるもんでしょ。まあ休み時間や体育、避難訓練とかの特別な時以外でだけど、大概は教室や廊下といった校舎内で過ごす。でも屋上には、滅多に人は来ないよね。いる方が珍しいし、一度も来ないまま卒業してくのが普通。そういう人達にとって、ここで流れる時間は非日常、異空間に思えるかもね」

「最初にこの非日常に誘ったのは俺だろう」

「入り浸りたいと望んだのは、あたしだよ」

 普通の人にとっての非日常で過ごす時間が普通の人より長い。まるであたしの眠り病と似てるでしょう? 珠結は乱れた髪をかき上げて、運動場の方へと向き直る。

「あたしの眠る時間は、起きている時間をとうに追い抜いた。いずれ眠りの世界こそが、あたしの日常になるんだろうね。そして入れ替わってしまった非日常(現実世界)に戻れなくなったら。…ううん、戻るというより行くってのが正しいのかな。溶け込んで馴染み切って、自分にとっての日常が逆転するんじゃないかって不安になる。帆高よりも先に屋上を出たがったのも、それに近いかも」

 非日常に自分だけ取り残され、閉じ込められる。日常に戻れないで、非日常が日常になる。帆高はそんなことしやしないのに、ビクビクしていた。

「そして、これから。あたしはまた別の非日常に向かう。あたしはどこに行って、どこなら居てもいいんだろうね」

「居たいと望む場所に、日常も非日常もありはしない」

 背後の声が接近してくる。帆高は珠結の隣まで来たところで足を止めた。

「非日常だって思ってたって、好きなんだろ。病院はともかく、ここは。視点を変えれば、日常から一歩離れた場所だからってのも、あるんじゃないか。非日常を恐れることは無いと思う。それに非日常と日常は別物でも、切り離せやしない。屋上なら扉を括れば済むし、屋上自体が学校という日常の中に存在する一部だ。病院は見舞い客に会ったり外出もしたりして外との接触はある。眠っていて意識が飛ばされてても、身体も命もこっちにある。…繋がってるんだよ、どこに居たって。自分が居たいと思える場所を見失わない。それでいいんじゃないのか?」

 自分でも何言ってんだか、分かんないな。帆高が髪をクシャッとかき乱す。それでも、十分に伝わった。

「…適わないなぁ、帆高には」

 珠結が帆高の前に回りこみ、手を差し出す。その手には何かが握られていた。

「これ、預かってくれない?」

 帆高の広げた掌に落ちてきたのは、シルバーの小さな鍵。二人だけの、秘密の証。

「いつになるか分からないけど学校に戻れた時、またこれで扉を開けて、大好きなこの場所で空が見たいんだ。だからそれまで、持ってて欲しい。帆高にしか、頼めないの」

 帆高はそれを固く握りしめる。強い光をたたえた決意の瞳が、珠結に。

「必ず、戻って来いよ」

「また、ここに。その時は帆高も一緒だよ。約束しよっか」

「約束は守るためにあるんだからな、忘れるなよ」

「うん!」

 君の笑顔に逢うために、必ず。
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