あたしが眠りにつく前に
 風が吹き、帆高の後姿が一瞬自分の髪によって遮られた。境内のやせ細った木々のうちのどれかの葉が、足元に舞い落ちた。もうすぐで冷たくて寒い、生きとし生ける者達の眠りの季節がやってくる。

冬かあ、と気楽に思ってしまうのも、帆高の言う鈍感さゆえの強さからか。それでもと、珠結は思いにふける。弱くても‘強く’いられるのは一人じゃないから。でなければ、とっくの昔に砕け散っていた。今の自分はいなかった。存在自体、消え去っていたのかもしれない。

君が思うように強くいられているのは。その続きをいつか伝えてみようか。その日が来るか来ないか、手持ち無沙汰に待ってみるのも悪くない。

 それにしても久しぶりに、帆高の憎らしい顔を拝んだことだ。入院が始まってから、帆高は人が変わったように‘優しく’なった。以前のような馬鹿にしたような顔や言い返さずにはいられなくなる口ぶりが懐かしく思えていたことに、笑いがこみ上げそうになる。

これはこれで平和なものだけど、少し寂しいのもいかがなものか。また憎まれ口を叩き合う日々が訪れることを。そう願う面持ちも、大きな力になるのだ。

 地面に降り立った時、背後から足音がしないことに帆高は不審に思った。感傷にふけっているのか、社を眺めているのか。珠結の気配は停止したままだった。

「どうした?」

 返事は無い。

「何か誓うことでもできたか? 待ってるから行ってこ…」

 帆高が振り向くと、石段にいた珠結の体が前方に大きく倒れこんでくるところだった。慌てて受け止めれば、足場を失って尻餅を打つ。痛さにうめく間もなく呼びかけるも、腕の中の珠結は体を預けたままピクリともしない。

「…階段は気をつけろって、あれほど言われてんだろ」

 珠結は帆高に覆いかぶさる形で受け止めた。念のために頭や手足を確認するが、幸い傷は見られない。

聞こえてくるのは安らかな寝息。一定のリズムで肩が上下している。呼吸の深さと速さで、今回は数時間では済まないと思われる。ずっと珠結を見てきた帆高には、分かってしまう。そしてその予感は誤りではないだろうということも。

 母さん、今日の夕食はりきってたのにな。落胆する様子が目に浮かぶ。騒がしい姉が嫁いで3人家族になったことに、口に出さずとも寂しさを覚えていたはずだ。それは父も同じであって。今回の珠結の来訪はとてもとても喜んでいた。

 今こうして異様だと分かるほどに深く眠り込む珠結を見れば、二人はショックを受けるだろう。病気なのだと、普通ではないのだと思い知る。そんな自分の姿を見られたことで悲しませてしまう、珠結の心境を思えば帆高までが苦しくてならない。

 とにかく帰らなくては。帆高はゆっくりと上体を起こし、珠結の体が傾くのを慌てて支える。意志を失った体は重いはずなのに、軽い。服の上からでも分かるぐらいに手足は折れそうなほどに細くて、覗く首筋は白い。

申し訳なく思いつつ、帆高は珠結の服の袖をまくる。新しいものは見られないことに安堵するも、かつての痛々しい行為の痕跡は点々としてうっすらと残されている。その事実に帆高は不覚にも泣きたくなった。 

 なぜ彼女が。こんな目に遭わなくては。辛い思いをしなくては、ならない。

 帆高は珠結を抱きしめる腕に一層力を込めた。彼女が目覚めていたら、まず加えない強さで。

 痛い。痛いんだ。憎まずに、いられなくなる。抑えろ、鎮めろ、封じ込め。あふれかえってしまったら、俺は。
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